(2008年8月1日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第100号より)




大好きだったスロットよりも、ビッグイシューにハマってる




100hanbaisya1


若者文化の発信地としてにぎわい、ひっきりなしに人が行き交うJR中野駅。その北口のガード下に、田中光彦さん(37歳)は今年5月下旬から立っている。朝9時から夕方4時までの間に10冊前後が売れていく。本音をいえばもう少し部数を伸ばしたいところだが、血圧が高くて無理がきかない。昨年の秋頃までは渋谷で売っていた。ところが、音信の途絶えた息子の身を案じた福島の両親が捜索願を出し、半年近くを実家で過ごすことになった。「だけどやっぱり東京が恋しくなって、ビッグイシューに戻ってきちゃった。また渋谷でもよかったんだけど、あそこは発売日だけポンポン売れて、だんだん部数が落ちていく」。それよりも、「毎日コンスタントに売れる」中野を再スタートの地に選んだ。

顔なじみのお客さんも増えつつある。先日も、見覚えのある高校生5人が「取材させてください」とやって来た。聞けば、ビッグイシューのことを学校で宣伝したいという。「ひとりでもいいから、友達がほしい」と切望する田中さんは、こうやってお客さんと話す時間がとにかくうれしくてたまらない。

福島の農家に生まれ、姉と妹に挟まれて育った田中さんは幼いころから物静かで、友達をつくるのが得意ではなかった。外で遊ぶよりも、家でテレビを見て過ごすことのほうが多かった。地元の高校を卒業してしばらくは家の農業を手伝った。「米も野菜も一所懸命つくったけど、全然お金にならなかった」。そこで外に出て少しでも稼ごうと、20歳のとき、叔父の紹介で地元の温泉旅館に就職した。

「いわゆる番頭さんですよ。昼過ぎには出勤して配膳から布団敷き、食器洗いまで何でもやった。一番大変なのは風呂掃除。全部終わるころには夜中の12時、1時を回っていた。こんなに働いて時給500円はいくら何でも安すぎますよね」

働きに見合った給料をもらえる仕事を求めて、職業安定所に足を運んだ田中さんは自衛隊にスカウトされた。田中さんは小柄なため規定の身長にとどいていなかったが、担当者は背伸びしてパスさせてくれた。しかし、連日の訓練は想像を上回るハードな内容だった。

「敬礼、回れ右、ほふく前進。今でも身体が覚えてるよ。3年間は頑張ってみたんだけど、どうしても体力がもたなかった」。宮城、秋田、横須賀、市ヶ谷と各地に配属された田中さんだったが、辞めた後は故郷の福島に戻り、両親に親孝行もした。

その後、地元のパチンコ店に就職したというので、趣味も兼ねていたのかと思いきや、「玉を自分の力で動かせないパチンコより、自分で合わせた実感を得られるスロット」派なのだとか。「どっちみち従業員は自分の店ではやれないので、よその店に行ってはスロットに注ぎ込んでた。月に30万円もらって、15万円が消えていく。そんな生活でした」

ところがあるとき、台を移動中に腰を痛め、店を辞めざるをえなくなった。福島ではなかなか次の仕事が見つからず、東京に望みをつないだ。しかし現実は厳しかった。職業安定所に通い、新聞の求人欄に目を走らせ、受けた面接はことごとく落ちた。

そしてちょうど3年前、途方に暮れて新宿の小田急百貨店前を歩いていた田中さんの目に、ビッグイシューを売る男性の姿が飛び込んできた。男性から話を聞き、自分のペースで働けるスタイルに魅力を感じた田中さんは、翌日からさっそく販売を開始。平日はビッグイシューを売り、週末は「引っ越し作業の手伝いや、工場でコンビニ弁当に野菜なんかをトッピングするアルバイト」に精を出した。


100hanbaisya2


それでもアパートの家賃を捻出するまでには至らず、今もまだファストフード店でテーブルに突っ伏して仮眠する生活が続いている。「路上よりは安全だけど、足を伸ばして眠れないから疲れが取れないんだよね。ネットカフェは1泊1000円以上もするから、奮発しても2週間に1度くらいしか泊まれない」という。

仕入れ先の事務所までは雨の日以外、徒歩で行く。少しでも貯金に回したいからだ。「渋谷で売ってたころはスロットにハマって、パンクしたことがある。仕入れができなくなるほど注ぎ込んでしまった。でも今は、見に行くことはあっても絶対にやらないよ」

今度の正月、高速バスで実家に帰るお金をコツコツ貯めているそうだ。捜索願が出されたときと同じように、また実家に帰ったまま、東京へ戻ってこなくなるのではないか。そう尋ねると、「それはないね。自分にとってこれ以上の仕事はないから。ビッグイシューにすっかりハマってるんだよね」という、明るい返事が返ってきた。

(香月真理子)

Photos:高松英昭