(2006年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第63号より)






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試練の連続を経て、ようやくたどり着いた幸せ、でも狭くても自分の部屋がほしい



渋谷の東急プラザ前にあるロータリーで、プロペラのついた帽子をかぶった男性を見かけたら、その人が下谷芳男さん(59歳)だ。多彩なファッションの若者が行き交う渋谷でも一際目につく帽子を指さし、くすくす笑う女子高生たちがいる。学校の行き帰りに必ずぽかーんと見上げていく小学生の女の子がいる。




「この帽子は高田馬場のリサイクルセンターで買ったの。たったの10円。洗うたびに乾燥機にかけていたら、5回目に片方のプロペラが折れちゃった」

以来、ちょっとバランスの悪いプロペラを頭上で回しながら奮闘する下谷さんには常連客が多く、1日の売り上げは平均40冊。応援してくれるお客さんに親しみを込めて、いつもたこ焼きをくれる女性には「たこ焼き夫人」、おむすびを三つくれる女性には「のり巻き夫人」と、下谷さんはこっそり名前をつけている。




ユーモアのセンスに富んだ下谷さんだが、その半生は波乱に満ちていて、生まれ故郷の青森ではこれまでに二度、生死の境をさまよった。一度目は小学校に入学する日。風邪をこじらせて大量に血を吐き、子供ながらに魂が抜けていきそうになるのを感じたという。

二度目は中学を卒業後、一級板金技能士の資格を持つ義兄に就いて、ブリキの屋根葺きをしていた19歳の年の暮れ。屋根から滑り落ち、29日間意識不明になった。頭から落ちなかったのが不幸中の幸いだったが、その事故で右目の視力を失い、傷めた足の具合は今もすぐれない。

「あれが紆余曲折の始まりよ。退院してからも病院通いばかりでやる気が出ないから、水道屋で穴掘りしたり、墓石屋で石磨きしたりと職を転々とした。29歳の年に東京の瓦屋に就職が決まって上京したけど、雑用ばかりさせられてすぐに辞めた。それからはキャバレーのボーイもやったし、金属プレスの工場で機械に挟まれて、左手の指を2本失ったりもした。注意散漫なんだよねえ」




やがて住む場所を失った下谷さんは、スポーツ新聞の求人欄で建築の仕事を探しては飯場(作業員宿舎)に入り、仕事がないときはドヤに泊まるようになった。

「ところが、それまで身体を酷使してきたせいであちこちにガタがきて、力仕事を1日すると2、3日働けなくなった。それで仕方なくヤマ(寄せ場)に行って日雇いの仕事をもらったり、古本を拾い集めたりして、その日その日を凌いだ」




そんな今年4月の下旬、神田川沿いのベンチに腰掛けて鉄道工事をぼおっと眺めていた下谷さんに、ビッグイシューのスタッフ、池田さんが声をかけてきた。

「路上で売る雑誌なんか売れるわけがないと思って断ったら、翌日にはもう一人のスタッフを連れて説得にきた。それで根負けして半信半疑のまま始めたわけ」

いざ立ってみると真夏の路面は想像以上に暑く、百円ショップで買った温度計が40度をさして倒れそうになったこともあった。それでも朝3時頃に起きてヤマへ行き、40もある袋詰めのセメントを担いで3階まで何往復もさせられたことを思い出せば、何とか乗り切れた。

「日雇いの仕事と何よりも違うのは、一から十まで指示されてやるんじゃなくて、自分の好きなやり方でできること。俺の販売場所はただでさえ騒々しいから、大声はあげないの。展示している雑誌の前で佇んでいる人がいたら、声をかけてくれるのを忍耐強く待つ。これは、古本屋のおやじを見て思いついたやり方」




もちろん、ただ立っているだけではない。サラリーマンの昼休みに間に合うよう早めにお昼を済ませたら、午後8時半まで立ち続ける。買ってくれたお客さんが月刊誌と間違えないように、毎月2回の発売日を教える。お勧めのバックナンバーを目立つところに置いておくなど、入念な仕掛けあっての古本屋商法なのだ。また、下谷さんは倹約家でもある。

「安い店をメモした地図をいつも持ち歩いているし、1日の楽しみといったら、仕事の後のワンカップくらい。そうはいっても食費を削るにも限度があるし、仕入れ場所までの交通費だって馬鹿にならない。これで貯金できたら魔法使いよ」




それでも試練の連続だった半生を振り返れば、今の生活はとても幸せだという。

「1日3回、飯が食えるだけでありがたいよ。でもかなうことなら、狭くてもいいから自分の部屋を借りて、そこから販売場所に通ってみたいね」

数え切れないほどの街を渡り歩いてきた下谷さんにとっては今のところ、渋谷の喧噪こそが心休まる安住の地なのかもしれない。

(香月真理子)

Photo:高松英昭