(2009年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第126号より)




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ボールを追いかけているうちに仲間たちとの輪ができて、気持ちも前向きになってきた



「この左耳のピアス? 若くして亡くなった恋人との思い出がつまった宝物なんだ。だから、生きている限り、ずっと外さないつもり」

そう言って人なつっこい笑顔を見せる日高進さん(53歳)は、大阪・なんば高島屋前でビッグイシューを販売し始めて約半年。目の前のビルにかかる大型ビジョンの迫力に負けないようにと、明るい色の服を着て奮闘中だ。




そんな日高さんが今、販売の仕事のほかに全力で取り組んでいることがある。それは、スタッフに声をかけられて始めたサッカー。この9月、イタリア・ミラノで開催される第7回ホームレス・ワールドカップに、日本代表「野武士ジャパン」の一員として出場する。

「疲れは思いのほかたまってないよ。好きなことをして楽しんでいるからかな。サッカーを通じて何か得られるものがあればいいなと思ってチームに入れてもらったんだけど、すでにたくさんの収穫があってね。一番大きな収穫は、明るい気持ちになれたこと。他の販売者と一緒になってボールを追いかけているうちに、いつの間にか何にも代えがたい人の輪ができた。仲間たちとあれこれ話している時間は、まるで心の洗濯だね」




これまでは自分のことで精一杯だったが、緊張している新人販売者に積極的に声をかけることが増えるなど、徐々に他の人に目を向けられる余裕も出てきたという。また、1日に2箱吸っていたというタバコも1箱に減った。

「これまでは売り上げのよくない日が続くとただ落ち込むだけだったけれど、サッカーをしていると束の間でも悩みを忘れられるし前向きにものを考えられる。本当にいい汗をかいてるよ」

目の前に迫ったワールドカップへの抱負を尋ねると、「1勝できたらうれしいなぁ。たとえ負けたとしても、1点を取って帰ってくるのが目標だね」と目を輝かせた。




日高さんは5人きょうだいの末っ子で、中学3年生までを埼玉県で過ごした。

「ちょっとやんちゃ坊主でね。15歳の時に母が亡くなって、そのショックもあって一人で当てもなく沖縄へ行っちゃったんだ。胡差焼の工房でお皿や湯飲みをつくるアルバイトをしながら数カ月過ごして、そのあと東京へ出た。東京では黒服のようなことをしたり、飲み屋で働いたり。28歳の時に九州へ行って、そこで結婚して10年ぐらい過ごしたかな」

その後離婚を経て、一人で北海道へ。山の斜面に落石防護のための網を整備する仕事を5年ほど続けていたが、腰を痛めてしまった。新たな仕事を求めて向かった名古屋では、主に土木工事の仕事をしていたが、景気の悪化とともに仕事が減少してしまった。

「埼玉から沖縄に行って、東京に北海道に名古屋、そして大阪に来たのが去年の秋。大阪なら何か仕事があるだろうと期待していたんだけど、まったくなかった。そんな時にビッグイシューのことを知り、販売者に加えてもらった。スタッフの皆さんは僕と同じ目線で何ごとも一緒に考えてくれて、アドバイスをくれる。それがとても温かく感じられて、心のよりどころになっているよ」





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1週間のうち6日はダンボールの上で眠るが、1日は自分へのご褒美としてドヤに泊まる。布団の温かさに触れ、「当たり前に生活すること」への執念をもち続けるのだという。

「以前、テレビの取材で『声をかけてもらえるだけで元気が出ます』と言ったら、それを見た人が100人ぐらい声をかけてくれて、ありがたかった。でも、残念ながら本を買ってくれたのはその中の8人だけ。次からはもっと本にも興味をもってもらえたらいいなぁ」

今はまだ社会復帰のための基礎訓練中だという日高さん。どんな夢や目標をもっているのだろうか。「何かを作ることに喜びを感じるので、ものづくりにかかわる仕事に携わりたい。そして一所懸命働いてお金を貯めて、晩年はどこかの国の片田舎で畑を耕し、のんびりと自給自足の生活をしてみたいね」

真剣な表情でそう話し、最後にまたくしゃくしゃの笑顔を見せてくれた。

(松岡理絵)

Photos:BI
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干渉しすぎる母親に困っています


 



Q: 同居している78歳の母親に必要以上に干渉され困っています。
私が少し病気をしただけで大騒ぎをし、知人に電話をかけまくる、私の行動を監視し、ごみ袋の中身をチェックするなど、年々エスカレートしているようなのです。
精神的に辛くなり、母親にそれとなくお願いをしても「邪魔者扱いして」と自分の部屋に駆け込んで泣きじゃくります。
これからもこの母親と二人で暮らしていくのかと思うと憂鬱な気分になります。
どういうふうに伝えれば母親を安心させ、干渉をやめてもらえるのかアドバイス頂ければ幸いです。
(女性/48歳)



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Genpatsu

(2012年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第191号より)





チェルノブイリ原発事故から26年目の4月26日が過ぎた。原子力の専門家のほとんどが、放射能が日本まで飛んでくることを否定したが、実際にはヨウ素やセシウムが飛来して、食品の放射能汚染が大きな問題となった。当時を知らない世代が増えている。

26年前チェルノブイリでは、定期検査で原子炉を止めるのに合わせて、停止後も何秒くらい発電が可能かを調べる実験が計画された。ディーゼル発電機の起動までの時間稼ぎにつながるか調べたかったわけだ。しかし、電力供給要請で、低出力で8時間も運転する羽目になった。これが災いし、さらに制御棒の欠陥などが要因として重なり、成功したかに見えた実験は、核分裂が暴走し爆発する結果になってしまった。

チェルノブイリ原発の半径30キロメートルは永久居住禁止になっている。放射能汚染は広範で、汚染の高い地域が数多くある。500の村が廃村となった。人びとは強制的に移住させられ、今なお戻れないでいる。

最近の報道は、除染を断念した村の様子を伝えていた。チェルノブイリ原発から110キロメートル離れたコロステニ村は「避難勧告地域」に指定され、事故の4年後から本格的な除染が行われた。しかし、20年たった頃、費用に見合う効果が得られなかったとして断念された。それぞれの事情があろうが、600万人近い人たちが今なお汚染地域に暮らし続けている。さまざまなガンが増えているとの報告や、健康な子どもたちが一割程度しかいない地域もあるとロシアやベラルーシなどの研究者が伝えている。

福島原発事故は放射能の放出量ではチェルノブイリの数分の1程度と言われている。しかし、セシウムの汚染でみると、発電所から北西に数十キロのエリアはチェルノブイリの事故でいえば、強制的に避難や移住する地域や避難勧告地域に匹敵している。こうした地域の多くは、10年後もなお住民の年間被曝線量が20ミリシーベルトを超えると推定される地域で、野田政権は巨額の費用をかけても十分な効果が得られない除染を断念して、避難住民の支援を充実させる方向で検討を進めると25日の報道は伝えている。

チェルノブイリ事故で住民に起きたことは将来に福島事故で日本の人々に起きる恐れのあることとして参考になることが多い。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)





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(NPO法人アサザ基金理事長・飯島博さん)




壊すんじゃない、世の中を溶かす勇気を持つ



このようなアサザプロジェクトを動かしてきた、アサザ基金を、飯島さんは、中心のないネットワークだと言いきる。

「組織がない、中心がないっていうのは、無力だということです。強力なリーダーがいなくてしっかりした組織もない。中心のないネットワークで進んでいくのは、勇気が必要なんですよ。誰もが、何らかの中心とつながっていた方がいいと思っています。最初から、本気でそういうところに自分を放り出すなんてできない…。だから管理されてしまうんですけれどね」




だが、中心のないネットワークには強みがある。「それは、無制限に広がっていくネットワークなんです。動き出していくと、社会のいたるところから予想外の、いろいろな価値や意味が浮上してきます。中心のないネットワークに、違いが溶け込んで総合化が起こって、また違いが起こって溶ける。それを繰り返していくんです。遺伝子もそうですよね。ほとんど役に立たない遺伝子もあるけれど、役に立たないことで役に立っているかもしれません。役立つ、役に立たないという二分法でしか考えないから何も見えてこない。白紙の状態で見たらまったく違うものが見えてくることもある。そうしないと、自然のダイナミズムだとか、生命力とかは出てこない。私たちはそれをまだやってきてないんですよ」

中心のないネットワークの中で、飯島さんは自然に対して、人に対して、開いている。自然の中を歩くことでアサザから、プロジェクトのインスピレーションを得たが、子供たちと作業をともにすることで、飯島さん自身、自分の感性が絶えず試されていると感じる。そして、科学と生命のバランスの危うさについて思いをめぐらせる。

「科学は、よくも悪くもある種の決定打を出してしまいます。過去から未来を想定して決定論的に進めていくような。人間にはそういう特性もありますよ。しかし、もう一方で人間の創造活動、アートのような領域で、まったく未決定なこともしますよね」

「生命っていうのは、まったく予想外なこともするアートなんだと思います。バランスを取らないといけないと思います。何でも科学じゃない。地域の中でいろんな問題が起きたときも科学者を呼んで委員会つくって、その人たちに判断を求めるというのは異常ですね。なぜ、そこまで生活知、経験知というものがさげすまれなければならないのでしょうか? 科学知と経験知はもっと対等な立場でいい。子供の感性を丸ごと受け入れるという度量のない科学知に固まった社会になっているから、社会で子供がばかにされている。そこを打破していくべきです。科学者がえらくなりすぎている。科学者は他のことは無視して特定の分野だけ研究している。そういう認識のしかたは社会にとって障害なんですよ」




以前、あるインタビューで、「じゃあ、行政の枠組みを壊すんですか?」と聞かれて、飯島さんの口からとっさに出た言葉は、「いえ、溶かすんです」だった。

「自分の中で総合化が起きたときに、その状況にふさわしい言葉が出るんです。もちろん、新しい領域に入っていくわけですから、常に危険はありますよ。虫がさなぎを脱ぎ捨てて成虫になるときは、一番危険なときなんです。でも、それによって世界が開けるわけです。蝶だと、完全変態を遂げて、イモ虫からさなぎになる。そのときイモ虫の身体は溶けてドロドロになっているんですよ。だから、人間の世の中も壊すんじゃなくて、溶かす勇気が必要だと思います」

飯島さんの眼差しの先に、100年後にトキの舞う霞ヶ浦が見えた気がした。





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(水越洋子)
Photos:高松英昭




飯島博(いいじま・ひろし)
1956年生まれ。NPO法人アサザ基金理事長、霞ヶ浦・北浦をよくする市民連絡会議事務局長。日本の里山に生息した「ガキ大将組」に属するおそらく最後の世代。アサザプロジェクトの企画運営、ビオトープの企画設計、霞ヶ浦粗朶組合の設立、環境教育プログラムの企画運営をはじめ、多彩な活動を行っている。
共著者に、『よみがえれアサザ咲く水辺—霞ヶ浦からの挑戦』文一総合出版、『水をめぐる人と自然』有斐閣選書、などがある。








特定非営利活動法人 アサザ基金
 〒300・1233
 茨城県牛久市栄町6・387
 電話029・871・7166
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彼氏がはっきりしてくれません



Q: 彼とは、3年間つきあって、別れてからさらに4年が経ちますが、定期的に交際を続けています。
私としてはよりを戻したいと思っているのですが、向こうは「つき合ってへん。元カノや」と取り合ってくれません。
私ももう32歳で結婚も本気で考えているのですが、このままのらりくらりと逃げられそうで悩んでいます。
どうすれば彼にはっきりした返事をもらえるでしょうか。 
(女性/32歳)



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(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)





非力なものが知恵を出して遊ぶ。霞ヶ浦は遊び相手



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なぜ、子供たちがアサザプロジェクトの主役になれるのだろうか? と問うと、「それは、子供たちが自然と同じ時間を持っているから」と即座に返事が返ってきた。

自然はすべて潜在性のかたまり、コントロールできるものではない。それと向き合う子供たちが持っているのは、効率に対する非効率、合理性に対する非合理性だ。アサザプロジェクトに行き着くまでは、それとまったく逆の発想の効率や合理性を基準に活動していたと、飯島さんはふり返る。




「霞ヶ浦を再生するといっても、自然が相手なんです。こちらが自然の時間に合わせないと知恵も生まれないし発見もない。湖を歩いたのはよかった。時間の中に浸りこんで溶け込んで、丸々1日湖の空間を身体に感じて。だからこそ、アサザからひらめきをもらえたんだと思います。自然の時間と同じ時間を持っている子供たちとじっくり歩いて、じっくり見て。子供たちが一緒にやってくれたからここまできたと思います」

飯島さんによると、小学生の日常的な行動範囲はだいたい2㎞くらい。かつて近隣の池や川は、子供にとって身体の延長、身体の一部だった。アサザプロジェクトはそういう子供たちの感性の息づく空間をもう一回取り戻すための大きなムーブメントであるとも言う。

「僕らは子供の感性を丸ごと本気で受け入れます。遊びなんですよ。大きなものに、できるだけ小さなもの、当たり前なもの、どうでもいいようなものを向かい合わせるという遊びをしているんですよ。大きな霞ヶ浦は、僕らの遊び相手なんですよ。力対力じゃなくて、非力なものが知恵を出して湖に遊んでもらうんです」




子供たちが総合学習で取り組む




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”アサザの里親“も単純に水草を増やすということではない。「里親になるということは、相手を知るということなんです。湖のこと、植物の育つ環境、季節の変化などを知らないと、アサザを育てられない。生き物の視点で、上流から下流まで、どんな生物にどのような問題があるのかを調べ把握して、子供たち自身が新しい試みを提案していきます。ただ『環境を守らないといけない』なんて、独りよがりのことを言っててもだめで、人間はどういう生き方をしたらいいのかということを、野生の生物とつき合いながら気づいていくんです」

03年からは、NECと連携して子供たちが地域の環境情報を集めている。温度、湿度、水温、日照時間をセンサーが自動的に感知して10分おきにデータが教室のコンピュータに送られる。それを通して、蛙が冬眠に入るのは何度くらいか? 春になって地中の温度が何度くらいになるとヒキガエルが卵を産むのか? 水温が何度くらいになるとメダカが泳ぎだすのか? などを調べる。ほとんど研究者レベルといっておかしくない。




05年からは、宇宙開発関連の研究機関と連携して、大型衛星『大地』を使った「宇宙から蛙を見つけよう」という衛星画像を利用した霞ヶ浦の水循環再生のための現状把握活動も始まった。


「この計画には、子供の力が必要なのです。宇宙から見ると、蛙が生息している湿った土の波長が違うので、それをフィルターにかけて色をつけます。その色のついたところに子供たちは出かけていく。どのくらい衛星が読み取ったデータと現場の状況が当たっているのか? アカガエルが卵を産んでいるかな? ニヤンマやサワガニはどうしているかな? どのくらい湧き水があってどんな生物がいるのか? 2200㎢という広大な地域でそれを調べています。

こんなことは、子供が参加してくれないとできないことですよ。しかも子供たちは地元をよく知っているので、研究者以上にきちんとやれる。宇宙開発というと、国家威信をかけた巨大なプロジェクト。それと子供や蛙などという小さなもの。とんでもない大きさの違いがおもしろいんですね」




いよいよ、子供たちにとっても、アサザプロジェクトは総合学習の域をこえてきた。06年11月には、牛久市の神谷小学校の5年生が、市長や部課長の前で、霞ヶ浦水源地の再生計画のプレゼンテーションを行った。市民に向けた地元説明会も終えて、小学生の提案する公共事業がついに実施される見込みである。




海外からも視察、地域コミュニティの積み上げという普遍性



国交省のすすめてきた河川管理、利水の既存の枠組みの中で可能性を追求する時代は終わった。縦割りの社会システムで、地域コミュニティや自然の空間が分断され、水の循環が分断され、生物の移動、生息地も分断され、人間としての当たり前の生活さえ分断される。飯島さんは、国や行政や専門分化した研究者がつくりあげてきた近代化とは異なる、まったく新しい自然と共存する社会システムの展開を考える。

従来、地域がらみの公共事業の問題が出てきたときは、公共事業以外の選択肢がなく、その事業をやるやらないの議論のレベルにとどまっていた。民間活力の導入も声高にいわれるが、企業は投資したお金を最大限回収しなければならず、ビジネスに最適なループをつくることが使命。そこで、3番目の選択肢をつくるNPOの出番である。資金の回収の必要がない非営利団体が、新しい発想で、新しいもの、金、人の動きをつくりあげていくのだ。

「94年頃に戦略をつくりました。既存の霞ヶ浦流域システムを質的に転換しようと考えたときの最大の課題は、流域という広大な地域をおおう面的な展開を実現させることでした。その土台になる鍵が小学校だった。小学校の流域全体のネットワークができあがれば、一気に質的転換が可能だという周到な読みと戦略があったんです」




確かにアサザプロジェクトの事業はどれも有機的につながっているように見える。しかし、総合学習の一環とはいえ、子供が公共事業を担うような事例は全国どこにもない。

「日本の田舎の小学校は、地域で子供を育てるという文化伝統が、今でもなくなっていない。学校教育をどうこうしようというのではなく、地域ぐるみで子供たちを育てる、当たり前のことが地域で始まればいい。その拠点として学校があればいい。お年寄りへのヒアリングも、相手から何かを引き出していこうという子供たちの強い意志があって、それによって相手も生かされる。アサザで育った子供たちは、見えないものを見たり、いろんな働きかけのできる大人になっていくのかなと思います」

11年の間、粗朶組合を筆頭に、具体的なビジネスモデルの提案をし続けてきたことも、アサザプロジェクトが動いてきた大きな理由だと、飯島さんは言う。しかも、そのビジネスモデルは、地域の生業や日常生活に深く結びついていることがポイントだ。しかも、アサザプロジェクトでは、粗朶消波堤のような伝統的な技術から、宇宙開発のような先端的な技術まで、さまざまな試みが地域コミュニティで機能していく。

地域の当たり前のものを読み直し潜在性を引き出しているアサザプロジェクト。その基本の方法論は地域コミュニティの積み上げ。だから、普遍性がある。秋田、八郎湖でも霞ヶ浦のノウハウは生きた。すでにアジア、アフリカなど30数ヶ所の国々からの視察も相次いでいる。




第四回へ





Photos:高松英昭



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(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)






P17 アサザの大群落

(アサザの大群落)






百花繚乱、流域全体に広がるプロジェクト




さて、驚くなかれ、アサザプロジェクトの主役は流域170をこえる小学校の小学生である。総合学習の一環として、子供たちがアサザの里親になり、アサザの種を株になるまで育て、湖に入って植え付けを行う。また、自然護岸が残っていた頃の霞ヶ浦の植生を再現すべく、お年寄りからの聞き取り調査をし、その成果を生かし、学校のビオトープでオニバス、ヨシ、マコモ、ガマ、ショウブなどの100種類もの水草を育てて湖に供給する。子供たちがアサザプロジェクトの大元を支えているのだ。


P17 ビオトープを学校に



これにとどまらず、子供たちの参加によるNECの地域の環境情報収集システムや、人工衛星を使った衛星画像を利用した自然再生・地域再生のための活動も始まった。また、アサザプロジェクトが飛び火し、秋田の八郎湖流域の小学校でも、3年前からアサザ基金との交流を深め、同様のプロジェクトを始め成果をあげている。

アサザ基金がアイディアを出し、霞ヶ浦に流入する河川の一つ、山王川では、石岡市が三面コンクリート張りの川の中に自然を回復する試みとして、石材組合から廃石材を得て川底に敷き、ヨシを植えている。




流域の地場産業との連携もめざましい。粗朶消波堤の設置のために、地元の森林組合と連携して霞ヶ浦粗朶組合をつくり、組合が粗朶の材料となる間伐材を供給している。これには建設省(当時)からの予算がつき、林業者の生業になることで、停滞していた森林組合の活動も復活した。一般ボランティアが参加する”一日きこり“の活動も生まれ、間伐が森林の再生に役立つとともに、人々が自然と触れ合う場もつくりだしている。

霞ヶ浦の在来魚の保護が”のっこみランド“で行われているが、漁業者と連携して外来魚の駆除も行われている。捕獲された外来魚を魚粉(肥料)にし有機農業で菜の花などを育てる。外来魚の水揚げは漁業者の生業になるとともに、菜の花からは食用油を作り地元の給食センターに供給、その廃油はバイオディーゼル燃料として活用し、鹿島鉄道を走らせることが目標だ。最終的にはCO2の削減にも役立つ。また、すでに魚粉を堆肥に使った野菜が地元のスーパーや生協で販売されている。



P17 野菜の肥料




さらに、霞ヶ浦の源流の里山にある谷津田の保全を兼ねた、湧き水利用の酒米づくりには企業(NEC)が参加し、酒づくりには地元の酒造メーカーが参加してブランド化を目指すなど、霞ヶ浦流域で展開する環境改善プロジェクトは枚挙にいとまがない。




小さなもの、無力なものが大きなものと闘える





このような壮大なアサザプロジェクトのとば口を開いた飯島さんとは、どんな人物なのだろうか? もともと植物や昆虫が好きな少年ではあったが、中学の時に水俣病の現実を知ったことが、その後の飯島さんの生き方を決定づけたという。

「水俣病ですね。あの時、不知火海の”生きもの“たちがおかしいという異変に漁師さんたちは気がついた。けれど、チッソも、国や厚生省、東大の研究者たちもそれを認めなかった。地元の人たちの直感に基づく訴えに耳を傾けませんでした。科学者のいうところの科学知と漁師さんの生活知が対等じゃなかったんです」

普通なら、公害をなくすために研究者を目指そうとするだろうが、飯島さんは違った。「あれだけひどい公害に誰も何もできないことが、おかしいと思ったんです。それが強烈に脳裏に焼きついている。権威から離れていても、世の中を変えられる人間になりたいと思ったんです。あの漁師のような立場、無力な立場でものを言い、問題を解決し社会を変えていくことに挑戦したかった。ばかばかしいほど小さなもの、無力なものが大きなものに対抗できるということを証明したかったんです」

飯島さんは、いったんは高校進学もやめようと思ったが、敬愛する祖母の願いで高校にだけは進学する。祖母が話してくれた白樺派やガンジーの影響も受けた。英国植民地下のインドで政府の塩の専売に反対し、海岸を目指し320㎞を歩いたガンジーの「塩のサティーヤグラハ(不服従)」。この塩の行進がきっかけでインドは独立を果す。「日常生活の中の、ただの塩。そこからまったく違う意味が生み出されていく」ことに感銘を受けたという。「それは、アサザも同じなんです」と飯島さんは言葉を継ぐ。

高校生の頃には、社会全体が敵だとも思いつめていた。そして一人で闘うためには、表現力が必要だとも感じていた。「ガンジーとか、ソ連の反体制のチェリスト、ロストロポービッチ、ソルジェニツィンも表現するものを持っていたから、それを表現し続けることによって闘い続けることができた。表現する力があれば、どんなに大きな力に対しても、対等に闘うことができる。今でも、表現だと思いますよ。チラシ一つにもキャッチコピーをきちんとつけていくとか、一つひとつの言葉がすごく大事。言葉がすべてを変えてしまいます」




僕は主体ではない。一つの”場“なんです。



飯島さんは自分の中に自然に対するとぎすまされた神経を保持する状態を”ある状態“と呼び、意識的に維持しようとしてきたと言う。知識を詰め込むのではなく、細い糸を紡ぐように、心の中の”ある状態“を壊されないように守ってきたのだと。そんな飯島さんの中から、力のある言葉や具体的な戦略が生まれてくる。

「不思議なもので、そのつど自分が惹かれたものにとことんこだわり、その中身を探っていくと、その中で自然に何かがつながり、ぽこぽこ言葉が出てきます。ある間隔をおいて、熟して実がなるように、自分の中で総合化されていく。このアサザプロジェクトは、実は僕の中の総合化のプロセスそのものなのですよ。たどっていくと、僕がそのとき考えていたことと、社会の中で事業化していくことが、ほとんど全部一致している。だから、お前一人でやっているんだろうといわれるかもしれないけれど、実はそうじゃない。僕自身は一つの場なんです。主体でも何でもない。場として開いている。いろんなものが出会って何かが起きる場なんです。たぶん一人ひとり誰でもそうなんです。誰でもできるけれど、誰もそのようにしないんですよ。自分の殻をつくって、自分というものを枠の中で見せようとするだけで。でも、実際、人間というのは場なんです。いろんな人とのつながりやできごとが起こる…」

「一人ひとりがまったく違う偶然と必然によって成り立っている。違う環境におかれて、違う時間を生きていて、百人百様ある多様性と、一人ひとりが自分の中で行っている総合化をこれからの社会にどういかに生かしていくのか? 個々の人格が機能するネットワーク。人格というのはさまざまなものを有機的に結びつける場なんです」




第三回へ




Photos:アサザ基金提供
Photos:高松英昭


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Genpatsu

(2012年5月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第190号より)





雪の舞う中、青い森公園には大勢の人が集まっていた。4月7日、青森県内の原子力施設の廃止を求める集会が行われた。主催したのは、県内の6団体が中心で、私たちの団体も加わった。1984年の4月9日に青森県は県内六ヶ所村に計画された原子力施設を受け入れることを決めた。以来、毎年この時期にこれに抗議する集会を開催してきた。今年で27回目となった。

今から40年ほど前に下北半島の付け根あたりに大規模な工業開発が計画された。これは、むつ小川原総合開発と呼ばれた。しかし、石油備蓄のための基地が誘致されたものの、それ以外の産業は来なかった。そこに原子力産業界は目をつけ、原子力関連の諸施設を誘致する計画を立てたのだった。当初から計画されていたとの指摘もある。

誘致された原子力関連の諸施設とは、ウラン濃縮工場、低レベルの放射性廃棄物を埋め捨てる埋設センター、そして再処理工場だ。いったん誘致が決まると、高レベルの放射性廃棄物を50年ほど貯蔵する施設や再処理で取り出したプルトニウムを燃料に加工する工場も作られることになった。一連の施設を総称して核燃料サイクル施設と呼んでいる。

中でも再処理は、原発で使い終わった燃料を切り刻んで処理をすることから、放射能を環境に出さないと運転できない。その量は「原発が1年間に環境に出す量を1日で出す」と言われている。海外の同様の施設周辺では子どもたちのがんが増えていると報告されている。さらに、莫大な費用がかかる。ウラン燃料を輸入する場合の10倍以上だ。負担するのは私たち。高い負担と健康被害、多少の犠牲はやむを得ないなんて許されない。

再処理工場の建設が始まったのが、93年のこと。04年から試験運転に入ったが、トラブル続きで止まったまま。

福島原発事故のあと、この再処理の見直しが進められているが、2兆円を超える建設費がムダになるとか、止めると原発の運転もできなくなるなど、電力会社や役人の強い抵抗にあっている。今年は勝負どころだ。

この日全国から集まった1200人は、青い森公園から市内をパレードし、再処理政策の転換を求めて進めている1000万人署名を達成しようと誓い合った。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)






霞ヶ浦の環境問題



霞ヶ浦は流域の人々の生活を支え、首都圏の水がめとしての役割を果している日本で2番目に大きい湖。40年前まではワカサギ漁で栄えた。晩秋から冬にかけてのワカサギ漁の季節になると、白い帆に風をはらませた「帆曳き船」が青き湖面を滑るように走る姿が見られ、年間10億円の水揚げ量を誇ったという。

だが、高度経済成長期を経た1970年以降に、水質汚濁や生物多様性の低下などの問題が深刻となる。ワカサギ漁も60年代をピークに、70年代のアオコの大発生などによる流域全体の水質悪化によって激減した。それに対して、行政による富栄養化防止条例の施行(工場廃水規制)などの対策が効果をもたらした時期もあったが、その後再び汚濁がすすむなか、抜本的な解決はない。

また首都圏の水資源開発と治水を目的に、1970年に始まった霞ヶ浦開発事業(2900億円)により湖岸の全周252㎞はすべてコンクリート護岸化され、水質浄化力のあるヨシ原は半分以下になり、他の水草群落も壊滅的な打撃を受けた。

1995年からNPOアサザ基金は、霞ヶ浦流域全体の環境保全を視野に入れ、地域コミュニティを核にした市民型公共事業として「アサザプロジェクト」を展開してきた。






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春から夏にかけて、霞ヶ浦(茨城県)の湖岸に小さく可憐な黄色い花が咲く、アサザ。実はこの花はシンボルにすぎず、その背後には、死んだとさえいわれた日本第2の湖、霞ヶ浦の自然を再生させるという、アサザプロジェクトがある。
いったん絶滅しかけたアサザの苗を育て、それを湖に移植したのは、霞ヶ浦流域の170をこえる小学校の小学生。100年後にトキが舞う湖にしたいという、子供が主役の公共事業でもある。プロジェクトが始まって11年、かかわった人は延べ13万人以上になる。
素手の市民の発見、智恵、遊びのような楽しい活動が切り拓いた壮大な霞ヶ浦再生の物語を紡ぎだす飯島博さん(アサザ基金代表)に、話を聞く。




アサザ。湖自身の自然治癒力の発見





1993年から2年をかけて、飯島博さんは霞ヶ浦の湖畔を小学生や中学生たちと一緒に4周した。この時すでに、コンクリート護岸工事によって、湖の全周は水質浄化力のある自然の渚が失われていた。また、護岸壁に打ち寄せる波によって湖底の砂地は深くえぐられて、ヨシや水草の大部分が消滅していた(図1)。

P15 図1




しかし、ある日アサザの群生が残っている湖面を眺めていた飯島さんは、そこだけ打ち寄せる波が和らいでいることに、ふと気づく。

「他の水草だってよかったし、アサザには何回も出会っていたんだけれど、その時初めて、アサザからひらめきをもらいました。それまでは、僕自身もみんなも人間の力による工学的な方法で自然を再生できないかと思っていた。けれど、アサザが持つ湖自身の自然治癒力のような働きを見て、こういう自然の働きを生かしていけば、湖を”よみがえらせる“んじゃなくて、湖が”よみがえる“んじゃないかな、と思ったんです」




1981年から霞ヶ浦・北浦をよくする市民連絡会議で霞ヶ浦の水質調査などを行っていた飯島さんは、アサザを湖に植えて霞ヶ浦の自然を取り戻そうと考え、すぐに行動を起こした。しかし、初めてのアサザの植え付けには失敗してしまう。コンクリート護岸に打ち寄せる強い波に流されて、1週間足らずの間にアサザはすべて流失してしまったのだ。

そこで、考えついたのが伝統河川工法である粗朶消波堤をつくることだった。沖合いに設置した粗朶消波堤によって波が弱められた湖底に、アサザを植えていくという方法だ。粗朶消波堤は昔の人が考えた伝統技術だが、石積みの消波堤(図2参照)とは違って、波を抑えつつ水を通すので漁礁にもなり、将来アサザ群落が地下茎を延ばし沖に向かって広がっていくときにもじゃまにならないという長所がある。(図3参照)


P15 図2

P15 図3


飯島さんは、一つの仮説を考えた。まずアサザを植え、アサザの群落ができると、沖合いから湖岸に打ち寄せる波の力がアサザ群落に吸収され、波が抑えられる。同時に波に弱められたアサザ群落付近には徐々に砂が堆積し浅瀬ができ、ヨシをはじめとする多様な植物群生が生まれる。このような自然湖岸が再生すると、湖の水質の浄化が促進され、霞ヶ浦の再生がはかれるというものだ。




1995年、NPO法人アサザ基金を設立。その後、この仮説がみごとに証明されていく。バケツに蒔かれたアサザの種は霞ヶ浦に移植され、11年後の今、湖面に清楚で美しい花を咲かせるだけではなく、流域全体に広がるさまざまなプロジェクトとなって根づいた。霞ヶ浦のシンボルも、かつての汚染のアオコから、再生の象徴であるアサザへと転換、9月のアサザ満開の時期には、花見に訪れる人が増えている。


P16 図4





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Photos:アサザ基金提供
Photos:高松英昭


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