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仕事は楽しいけど、生活が成り立ちません…。



東京のアニメ制作会社で働いています。動画の下書きを描いたりする仕事で、徹夜・終電まで働くことも多いんですが、楽しくやってます。ただ生活が苦しいのが悩みのタネです。給料が歩合制で、保証金が10万円。そのうち家賃に6万円かかります。最近、先輩の給料も同じと聞いてあぜん。将来的にはゲームのクリエーターを目指し、今の仕事はステップアップとして始めたんですが、あんまりです。両親は北海道に戻ってきたらと言うし、地元にはやりたい仕事はないし、迷っています。
(24歳/女性)





仕事が楽しいことは結構なことだけど、仕事と生活は両立しないとどうにもならない。私なんかは戦後を経験しているから、粗食で十分だけど、24歳で家賃を払った残りの4万円だけの生活は、食べていくだけでも不満なはず。衣裳にも興味ある年ごろだろうし、遊びに行くのだって交通費がかかる。私だって息抜きに、好きな時代小説を買って読んだり、カラオケへ行ったりしているのに。

ましてや都会は事件や誘惑も多いから、我慢してギリギリで暮らしていて、つい魔が差したなんてこともなきにしもあらずでは。ここは実家に戻ることも選択肢に入れたらいいんじゃないかな。ご両親はこれまでも多少の援助をしてくれてきたはずだから、帰っても邪険な扱いはしないでしょう。お金をためて改めてやりたいことに挑戦してもいいと思いますよ。




確かに仕事は大切ですけどね、私の仕事も雑誌を売っているだけが能じゃないと思うんです。

私が売っている新宿は、まず通行人を見ているだけでも飽きないし、この人が東京に魅力を感じる気持ちもわかりますよ。特に部分的に観察したりするのもおもしろい。ずいぶんと奇抜なヘアスタイルの人もいるもんだから。最近は減ったけど、頭の真ん中だけを残して立たしている男の人。あれはチック油か何かで固めているのかな。毎日髪の毛を洗うわけにもいかないだろうから、夜は箱枕みたいなので寝ているのかもねえ。

昔からこの辺りへは、仕事でちょくちょく来ていたけど、現場と家の往復がほとんどで、この仕事を始めるまで、こんな人たちを見たことはなかった。




この人の地元は北海道か。一度仕事で札幌の現場へ行った後に五稜郭に立ち寄ったことがありますよ。東京と違って夜景がキレイだった。この辺のネオンとは全然違う。空気が澄んでいるから、景色が鮮明で、高いビルがないから360度全部が見えたことが忘れられないです。

そうだね、確かにこの人が言うように、北海道では今やっているような仕事はないんでしょうね。そのかわり、今度は知らなかった良さを発見したり、これまで興味なかった他の仕事にありつけるかもしれないね。まだ若いんだから、仕事に未練があるなら、しばらく頑張ってみてもいい。私はそう思いますよ。 

(東京/M)


(THE BIG ISSUE JAPAN 83号より)











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8割が正社員軽軽あり




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8割以上が正社員として就職した経験がある。その後、6割近くが「別の可能性を探るため」と仕事を辞めている。一方、会社の倒産やリストラ、派遣切りにあった人や過酷な労働に耐え切れず退職した人、職場の人間関係やイジメが原因で退職した人もいる。

さまざまな理由で正社員を辞めた後、再就職を目指すが、次の仕事は簡単に見つからない。転職を繰り返せば、繰り返すほど、再就職は困難になり、条件も悪くなっていったと考えられる。






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半数以上が転職を5回以上経験している。「転職」といっても、正社員の仕事を積みかさね、キャリアアップしていくのとは異なり、製造業派遣や短期バイト等、不安定就労を繰り返していくケースが大半である。職種も仕事内容もバラバラであることが多く、その結果、仕事のスキルを身につけることができない。

解雇、倒産を経験した人が4割をこえることからも、厳しい環境で働いてきた人が多いということができる。職場での人間関係のトラブルがあった人も多い。こうした過酷な労働を経験したことがトラウマとなり、仕事に対する “ポジティブな感情”を持てないという人が少なくない。





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2003年、製造業派遣が解禁されたことも、彼らに大きな影響を与えている。

製造業、日雇いなど派遣に登録して働いた経験がある人は33人。そのうち製造業派遣の経験がある人が24人いることからも、2人に1人が製造業派遣で働いた経験があるということになる。





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ビッグイシューについて

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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊350円の雑誌を売ると半分以上の180円が彼らの収入となります。

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人間の負の感情にある、純粋さや根源的なものを描く




人けのない土地、後味が悪い結末。
負の感情を掘り下げ、独特な魅力を放つ







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劇団「乞局」主宰 下西 啓正さん




巧妙な会話劇と不思議な不穏さ。幸福や不幸の曖昧さ



下西啓正さんが率いる「乞局」の芝居には独特な魅力がある。結成12年。近年、数々の戯曲賞を受賞、平田オリザや岡田利規など気鋭の劇作家からも注目される劇団となった。

舞台の設定は「空港に隣接する人けのないマンション群」「都内の下水道」「都内の中央公園脇の墓地」など、たいてい都市のエアポケットのような寒々とした風景。その中で登場人物たちは切羽詰まった状況に追い込まれ、本性をさらけ出す。決して明るい芝居ではない。派手な音楽・照明・衣装はほぼなく、結末は大抵後味が悪い。しかし、巧妙な会話劇と不思議な不穏さで観客を飽きさせないのだ。下西さんは自作の信条をこう説明する。

「世の中で悪とされる人や物事にもそれなりの“筋の通ったもの”があるはずで、それを描きたいんです。幸福や不幸、善悪だって見方によって変わる。そういった曖昧さを大事にしています」




乞局の芝居の特徴は、人のもつ「負の感情」を大きく扱うこと。昨年12月の最新公演「乞局」での設定は「金網で覆われたテーブルのある、寂れた喫茶店」。

店主は、発病以降の記憶が蓄積できない病気の妻をかかえながら、実弟への多額の借金と妻の兄に居候される生活に苦しんでいる。だが、町内の人々は病気の妻を重宝がり、愚痴や悩み相談のはけ口として利用、お金まで支払いだす―。そんなストーリーで、肉親同士の憎しみ合い、不貞、コンプレックス、金への執着など人のドロドロとした部分を描いてみせた。






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「人の負の感情の中には、ある種の純粋さ、根源的な部分があるような気がします。それを描くことで、“人間”を表現したいんです」

舞台設定も“人間”を描くことに一役買う。「人けのない、忘れ去られたような土地を舞台にするのは、そこに、描きたい『昭和』な雰囲気を感じるから(笑)。日本人が元来もっている普遍性が描けるような気がして、物語が膨らみます」





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演劇の強さはナマモノ。生活と創作を両立させ、劇団は新たな段階へ



もともと、大学在学中に映画づくりを志し、サークルに入った下西さん。しかし、並行して行われる演劇活動のほうにより惹かれた。

「演劇のよさはナマモノだということ。観客にも役者にも、創作を疑似体験してもらえる。そこに表現としての強さがある気がします」




ただし、「疑似体験の場」をつくることはそう容易ではない。役者に舞台上で「きちんと生きて」もらうため、台詞や動きが自然に出るよう反復した稽古を求める。7分ほどのシーンを、延々繰り返したこともあり、さらに舞台上の小道具では、やり取りされるお金も本物を使うほど細部を徹底する。




最新作で20回目の公演。下西さんは、普段は台本印刷の会社で働き、社会生活と創作を両立しながら年2回の着実な活動をしてきた。

「きちんと社会で働くことが劇作にも活きています。芝居だけで食べていくより自分のスタイルとして合ってますね」

今回の最新作では、「今までの公演とは違った感慨を得た」と下西さん。今回の設定は実は06年の公演のものだが「見せ方として、以前とはまったく違ったアプローチができて幅が広がった。自分の中で一つの踏ん切りがつけられた感じです。次回はまた新たな段階へいきたいですね」と語る。

今年、乞局はオーディションで新たな「局員」を募集する。「団体として新しい空気を入れるためです。長い年月で俳優たちも自分も変わっていくのが楽しい。だから、とにかく劇団を続けていくことに意味があると思います。今は次を早く書きたいです」(山辺健史)





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撮影:鏡田伸幸




下西 啓正(しもにし・ひろまさ)

1977年広島県生まれ。慶應義塾大卒業後の2000年より劇団「乞局」を旗揚げ。乞局「局長」=(主宰・脚本・演出・役者)として、他の4人の「局員」と共に年2回のペースで活動。劇作家協会新人戯曲賞優秀賞など多数受賞。役者としても、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」などに客演。
http://kotubone.com/
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製造業派遣を転々として Dさん 36歳



東北地方出身。高校卒業後、就職。農産物加工会社、警備員等を経て、製造業派遣へ登録。2年ほどの間に7ヶ所の工場を転々とするが、人間関係がうまくいかず、派遣の寮を飛び出して以来、路上生活を続けている。






子どものころは活発で、勉強も得意なほうでした。父親が青果業を営んでいたんですが、経営がうまくいかなくて高校に上がるころに倒産。両親は離婚し、父親は家を出て行きました。サラ金からしょっちゅう電話がかかっていたので、子どもながら家の状態はうすうすわかっていたつもりです。「早く働いてお金を返すのが当たり前」という雰囲気があったんで、大学進学とかは考えなかったですね。




高校卒業後は、地元の農産物加工会社に正社員として就職。でも単純作業に飽きてしまって3ヶ月で退職しました。そこを辞めた後は地元の警備会社で2年ちょっとアルバイト。社員になる機会もあったんですけど、家計が苦しかったんであきらめました。保険とか年金とかいろいろ引かれるじゃないですか。そうすると手取り下がって生活できなくなっちゃうんですよね。それから2年ほどは土木とか、原発の作業員として単発で働きました。でもそういう仕事もどんどん減ってしまって、地元で長期の仕事を探していたんですが見つからず、製造業派遣に登録することにしたんです。




それから5年ほどはあちこちの工場を転々としました。短いと1ヶ月、長くても6ヶ月ほどで生産調整とか、作業終了とかで別の工場に回される。一番いやだったのは人間関係ですね。契約社員とか期間工とか、正社員とかいろいろあって、その人たちとは口も聞かないってことが当たり前でしたね。仕事内容はほとんど変わらないのに、派遣というだけで下に見られてバカにされる。この仕事をいつ切られるかわからない、今日かもしれない、明日かもしれないっていつも不安に思いながら働いてましたね。




最後のカーエアコンの工場では、リーダーと呼ばれる係長が最悪でした。完全無視されて一言も口を聞いてくれない。それでもガマンにガマンを重ねたけど、派遣を人と思ってないような態度に完全に頭来て、ある日爆発して、夜逃げ同然に寮を飛び出しました。その時、母親と妹は実家に身を寄せていたんで、帰る場所はありませんでした。





今の状態を変えたいとは思っているんですけどね。でも基本的に転職繰り返して、何のスキルも身についていない自分に就職なんて厳しいでしょう。できて製造業派遣か警備員くらい。でもどっちも厳しい仕事だし、条件的にも難しいし、ああいう仕事をするなら今のまま(ホームレス状態)でいいかなと。

人間関係のごちゃごちゃとかも苦手なんです。以前、ホームレス支援のNPOから整骨院の仕事を紹介されたことがあったんですよ。興味はあったんですけど、条件等が書かれたファックスの文字が殴り書きみたいにされてて、大事にされない感じがしたんで断りました。疑り深くなっちゃってダメですね。何の会社に入ってもうまくやっていけるか自信がないんですよ。





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ひどい家族から逃げ出して Cさん 27歳




東北地方出身。中学卒業後、上京。板前修業を経て、定時制高校に通うも中退。その後、地元に戻り製菓工場で派遣社員として働くが、工場閉鎖により職を失う。上京しネットカフェに泊まりながら職を探すも見つからず、路上へ。





今でいう虐待、受けてたんです。父親の暴力もあったけど、何より無視されてたのがきつかったですね。弟が生まれてからひどくなって、「勝手にやりなさい」って母親に言われて……飯に呼んでもらえない。家族がいない時間、一人で残り物とか食べてました。父親は自衛官なんですよ。自衛隊なんて死んでも行きたくないのに、『中学出たら自衛隊入れる』って毎日どやされてました。

そんな状況を中学の担任だけは知ってたんです。それでいよいよ進路を決めなきゃいけないって時に「東京に先生の知り合いがやっているお寿司屋さんがあるんだけど働いてみないか」って勧められたんです。「高校はいつでも行かれる。親元を離れるほうが先だ」って言ってくれて、親に直談判してくれました。




15歳から修行始めたんですけど、学校行きたいってずっと思ってて……。板前は自分で選んだ仕事じゃないって思いもあった
んで、やりたいことを探す意味で20歳の時、定時制高校に入学したんです。その担任が手続きとかいろいろ教えてくれました。でも寿司屋は夜仕事あるから定時制通えないんで、それで辞めて新聞奨学生になって住み込みで働きながら、高校に通うことになりました。でも結局仕事忙しすぎて、高校は卒業できず、1年で辞めちゃったんですけどね。




ある時、元担任からしばらくぶりに連絡が入ったんです。何かと思ったら、「両親が離婚するとかで、母親が会いたがっている」ってことだったんですけど、でも連絡しませんでした。それから半年くらい経って、東京での仕事がうまくいかなくなったんで、地元で仕事探そうと思ってすごい久しぶりに帰ったんです。実家がどうなってるか見に行ったら、家があった場所は「売地」になって、住んでた家は跡形もなくなってました。今家族がどこでどうしているのかわかりません。まあ自分には関係ないことなんでどうでもいいですけど。




地元に戻ってからは、製菓工場の機械オペレーターの仕事をしてました。いわゆる製造業派遣です。派遣の世界は厳しい弱肉強食の世界。自分の持ち場を与えられたら「ちゃんとできます」って強くアピールしないとほかの派遣にとられちゃう。工場でも作業によって死にそうにキツイものと比較的楽なものがある。立場が弱いとキツイ作業にまわされたり、いろんな持ち場をグルグル回されちゃうから、仕事が覚えられなくてヘマするっていう悪循環に陥るんです。

5年経った時、工場の中国移転が決まって閉鎖になっちゃったんです。遅配されてた給料も結局支払われず、寮を出るしかなかった。地元で仕事探すより、東京でネットカフェに泊まりながら探した方がいいと思って上京。でも結局見つからなくて所持金ゼロになって、路上に行くしかありませんでした。




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7月に子どもが生まれ、仕事に身が入りません。



7月に子どもが生まれ、価値観がガラリとかわりました。今までは仕事中心で徹夜、土日出勤もザラでした。とにかく家に飛んで帰って子どもの顔を見たくて、こんなことしてらんない…という心境です。妻は専業主婦だし、子どものためにも、稼がないといけないんですけど、仕事に身が入りません。みなさんはどうなんでしょう? おじさんの子育て経験なんかを聞かせてもらえますか。 (26歳/男性/会社員)





子どもがかわいいのは人情ですよ。でもね、仕事は仕事、家庭は家庭って割り切らないと。この人の子どもは今、泣くのが仕事。泣いて手足を動かして筋肉が育っていく。もう少したってヨチヨチ歩き出して、言葉を発するようになるころが、一番かわいくなりますよ。小中学生になったら、親を煙たがりはじめるけど、そのかわり成人したら、一緒に飲み屋へ行ける。子どもというのは、楽しいこととそうでないことが半分半分。

私にはね3人の子どもがいますけど、全部不肖の子ですよ。それなりにお金もかけたけれども、80手前になろうという私が子どもの尻ぬぐいをやっているんですから…。私はずっと職人で建築畑を歩いてきて、2回も心筋梗塞で倒れてもなお、こうやって働こうという意欲がある。うちの子どもにはそういう気持ちが欠如している。要は本人次第なんですよ。




この子は26歳か。若いのに子煩悩なんて、珍しいね。自分が遊びたいって年ごろでしょう。私のこのころといったら、戦後でしょ。何もなかった。おかげで今はどんな粗食でも耐えられるし、当時と比べたら、大抵のことはつらいとは思えない。それに私には、戦後の日本を、焼け野原から再生させたという自負がある。外務省や最高裁判所、ここでは言えないところをこの手で作ったんですから。




むろん、辛酸もなめてきました。男はワガママですから、遊び一本でいく人も、家庭に打ち込む人もいるだろうけど、私の場合は仕事。

この人も、子どもが趣味なのも結構だけど、家庭の延長が仕事、仕事の延長が家庭であっても困る。そんなに子どもが好きだったら、そのうち次の子もできるでしょう。




30歳を過ぎてからの子どもはまたかわいいし、孫っていうのはもうそれ以上の存在。冒頭でお話した状態ですから、孫といっても私と亡くなった家内が引き取って育てたんです。今じゃ所帯を持っているから、そうちょくちょく会えないけれど、その時はうれしいね。私もそんなにしゃべる方じゃないし、何を話すってことはないんだけど、元気な顔を見られたらそれでいい。そう思うのは、こんな年だからでしょうか。

子どもをかわいがるのも大切だけど、責任を取るというのも親の役割。仕事はおろそかにしないように、頑張ってください。

(東京/M)






(THE BIG ISSUE JAPAN 82号より)










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児童養護施設を経て路上へ(Bさん23歳)




近畿地方出身。両親の離婚により、児童養護施設に預けられる。中学卒業と同時に大阪の工場へ就職し、工場の寮で暮らす。約7年勤めた後に退職。児童養護施設へ戻り、就職の相談をするが見つからず、仕事を求め上京する。しかし、仕事は得られず、路上へ。





施設に入ったのは 1 歳です。物心つくずっと前です。だから母親の顔は知りません。理由は離婚だそうです。父親が親権取ったんですけど、マグロの遠洋(漁業)をやってたんで、面倒を見られないので施設に預けられました。

中学のころイジメに遭って、それが原因で不登校になったんです。勉強も得意じゃなかったんで早く働きたいなと思って中学出たら就職することに決めたんです。




就職先は施設の先生が紹介してくれました。大阪の繊維工場です。施設の先輩がその工場に行っていたんで、安心感があった。正社員の仕事です。保険もありました。給料は18万円くらい。悪くないと思います。

最初は昇給があるとか、新しい仕事を少しずつ覚えさせてくれると言われていたんですが、ずっと同じ仕事で上にも上がれなくて、それに不満を覚えました。機械が相手というのもちょっと……。接客業とか新しい仕事をやってみたいと思って、それで退職しました。もっと別のことを経験してみたかったんです。




一度地元帰って施設の先生に相談して、仕事のあてを探してもらったんですけどなかなか難しいような状況で。施設に戻ることはできないですから。その間は外(路上)にいました。迷惑かけるわけにもいかないんで。泊まる場所がないってことは先生には言い出せませんでした。

姉と妹がいて、連絡先は知ってるんですけど、二人とも忙しいんです。姉の方は朝と夜で二つ仕事を掛け持ちしているような状態。妹は車じゃないと行かれないような場所にいたんで、会えませんでした。友だちも頼れる人もまったくいなくて。貯金とかはなかったです。

自分はよく食べるんでご飯代とか、洋服代とかで消えちゃって。失業保険はハローワークで手続きできたはずなんですけど、やり方がよくわからなくて、施設の先生に相談したら、「手続きとっても面倒くさいよ」って言われてそのままになっちゃいました。




地元には4ヶ月ほどいましたが、自分のいたところは田舎なのか、仕事がほとんどない。だから都心に行くしかないかなと思って、施設の先生からお金を借りて、夜行バスで東京に来たんです。

東京ではハローワークに何回も行きました。面接まではこぎつけたこともあるんですが、自分が今こういう状態(住所がない)だと話すとそれが不利になって落とされてしまうんですね。住む場所もお金も携帯も持ってないですから。そんなことが何回も続いて、精神的に参ってしまいました。今はうつっぽくて、仕事を探す気力が沸いてこないんです。





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服を用いたコミュニケーション。アートの視点から社会にインパクト



誰もが身につけている衣服に着目。
装いから一部を引き出して、編集して、創造する。
その作業から生まれる新しいコミュニケーションとは?






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現代美術家 西尾美也さん





衣服を交換したり、分解したり。誰もが共有できる「ヘンテコ」目指して



ある時は、通りすがりの人に「今着ている服を交換しませんか」と突然に声をかけ、互いの服装をチェンジする。ある時は、とある団体のスタッフに「家にあるオレンジ色をした布を持ってきてください」と呼びかけ、それぞれにその布を取り入れた服を着てもらう。すると、形はさまざまでもどこか連帯感のある「制服」の出来上がり。そんな、衣服を媒介にしたコミュニケーションを展開しているのが現代美術家の西尾美也さんだ。

「服というのは、誰もが身につけているもの。その装いのあり方を組み替えることで、新しいコミュニケーションをつくり出したいというのが僕の活動のテーマです」




服装に興味をもち始めたのは小学生の頃だった。

「バスケットをやっていて、マイケル・ジョーダン選手が大好きだったんです。その思いを表現するためにマイケル・ジョーダンのTシャツやユニフォームふうの服ばかり着ていました。そして、そんなふうに衣服で自己主張することは、自分の自信にもなっていたんです」




進学した中学校も制服ではなく私服。「ヘンテコな格好ばかりしてました(笑)」と振り返る。下駄を作って履いたり、スカートをはいたり、髪の毛もいろいろとアレンジしてみたりと、装いで人を驚かすことを毎日考えていたそうだ。しかし、高校生になる頃にはまた違う感覚に襲われた。

「ヘンテコな格好で主張し続けていると、確かにある種のコミュニケーションが生まれるのですが、『こういう服装の人はこういう人だ』と見た目でまず分類されてしまうことに気づいたんです。主張すれば主張するほどに壁をつくり、逆に閉じているような状態になってしまう。そこに矛盾を感じ始めてしまって……」




将来的にはファッションデザイナーという道も考えていたが、やりたいのは服単体のデザインではなく、服を用いたコミュニケーションだと気づき、進路を美大に変更した。

「受験する際、創作活動の資料提出が課題にあったので、衣服を題材にしたワークショップを開きました。そこでは、参加者にパーツ分解できる服を身につけてもらい、知らない人同士が言葉を交わしながらそのパーツを交換し合うんです。服はどんどん形を変えていき、たとえば襟が袖になったり単なる装飾になったりでゴチャゴチャになる。でも、誰の服も同じようにゴチャゴチャだから、〝壁〟としてのヘンテコな服ではなく、ヘンテコな服なんだけど共有できる感覚が生まれる。今やっていることも、基本的にはこのコンセプトを発展させたものばかりです」




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「(un)Uniform」 Photo: 齋藤剛




ナイロビで共同作業 持ち寄られた古着が「機関車」に







現在、活動場所をケニアのナイロビにも広げている。

「ケニアには美術館に行く習慣もないし、現代美術というものも認識されていない。人々は生きることや日々の生活に精一杯という状態なんですね。僕はコミュニケーションの創造をテーマにしているので、ここで受け入れられないのなら、欧米や日本でいくらアート活動をしても意味がないと感じます。そんな中で活動すること自体が、僕にとってのワークショップかもしれませんね」





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「Overall: Steam Locomotive」 Photo: 千葉康由




ナイロビでは市民に古着を持参してもらい、その布を立体的にパッチワークして機関車を制作。総勢約100人の市民が参加し、それぞれの生活の中から取り出された布が、ひとつの作品となった。

「仕掛けている僕自身にも本当に実現できるかどうかわからない中で、想像以上の作品ができました。過程を含めたこの体験自体が衝撃だったし、多くの人と一緒にやり遂げたという達成感がありました。必ずしも生活用品が豊富ではない中で、多くのナイロビ市民が自分の服を家から持ってきてくれたんです」




突飛な何かを投げかけたり使ったりするのではなく、すでに持っているものを引き出して編集を加え、創作する。西尾さんのプロジェクトはすべてそうだ。9月には再びナイロビへ行く。今度は2年間という長期滞在の予定だ。

「プランはまだ明確じゃなくて、現地でゆっくり過ごしながら考えるつもり。次はお祭り的なプロジェクトではなく、持続可能なかたちでアートと人々を結びつける何かに取り組んでみたい。雇用の問題、仕事のあり方なども含め、ソーシャルデザインの具体的な方法を模索しながら。援助や支援という発想とはまた違うアートという視点から、今の社会にインパクトを与えることができればいいなと考えています」

(松岡理絵)
Photo:中西真誠




にしお・よしなり
1982年、奈良県生まれ。現代美術家。「西尾工作所」代表。東京芸術大学大学院博士後期課程修了。装いとコミュニケーションの関係性に着目し、市民や学生との協働によるプロジェクトを国内外で展開。09年には西尾工作所ナイロビ支部を設け、アフリカでのアートプロジェクトに着手している。グループ展、個展開催も多数。
http://yoshinarinishio.net/
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フリーター、ニート状態を経て路上へ(Aさん 30歳)




関東地方出身。両親、姉の4人家族。高校卒業後は、大手電気メーカーのグループ会社へ就職するが2年半でリストラに遭う。その後アルバイトと派遣を繰り返すが、その状態を家族は快く思っておらず、関係が悪化し、路上へ。





家族は姉と両親の4人。ごく普通の家庭だったと思います。高校では私立の工業科に行きました。入学金だけで百万円以上して授業料も月十数万円かかるんです。家にどうしてそんなお金があったのか、わからないんですけど、そのおかげで、卒業後、大手電気メーカーのグループ会社にすんなり入れたんです。面接では「お酒はどれくらい飲めるの?」って聞かれただけ。

部品センターで入出庫管理をやってました。給料は高くなかったけど、残業もほとんどなくて、不満はありませんでしたね。実家から通ってたので、給料の半分を家に入れてました。ところが入社3年目の1999年に人員削減によるリストラに遭った。年齢はさまざま。僕みたいに若いのも年寄りもいましたね。

その後、失業保険もらってハローワークで仕事探しましたが、なかなか見つからない。人見知りなんで、接客業とかダメなんですよ。だから仕事が限られちゃう。衣料品店の倉庫とか、漬物工場とか……いろんな派遣やったけど、どこも短期契約なんです。仕事がない時は部屋にこもってゲームしたりして時間をやり過ごしてました。ニートみたいなものですよね。




親にすればいつまでたってもまともに働かないように思えるんでしょう。「正社員で働け、バイトじゃダメだ」って散々言われて……どんどん関係が悪化していきました。家を出た時は本当に勢いだった。仕事してなくて、親と大げんかして。

親には申し訳ないと思ってる。高い授業料払って高校行かせてくれたのにこれじゃあねぇ。両親はもういい年だから心配。どっか正社員決まったら、菓子折もって実家行って、一晩泊まってじっくり話したい。

本当はここから電車乗れば、1時間ちょっとで帰れるんだけどね。たった1時間の距離なのに、ブラジルより遠く感じる。でも今のままじゃ顔向けできないですからね。まさにこれから親孝行できるって時になったら、電話一本かかってきて「亡くなりました」ってことがあるのかもしれない。そうしたら「海外旅行の一つでも連れて行ってあげればよかった」って後悔するのかな。

家を出てからは路上でアンケートやってそれでもらえる図書カードなんかを換金して食いつないでた。炊き出しとかは、雰囲気が苦手でほとんど行ったことない。家がないから“ホームレス”なんだけど、ホントのホームレスじゃないっていうか……そういうプライドみたいなのあるんですよ。

最近30歳になりました。会社に入った18歳のころは、その頃には結婚して子供が2人くらいはいると思ってたから。でも今はもう、はるか向こうにある感じですね。




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