ビッグイシューオンライン編集部より:高知県・嶺北地方に在住の作家・ヒビノケイコさんの記事です。安易なレッテル貼りはやめよう、というメッセージには強く共感します。(提供:ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする。より、一部編集して掲載)



乗せられないバランス、見分けるという賢さ

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最近より一層世の中の風潮が、「〇〇批判」「〇〇叩き」などに偏っていっている気がします。とにかく色んなことがざくっとまとめられ、ものごとを細やかにより分けて見ずに行われている印象。

世の中が不安定になり、格差が広がれば広がるほど、権力側からは「はけ口」がセットで用意されるもの。アルコール、ドラックとともに、誰かを攻撃する、自分より弱い人をいじめて一時スッとする・・・・
そうして「消費的、対立的な構造」が出来上がっていくのです。

~叩きの矛先はいろいろあるけれど、例えば、
・公務員が悪い
・地方が悪い
・生活保護者が悪い
・ホームレスが悪い
・〇〇人が悪い
・若者が悪い(ゆとり)
・老人が悪い(老害)

・・・・
などなど。多岐に渡っているでしょう。

そんな状況下では、気がついたら、知らないうちに自分まで「その言葉を使っている=消費されている側」に回っている可能性があります。だからこそ、そういったものに乗せられないバランス、見分けるという賢さが必要。



細やかに見るまなざしと、言葉の大切さ。
ざくっとした「地域叩き」の事例

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例えば、地域活性化や地域作りの仕事をしている人達に対しても、偏見のまなざしが向けられることがあります。

政府による「地域創生ブーム」が来てしまったばっかりに、「地域=お金=バラマキ」というイメージをもとに「あ~、地域創生でしょ、ああいうお金目当てのことやるなんてねえ」みたいなざくっとした見方をする人が増えてきた気がします。

私は実際に、現場でそういった活動をしている人達を8年前から見てきました。
どれだけ彼らが地味で淡々とした活動をしてきたかを知っています。

どうしたら継続的に地域がやっていけるのかを真剣に考え、人々の生活にたって泥臭いこともしながら、一生懸命もがいて頑張っている人。

こういった仕事は、誰かがやるべき重要な社会課題である仕事。
だけれど、財源が少ないため、低所得で保障もない場合が多いです。
それでも必要だからと、何とか続けて来た人。

また、こういった仕事は、揶揄もされやすいものです。
「どうせ偽善だろ」「どうせ無理なんだから」「あいつら補助金目当てだろ」「何かたくらんでるだろ」などの冷たい視線にもさらされながら、それでも必要なことをやってきた人。

だから「地域創生カテゴリ」のもとに、地域に関わる色々な人が一緒くたにざくっとまとめられしまい、偏見で見られることはすごく残念です。
そういった揶揄がむしろ誤解を生んだり、今まで一生懸命やって来た人のモチベーションを下げたり、孤独を増やすことにつながるのでは?と危惧します。

そもそも活動(仕事)をする側の人も、それを見ている側の人も「世の中がよくなったらいい」「役に立ってほしい」というもともとの願いは一緒だったはず。
なのに、こういう切ない事象になってしまうとよくないです。

こういうことを見ていると、色々な人をまとめて見ないこと、
本来の目的を果たせるよう人を生かす言葉を使うことの大事さを感じます。



カテゴリで人を見ないこと

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「経営者は搾取しているとか、生活保護者はおいしい目をしている」とか・・・そのカテゴリの中には色んな人がいるのにざくっとまとめて攻撃対象にされてしまうことも。

恥ずかしながら以前は私も、公務員に対して少し偏見がありました(ごめんなさい(*・ω・)ノ)
だけど実際に、地に足の着いた公務員の方の動きを見ていると・・・・
汗水たらして知恵をしぼって、固い制度を市民に有効に使えるよう考えてくれていたり、かけずりまわって仕事をしている人もいることが分かりました。

その人達は「あの人たちは、楽な仕事していっぱいお給料もらって、今の時代に保障もされててええよね」というイメージとは全く異なるのです。

だから私は「公務員は〇〇で」「役場はどうせ〇〇で」とあえて見ないようになりました。

そういう風に温かなまなざしで人を見ていると、逆に話もできるようになったんです。
こちらが心を開けば、向こうも開いてくれるもので、あちら側としては耳の痛い意見にも聞く耳を持ってくれたり、より一層住民に寄り添おうと頑張ってくれたり、モチベーションがあがったり・・・
そんなもんなんだなあと思いました。

一部の残念な人を基準に、他の人までまとめて偏見で見てしまわない大事さ。それによって生まれるものを感じた出来事でした。



イメージと事実は全く違う。

このように、イメージではなく、実際に起こっている出来事やそこで暮らす個人と触れたとき、初めてリアルな何かがわかるのだと感じます。

だからこそ、ちゃんと物事や人を細やかに見ることは大事だし、使う言葉は大事。
イメージによるざくっとした見方や言葉は、意図せずにこういうことにつながる場合があるからです。

・偏見、差別
・汚い言葉は自分自身をも傷つけるし、人にもよくない
・物事をより分けて考えられてないと、自分自身にも見境がなくなる

それは、人だけでなく自分を害するものになるので、気をつけたいなあと思います。



建設的な意見か、懲罰的な批判かは全く違う。

もちろん、「意見」は大事なものです。
否定的なことは全部言っちゃいけないって話ではありませんよ~。
仕組みや制度、何かしら問題や疑問がある場合は、
それはそれで建設的な意見を適切な人や場所に提示するべきでしょう。

ただそれは、鬱憤晴らしやストレス解消を含む「懲罰的な批判」や「罵詈雑言」とは一線を画すものです。

ポイントは、
現実で役に立つかどうか。
誰かの役に立つかどうか。
建設的であるかどうか。
対等であるかどうか。

そういった意見のあり方を踏まえて話し合うことが大事だと思います。



これは、「消費する側で生きるか、生み出す側で生きるか?」の選択でもある。

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要は、「条件」でその人を見ないということが、かなり大事だと思うんです。
人は弱っているときに限って、人のことがうらやましくなったり、ねたましく思うもの。
相手が「自分より得をしているっぽい人」のように思え、そこに社会悪を投影してしまう。

だけど、本当にそうでしょうか?
その人達はその人達で、こちらからは見えないリスクも苦労もあるかもしれない。
得しているようで、損しているかもしれない。実際のところ、人には分からないものです。

投影に負けず、その人を純粋な目でみること。
自分に向き合うことは、とても大事なことだと思います。

一方で、そういった負の感情は勝手に浮かんでくることだから仕方ない部分もあります。
だけど、人間である私達には理性があり、実際に人を攻撃したり人でうっぷんを晴らすかどうかは、選択ができるのです。

相手を負のエネルギーで叩いて、人も腐らせ、自分も腐らせてしまう「消費側」ではなく、
自分ができることを少しでもして誇りをもち、元気でいて、周りの人も元気になるような「生み出す側」の存在として生きること。
その選択は自分の手の中にあり、大切にしたいものです。



自分の強さを失わず、誇りを失わず。

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こうやって、物事をより分けてみること。
細やかに見つめること。
汚い言葉で自分や相手を汚さず、幸せを増やして生きること。

私自身も含め、人間なんて全然完璧にはなれないし、
ダメダメなところもあるし、嫌な感情だって浮かぶし、
時に思惑なくひどいこともしちゃうことだってあるもの。
ほんとぼちぼちですけど、できるだけそうありたいと願います。

それは、誰かに乗せられるのではなく、自分自身に支柱をたてて生きることにつながるから。
不安定なご時勢と情報化社会で自分自身を守り、自分の本来ありたいバランスで生きていくために。今とても大事なことだと思います。

 



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