カナダのケベック州で提供されている里親プログラム「ユース・プロテクション・サービス(DPJ)」。このサービスを通じて里子になった経験を持つ4人が体験談を語った。

最初に紹介するのは、子ども時代に虐待とホームレス状態を経験、里親に引き取られたこともあるが、今はシングルファーザーで3人の実子と9人の里子の親になっているイブ・マンソー。彼の子ども時代とは、 親になって感じていることとは?


虐待、父親との不和から始まった放浪生活

話は私が8歳の頃にさかのぼる。私は性的虐待を受けていた、とはいえ当時はそれほどめずらしいことではなかったが。14歳で神学校を辞め、家から逃げ出した。3週間ひとりぼっちで森の中で過ごし、サン・フランシス川沿いを何週間も歩き続けた。 たどり着いた街イースタン・タウンシップスでは道ばたで眠った。食べ物は他人の家の庭先からベリーなどを調達、 時々は食事をしていけと家の中に入れてくれる人もいた。私はこの頃から歩くのが好きだった。

故郷ドラモンドビルに戻ってからも放浪を続けた。単発の仕事をしながら友人宅に転がり込んだり、裏通りで何かしらの食べ物にありついていた。そうして社会から「気づかれない存在」になっていった。

「路上暮らし」が公然とは存在していなかった時代、私たち「路上のみずぼらしい輩」は林の中の人目につかない小屋でひっそりと暮らしていた。当時は、サン・フィリップ教区墓地の裏手にある森の中が家を持たない人々の寝床だった。酒やドラッグには手を出さなかったが、祈りは欠かさなかった。 これは今でも変わらない。

オンタリオ州デリーでは、ドラモンドビルの先住民メティス族の人たちとタバコの葉摘みの季節労働に勤しんだ。私もずいぶん若かった。その後、9人の家族が暮らす実家に戻ったが、トラピスト会修道士で、結婚したのは遅く、工場労働者となった父とは相変わらずそりが合わなかった。

クリスマス翌日、私は再び家を出た。 母は泣きながら「イブ、おまえはとても賢い子だ、必ずうまくやっていけるよ」と言って、こっそり15ドルを渡してくれた。

移動、移動…拠点が定まらない日々

家を出た私はバンクーバーへ向かった。途上、オンタリオの町ケノーラでは先住民族の一家と過ごし、ウィニペグの街では警察に呼び止められてしまった。未成年の私は目的地がなければ両親の元へ返されてしまう。とっさに「マニトバ州北部フリンフロンにいる叔母に会いに行く」と言ったら、警察が連れて行ってやると言ってくれ驚いた。 移動は丸2日かかった。道中、警察署に着くたび車を乗り換え、気のいい警察官らと夕食を共にして独房のマットレスで寝た夜もあった。

信仰心の厚い叔母の家では、ケベックから来ていた12人の敬けんな女性たちと一緒に過ごしたが、3週間で叔母に実家に連れ戻された。

ここからが面白い。家に戻って数ヵ月後、私は逮捕されてしまったのだ。つるんでいたギャング集団が、児童養護施設から逃げ出した友達をかくまうため食べ物と毛布を盗んだのだ。少年裁判所で有罪となった。判事は家族の元へ戻りなさいと言ってくれたが、ケベック警察部隊に入隊したばかりの兄が「あいつのことは州の管轄にまかせた方が良い薬になる」と両親に勧めたので、独房に入れられた。

護送中の囚人に与えられるのは黄色いチーズのサンドイッチばかり。生まれて初めて自由を失った気がした。翌日、モントリオール少年拘置所に送り込まれ、3週間に渡り、恐怖と性的虐待に苦しんだ。

その後、私はドラモンビルの里親に引き取られた。とてもすてきな「家族体験」だったが、自由ではなかった。逃げ出した私はオンタリオ州ブラントフォードへ。ホテル「ホリデイ・イン」での仕事を得て、英語を学び、新しい人生をスタートさせた。


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ケベックでのサマーキャンプにて。私の兄弟のニコラス・マンソー(スコティッシュキルトと帽子をかぶっている)を訪問 Credit: Yves Manseau

大家族へのあこがれを叶えるため自らも里親に

オタワ、トロント、バンクーバー、アメリカ、ハイチと住む場所を点々としながら、私は大学レベルの知識を独学で身につけた。海外支援組織で仕事し、人権擁護団体でボランティアもした。 その後結婚し、2人の子どもに恵まれた。

結局、ケベック州に戻ってきた。モントリオールで生まれた3番目の子は家族でただ一人、生粋のケベック育ちなのを誇りに思っている。子どもたちには祖父母と同じ言語を話して欲しかったし、(離婚した)子どもたちの母親もフランス系カナダ人だ。離婚当初は親権をどう分けるかでかなり揉めたが、時間をかけて丸くおさまった。

私はずっと大家族にあこがれていた。かと言って別の女性と子どもをもうけることは考えられなかったので、「ユース・プロテクション・サービス」の里親になることにした。 今は里子が9人、うち6人は完全養育(full-time)で3人は一時養育(part-time)の関係。 子どもたちとの関係は生涯続くもの。素晴らしい経験だと思っている。

でも最初は「ユース・プロテクション・サービス」との連携は難しかった。というのも、子どもたちの幸せより自身のキャリアや評判、組織体制を気にしているソーシャルワーカーの存在が目についたから。非常にお役所的な仕事ぶりだったし、周りのコミュニティ、里親家庭、グループホーム、専門機関との関係も十分ではなかった。とても閉鎖的で小さな世界だった。

私の家族の場合は、ずっと同じソーシャルワーカーが担当してくれたので良かった。彼女は実務でも精神面でもすばらしい仕事をしてくた。さまざまなコミュニティと深く関わり合うこともうまくいく秘訣。なので、わが家はオープンハウスのような環境にしている。子どもたちの友達、親戚、ご近所さん、コミュニティの人たちがちょくちょく顔を出してくれている。

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家族で夕食 Credit: Yves Manseau

ポジティブ、ネガティブ 三人三様の里子体験談

実際にイブ・マンソーのもとに里子として引き取られた経験を持つ3人に話しを聞いた。彼に引き取られるまで、3人合わせると28もの家族を転々とした。大人になった今、自らの里子経験をどう捉えているのか。

フランシス・マーティン(27歳)10の里親家庭を経験

どんな家庭に引き取られるかによって、里子体験はとてもつらいものにもなりえます。私に限って言えば、どの家族もすばらしかったです。大変だったのは引越し。引っ越しのたびに環境が大きく変わること…新しい場所、新しい学校、新しい友人…なかなか精神的にきますよ。 5年間で9つの家族と暮らしたのですから。
イブの一家に引き取られた時は、最初に15日間の「お試し期間」がありました。期間を終える頃、イブが言ったんです。「じゃあ、ニューブランズウィック(米ニュージャージ州)にあるきみの荷物を取りに行こう!」って。僕たちはギャングさながらアメリカへ向かいました。 すばらしい旅でしたね。 結局、イヴの家では5年暮らしました。今も家族同様の付き合いをしています。今では私にも3人の子どもがいます。実はパートナーのメリッサとはイブの家で出会いました。


フランソワ・ゼイビア・タルコット・シャゼー(27歳)11の里親家庭を経験

私にとってはハチャメチャな体験でした。子どもたちを次から次へといろんな家庭に放り込んでいるだけ、という認識がセンター側にはないのですから。 だからもう、すべての縁を切りました。7歳からあんな経験をさせられたら、人生が一変してしまいます。

最初の家庭は最悪でしたね。 ある日、学校を終えて自分の家に帰ると、ソーシャルワーカーが僕を待っていました。 小さな部屋で6時間も待たされた後、ドラール・デ・ゾルモーという知らない町に連れて行かれたんです。事態を飲み込み、新しい環境に慣れるのに、とても長い時間がかかりました。 最初の1年は両親に会うこともできず、クリスマスは里親が休暇を取りたいからと児童一時保護施設に入れられました。

モノのように扱われ、4年間で10の里親家庭を転々としました。大きな怒りを感じたこともありますが、今はもうその気持ちもありません。転機が訪れたのは19歳の頃。同じ里親家庭で過ごした兄貴分たちと連絡が取り合えるようになったのです。特にその一人のショーンが僕の心を落ち着かせてくれました。

ショーン・ローク(29歳)7の里親家庭を経験

12歳で両親を亡くしたものの、私はとても恵まれていたと思います。 つらかったですが、十分な生活でした。 人はすぐに不平をこぼします。僕も里親家庭で「これがあんたの1カ月分のジュースよ」と1ガロン (※約3.7リットル)のジュースを渡された時は、囚人に出されるタバコみたいで文句も出ましたが。毎日のボローニャ・サンドイッチには文句など言えません。世の中にはそれさえも食べられない人がたくさんいるのですから。
この里親サービスは複雑で、問題点をあげつらうのは簡単ですが、実際に変化を起こすのは大変です。「ソーシャルワーカーを増やすべき」なんて言うのは「学校には教師より生徒の方が多い」と言うくらい自明のこと。ソーシャルワーカーは精一杯やってくれています。私も担当ソーシャルワーカーを嫌ったこともありましたが、彼女もやるべきことが山ほどあったんだと今なら思えます。 最後の里親家庭でできた友達と今後のことを考えています。僕ら兄弟の間柄には無条件の愛と、おそらく、義務感があります。 親のいない子どもに出会ったら、兄や親のように手を差し伸べたいのです。行き場所のない子どもたちをケアする組織は絶対に必要です。

Translated from French by Rachael Prior
Courtesy of L’Itinéraire / INSP.ngo


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