現在、日本で「ひきこもり」の15歳~39歳の人は54万人と言われている。(2016年内閣府発表)同居にせよ別居にせよ、その多くには家族がいる。家族は、ひきこもりの当事者にどう向き合っており、どう向き合うべきなのか。

2018年12月に豊中で行われたイベント「ヒキコモリ・コネクト」において、臨床心理学者で立命館大学名誉教授・高垣 忠一郎さんが話した内容を一部編集してご紹介する。

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ひきこもりは、当事者からの「今の社会でいいのか」「今の生き方でいいのか」という問い

数年前、あるひきこもりの息子・娘を持つ親を支援するNPOに招かれて親向けの話をしたことがあります。そのあと親父の会に招かれて飲みながら語り合ったことがあるんです。
その際あるお父さんが、「親が変われば子が変わるといいますけれども、親はどういうふうに変わればいいんですか?」とおっしゃいました。結果的にはそうなることがありますけれど、私は「親が変われば子が変わる」という言い方は、あまりあからさまにはしないんです。親が変われば子が変わるというよりも、子どもが親に変わるための問題を出してくれているんだと見るほうがいいんじゃないかと思うんです。不登校だとかひきこもり、非行とか、子どもにはいろんな問題があります。でもそれは子どもが大人に向かって声を発してるんですよね。

「今の社会でいいのか」
「今の生き方でいいのか」

大人が悪戦苦闘しながらその問いに真剣に向き合って、この問題を解いていくことによって、大人自身がより大きな本当の意味の大人になっていくのだと思います。ですから、親が変われば子が変わるっていうことを「親が変わったら子が変わるらしいから、私がちょっと変わったらいいんだな」というふうなベタな受け取り方をして、表面だけの化粧をしてもすぐに化けの皮がはげると思います。

私は40年間、ひきこもりや不登校の問題に向き合う過程でたくさんの子どもや親御さんのカウンセリングのなかで、そういったことを経験しています。やっぱり真から変わるためには、しっかり自分と向き合って、子どもはこういう問題を出すのはどういう意味があるんだろうか、ということを自分の心に頭に問いかける、そういう作業をしないといけないんじゃないかと思います。

カウンセラー、登校拒否や不登校の親の自助グループなどもたくさんありますが、そういう環境の中で、競争社会を生きていくうちにいつのまにか身につけた「比べ癖」とか、世間体とかそういった"垢"をそぎ落としていくプロセスを経て親が変わっていくという、そういう事だと思います。

いまの社会は「ストライクゾーン」がとても狭くなった

ですから逆にそのお父さんに「あなたはどう思いますか?」と疑問形でお返ししました。そうするとお父さんは「ストライクゾーンを大きくすることですかね」とおっしゃった。

僕は即「そうですね!」ってお伝えしたんですけど。今の社会は人間を「人間」扱いするのでなく「人材」として扱う。できる・できないとか、使える・使えないという基準で人間を評価して選別することが当たり前のようにまかり通っている社会です。

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ストライクゾーンが狭くなっている社会の中に息子や娘を送り出し、「使って」もらって 「役に立って」もらわないといけない。そうするとつい親の方も子どもと向き合うときのストライクゾーンが狭くなってしまう。親からそんな向き合い方をされると、やはり親の期待に応えたいとか、親の意向を無視できない、とりわけ”良い子”の場合はね、子どもも自分に対するストライクゾーンが狭くなる、こういうことになるんだと思います。

そういう中で自分を氷山に例えると、氷山の上に浮かんで見えている部分というのは10分の1くらいで、ほとんどの部分は見えてないんです。これと同じように、自分はこうだと意識している・見えている部分は本当にほんの一部分です。そして、あるがままの自分っていうのはもっともっとでかいんです。自分で気が付いてない自分って自分の中にいっぱいいるんです。

今の社会は”一億総頑張り社会”

今の競争社会や企業社会の中で受け入れてもらえそうな、歓迎されるような自分を一生懸命、表にアピールして出している。競争社会ですから、先に行くためにはがんばって少々辛いことがあっても弱音を吐かないで頑張るような強い自分にならないといけない。

そうすると「しんどいわ」「辛いわ」「泣きそうになるわ」というような弱い自分は、「お前らが出てきたら邪魔や」って押し殺してしまうんです。

私は大学で教員をやりながら、病院の精神科で40年間カウンセリングをしてまいりました。クライアントさんは、さぞかしメンタルが弱い人ではというイメージをみなさんはお持ちになるかもしれませんが、そんなことありません。少なくとも私の前にこられるクライアントさんは多くは、とてもしんどいところを我慢して我慢して頑張って、頑張って、頑張りぬいて、あまり頑張りすぎて心と体の調子を悪くしてしまった、そういう人が多いですよね。

そういう人は「先生、私から頑張りとったらなんにも残りません」と、頑張り屋さんであることが自分らしさであり、アイデンティティになっている人がいます。自分から”頑張り”抜いたら何が残るのよ、と。今は”一億総活躍社会”っていう政権の掛け声がありますけれども、僕に言わせたら”一億総頑張り社会”です。「しんどいです」「ちょっと横にならしてくれ」というそういう人も頑張れ!頑張れ!って頑張らせるような社会だと思います。

「オカンに自分がいじめられてるなんて言ってみろ、オカン余計しんどくなるやろ。」

 今の子どもたち、(大人たちもそうだと思いますけど)楽しいことやうれしいことは親に話しますよ。なんでかというと楽しいことやうれしいことを話すと親が喜ぶから。でもね、しんどいことや辛いことは親に話さないよ。それはペットに話す。ペットは黙って聞いてくれるから。親は黙って聞いてくれないから。

今の親たちの子どもに対する最大公約数的な期待は何か、おそらく毎日明るく元気に楽しく学校や会社に通ってくれることです。ですから親の期待にこたえて、親を喜ばせてやりたいっていう気持ちが強い。でもその親を喜ばせてやりたいっていうことをかなえることができる子どもばかりじゃない。だって今は学校も会社もストライクゾーンが狭いですから。

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いじめられている子どもが、いじめられていることを親に言えますか?親の期待から外れてしまっていそうなことを親には心配する、悲しむから言えない。

・自分だけ学校に行けない
・情けない
・ダメな私だ
・父さん母さんの期待を裏切って申し訳ない
・先生の期待を裏切って申し訳ない
・そんな俺は生きててもしょうがない
・もう消えたほうがいいんじゃないか

今の存在を自分でまるごと否定している、そういう子どもがとっても多い。それで私の前で「先生、死にたい、死にたい」って言った子どもたちいっぱいいます。死にたいぐらい辛いんだってことを僕にアピールしているんですけど、それをしっかり受け止めて話を聞く。
そういう子どもたちや大人たちがどんどんどんどん増えてきた。

「人のクビ切ってそれが手柄になるわけがない」

とりわけ90年代以降、財界の団体が「新時代の日本的経営」という提言を出しました。「正規雇用を削って非正規雇用をドッと増やす」という労働政策、雇用政策で、使い捨ての非正規雇用を増やすということです。

「ジャストインタイム」方式の人間版みたいな、必要な時に必要なだけ必要な人材を用意する、それが非正規雇用です。つまり、人間が人材化されたうえにさらにそれを使い捨ての人材扱いして、コストを下げていく。

人件費は高いですからね。人のクビを切ることを手柄にしてどんどん上に上がっていく人もいる。人のクビ切ってそれが手柄になるなんて、なんという世の中だ。でも学校はそこに人材を送り込まないといけない人材養成機関になっている。

教育基本法が教育の目的として掲げている「人格の完成」。「人格の完成」が教育基本法の定めている日本の教育の目的ですよ。それをまったく無視して、みんなが狙っている大きな企業へ行くため、競争が激しいわけでしょう。それで将来、役に立つ人材として買ってもらうために、売り物使い物になるような性能を身につけるため、一生懸命学校通っている。それで競争に勝ち残っていく。こういうシステムになっているじゃないですか。

学校は「全国学力テスト」体制になっています。大阪なら大阪の学力テストの平均点を上げないと、と市長たちは言ってるじゃないですか。そういう学校を競争させ、評価し、統廃合して予算を削減する。そういう風になっている。

「家庭が学校の下請け機関になっている」

でも、学力テストのために過去問やらせて、なんとか点数をあげるなんて。小学校1年生に上がったばかりの子どもに、2週間くらいたったらもう宿題が出てくる。どんどん勉強の課題が出てきてそれをこなしていく状況なんです。

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(c)photo-ac

それで学校から勉強させてください、宿題させてくださいと言われる。家庭が学校の下請け機関みたいになっている。小学校上がったばっかりの子どもは、お母さんは家ではゆっくりさせてあげたいと思っている。でもそんな風にやっぱり学校から言われると、

「宿題した?」「勉強した?」

と声をかける。そのことによって何が起こっているかというと、親と子の関係が破壊されていってるんですよ。関係が悪くなる。全国に講演しに行きますけど、いろいろ話を聞いてもたいがい同じです。そんな学校や家庭が居心地いいわけがない。

立ち止まって考えて、という余裕はないんです。そんなことで本当の学力つくと思いますか。

みんな自分のペースやテンポを持っている

1950年代の後半から登校拒否や不登校が出てきはじめた。文科省がその子どもの数を数え始めたのが1966年くらい。さらに急激に増え始めたのが1970年代半ば以降。その頃学校教育・子育てには何が起きたかというと受験フィーバーという時代が始まり受験競争が激しくなっていった。それと並行するように学校にいけない子どもたちの数がウナギのぼりに増え始めた。

不登校や登校拒否の問題というのは、特別に性格が弱いとか、家庭の育て方によるということじゃないんです。日本の社会の移り変わりに密接に絡み合いながら、登校できない子どもたちが出てきているわけです。高速道路を走るような生活になっているわけ。高速道路が自分のペースに合っているっていう子どもはいいよ。生き物は自分の心地いいペース、リズム、テンポというのがそれぞれ違うのに一列に高速道路走らないといけない、自分のペースで走れない。このままこんなペースで走っていたら自分が自分でなくなってしまう。ちょっとタイミングが合わなかったら事故を起こします。緊張しますよ。だから、自分を取り戻すために、サービスエリアやドライブインに入って休憩する。それが登校拒否や不登校だ。そして学校行っていなかった子がまた学校行き始めるというのは、ドライブインから高速道路の本線に戻るときよりももっと緊張します。無理やり学校に戻される子どものなかには、降りてしまう子もいる。当たり前です。

社会の構造が、教育の構造が、不登校の子どもたちを生み出している

 不登校の子どもたちは、今年は小・中学校で14万4千人(別室登校の子どもは除く)。一時期に比べるとスクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、あるいは各種のボランティアが投入され、子どもの全体数は減っています。それにも関わらず不登校は増えている。これはもう少々の絆創膏を貼るような施策では太刀打ちできないということです。社会や教育の構造が、そういう子どもたちを生み出している訳ですから。狭い視野を変えていかないと、本質的な解決にはならない。

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資本主義社会の新自由主義的なシステム・枠組みの競争の中で起こってきている問題を、同じシステム・枠組みの中で解決しようったってできないですよ。システム・枠組みを相対化して、それとは違った枠組みで、ものを見る、違った価値観でものを見ないと、競争主義の価値観で全部支配されてしまいます。

お母さんの心がしんどい状況で子どもが元気になるわけがない。

あるお母さんは、「子どもが不登校になってから近所を歩けなくなりました」って。どうしてですか?と聞くと、「背中に私は子どもを不登校にしてしまったダメな母親ですっていう貼り紙を付けて近所を歩いている気持ちになります」と。そんな心境になったらそりゃ歩けない。私が不登校の子どもを作ったんじゃないかという負い目。一緒に子どもを育てているはずの夫には「子どもはお前に任せていた」「子どもが学校に行けなくなったのはお前の育て方が悪かった」と。そんなことを言われたお母さんやそういう風にみられたお母さんがいる。そこに姑・舅さんがいたりする場合もある。

「私のかわいい孫が学校に行けなくなったのは、嫁の育て方が悪かったから」なんて、針のムシロでしょう。そんなお母さんが家にいて、子どもも家にいて、元気になるはずがないじゃないですか。お母さんは一番身近な環境でしょ。そんなお母さんの心がしんどい状況で子どもが元気になるわけがない。

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だから私の最初の仕事はお母さんの心が和やかで平らかな心になっていくように支えること。そのためにはお母さんのしんどいことや辛いことを全部聞く。ただひたすら聞きます。そのときにお母さんに「なぜそのように感じたんですか?」って時々問いかけます。そうするとお母さんは自分の心と向き合います。日常でそんな風に周りが聞いて尋ねてくれることはないですから。しんどくてそんな風に自分の心と向き合うこともなかなかできない。でもカウンセラーの手助けで、自分の心の中のものを吐き出すから少し心が軽くなる。そして軽くなった心で家に帰って子どもと向き合ったら、心にも隙間ができて、受け入れることができるわけです。そういうことを経験したお母さんが先生に話を聞いていただいて家に帰ったら心が軽くなって、子どもと向き合ったら子どもの話も聞いてやれるって。「先生に話を聞いてもらったら心が軽くなって、それを子どもにしてあげないといけないということがわかりました」と。それなのに私は自分の心配や不安を子どもにぶつけることばかりやっていて、子どもの話に耳を傾けて聞いていませんでしたって。そういう風におっしゃいます。

心は頭についていかない

人間は誰かから助言されて「そういうもんか」と思うかもしれませんが、心は頭についていきません。頭でわかっていても心までは届かない。腹に落ちないと行動までは変わりません。だからこの胸の中にある辛いものやしんどいもの、「あの子を殺して私も死にたい」というような気持ちを吐き出して、そこが空いたら頭に入ったやつが腹まで落ちるんですよ。お母さんの気持ちに寄り添って気持ちを聞くということなしに、いくら正しいことを言ってもお母さん変わりません。そういう心に寄り添うという関係を周りに作っていくことが大事だということです。私はお母さんに「わからないくせにうるさいことをいう人がいる。そういう人は近づけない方がいい。何も言わなくても一生懸命お母さんの気持ちに寄り添って話を聞いてくれる人だけを近づけなさい」と言います。

そういうお母さんの心の支援を親同士がお互いにやれるような自助グループができて、そこに入ると自分の経験が親にとってもすごく参考やヒントになると思います。そういう関係が草の根のようにもっと広がっていかないといけないと思います。

子どもを粗末に扱って来てしまったのは、自分が自分をそう扱ってきたから

カウンセリングをしたお母さんはこうも言っていました。

「息子から色々教えられて自分の生き方も変えられた、息子が登校拒否になってよかったなと思う。子どもの話を聞いてあげることが子どもの人格を大切にすることなのに、そういうことが息子に対してできなかった。生活リズムを整えたり食事のことを気にかけたりしても、1番大切な部分である息子を一人の人として扱ってなかったのではないか。それは息子を(自分の)分身として扱って、ちょっと待ってね、と自分の都合を押し付けて、そのことに疑問を感じてなかった。なぜ粗末にしていたのかというと、私が私自身を大事にしていなかったから。そしてその分身につながる息子を大事にしていなかったんじゃないか。私自身小さいころからあなたは素直な良い子だと言われて、家族が喜ぶことをしていた。私自身が喜ぶことよりも家族が喜ぶことを優先してやっていた。人に迷惑をかけてはいけないとか、できるだけ自分でしないといけないという価値観がいつの間にか身について、自分がしんどいときも他人に助けてと言えない。そういうことは人に迷惑をかけることになるかもしれないからしてはいけないと思っていた」そんなお母さんたくさんいますよ。

苦しみ悩むことを言えない子どもたち

今の学生たちもそうです。僕は立命館大学で400人くらいの学生に授業で「カウンセリング論」を教えていた際に、学生たちに、人に自分のしんどいことや辛いこと、悩みを話すときに不安はありますか?とアンケートをとりました。すると98%の学生が人に自分のしんどいことや辛いこと、悩みを話すときに不安があると。

・ちゃんと聞いてくれるだろうか
・わかってもらえないのではないか
・そんなことを言ったら自分のイメージが壊れてしまうんじゃないか
・引かれてしまうんじゃないか
・相手に迷惑じゃないかと

といった不安があるそうです。子どもたちも自分のつらいことやしんどいことは親に言わない。だいたい今のそういう雰囲気というのは子どもに限らず大人に限らず多くの人たちの持っている傾向です。

僕が若い頃は、苦しみ悩むことは良いことだと教えられたし、実際そう思っていました。人間苦しみ悩むことを通じて成長するんだ。苦しみ悩むことはそれによって人間として磨かれる砥石なんだと。だから自分の悩みを親しい友達に話すことは大事なことを共有してもらうという意味を持っていました。でも今は苦しんだり悩んだりすることは自分がダメである証拠みたいな。自分がダメだから、苦しんだり悩んだりすることになってしまうんだ。ダメな証拠と感じている。だから人にいわないですよ。苦しみ悩みを漏らしたら、コストのかかる厄介なやつだと評価されるんじゃないかって。言えないから悩みや苦しみが共有されていかない。「こんな悩みをもっているのは俺だけだ」と孤立化する。背景には、自分を人間だと思うよりも、「人材」だと思い込んでいるということがある。明るく元気に前向きに頑張っているのが有能な人材。悩む人材はコストがかかるだけでサマにならない。でも人間であればこそ悩み苦しむことで成長するんです。

人材予備軍のような教育

若い人は自分のしんどいこと・つらいことを言ったら迷惑をかけてしまうと思う。そういうものの見方や価値観の背後に何があるかというと、「人材」です。「将来の自分を高く売れるような資質や能力をもった人材になってほしい」と学校でも家庭でも思われていること。

幼児期の段階から、子どもと人間として向き合ってない。高校・大学になったら社会に出て「そういう場所で役に立つか」という人材としての自分を考えてもいいが、なぜ人間としての土台をつくらないといけない幼稚園や保育所のころから、人材予備軍のような教育を受けないといけないのか。保育所や幼稚園の教育まで政府が口をはさんできている。「幼児期の終わりまでにこのようなことができるような子どもに育てる」
といった10の項目があったりする。

つまり小さいときから企業や国の期待し、要求する資質・能力をもった人材予備軍を育てようとしているんです。そういう教育の中に子どもを放置して、人間としてまともに育つはずがない。だからそういう教育を変えていかないといけない。できるだけたくさんの親にも知ってもらいたい。その中でもまともに人間教育をやりたいと頑張っている教師たちはたくさんいます。そういう教師たちを励ましてほしい。

愛の息吹で膨らませる、心の浮袋みたいな自己肯定感

国の言う自己肯定感は、強い国、日本を取り戻すため、経済を再生するために貢献できる人材を育てる自己肯定感で、褒めて評価して高める「評価の自己肯定感」。僕の提唱する自己肯定感は人間、子どもを丸ごと肯定する自己肯定感で、評価ではなく、「共感と赦しの自己肯定感」。愛の息吹で膨らませる、心の“浮袋”みたいな自己肯定感です。

親が子どもに提供できる最大の贈り物は“自分が自分で大丈夫”という自己肯定感

来年私は75歳の後期高齢者ですが、それがこんなところで話をするのはやっぱりこうして苦しんだりしんどい思いをしている若者たち子どもたちに連帯感を感じるからです。同情ではないです。苦しんでいる・もがいている、闘っている人間に連帯感を感じるんですよ。

苦しんでいるこどもに連帯感を感じてください。そしてその苦しんでいるこどもの本当の思いや気持ちをしっかりと聞いて共有してあげてください。それが親の使命。親が子どもに提供できる最大の贈り物は自分が自分で大丈夫という自己肯定感だと思います。愛の息吹を吹き込んであげてください。

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299号:ガールズサポートのいま

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当事者や経験者が集う「ひきこもり女子会」のインタビューを掲載。
https://www.bigissue.jp/backnumber/bn299.html

THE BIG ISSUE JAPAN305号 
特集:「出(しゅつ)ひきこもり」
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https://www.bigissue.jp/backnumber/305/


THE BIG ISSUE JAPAN317号
特集:いま遊べ!――子育ての未来
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https://www.bigissue.jp/backnumber/317/


THE BIG ISSUE JAPAN333号
特集:ひらけ!学校と社会
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https://www.bigissue.jp/backnumber/333/


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