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カテゴリ: 特集


銀座ミツバチプロジェクトの立ち上げをはじめ、全国各地で日本ミツバチの「伝道師」を務める藤原誠太さん。養蜂家の3代目として生まれたものの「ハチが大嫌い」、日本ミツバチは「将来性がない」と、紆余曲折を経てきたミツバチとの交流は、今アジアにも飛び立とうとしている。

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(2010年2月15日発売、ビッグイシュー日本版137号より転載)

20年の飼育歴があり、長崎県の離島で絶滅していた日本ミツバチを復活させた久志冨士男さん。日本ミツバチと話すことができるという稀代の専門家に、日本ミツバチの知られざる魅力とその可能性を聞いた。

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老舗や洗練された店舗が軒を並べる東京・銀座の真ん中で、ミツバチを飼っている人たちがいる。「おもしろそう」から始まったプロジェクトは、今や銀座という街の境界線を越えて、多くの人と人とを結びつけ始めている。田中淳夫さん(NPO法人 銀座ミツバチプロジェクト副理事長)に、お話を聞いた。

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(2009年12月15日発売、ビッグイシュー日本版133号より転載)

一年中で最も空が澄み渡るこの季節、夜空を見上げて冬の星座を探してみよう。ちょっとしたコツさえ知っていれば、都市部に住む人だって星空を満喫できるのだ。星空観望をする際のポイントと、プラネタリウムの活用方法などを嘉数次人さん(大阪市立科学館)に聞いた。

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(2010年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第134号より転載)

 

インタビュー前編はこちら

 

貧困に衝撃を受け
小学校付属果樹園のアイディア

砂漠の緑化、それはロマンとして語られてきた。高見さんも最初はそうだったという。でも、現場で苦闘するうちに、考えが変わってきた。「木を植えれば砂漠が砂漠でなくなるわけでも、砂漠化が止まるわけでもない」

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(2010年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第134号より)

 

文明の前に森があり、文明のあとに砂漠が残る

中国でも環境問題に対する意識が高まり、現在、毎年の世界の植林の半分以上が中国で行われているという。1500年前、世界的な文明が栄え、今や砂漠化が深刻化する山西省大同の農村で、18年にわたって緑化活動を行ってきた「認定NPO法人 緑の地球ネットワーク」。彼らが現地の人々と協力しながら植えてきた木は、実に1770万本。それでも、大海の一滴だ。環境破壊と貧困の連鎖を断ち切ろうと、植林活動を続けてきた高見邦雄事務局長に、その活動の真髄を聞いた。

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新しいことが知りたい時、ふとした疑問がわき上がった時、どうするか?

まわりの人に聞く? ググる?

図書館に行って調べたいと思っても、その膨大な蔵書を前にして途方に暮れてしまう。そんな時の道案内は、図書館で調べもののお手伝いをするレファレンス係。10年以上、大勢の人の調べものをサポートしてきた高田高史さんに、調べもののコツや図書館を使いこなす方法を聞いた。

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(2009年10月15日発売、ビッグイシュー日本版129号より転載)


1982年に石川県白峰村から、1本の肉食恐竜の歯が見つかった。以降、北陸にまたがる手取層群(てとりそうぐん)は、日本一の「恐竜産地」となった。その地に誕生した福井県立恐竜博物館を訪ねた。


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(2009年1月12日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 110号より)


日本の水源地・奥山を買い取る「日本熊森協会」:17年間の挑戦と未来へのメッセージ。

1992年、中学生の胸の痛みから始まった「日本熊森協会」と「奥山保全トラスト」の活動。17年の時を経て、その活動は奇跡的ともいえる広がりを見せている。兵庫県西宮市にある協会本部に、会長の森山まり子さんを訪ねた。

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クマを守るため立ち上がった中学生 県知事へ直訴、 兵庫県ツキノワグマ狩猟禁止令へ  

2008年9月、任意団体「日本熊森協会」の会員はついに2万人を超えた。日本で1万を超える会員をもつ自然保護団体は数えるほどだ。97年に会を立ち上げた同会の2万人会員という数字は、奇跡的でさえある。

「日本熊森協会」と聞くと、たいていの人はクマを守る団体だと思うにちがいない。実はそこに、深い意味が込められている。会長の森山まり子さんは言う。

「会の名前に熊の1字を入れたのは、クマの棲める森が、生物の多様性を誇る保水力抜群の最高に豊かな森であることがわかったからなんです」。実はクマを運動のシンボルにして、日本の水源地、奥山を守る運動を進めている団体なのだ。

では、そもそも森山さんたちは、なにゆえにクマの棲む森を残したいと思うようになったのだろうか?

その物語は、92年1月、兵庫県尼崎市立武庫東中学校で始まる。当時、森山さんは理科の教師をしていた。森山さんの授業「動物の世界」で、1人の女生徒が1枚の新聞記事に作文を添えて提出した。「ツキノワグマ、人間の環境破壊により絶滅寸前」という内容のそのニュースには、空腹のため冬眠できず、やせてガリガリのクマが人里に出てきて有害獣として射殺され、両側から笑顔のハンターに持ち上げられた写真が載っていた。

戦後の「拡大造林」という国策によって、スギやヒノキだけの針葉樹一辺倒の人工林になった奥山には、クマのエサとなるドングリなど実のなる樹木がなくなったのだ。その事実に衝撃を受けた中学生たちは「動物たちを山に返そう」と即、行動を起こした。4~5人ずつ集まってはグループをつくり、校内でクマを守る16の保護団体を立ち上げる。町内を回り、駅やスーパーの前に立ち、大人相手にひたすらクマの射殺を止める署名を集め続けた。そんな生徒たちに胸を熱くしながらも、森山さんは問わずにいられなかった。

「君ら、何でそこまでするんや」

男子生徒が答えた。「これクマだけの問題とは違うねん。今の自然破壊見てたら僕ら寿命まで生きられへんてはっきりわかる。僕ら寿命まで生き残りたいねん」。森山さんの胸に、今も生徒たちの言葉がつきささっている。

集まったたくさんの署名を持って、92年3月、グループ代表の16人の中学生が森山さんとともに県庁を訪れた。そこでは、「これからも兵庫県はスギ・ヒノキを植えていくんです」と反対に叱られただけだった。しかし、生徒たちはくじけなかった。逆に、「僕ら、ものすごく闘志がわいてきました」と使命感に燃えたという。

そして93年、兵庫県知事への直訴が成功、翌94年の全国植樹祭でも、いきすぎた人工林により、森の動物たちが生き残れなくなっていると訴える手紙を知事に書いた。その結果、スギを植える計画が広葉樹に切り替えられた。環境庁長官から「兵庫県のツキノワグマ狩猟禁止令」が発令された。

この時点で、生徒たちはすでに高校生になっていた。森山さんは生徒たちにできることはここまでだと考え、この後この問題を理科教師の名にかけて徹底的に調べようと、1人で全国各地の奥山を回ってみることにした。

滅びる美しい原生林、 私がやるしかないと森山さん決意

森山さんは、比叡山の高僧からこんな話を聞いた。

「昔は森の中は動物だらけだった。そして、動物たちのほとんどがいつでもエサを食べていた。自然の森では、毎年数%ぐらいの樹木が老いて倒れたり動物に枯らされたりする。で、1本の木が倒れると日光が入ってきて、土中で眠っていた種がうわ~っと発芽してくる。動物が食べても食べても毎日エサとなるものがわき出してくる。それが自然の森。ここも、広葉樹の森が残っていた当時は、クマどころか、サルもシカも、動物が里に出てくることなんてまずなかったですよ」

戦後の国策は、動物たちの命を育んでいたこのような自然林を皆伐し、スギやヒノキの人工林に変えてきた。森山さんは話す。

「苗木が小さい時はまだよくて、日光が当たるから間に草が生える。草にはバッタとか昆虫もいて、それもエサになって、動物はどうにか生きてこられたんですが、25年ぐらい前から、植えた苗木が大きくなって天を覆うようになって、クマが里に下りてくるようになったのです」

森山さんが初めて見た、奥地の放置人工林は、外から見ると整然と並ぶ青々としたスギの森なのに、一歩林内の中に入ると、真っ暗で林床に草1本、生えていなかった。生物の気配もなく、クマに限らず動物がとうてい棲める環境ではなくなっていた。

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反対に、クマの棲む原生林に入ると、「ブナやミズナラなどの落葉広葉樹から差し込む日光が林床を照らす明るい空間、まるで絵に描いたような美しい森」だった。そんな森で、植物と動物は密接な共生関係にあること、そして森から1年中コンコンと大量に湧き出す水を見つけて、森が日本人の暮らしや産業を支える水源地であることを肌で感じたと言う。

放置されて内部から崩壊している人工林に絶望し、点状に残された原生林を見て感動した森山さんは、日本の奥山を守らなければ、日本の水源地が消滅してしまうと考えた。行政に訴えたり、さまざまな研究会に出かけ研究者の話を聞いてもみたが、このような問題に取りくんでくれる人は見つからなかった。

「行政に失望し、次に研究者に失望し、最後は、どこかの自然保護団体に動いてもらうしかないと思いました」。森山さんはすがるように、自然保護団体に次々に連絡を取った。

まず声をかけたのは、会員3万人の本部がヨーロッパにある日本最大の自然保護団体。

「でも、返答は『うちは本部から指示されたアフリカ象とインドの虎の保護キャンペーンで手いっぱい。日本の森のことまで手が回らない』。どこに電話しても埒が明かず、友人が『絶対に動いてくれるのはあそこだけ』と言うので、会員が6千人の海外に本部を持つ世界的な自然保護団体に電話をしましたが、『本部からやれといわれている原子力問題で手いっぱい』という返事でした」

多忙な教職と自然保護活動の両立は不可能と思っていた森山さん。しかし、ついに、「奥山保全は誰もやってくれない。自分がやるしかない」と決意。97年、日本熊森協会を立ち上げたのだった。その時、すでに大学生になっていたかつての教え子たち数人が戻ってきて、最前列に立って活動を展開してくれた。

後編に続く


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