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(2009年1月12日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 110号より)


日本の水源地・奥山を買い取る「日本熊森協会」:17年間の挑戦と未来へのメッセージ。

1992年、中学生の胸の痛みから始まった「日本熊森協会」と「奥山保全トラスト」の活動。17年の時を経て、その活動は奇跡的ともいえる広がりを見せている。兵庫県西宮市にある協会本部に、会長の森山まり子さんを訪ねた。

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クマを守るため立ち上がった中学生 県知事へ直訴、 兵庫県ツキノワグマ狩猟禁止令へ  

2008年9月、任意団体「日本熊森協会」の会員はついに2万人を超えた。日本で1万を超える会員をもつ自然保護団体は数えるほどだ。97年に会を立ち上げた同会の2万人会員という数字は、奇跡的でさえある。

「日本熊森協会」と聞くと、たいていの人はクマを守る団体だと思うにちがいない。実はそこに、深い意味が込められている。会長の森山まり子さんは言う。

「会の名前に熊の1字を入れたのは、クマの棲める森が、生物の多様性を誇る保水力抜群の最高に豊かな森であることがわかったからなんです」。実はクマを運動のシンボルにして、日本の水源地、奥山を守る運動を進めている団体なのだ。

では、そもそも森山さんたちは、なにゆえにクマの棲む森を残したいと思うようになったのだろうか?

その物語は、92年1月、兵庫県尼崎市立武庫東中学校で始まる。当時、森山さんは理科の教師をしていた。森山さんの授業「動物の世界」で、1人の女生徒が1枚の新聞記事に作文を添えて提出した。「ツキノワグマ、人間の環境破壊により絶滅寸前」という内容のそのニュースには、空腹のため冬眠できず、やせてガリガリのクマが人里に出てきて有害獣として射殺され、両側から笑顔のハンターに持ち上げられた写真が載っていた。

戦後の「拡大造林」という国策によって、スギやヒノキだけの針葉樹一辺倒の人工林になった奥山には、クマのエサとなるドングリなど実のなる樹木がなくなったのだ。その事実に衝撃を受けた中学生たちは「動物たちを山に返そう」と即、行動を起こした。4~5人ずつ集まってはグループをつくり、校内でクマを守る16の保護団体を立ち上げる。町内を回り、駅やスーパーの前に立ち、大人相手にひたすらクマの射殺を止める署名を集め続けた。そんな生徒たちに胸を熱くしながらも、森山さんは問わずにいられなかった。

「君ら、何でそこまでするんや」

男子生徒が答えた。「これクマだけの問題とは違うねん。今の自然破壊見てたら僕ら寿命まで生きられへんてはっきりわかる。僕ら寿命まで生き残りたいねん」。森山さんの胸に、今も生徒たちの言葉がつきささっている。

集まったたくさんの署名を持って、92年3月、グループ代表の16人の中学生が森山さんとともに県庁を訪れた。そこでは、「これからも兵庫県はスギ・ヒノキを植えていくんです」と反対に叱られただけだった。しかし、生徒たちはくじけなかった。逆に、「僕ら、ものすごく闘志がわいてきました」と使命感に燃えたという。

そして93年、兵庫県知事への直訴が成功、翌94年の全国植樹祭でも、いきすぎた人工林により、森の動物たちが生き残れなくなっていると訴える手紙を知事に書いた。その結果、スギを植える計画が広葉樹に切り替えられた。環境庁長官から「兵庫県のツキノワグマ狩猟禁止令」が発令された。

この時点で、生徒たちはすでに高校生になっていた。森山さんは生徒たちにできることはここまでだと考え、この後この問題を理科教師の名にかけて徹底的に調べようと、1人で全国各地の奥山を回ってみることにした。

滅びる美しい原生林、 私がやるしかないと森山さん決意

森山さんは、比叡山の高僧からこんな話を聞いた。

「昔は森の中は動物だらけだった。そして、動物たちのほとんどがいつでもエサを食べていた。自然の森では、毎年数%ぐらいの樹木が老いて倒れたり動物に枯らされたりする。で、1本の木が倒れると日光が入ってきて、土中で眠っていた種がうわ~っと発芽してくる。動物が食べても食べても毎日エサとなるものがわき出してくる。それが自然の森。ここも、広葉樹の森が残っていた当時は、クマどころか、サルもシカも、動物が里に出てくることなんてまずなかったですよ」

戦後の国策は、動物たちの命を育んでいたこのような自然林を皆伐し、スギやヒノキの人工林に変えてきた。森山さんは話す。

「苗木が小さい時はまだよくて、日光が当たるから間に草が生える。草にはバッタとか昆虫もいて、それもエサになって、動物はどうにか生きてこられたんですが、25年ぐらい前から、植えた苗木が大きくなって天を覆うようになって、クマが里に下りてくるようになったのです」

森山さんが初めて見た、奥地の放置人工林は、外から見ると整然と並ぶ青々としたスギの森なのに、一歩林内の中に入ると、真っ暗で林床に草1本、生えていなかった。生物の気配もなく、クマに限らず動物がとうてい棲める環境ではなくなっていた。

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反対に、クマの棲む原生林に入ると、「ブナやミズナラなどの落葉広葉樹から差し込む日光が林床を照らす明るい空間、まるで絵に描いたような美しい森」だった。そんな森で、植物と動物は密接な共生関係にあること、そして森から1年中コンコンと大量に湧き出す水を見つけて、森が日本人の暮らしや産業を支える水源地であることを肌で感じたと言う。

放置されて内部から崩壊している人工林に絶望し、点状に残された原生林を見て感動した森山さんは、日本の奥山を守らなければ、日本の水源地が消滅してしまうと考えた。行政に訴えたり、さまざまな研究会に出かけ研究者の話を聞いてもみたが、このような問題に取りくんでくれる人は見つからなかった。

「行政に失望し、次に研究者に失望し、最後は、どこかの自然保護団体に動いてもらうしかないと思いました」。森山さんはすがるように、自然保護団体に次々に連絡を取った。

まず声をかけたのは、会員3万人の本部がヨーロッパにある日本最大の自然保護団体。

「でも、返答は『うちは本部から指示されたアフリカ象とインドの虎の保護キャンペーンで手いっぱい。日本の森のことまで手が回らない』。どこに電話しても埒が明かず、友人が『絶対に動いてくれるのはあそこだけ』と言うので、会員が6千人の海外に本部を持つ世界的な自然保護団体に電話をしましたが、『本部からやれといわれている原子力問題で手いっぱい』という返事でした」

多忙な教職と自然保護活動の両立は不可能と思っていた森山さん。しかし、ついに、「奥山保全は誰もやってくれない。自分がやるしかない」と決意。97年、日本熊森協会を立ち上げたのだった。その時、すでに大学生になっていたかつての教え子たち数人が戻ってきて、最前列に立って活動を展開してくれた。

後編に続く


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前編を読む

自宅でできる品種改良の方法



タネといえば、品種改良、メンデルの法則を思い出す人も多いだろう。

江戸時代、日本人が夢中になったのが朝顔の品種改良だ。変わり咲きの「変化朝顔」を競って咲かせた人々がいた。そんな「変化朝顔」をつくる暮らしにあこがれる藤田さんだが、すでに自宅のベランダは「変化朝顔」庭園と化している。

「朝顔の交配で、新しい品種をつくろうといろいろとやってみています。去年植えたのはプランターで5〜6個、鉢で20個。ベランダ中、朝顔だらけでしたよ。つれあいから、『ベランダで物干しができない』って文句を言われてます」

 交配はどのように? 「朝顔の花の真ん中にめしべがあって、その回りにおしべが5つあって、ほっとけばその花の中で自家受粉するんです。交配したいときは、朝、花が咲く前のつぼみを開いて、あらかじめおしべだけ取ってしまい、めしべに別の花のおしべの花粉をつける。すると、そのタネ(子ども)は両親の特徴が混じった花を咲かせます」

ところで、タネ屋で売られているタネは、完成された品種(F1)である。

「そのタネをまけば必ずその品種になります。が、その子どもは両親の性質を持ったさまざまなものが出てくる。だからおなじ品種を収穫したければ、F1のタネを買い続けなければならないんです」

自分の食べたフルーツのタネにも、同じことがいえる。

「食べたフルーツのタネを育てた場合も、十中八九、もとのフルーツよりはまずい。万に一つ、宝くじみたいなものですが、親よりおいしい実がなることもありますが。果樹の試験所の品種改良は日々そういうことをしているんですよ」

世界に誇れる日本の品種改良には、朝顔のほかに、稲や菊などがある。江戸時代には、タンポポも実はマニアックな日本人がつくった園芸品種もあったが、残念なことにそれはもう絶えたそうである。

アボカド、ブドウ、ビワ…。あのとき食った、あのタネが



藤田さんが1年前に植えたアボカドは、1年で人の背くらいに育った。

「アボカドは一気に伸びますね。一昨年まいたブドウ(巨峰)も、1メートルくらいになりました。ビワはすぐ芽が出ます。失敗があまりなく初心者におすすめです」

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ブドウ、アボカド、ビワは観葉植物として大きめの鉢植えにして、大きくなりすぎるようだったら剪定すればいい。

盆栽にして楽しむ方法もある。

「小さい鉢に植えておけば鉢相応の大きさに育ちます。ギンナンをまけばイチョウの盆栽に。サクランボやカキも盆栽にでき、サクランボはうまくすると桜の花が見られますよ」

果樹は時間がかかりそうで待てないというせっかちな人には、「家の台所をごそごそすれば出てきそうな、大豆やとうもろこしがおすすめ」。豆もやしや枝豆もできる。

自給自足に興味のある人には、「お米はいかがでしょう。玄米は芽の出る胚という部分が残っているので、発芽します。バケツに植えて『バケツ稲』にすれば、お茶碗いっぱいのお米ぐらいは採れます」

園芸店で買ったタネなら、必ず発芽する。食べたタネだと発芽の確率はかなり低くなる。しかし、どうせ捨てようと思っていたタネ。あまり期待せずに、「芽が出たら、うれしいな」というくらいの気持ちで始めるのがいい。お金もかからないし、自分が食ったタネなら、より愛着がある。あのとき食ったあのタネが!ということで」と、藤田さんは笑う。

しかも、「種まきは自由への一歩」なのだ。

「何でも買えば手に入る今の時代。買ってくるのではなくて、タネをまき自分で収穫して食べるという、ほんの部分的な自給自足の実践が、あらゆる世界から自分自身を自由にすることに結びつくような感じがします」

藤田さんに影響された友人も増えているそうだ。

「ひとつ芽が出ると、何でもまいてみたくなると言っていますね。一度、芽が出ると、これもこれもと。調子に乗って家中が緑でいっぱいになったら、誰かにあげていただければ」。

そう言って、藤田さんはもう一度にっこりと笑った。


(編集部)
写真提供:藤田雅矢
イラスト:Chise Park

ふじた・まさや
1961年、京都府生まれ。
京都大学農学部卒。農学博士。
某研究所に勤務し、植物の品種改良を行うかたわら、執筆活動を行う。第7回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。日本SF作家クラブ会員。著書に『つきとうば人』教方画劇、『星の綿毛』早川書房、『ひみつの植物』『まいにち植物』ともにWAVE出版、などがある。

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前編を読む

残像、心のスペース、そして寄付、ボランティア活動も


一方、さんざん悩み思いをこめた贈り物のエピソードも。

Gさん(20代女性)は大失恋した友達を励ますため、彼女の家のポストに、読んでほしい本やリラックスできそうなお茶、バスソルトなど、小さなギフトを2ヵ月間、毎日入れ続けた。「今日で終わりじゃないんだよ、明日があるよ」ということを伝えたかった。もちろん彼女は徐々に元気を取り戻した。

Jさん(20代女性)は、長くつき合った彼氏と別れる時、感謝と憎しみを綴った長編大作の手紙を贈った。「今となっては、どうかシュレッダーにかけていてほしい」と願っている。

では、そんな贈り物とは一体何なのだろうか? 次のような答えたちが並んだ。

「贈られた人よりも、贈った人の心を豊かにしたり、満足させるもの」(40代女性)

「贈った人と贈られた人の共感または乖離感の指標」(50代男性)

「人に対する親愛の気持ちを形にしたもの。無形の贈り物があるとするなら、その最たるものは命、自然だろうと思う。寄付行為、ボランティア活動も大きな意味で贈り物」(50代男性)

「抽象的でよければ、殺し合っている人々に戦争のない世界を/忙しい人に、のんびりした時間を/おびえている人に、安心を/未来の人に豊かな森と生き物。具体的には、自分で見つけたおいしい酒を本当の酒好きの人に。自分で作った料理や釣った魚を、味のわかる人に贈りたい。手間を惜しまず走るご馳走です」(60代男性)

「その人のために、あけた自分の心の中のスペースを形や言葉にしたもの」(50代男性)

「あなたのことが大切ですよ、という結晶」(20代女性)

「残像。いつまでも残って、思い出せば、その時に戻れるもの」(30代男性)

「ほこほこフワフワした気分の交換かな。大事に思っているよ、ずーっとずっと大好きだよ、という気持ちをこめているから」(40代女性)

そして今、こんな贈り物を考えているのは、Kさん(60代女性)。

「高校時代からの親友と会うたびに『生前葬』と思って、ささやかなるちょっとしたものを贈りたい。たとえば、一緒に美術館に行けなかったら『絵はがき』とか、頂きものの『おすそわけ』とか、もらって負担にならないが、『私の心にあなたのスペースをあけているよ』と、伝えたい」

贈り物論をいきいきと語る男性に対して、実際の贈り物が上手なのは女性だろうか? 普段はクールな人も、近寄りがたい強面の人も、老いも若きも、贈り物については驚くほど、誠実で素直だった。

(香月真理子、中島さなえ、野村玲子、松岡理恵、稗田和博)
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<2008年12月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第108号より>


贈り物。それは自発的に、他人に「自分の何か」を差し出す瞬間



人生をふりかえれば、誰にでもいつまでも心に残る贈り物があるのではないだろうか?
20〜60代の老若男女50人にアンケートをして、「忘れられない贈り物」を聞いた。
あなたにも心に残る贈り物はありますか?


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贈り物の風景、そして原体験



「私の向かいに若いカップルが座っていました。電車はすいていました。男性が女性に紙袋を渡しました。女性はけげんな顔でそれを受け取り、袋をのぞき込んで息をのんだような表情をしました。そのうち彼女の眼から涙がほろほろこぼれて、私は目をそらし、でも気になって見ずにはいられませんでした。袋に入っていたのは、なにか画集のようなもののようで、会話の断片から高くて買えなかったというように聞こえました。男性は、照れてそっぽを向いていました」

Aさん(60代女性)が電車の中で見た風景。オー・ヘンリーの短編のようだ。

こんなにも感動的でなくても、アンケートの回答には贈った人、贈られた人の気持ちがあふれるエピソードが寄せられた。

まずは人生が始まったばかりの、子どもの頃の鮮明な贈り物の記憶。 「7歳の時。病気になった時、隣のタダシくんとおばちゃんが折ってくれた千羽鶴。千羽鶴を折るのは大変な労力です。子ども心ながら、単なるお見舞いの気持ちではできないことだと感動した」(40代女性)

「5歳くらいの時、クリスマスにサンタクロースにもらったウクレレ。ほんとにサンタクロースはいてた!という驚きとうれしい気持ち」(40代女性)

逆に初めて人に贈り物をした思い出が、「今思うと、人生初の『自発的に他人に自分の何かを差し出す』瞬間」と言うBさん(20代女性)。「小1の時、放課後、友達と遊んでいてルマンド(お菓子)をあげた。私が持ってきたルマンド5個に対し、集まった友人は私を含めて6人。身を切る思いで大好物のルマンドを最後の1人に差し出した」

人は物心つく頃から、心のこもった贈り物を喜び、一方で心を悩ましてきたのではないだろうか?

30年間、今も考え続けている贈り物のこと



そうして、人は大人になって日常的に贈り物を贈り合う。

1977(昭和52)年の冬のある日、金沢は豪雪だった。Bさん(60代男性)は公共交通機関が遮断される中、長い距離を家まで歩いた。帰宅したのは深夜。郵便受けを見ると、バレンタインチョコが入っていた。送り主の女性は、現在の妻。「車でも2時間はかかる私の家に、どうやってチョコを届けたのか。いまだに謎です」

バイトや職場を辞める時、同僚からもらった花束や寄せ書き。海外の旅先やホームステイ先で、気持ちのこもった手づくりの贈り物に思わず涙したという人もいた。30代、40代の女性は、結婚指輪やプロポーズの言葉をあげる人が多かった。

その他、「ぐっと大人になったような気がした洒落たジャズのCD」(20代男性)、「10代で入院した時にもらった尾崎豊の本に励まされた」(30代男性)など、それぞれの人生が浮かび上がるようなエピソードだ。

だが一方で、贈り物は、贈られた人の心に波紋を投げかけることもある。

Cさん(50代男性)が新宿のフーテン族だった若い頃、友人から贈られた誕生日プレゼントは『聖書』。「まともに生きろ」という意味なのかと考えさせられた。「なにしろ贈った友人も、まともに生きていなかったので、どういう意味だったのか、いまだに考えている」

Dさん(20代女性)は高校生の誕生日、家に新巻鮭が届いた。差出人は、元カレ。ギターしかとりえがなかった無職の旅人。別れてから数ヵ月消息を絶っていたが、伝票には北海道の羅臼と書いてあった。「ちゃんと仕事を見つけたって安心させたかったんだと思う。うれしかったけど、なんで羅臼だったの?」
 

「だいじょうぶ循環」という贈り物



反対に、形のない贈り物が心に残っている人も多い。

「久しぶりに会った人が、人前で思い切りハグしてくれました。こちらも会いたかったけれど、むこうの会いたかったという気持ちも伝わってきて、当分、幸せな気持ちでいられると思った」(40代女性)

「死にたくなるくらい気持ちがどん底だった時に、ある舞台俳優さんに力いっぱい頭を撫でてもらい元気をもらった。掌を通して温かさを感じた時、まるで生き返ったような気持ちだった」(20代女性)

「生演奏。歓迎パーティで、知ってる歌やら知らない歌やらをギターやウクレレで演奏してもらった。本当に楽しい気分で音楽ってすてき!って思った」(20代女性)

「『くたびれちゃった。もうダメかもしれない……』と言うと、友達が『だいじょうぶだよ、なんとかなるよ』と言ってくれる。『そっかなー、なんとかなるかなー』『なんとかなるよー』と言って笑い合う。心がやわらかくなってくる。それを私たちは『だいじょうぶ循環』と呼んでいる。そしてご飯を作って一緒に食べる。あんなことこんなことを話しながら食べているうちに笑顔になっている」(40代女性)

そして究極は、20代の女性、EさんとFさんがそれぞれ親友に贈った誕生日のサプライズパーティだ。

Eさんはウソの理由で呼び出し、自宅の自室を飾り「とにかくビックリさせてやりたかった!」と、親友が喜びそうなサプライズを部屋のあちこちに隠した。

「あの時の彼女が部屋に入ってきた瞬間目が点になってすぐの泣きそうな笑顔は、今でも思い出すたびにこっちが幸せになります」。Fさんは、「どこに行くか言わずに、いきなり船に乗せて、和歌山の友が島まで連れて行って、2人だけのサプライズパーティ。水着もサンダルもぜんぶ私が用意。驚かせると同時に、ステキな日にしてあげたかった」

20代の女性は個性的な贈り物が得意だ。

後編に続く
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part1を読む

建物の外へ、エコ意識が広がり「共振」する仕組み



しかし、平田さんはこうも話す。

「建物だけでエコを考えても、限界があります。私がさらに提案したいのは、もっと建物の外へもエコ意識が広がっていく仕組みです」

アパートに畑がついているのは、そのためだ。しかも、畑と台所は玄関の土間を通してつながっている。台所から、畑の野菜の生育状況が一目でわかり、それを見て献立も考えられる。農作業と食、相互の充実がエコ意識を身近なところから外へ広げさせる。

「庭で育てたキュウリやナス、パプリカなどの採りたてを食べ、そのおいしさを知ると旬がわかります。蝶がきて、虫が出る。そうすると、自然に対して実感をもって接することができるようになるんです」

畑で土をいじりながら、自然を感じる生活。建物にそういった仕掛けを組み込んでおくことで、住む人のライフスタイルが変化していくと、平田さんは考えた。

また、畑と台所が連動することで、食物の循環が生まれる。1年中温暖な東京では、冬でも小松菜などを栽培できる。野菜くずを土に埋めて、肥料にすることもできる。畑の土は雨水を蓄え、都市の気温を下げるという効用もある。

さらに、自身のブログを通じ、畑仕事に関心がある人を募集し、エコアパートの畑でワークショップを開催。実際に一緒に庭をつくるなどして、自然に親しむ楽しさを人々に広げる活動をここを起点に行った。

平田さんがこのアパートで重要視するもうひとつのテーマは、アパートを中心とした地域のコミュニティづくりだ。

まず、住民同士が近い関係になれるように、畑の作物の成長や畑仕事をする互いの姿が見えるような位置に畑を配置した。すると、育てている作物の話から自然に会話が生まれるようになった。また、住民共有の畑もつくり、バジルなどのハーブやカキ、レモンなどを栽培。草刈りや収穫を通じて住民同士のコミュニケーションが深まるような工夫もした。

さらに、大量に採れるゴーヤやブドウの収穫時期には、地域の人にもそれらを配って歩く。そんなことから、近隣も含めた畑をめぐる人間関係が生まれているという。

「昔、下町の長屋とかで見られた、『おせっかいだけど温かいコミュニケーション』が理想なんです」平田さんは「共振」という言葉で、畑つきエコアパートがもつ効果の広がりを、期待を込めて語る。

part3を読む
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<2008年11月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第107号より>

畑つきアパートが提案するエコ意識とコミュニティ:平田裕之さんが語る、エコアパートという試み



畑つきのいっぷう変わった賃貸アパート「花園荘」が、東京都足立区にある。建設をコーディネート、プロデュースしたのは、環境NPOで長年活動してきた経験のある平田裕之さん。そこには、エコロジーな住宅の探求だけでなく、日本の環境問題や地域コミュニティへの提案が見える。平田さんに「畑つきエコアパート」誕生の経緯、その魅力について聞いた。


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2DKG。 日本初、新時代の長屋が誕生



平田裕之さんがこのアパート建築に携わることになったのは、2005年秋頃のこと。古い木造アパートの大家である平田さんの父親から、建て替えを相談されたのがきっかけだった。

それがなぜ、畑つきエコアパートになったのだろうか?

趣味のアウトドアから興味をもち、国内外の川や森を巡り歩いたことをベースに、10代の頃から「自然と人間の共存」を考えてきた平田さん。

環境NPOの活動でも、現在の生活様式の中で、身近にできる環境活動が大事だと思っていた。建て替えを機に、畑をつけ、都会の生活の中で無理なく、自然に触れられるアパートを作りたかったという。

「ビジネスとして見たら、なるべく安く建て替えをして、経済効率を優先した経営がよいのでしょうが、果たしてそれが正解なのかという疑問がありました。ですから、これを機にアパート自体がエコで、その上、住人が楽しんで自然を感じられるライフスタイルを提案したいと思ったんです」

そう思い立った平田さんの行動は、すばやかった。環境活動で得たネットワークから、設計士の山田貴宏さんと地元の大森工務店という力強いパートナーの協力を得て、約2年でエコアパートを完成させた。

「花園荘」は、室内に階段のある2階建ての間取りのメゾネット形式の4戸が、横に並ぶ。各戸の床面積は、上下階合わせて約15.7坪(52㎡)。17㎡の畑つき、2DKG(Gはgarden)の日本初の新時代の長屋、誕生である。

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このアパートには建物自体に、森を守るための、独特なメッセージが込められている。

「材料には、東京都多摩の木を43本使用しました。その土地の木材をその地で消費することで近隣の林業従事者に収益をもたらし、さらに外国の木の伐採を抑えられたらいいな」と、平田さんは話す。

また、極力省エネで暮らせるよう、太陽の熱を効率よく取り込む設計の工夫がされている。

「建物を日当たりの良い南向きにし、南に面した大きな窓や、せり出した庇で日差しを上手に調節しています。冬場は一度入った熱は壁の断熱材で逃がさないように、夏場は外部から熱が侵入しないようにしています。また、冬でも40度になる屋根の熱を室内に還元する新型のパッシブソーラーシステムを導入しました」

それらの効果もあって冬はどの部屋も室温は14度以上に保たれているそうだ。この夏も3軒はエアコンが必要なかったという。さらに、雨水の貯水タンクやゴーヤを生やした「緑のカーテン」など、自然の力を最大限に利用している。

<part2を読む>
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前編を読む

どんぐりの粉も私の食欲をそそらなかった。どんぐりは、ポリフェノールの一種であるタンニンを豊富に含むスーパーフードだ。ソフィーが教えてくれた食べ方では、まずローストし、それから、乳鉢と乳棒でどろどろになるまですりつぶす。ペースト状になったどんぐりをストッキングに入れて、流水にさらす。「それでもまだ苦味が残っているかも」。「それだけ手をかけてもまだ苦いの?」。そう泣き言を言った私は、便利な現代生活にすっかり甘やかされた怠惰な欧米人そのままだった。

ありがたいことに、ソフィーは野生食以外のものを一切認めない原理主義者ではなかった。「オリーブオイルやバター、塩を入れるのがポイントなの。きのこだって、味つけしなければたいしておいしくないのよ。炒め物や煮込み料理に使ってはじめて風味が引き立つきのこもあるし」。楽しそうに話しながら、ソフィーは薄暗い森へと進んでいく。

「おっと!こっちにもあったわ」。急いでソフィーのところに向かうと、菌床を傷めないようにマイタケを根元から切り取っているところだった——菌床を傷めないのは野生のきのこを採集するときの鉄則だ。マイタケはメロンほどの大きさで、4人分の料理2食分はありそうだ。おまけに、木の裏側に同じくらいのサイズのマイタケがもうひとつ見つかった。そのオークの木は、「森の雌鳥」の巣だったのだ。

次に私が叫び声をあげた。「私がみつけた最初のマイタケよ!」。マイタケはちょうど食べごろだった。成長しすぎると、水分が抜けてやわらかくするのに何時間もかかるのだ。

マイタケ

収穫はマイタケだけではなかった。ムラサキシメジに、ほのかな紫色をしたウラムラサキ。どちらもいい香りがする。

「キツネタケは、子どもたちのキノコ狩りにぴったりね。いい風味づけにもなるのよ」

だが、あいにく「ビーフステーキ」は見あたらなかった。英語でビーフステーキマッシュルームと呼ばれるカンゾウタケは、「見た目は赤くてぶあついタン(舌肉)のようで、木の枝から垂れさがって生えるのよ」とソフィーが教えてくれた。タンのように見えるキノコをいくつか見つけた私はにんまりとして指さしたが、ソフィーは「それは猛毒」と答えて肩をすくめた。

今年は、きのこの様子が例年とは違うようだ。その日はさらに、マイタケが二つ、傘の裏側に美しい光沢のある肉厚の立派なヒラタケも見つかった。おまけに通常なら9月末には姿を消している、イロガワリキイロハツまで。

ワイルドロケットとタンポポは サラダ、マイタケはリゾットに



家に戻る道すがら、一面にしげるローズマリーの何本かの小枝をちぎりとった。ローズヒップに、皮がしわしわになった野生リンゴ、ワイルドロケット、それにタンポポの葉っぱだって、立派なごちそうになのだ。

タンポポ

ワイルドロケットとタンポポの葉に、スーパーで買ったレタスとオーガニックのニンジンをあわせ、それに採集中に出会った、北ロンドンで八百屋を営む年配のギリシア人からもらった野生のクルミをくだいて混ぜた。ドレッシングは、レモン汁とオイルをベースに、少量のザクロジュースとシーソルトを少々。ディナーの完成までもう少しだ。マイタケは一部を小房にわけて、パルメザンチーズとパセリをかけた伝統的なスタイルのリゾットに。45分かけてゆっくり煮れば、鶏の胸肉のような歯ごたえになる。本物の鶏肉もほんの少し加えてみたが、マイタケの風味の足元にも及ばなかった。

実際のところ5食分になるほど大量のマイタケがあったので、採集仲間の一人を招待すると、別の市内の公園でとったというスモモの一種のスローベリーを漬けこんだリキュールを手土産に持って来てくれた。残ったマイタケは、後日、ローリエとタイムをきかせたオリーブオイルで素揚げにしたり、チリとガーリックで味つけをしたパスタにした。最後に残ったマイタケのかけらはバターで炒め、トーストにのせてたいらげた。

夫がお返しにと、シナモンとクローブを入れたレモン汁で煮て、カスタードクリームをからめたマルメロとリンゴのデザートをつくってくれた。どちらも、近所の木から熟して落ちたものだ。自然の恵みを存分に満喫した1日だった。

 (The Big Issue/Daemienne Sheehan)
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(2008年4月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 93号より)


野草は究極の地元素材。南ロンドンの公園で野生食ハンティング



高級レストランにひとり占めさせるなんてもったいない! 家の近所でみつかる自然の珍味を食べてみよう。それは地球に優しいライフスタイルでもある。ダミエンヌ・シーハンによる野生食体験記をロンドンからお届けする。


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ロンドンで都市の野生食者が急増中



それはまさしく運命の瞬間だった。地元のいきつけのパブにいると、いかにもカントリー・ガールといった風貌の美人がやって来て、南ロンドンの公園で2キロもの「森の雌鳥」(マイタケのこと)をみつけたとすっかり興奮した口ぶりで話したのだ。

その女性はソフィー・ターノイ。プロの野生食ハンターだ。彼女は、「オリーブオイルで揚げて食べるといい」と言って収穫の一部を気前よくわけてくれた。私は、採集に一緒に連れて行ってくれるようにソフィーに頼みこんだ。

大都会ロンドンの公園で野生の食物を採集し、なかでもベジタリアンにとっての上質のたんぱく源の一つといわれるマイタケをメインディッシュにして、まともな食事ができるか試してみようと思ったのだ。ソフィーは快諾してくれた。数日後、ナイフと採集バッグを携え、名前は明かせないが、誰もが知っているロンドンのとある公園に向かった。こうして私は、最近急増している都市の野生食愛好者にさっそく仲間入りすることになった。

ニューヨークでは、野草探索ツアーを主催し、ナチュラリストとして有名なスティーブ・ブリルが、数年前にセントラルパークでタンポポをつんで食べたところを公園管理局によって包囲されて逮捕されるという騒ぎを起こした。だが、幸いにも、証拠を食べてしまっていたおかげで、指紋を取られただけで釈放された。

タンポポ

英国では、公園で野草を食べたからといってそんなひどい目にあうことはないし、長距離空輸によって食物のビタミンやミネラルが失われるという報告がされて以来、最近では都市住民の間で地元産の果物や野菜への需要が急速に高まっている。自宅のそばの公園こそ、究極の「地元」といえるだろう。


ガーデニングの大敵ヒルガオは食べて退治




ヒルガオ
英国の若手人気シェフ、ジェイミー・オリバーの「フィフティーン」をはじめ高級レストランが次々と野生の食材をメニューに採用するようになったとはいえ、みずから採集におもむくとなると気後れする人が多いのが現状だろう。もったいない話だ。

ありがたいことに、法律では、海辺や歩道、乗馬道などの共有地や公有地から野生の植物を採集することを禁じていない。イラクサやタンポポ、ギシギシなど食用にできる植物も除去すべき雑草とみなされており、ヒルガオも例外ではない。ほうれん草に似たヒルガオをサラダやガーリックソテーにして食べてみるといい。ガーデニングの大敵であるヒルガオだが、おいしい退治方法としておすすめだ。

まずいという先入観も、野生食が敬遠される理由のひとつだろう。ごく普通のイギリス人家庭の食卓で、渋みや苦み、泥臭さがそれほど歓迎されるとは思えない。実際に秋咲きのタンポポの葉を食べてみたが、その苦味は強烈だった。肝臓を赤ちゃんのころのようにきれいしてくれようと、イボを取ってくれようと、どうでもいい。あわてて吐きだすと、口直しのミントを口にほうりこんだ。

<後編に続く>
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(THE BIG ISSUE JAPAN 第88号より)

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「世界政府」大統領?ネルソン・マンデラと南アフリカ



私たちはいつの日か国連とは別に世界政府を持つことになるかもしれない。その際、大きな争点となるのは「いったい誰が大統領になるべきか?」ということだ。もちろん世界政府の実現は現実的に困難極まりないものだが、選挙だけだったら今すぐにでもやってみることはできる。

実際、イギリスの公共放送局BBCは実験的な「国際選挙」を行い、その結果を05年9月に発表。初代世界政府大統領としてトップ当選を果たしたのは、南アフリカの前大統領ネルソン・マンデラだった(ビル・クリントン、ダライ・ラマ、ノーム・チョムスキーなどの名前がそのあとに続いている)。

しかし、なぜ世界政府大統領にマンデラが選出されるのか。今いちピンとこないという人も多いだろう。そこには世界と日本のあいだに認識のギャップがあるかもしれない。

事実、マンデラの世界的な名声にはすさまじいものがある。当時の米大統領ビル・クリントンや英首相トニー・ブレアも彼には最大級の賛辞を送り、電話一本かかってくれば最大限の協力を惜しまなかったという。本国南アフリカでも彼は神様のような尊敬を集めているし、それは過去の葛藤にもかかわらず、白人や黒人という人種の壁をも越えたものになっている。

マンデラがそのような名声を獲得した大きな理由のひとつには、アパルトヘイトの崩壊に伴なう新たな虐殺の回避がある。暴動と暗殺の頻発により収拾困難な状況に陥った南アフリカで彼は異例のテレビ出演を行った。それは現職の大統領に代わって、停戦と和解を全国民に呼びかけるメッセージだった。この行動がなければ南アフリカは更なる流血や内戦に見舞われていただろうといわれている。

26年の長きにわたる投獄生活から解放され、マンデラが世界に訴えたのは、復讐ではなく、赦しの偉大さだ。マンデラはアフリカのトランスカイ地方のテンブ人に生まれたが、子どものころから村の会議によく顔を出していた。結論が出るまでとことん話し合い、全員一致が基本となる村の会議で、彼は対話の術とその重要性を学んだ。そのときの経験、アフリカの智恵が役立ったのだ。この世界が彼を必要とする理由にこそ、未来への道筋を見い出すべきだろう。

(土田朋水)
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