BIG ISSUE ONLINE

カテゴリ: 特集

(2009年12月15日発売、ビッグイシュー日本版133号より転載)

一年中で最も空が澄み渡るこの季節、夜空を見上げて冬の星座を探してみよう。ちょっとしたコツさえ知っていれば、都市部に住む人だって星空を満喫できるのだ。星空観望をする際のポイントと、プラネタリウムの活用方法などを嘉数次人さん(大阪市立科学館)に聞いた。

続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加

(2010年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第134号より転載)

 

インタビュー前編はこちら

 

貧困に衝撃を受け
小学校付属果樹園のアイディア

砂漠の緑化、それはロマンとして語られてきた。高見さんも最初はそうだったという。でも、現場で苦闘するうちに、考えが変わってきた。「木を植えれば砂漠が砂漠でなくなるわけでも、砂漠化が止まるわけでもない」

続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加

(2010年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第134号より)

 

文明の前に森があり、文明のあとに砂漠が残る

中国でも環境問題に対する意識が高まり、現在、毎年の世界の植林の半分以上が中国で行われているという。1500年前、世界的な文明が栄え、今や砂漠化が深刻化する山西省大同の農村で、18年にわたって緑化活動を行ってきた「認定NPO法人 緑の地球ネットワーク」。彼らが現地の人々と協力しながら植えてきた木は、実に1770万本。それでも、大海の一滴だ。環境破壊と貧困の連鎖を断ち切ろうと、植林活動を続けてきた高見邦雄事務局長に、その活動の真髄を聞いた。

続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加


新しいことが知りたい時、ふとした疑問がわき上がった時、どうするか?

まわりの人に聞く? ググる?

図書館に行って調べたいと思っても、その膨大な蔵書を前にして途方に暮れてしまう。そんな時の道案内は、図書館で調べもののお手伝いをするレファレンス係。10年以上、大勢の人の調べものをサポートしてきた高田高史さんに、調べもののコツや図書館を使いこなす方法を聞いた。

続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加

(2009年10月15日発売、ビッグイシュー日本版129号より転載)


1982年に石川県白峰村から、1本の肉食恐竜の歯が見つかった。以降、北陸にまたがる手取層群(てとりそうぐん)は、日本一の「恐竜産地」となった。その地に誕生した福井県立恐竜博物館を訪ねた。


続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加

(2009年1月12日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 110号より)


日本の水源地・奥山を買い取る「日本熊森協会」:17年間の挑戦と未来へのメッセージ。

1992年、中学生の胸の痛みから始まった「日本熊森協会」と「奥山保全トラスト」の活動。17年の時を経て、その活動は奇跡的ともいえる広がりを見せている。兵庫県西宮市にある協会本部に、会長の森山まり子さんを訪ねた。

MG 5033加工2

クマを守るため立ち上がった中学生 県知事へ直訴、 兵庫県ツキノワグマ狩猟禁止令へ  

2008年9月、任意団体「日本熊森協会」の会員はついに2万人を超えた。日本で1万を超える会員をもつ自然保護団体は数えるほどだ。97年に会を立ち上げた同会の2万人会員という数字は、奇跡的でさえある。

「日本熊森協会」と聞くと、たいていの人はクマを守る団体だと思うにちがいない。実はそこに、深い意味が込められている。会長の森山まり子さんは言う。

「会の名前に熊の1字を入れたのは、クマの棲める森が、生物の多様性を誇る保水力抜群の最高に豊かな森であることがわかったからなんです」。実はクマを運動のシンボルにして、日本の水源地、奥山を守る運動を進めている団体なのだ。

では、そもそも森山さんたちは、なにゆえにクマの棲む森を残したいと思うようになったのだろうか?

その物語は、92年1月、兵庫県尼崎市立武庫東中学校で始まる。当時、森山さんは理科の教師をしていた。森山さんの授業「動物の世界」で、1人の女生徒が1枚の新聞記事に作文を添えて提出した。「ツキノワグマ、人間の環境破壊により絶滅寸前」という内容のそのニュースには、空腹のため冬眠できず、やせてガリガリのクマが人里に出てきて有害獣として射殺され、両側から笑顔のハンターに持ち上げられた写真が載っていた。

戦後の「拡大造林」という国策によって、スギやヒノキだけの針葉樹一辺倒の人工林になった奥山には、クマのエサとなるドングリなど実のなる樹木がなくなったのだ。その事実に衝撃を受けた中学生たちは「動物たちを山に返そう」と即、行動を起こした。4~5人ずつ集まってはグループをつくり、校内でクマを守る16の保護団体を立ち上げる。町内を回り、駅やスーパーの前に立ち、大人相手にひたすらクマの射殺を止める署名を集め続けた。そんな生徒たちに胸を熱くしながらも、森山さんは問わずにいられなかった。

「君ら、何でそこまでするんや」

男子生徒が答えた。「これクマだけの問題とは違うねん。今の自然破壊見てたら僕ら寿命まで生きられへんてはっきりわかる。僕ら寿命まで生き残りたいねん」。森山さんの胸に、今も生徒たちの言葉がつきささっている。

集まったたくさんの署名を持って、92年3月、グループ代表の16人の中学生が森山さんとともに県庁を訪れた。そこでは、「これからも兵庫県はスギ・ヒノキを植えていくんです」と反対に叱られただけだった。しかし、生徒たちはくじけなかった。逆に、「僕ら、ものすごく闘志がわいてきました」と使命感に燃えたという。

そして93年、兵庫県知事への直訴が成功、翌94年の全国植樹祭でも、いきすぎた人工林により、森の動物たちが生き残れなくなっていると訴える手紙を知事に書いた。その結果、スギを植える計画が広葉樹に切り替えられた。環境庁長官から「兵庫県のツキノワグマ狩猟禁止令」が発令された。

この時点で、生徒たちはすでに高校生になっていた。森山さんは生徒たちにできることはここまでだと考え、この後この問題を理科教師の名にかけて徹底的に調べようと、1人で全国各地の奥山を回ってみることにした。

滅びる美しい原生林、 私がやるしかないと森山さん決意

森山さんは、比叡山の高僧からこんな話を聞いた。

「昔は森の中は動物だらけだった。そして、動物たちのほとんどがいつでもエサを食べていた。自然の森では、毎年数%ぐらいの樹木が老いて倒れたり動物に枯らされたりする。で、1本の木が倒れると日光が入ってきて、土中で眠っていた種がうわ~っと発芽してくる。動物が食べても食べても毎日エサとなるものがわき出してくる。それが自然の森。ここも、広葉樹の森が残っていた当時は、クマどころか、サルもシカも、動物が里に出てくることなんてまずなかったですよ」

戦後の国策は、動物たちの命を育んでいたこのような自然林を皆伐し、スギやヒノキの人工林に変えてきた。森山さんは話す。

「苗木が小さい時はまだよくて、日光が当たるから間に草が生える。草にはバッタとか昆虫もいて、それもエサになって、動物はどうにか生きてこられたんですが、25年ぐらい前から、植えた苗木が大きくなって天を覆うようになって、クマが里に下りてくるようになったのです」

森山さんが初めて見た、奥地の放置人工林は、外から見ると整然と並ぶ青々としたスギの森なのに、一歩林内の中に入ると、真っ暗で林床に草1本、生えていなかった。生物の気配もなく、クマに限らず動物がとうてい棲める環境ではなくなっていた。

Kuraimori

反対に、クマの棲む原生林に入ると、「ブナやミズナラなどの落葉広葉樹から差し込む日光が林床を照らす明るい空間、まるで絵に描いたような美しい森」だった。そんな森で、植物と動物は密接な共生関係にあること、そして森から1年中コンコンと大量に湧き出す水を見つけて、森が日本人の暮らしや産業を支える水源地であることを肌で感じたと言う。

放置されて内部から崩壊している人工林に絶望し、点状に残された原生林を見て感動した森山さんは、日本の奥山を守らなければ、日本の水源地が消滅してしまうと考えた。行政に訴えたり、さまざまな研究会に出かけ研究者の話を聞いてもみたが、このような問題に取りくんでくれる人は見つからなかった。

「行政に失望し、次に研究者に失望し、最後は、どこかの自然保護団体に動いてもらうしかないと思いました」。森山さんはすがるように、自然保護団体に次々に連絡を取った。

まず声をかけたのは、会員3万人の本部がヨーロッパにある日本最大の自然保護団体。

「でも、返答は『うちは本部から指示されたアフリカ象とインドの虎の保護キャンペーンで手いっぱい。日本の森のことまで手が回らない』。どこに電話しても埒が明かず、友人が『絶対に動いてくれるのはあそこだけ』と言うので、会員が6千人の海外に本部を持つ世界的な自然保護団体に電話をしましたが、『本部からやれといわれている原子力問題で手いっぱい』という返事でした」

多忙な教職と自然保護活動の両立は不可能と思っていた森山さん。しかし、ついに、「奥山保全は誰もやってくれない。自分がやるしかない」と決意。97年、日本熊森協会を立ち上げたのだった。その時、すでに大学生になっていたかつての教え子たち数人が戻ってきて、最前列に立って活動を展開してくれた。

後編に続く


    このエントリーをはてなブックマークに追加

前編を読む

自宅でできる品種改良の方法



タネといえば、品種改良、メンデルの法則を思い出す人も多いだろう。

江戸時代、日本人が夢中になったのが朝顔の品種改良だ。変わり咲きの「変化朝顔」を競って咲かせた人々がいた。そんな「変化朝顔」をつくる暮らしにあこがれる藤田さんだが、すでに自宅のベランダは「変化朝顔」庭園と化している。

「朝顔の交配で、新しい品種をつくろうといろいろとやってみています。去年植えたのはプランターで5〜6個、鉢で20個。ベランダ中、朝顔だらけでしたよ。つれあいから、『ベランダで物干しができない』って文句を言われてます」

 交配はどのように? 「朝顔の花の真ん中にめしべがあって、その回りにおしべが5つあって、ほっとけばその花の中で自家受粉するんです。交配したいときは、朝、花が咲く前のつぼみを開いて、あらかじめおしべだけ取ってしまい、めしべに別の花のおしべの花粉をつける。すると、そのタネ(子ども)は両親の特徴が混じった花を咲かせます」

ところで、タネ屋で売られているタネは、完成された品種(F1)である。

「そのタネをまけば必ずその品種になります。が、その子どもは両親の性質を持ったさまざまなものが出てくる。だからおなじ品種を収穫したければ、F1のタネを買い続けなければならないんです」

自分の食べたフルーツのタネにも、同じことがいえる。

「食べたフルーツのタネを育てた場合も、十中八九、もとのフルーツよりはまずい。万に一つ、宝くじみたいなものですが、親よりおいしい実がなることもありますが。果樹の試験所の品種改良は日々そういうことをしているんですよ」

世界に誇れる日本の品種改良には、朝顔のほかに、稲や菊などがある。江戸時代には、タンポポも実はマニアックな日本人がつくった園芸品種もあったが、残念なことにそれはもう絶えたそうである。

アボカド、ブドウ、ビワ…。あのとき食った、あのタネが



藤田さんが1年前に植えたアボカドは、1年で人の背くらいに育った。

「アボカドは一気に伸びますね。一昨年まいたブドウ(巨峰)も、1メートルくらいになりました。ビワはすぐ芽が出ます。失敗があまりなく初心者におすすめです」

93_18-19ぶどう


ブドウ、アボカド、ビワは観葉植物として大きめの鉢植えにして、大きくなりすぎるようだったら剪定すればいい。

盆栽にして楽しむ方法もある。

「小さい鉢に植えておけば鉢相応の大きさに育ちます。ギンナンをまけばイチョウの盆栽に。サクランボやカキも盆栽にでき、サクランボはうまくすると桜の花が見られますよ」

果樹は時間がかかりそうで待てないというせっかちな人には、「家の台所をごそごそすれば出てきそうな、大豆やとうもろこしがおすすめ」。豆もやしや枝豆もできる。

自給自足に興味のある人には、「お米はいかがでしょう。玄米は芽の出る胚という部分が残っているので、発芽します。バケツに植えて『バケツ稲』にすれば、お茶碗いっぱいのお米ぐらいは採れます」

園芸店で買ったタネなら、必ず発芽する。食べたタネだと発芽の確率はかなり低くなる。しかし、どうせ捨てようと思っていたタネ。あまり期待せずに、「芽が出たら、うれしいな」というくらいの気持ちで始めるのがいい。お金もかからないし、自分が食ったタネなら、より愛着がある。あのとき食ったあのタネが!ということで」と、藤田さんは笑う。

しかも、「種まきは自由への一歩」なのだ。

「何でも買えば手に入る今の時代。買ってくるのではなくて、タネをまき自分で収穫して食べるという、ほんの部分的な自給自足の実践が、あらゆる世界から自分自身を自由にすることに結びつくような感じがします」

藤田さんに影響された友人も増えているそうだ。

「ひとつ芽が出ると、何でもまいてみたくなると言っていますね。一度、芽が出ると、これもこれもと。調子に乗って家中が緑でいっぱいになったら、誰かにあげていただければ」。

そう言って、藤田さんはもう一度にっこりと笑った。


(編集部)
写真提供:藤田雅矢
イラスト:Chise Park

ふじた・まさや
1961年、京都府生まれ。
京都大学農学部卒。農学博士。
某研究所に勤務し、植物の品種改良を行うかたわら、執筆活動を行う。第7回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。日本SF作家クラブ会員。著書に『つきとうば人』教方画劇、『星の綿毛』早川書房、『ひみつの植物』『まいにち植物』ともにWAVE出版、などがある。

    このエントリーをはてなブックマークに追加

前編を読む

残像、心のスペース、そして寄付、ボランティア活動も


一方、さんざん悩み思いをこめた贈り物のエピソードも。

Gさん(20代女性)は大失恋した友達を励ますため、彼女の家のポストに、読んでほしい本やリラックスできそうなお茶、バスソルトなど、小さなギフトを2ヵ月間、毎日入れ続けた。「今日で終わりじゃないんだよ、明日があるよ」ということを伝えたかった。もちろん彼女は徐々に元気を取り戻した。

Jさん(20代女性)は、長くつき合った彼氏と別れる時、感謝と憎しみを綴った長編大作の手紙を贈った。「今となっては、どうかシュレッダーにかけていてほしい」と願っている。

では、そんな贈り物とは一体何なのだろうか? 次のような答えたちが並んだ。

「贈られた人よりも、贈った人の心を豊かにしたり、満足させるもの」(40代女性)

「贈った人と贈られた人の共感または乖離感の指標」(50代男性)

「人に対する親愛の気持ちを形にしたもの。無形の贈り物があるとするなら、その最たるものは命、自然だろうと思う。寄付行為、ボランティア活動も大きな意味で贈り物」(50代男性)

「抽象的でよければ、殺し合っている人々に戦争のない世界を/忙しい人に、のんびりした時間を/おびえている人に、安心を/未来の人に豊かな森と生き物。具体的には、自分で見つけたおいしい酒を本当の酒好きの人に。自分で作った料理や釣った魚を、味のわかる人に贈りたい。手間を惜しまず走るご馳走です」(60代男性)

「その人のために、あけた自分の心の中のスペースを形や言葉にしたもの」(50代男性)

「あなたのことが大切ですよ、という結晶」(20代女性)

「残像。いつまでも残って、思い出せば、その時に戻れるもの」(30代男性)

「ほこほこフワフワした気分の交換かな。大事に思っているよ、ずーっとずっと大好きだよ、という気持ちをこめているから」(40代女性)

そして今、こんな贈り物を考えているのは、Kさん(60代女性)。

「高校時代からの親友と会うたびに『生前葬』と思って、ささやかなるちょっとしたものを贈りたい。たとえば、一緒に美術館に行けなかったら『絵はがき』とか、頂きものの『おすそわけ』とか、もらって負担にならないが、『私の心にあなたのスペースをあけているよ』と、伝えたい」

贈り物論をいきいきと語る男性に対して、実際の贈り物が上手なのは女性だろうか? 普段はクールな人も、近寄りがたい強面の人も、老いも若きも、贈り物については驚くほど、誠実で素直だった。

(香月真理子、中島さなえ、野村玲子、松岡理恵、稗田和博)
    このエントリーをはてなブックマークに追加

<2008年12月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第108号より>


贈り物。それは自発的に、他人に「自分の何か」を差し出す瞬間



人生をふりかえれば、誰にでもいつまでも心に残る贈り物があるのではないだろうか?
20〜60代の老若男女50人にアンケートをして、「忘れられない贈り物」を聞いた。
あなたにも心に残る贈り物はありますか?


33


贈り物の風景、そして原体験



「私の向かいに若いカップルが座っていました。電車はすいていました。男性が女性に紙袋を渡しました。女性はけげんな顔でそれを受け取り、袋をのぞき込んで息をのんだような表情をしました。そのうち彼女の眼から涙がほろほろこぼれて、私は目をそらし、でも気になって見ずにはいられませんでした。袋に入っていたのは、なにか画集のようなもののようで、会話の断片から高くて買えなかったというように聞こえました。男性は、照れてそっぽを向いていました」

Aさん(60代女性)が電車の中で見た風景。オー・ヘンリーの短編のようだ。

こんなにも感動的でなくても、アンケートの回答には贈った人、贈られた人の気持ちがあふれるエピソードが寄せられた。

まずは人生が始まったばかりの、子どもの頃の鮮明な贈り物の記憶。 「7歳の時。病気になった時、隣のタダシくんとおばちゃんが折ってくれた千羽鶴。千羽鶴を折るのは大変な労力です。子ども心ながら、単なるお見舞いの気持ちではできないことだと感動した」(40代女性)

「5歳くらいの時、クリスマスにサンタクロースにもらったウクレレ。ほんとにサンタクロースはいてた!という驚きとうれしい気持ち」(40代女性)

逆に初めて人に贈り物をした思い出が、「今思うと、人生初の『自発的に他人に自分の何かを差し出す』瞬間」と言うBさん(20代女性)。「小1の時、放課後、友達と遊んでいてルマンド(お菓子)をあげた。私が持ってきたルマンド5個に対し、集まった友人は私を含めて6人。身を切る思いで大好物のルマンドを最後の1人に差し出した」

人は物心つく頃から、心のこもった贈り物を喜び、一方で心を悩ましてきたのではないだろうか?

30年間、今も考え続けている贈り物のこと



そうして、人は大人になって日常的に贈り物を贈り合う。

1977(昭和52)年の冬のある日、金沢は豪雪だった。Bさん(60代男性)は公共交通機関が遮断される中、長い距離を家まで歩いた。帰宅したのは深夜。郵便受けを見ると、バレンタインチョコが入っていた。送り主の女性は、現在の妻。「車でも2時間はかかる私の家に、どうやってチョコを届けたのか。いまだに謎です」

バイトや職場を辞める時、同僚からもらった花束や寄せ書き。海外の旅先やホームステイ先で、気持ちのこもった手づくりの贈り物に思わず涙したという人もいた。30代、40代の女性は、結婚指輪やプロポーズの言葉をあげる人が多かった。

その他、「ぐっと大人になったような気がした洒落たジャズのCD」(20代男性)、「10代で入院した時にもらった尾崎豊の本に励まされた」(30代男性)など、それぞれの人生が浮かび上がるようなエピソードだ。

だが一方で、贈り物は、贈られた人の心に波紋を投げかけることもある。

Cさん(50代男性)が新宿のフーテン族だった若い頃、友人から贈られた誕生日プレゼントは『聖書』。「まともに生きろ」という意味なのかと考えさせられた。「なにしろ贈った友人も、まともに生きていなかったので、どういう意味だったのか、いまだに考えている」

Dさん(20代女性)は高校生の誕生日、家に新巻鮭が届いた。差出人は、元カレ。ギターしかとりえがなかった無職の旅人。別れてから数ヵ月消息を絶っていたが、伝票には北海道の羅臼と書いてあった。「ちゃんと仕事を見つけたって安心させたかったんだと思う。うれしかったけど、なんで羅臼だったの?」
 

「だいじょうぶ循環」という贈り物



反対に、形のない贈り物が心に残っている人も多い。

「久しぶりに会った人が、人前で思い切りハグしてくれました。こちらも会いたかったけれど、むこうの会いたかったという気持ちも伝わってきて、当分、幸せな気持ちでいられると思った」(40代女性)

「死にたくなるくらい気持ちがどん底だった時に、ある舞台俳優さんに力いっぱい頭を撫でてもらい元気をもらった。掌を通して温かさを感じた時、まるで生き返ったような気持ちだった」(20代女性)

「生演奏。歓迎パーティで、知ってる歌やら知らない歌やらをギターやウクレレで演奏してもらった。本当に楽しい気分で音楽ってすてき!って思った」(20代女性)

「『くたびれちゃった。もうダメかもしれない……』と言うと、友達が『だいじょうぶだよ、なんとかなるよ』と言ってくれる。『そっかなー、なんとかなるかなー』『なんとかなるよー』と言って笑い合う。心がやわらかくなってくる。それを私たちは『だいじょうぶ循環』と呼んでいる。そしてご飯を作って一緒に食べる。あんなことこんなことを話しながら食べているうちに笑顔になっている」(40代女性)

そして究極は、20代の女性、EさんとFさんがそれぞれ親友に贈った誕生日のサプライズパーティだ。

Eさんはウソの理由で呼び出し、自宅の自室を飾り「とにかくビックリさせてやりたかった!」と、親友が喜びそうなサプライズを部屋のあちこちに隠した。

「あの時の彼女が部屋に入ってきた瞬間目が点になってすぐの泣きそうな笑顔は、今でも思い出すたびにこっちが幸せになります」。Fさんは、「どこに行くか言わずに、いきなり船に乗せて、和歌山の友が島まで連れて行って、2人だけのサプライズパーティ。水着もサンダルもぜんぶ私が用意。驚かせると同時に、ステキな日にしてあげたかった」

20代の女性は個性的な贈り物が得意だ。

後編に続く
    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ