(2011年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第95号より)




LDは「違いを学ぶ」ことで、こえられる。


「Learning Disabilities」から「Learning Differences」へ





自身もLD・ADHD的な傾向があるという上野一彦さん(東京学芸大学教授)は、
40年にわたってLD・ADHD(学習障害・注意欠陥多動性障害)教育の必要性を主張してきた。
そんな上野さんに「LDとは何か?」、そして「LD教育の未来」を聞いた。





みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう





BA学芸大学j 104(上野一彦さん)


誰にだって苦手なことはある。地図が読めない。名前が覚えられない。魚を焼くと丸こげになるし、アイロンをかけるとどうしてもしわくちゃになる。政治や経済の話はちょっと苦手……という人もけっこういるだろう。

ここで覚えておいてほしいのは、その苦手意識の感覚だ。誰もが苦手なものと向きあう大変さは理解できるはずだし、共感もできるだろう。

問題は日常生活を送るうえで、そうした苦手意識が人から見て「かわいらしい」レベルで済んでしまう人と、そうではない人がいることだ。かわいらしいとか、個性的だね、で済んでしまうなら、本人もそんなにはつらくない。けれど、「みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう?」と悩んでしまうのはとてもつらいことだ。

多くのLD(学習障害)の人たちが経験してきたのも、またそういうつらさだった。

「人の名前を覚えられないとか、地図が読めないとか、色の使い方が変わっているとか、そういうのはそうそう目立たないですね。不器用の一言で済んじゃう場合もあるでしょう。でも単に不器用な人をLDとはいわない。LDはその不器用が『勉強面に関係する部分で起こってくる』ことをいう。そうすると学校なんかでは非常に目立ちます。勉強が苦手というのはけっこう重いことなんです」

そう言ってうなずくのは、東京学芸大学教授の上野一彦さん。LDと出会って40年以上、上野さんは全国各地をまわりながらLDをはじめとする発達障害への理解を広く求め続けてきた。




LDのおよそ80%がディスレクシア(読み書き障害)



ここで少し、LDという言葉について説明しておこう。もともとは英語で『Learning Disabilities』といい、LDはこれを略称したもの。日本語では「学習障害」と訳されることが多い。

上野さんによるとLDのタイプにも個人差があり、その傾向は千差万別。その困難の目立ち方にもいろいろある。基本的には、㈰読み、書き、計算に関する困難、そして、㈪話し言葉の困難。他にも㈫〜㈭などの困難を重複する場合もあるという。

1. 『読み、書き、計算がなかなかうまくいかない』
2. 『言葉の使い方、聞きとり方にかたよりがある』
3. 『友達同士のルールがわからない』
4. 『運動が苦手』
5. 『落ち着きがなく、その場に適した行動がとりにくい』など。

原因について詳しいことはまだわかっていないが、少なくとも「遺伝やしつけが原因ではない」と考えられていることについては触れておきたい。

また、LDの起こるしくみには、脳のネットワークに何らかのトラブルがあるためと考えられており、上野さんはそれを「歯車」にたとえて説明してくれた。

「時計の歯車や部品がぜんぶそろっているのに、進んだり、遅れたりすることってあるでしょう。LDのDは『ダメージ』じゃなくて『ディスアビリティ=動きがわるい』っていう意味なんです。だからLDの特徴は脳の全体がうまくいかないんじゃなくて、ある一部分がうまくいかないってことなんです。でも、それは誰もがそうじゃない? 同じように勉強してもすっと覚えられる人もいれば、そうでない人もいるでしょう」

では、どうしてLDの人の歯車がとりわけ目立ってしまうのか? これはさっき挙げた五つの特徴のうち、特に一つ目に注目することで理解の糸口がつかめるかもしれない。

例えば、多くのLDの人たちは文のつながりをうまく区切ることが苦手だ。もし「がっこうへいく」という文があったとしても、それを「がっこう・へ・いく」とは区切れずに「が・っ・こ・う・へ・い・く」と1字ずつ逐次読みしてしまう。

また「っ、ゃ、ょ」などの小さな文字をうまく発音できないために、文字を書く際にも正しく書くことが苦手になるという。

こうした「読み書き障害」については、欧米で『ディスレクシア』という言葉が古くから定着しており、LDのおよそ80%がこのディスレクシアであるともいわれてきた。

改めて確認するまでもなく、私たちの社会では読み書きのできることが「当たり前」とされている。そこでつまずいてしまえば、さまざまな可能性が閉ざされてしまうのも残念ながら今の現実といえるのだ。 そのもっとも典型的な例が、「学校」という場所だろう。もし読み書きが苦手だったなら、そもそも教科書やノートという道具自体がつまずきをもたらす。テストだってほとんどが筆記なのだ。




教育の鍵、それぞれの子の学び方で教える




「また、今の学校っていうのは横並びですからね。2年生の終わりにはみんな九九をできなきゃいけないでしょう。あるいは、九九はできるけど、他の計算がやたらにできない子だっています。そうやってことごとく勉強ができないと、非常に居心地がわるいし、人格が傷つけられることだってあります」

そこで上野さんは何度も強調する。LDの人は決して勉強ができないのではなくて、「できるのに時間がかかる」または「違うやり方が必要になるだけ」なのだと。

「学校なんかでは先生が一般的な教え方をしようとするでしょ。ところが、LDの子どものなかには暗算が弱くて指を使おうとする子もいるのです。指っていうのは、確かに使わないほうが発展性はあるんだけど、ゆっくり学ぶ必要のある子に『指を使っちゃいけない!』って言うと、もう頭の中はグチャグチャだし、自分の唯一のやり方をとられちゃうわけだ。『こんな簡単なこと、なんでできないの!』って責められたら、つらいですね。だから、指を使ってもいいよって。それから指を使わないやり方もゆっくり教えていく。子どもだって指を使わないほうがカッコいいと思えたら、そっちに移っていく可能性があるわけでしょう。『もし子どもたちが私たちの教えるやり方で学べないのであれば、その子の学び方で教えてごらん』って言葉があってね。それがこれからの教育の鍵なんですよ」

そうした周りの理解がどんどん広がっていけば、これまで閉じられていたLDの人たちの可能性もこれからはもっと社会に開かれていくはずだ。私たちはそのことを歴史上の有名人たちからも教えてもらうことができる。




後編に続く





うえの・かずひこ
1943年、東京生まれ。東京学芸大学教授、日本LD学会会長。日本にいち早くLDを紹介し、LD教育の必要性を主張。全国LD親の会、日本LD学会の設立にかかわる。著書『LD教授の贈り物』(講談社)では、みずからのLD・ADHD的傾向をエッセイに綴った。他にも、『LDのすべてがわかる本』講談社、『LDとディスレクシア』(講談社+α新書)など著書多数。