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前編を読む




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現時点でもすでに多くの魚が資源枯渇の危機を迎えている。そのために「資源が減っているものに関しては漁獲量を制限することもやむをえないでしょうね」と鈴木さんは語る。「資源を守るということが第一義に重要。魚は増やそうと思えば増えるんです」

その具体例として挙げられたのが秋田のハタハタだ。

秋田の特産品であるハタハタは、かつて箱一杯の量であっても庶民が気軽に買うことのできる魚だった。それが一時期から枯渇してしまい、絶滅寸前まで追い込まれる。そこで地元の人々が、平成4年から3年間の禁漁期間を置くなどして努力を重ねた結果、今では復活の兆しが見えるほどにハタハタの姿が回復してきた。鈴木さんの言う「魚は増やそうと思えば増える」とはそうした実例を受けてのことだ。




しかし、それなら漁獲制限や禁漁をどんどん進めていけばいい、という単純な話でもなく、漁業を生業としている人たちにとって、それは「食い扶持を減らせ」と言われるのに等しい。

「漁師は魚がいれば獲りますよ。そうでしょう?お金が落ちてたら拾うじゃないですか。それをやめろというのは無理ですよ」




必要な、魚との新しいつきあい



だからこそ今、それぞれの分野からの協力が求められている。

資源を守るために禁漁や漁獲制限を行うのは仕方がないかもしれない。けれど、そうして困ってしまう漁業を行政は支援することができるはずだし、私たち消費者も、魚の「本当の価値」を知ることによって、その対価をきちんと支払っていくことができるはずだ。

「ほら、あれがあるでしょう。無農薬・有機栽培のオーガニック食品。そういうものだと高くてもみんな買うでしょう。こだわりについては高くても買うっていう人がけっこういるんだ。魚は健康にいい、味もいい、季節性もある。いろんな良い点があるってことをよく消費者に知ってもらって、高くなりますけども買ったほうがいいですよ、と伝えていく。それで消費者がそういうのを買えば、魚を獲る量が少なくても、漁師の生活は楽になるんだ。100で100稼いでいたものを、50で100稼げればそれでいいわけだから」

そうした魚との新しいつき合い方が必要になるこれからの時代に、築地という場所が果たせる役割も大きいのかもしれない。





金目鯛




築地の場内で一般の人が魚を購入するのは残念ながら難しいが、その代わりここには「場外市場」という隣接する市場があって、そこでは誰もが魚を買い求めることができるのだ。スーパーでばかり魚を買うようになってしまった今の時代。ここ築地には、魚屋のなつかしい匂い、その道のプロから直接品物を買うことのできる安心感、心地よさが今でも残っている。旬の魚を聞くのもいい。料理の方法を教えてもらってもいい。魚の良さを再発見するには格好の場所だ。

「そういう対面販売ね。魚屋は古来からの良い文化だったんだけど、町からはなくなってきてるからなぁ。築地にはまだそういう対面販売の良さが生きてるよ。そういう場所をもっといろんな所でつくらなきゃいけないんだ」




これから魚を買いに行こうと思っている人たちへ、最後に鈴木さんからのお願いがある。

「健康に良くって、味が多様で、種類が多い。生でよし、煮てよし、焼いてよし、蒸してよし、干してよし。魚をうまく活用すれば食生活は非常に豊かになる。それが日本の食文化でもあるっていうことですよ。それを大切にしてもらいたい。しかし魚はいつまでも自由には食べられないから、貴重なたんぱく源として大切に扱ってもらいたい。そのための値段もお支払いしていただきたい。それが日本の漁業を守り、子々孫々の世界の魚を守ってゆくことになるんです」




(土田朋水)
Photos:高松英昭




すずき・けいいち
1936年、静岡県浜松市まれ。築地魚市場株式会社社長。59年、大洋漁業(現マルハ)に入社。北洋のカニ、サケマス漁船に乗船する。その後、大都魚類を経て現職。







(2007年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第79号より ※肩書きは当時)


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(2007年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第79号より ※肩書きは当時)





魚は日本の食文化、築地から考える魚の今



東京ドームの約5倍の広さを持つ日本最大の魚市場、築地魚市場では
1日約2100トン、17億円の魚介類が動く。
日本の輸入魚が増えたといっても、築地魚市場では国産魚が多いという。
社長の鈴木敬一さんに、築地から見た漁業、魚文化について聞いた。





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(鈴木敬一さん)




マグロの高級化、冷凍技術とともに



築地の朝は早い。

5時にはセリが始まって、7時にはもうプロの買い出し人たちがぞくぞくと集まってくる。場内は人、人、人の波になる。水に濡れた石畳の上をわが物顔の長靴たちが闊歩し、きらびやかに輝く魚を載せて、狭い道のあいだをターレットと呼ばれる乗り物がそれは器用にすれちがっていく。

無数の店が立ちならんだ、ここ仲卸エリアに立っていると、ともすれば迷子になりかねないような気がしてくる。それだけの広さがあるのだ。そのわりに入り組んだ道はかなり細いので、買いつけに来た人々とすれちがう時はうまく道をゆずりあって進まなければならない。ようやくのことで次の角を曲がってみると、今度は出合い頭に巨大なマグロと出合った。まな板の上に頭の部分だけがどかっと居座っている。

「煮なさるか 焼きなさるかと まぐろ売り」とは、江戸時代の川柳で、マグロを生で食べることがほとんどなかった時代に詠まれた句だ。たとえ生で食べることがあったとしても、そのころは赤身を醤油に漬けたヅケがもっぱらの定番。




鈴木さんがそのあたりの事情をこう説明してくれる。

「マグロが大衆化したのは昭和30年代の半ば以降だと思いますよ。戦前は鮮度が落ちやすいので生食は少なく、煮たり焼いたりして食べていた。昔は冷凍技術がなかったんだな。それで超低温という保存方法が考えられた。マイナス50〜60度で凍結して保存しておくと、マグロの品質は変わらない。それで遠洋マグロ漁が発達して海外からの輸入も増えたわけ。当時は世界でマグロを食べなかったし、それで日本の消費も増えていったんですね。これがマグロの普及した原因です」

まさに時代変われば魚も変わる。私たちと魚のつき合いは、そうした冷凍技術の進歩による大きな変化を受けてきたのだ。





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魚は増やせる。そのため、まず資源保護が必要



マグロの他にも、輸送方法、加工技術の発展によって世界中から輸入されるようになった魚介類について同じことがいえるかもしれない。いまや私たちはアフリカ産のティラピア、ナイルパーチを口にすることもあれば、ペルー産のアナゴ、モロッコ産のタコを食す日まである。

しかし、獲れる魚の量にはやはり限界があるわけで、それが今、世界中でわきおこる魚食ブーム、増え続ける人口の影響によって大きな問題となっている。鈴木さんはこう断言した。

「いいですか。魚が不足する時代はまちがいなく来ます。その最大の原因は生産量には限界があるにもかかわらず、消費が膨大になっていることです。僕は魚が世の中から消えてしまうことはないと思うけれども、40〜50年で大変な時代になると思う。そうすると魚が食べにくくなり、高価なものになるという時代は、割と近い将来に来るであろうということが予測されますよ」




後編へ続く


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(2007年7月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より ※肩書きは当時)




野生では見られない、野生動物の“凄さ”を伝えたい



2002年に約67万人だった入園者が06年には約304万人、
今や日本有数の入園者が訪れる旭山動物園。
園長の小菅正夫さんが語る、その人気の秘密と旭山動物園の哲学。






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(小菅正夫さん)




オランウータンの野性が20年のブランクを吹き飛ばしてしまった瞬間



「うわぁ!」
「すごい! すごい!」
 誰もがいっせいに空を見上げて、感嘆の声をあげる。びゅん、びゅんと、何ものかがものすごい速さで空を横切る。
「ペンギンって魚? それとも鳥だっけ?」
「鳥だよ。鳥」

 二人で仲良くやって来たカップルがそんな会話をしてるうち、ほらほらと指をさした先には、もうペンギンの姿が消えている。あまりの泳ぎっぷりに、こちらの眼も追いつかないせいだ。

「知らなかった。ペンギンってこんなに速く泳げるんだね」




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上空からはゆらゆらと日の光が差し込んでくる。この水中トンネルのなかに立っていると、自分は今、水のなかにいるのか、それとも宙に浮かんでいるのか、わからなくなってきてしまう。トンネルの足元が透明なせいもあるだろう。なにしろペンギンたちは、四方八方、水のなかを飛びまわっているのだ。

”君たち、ぼくたちがペタペタと歩いてる姿しか知らなかったんだろう?“

まるでそう言わんばかりに、1羽のペンギンがまたびゅんと、視界から姿を消していった。




「野生でも歩いているペンギンなんかを見たときにさ、ただヨチヨチ歩くだけでね、それでペンギンのすごさっていうのは感じないわけ。それが水の中に入ったとたんさ、ペンギンはああいうふうにして泳ぐために進化した鳥だというのがわかるでしょう?」

園長の小菅正夫さんはそう言って、ちょっと嬉しそうに胸を張った。

「そういうところをしっかり伝えるというのが動物園の役割で、逆にいえば野生では見られない。だけれど動物園でなら見えるという動物のすごさを伝えていくのがウチのやり方だと思ってるんですよ」




例えば、オランウータンのジャックが見せる「空中散歩」。

広島の動物園から引っ越してきたジャックは、もともと床の上で1日中ごろりとする生活を送っていたという。運動をすることもなかったので、体重はおよそ140キロあった。オスのオランウータンの平均がだいたい100キロぐらいなので、これはかなり太めといえる。

旭山動物園の「オランウータン舎」には、高さ17メートルの塔が2本立っていて、そのあいだに13メートルのロープが繋がれている。ここのオランウータンたちはエサを食べるために塔へ登っては、ロープを渡ってゆく。もし同じことを自分にやれと言われても、せいぜい塔によじ登った時点で気絶してしまうのが関の山だけれど、彼らオランウータンにとってみれば、これもなんてことはないという。ただ……

「いや正直ね、ぼくはジャックが来たとき、できないと思ってたよ。140キロだよ? 生まれて20年、高いところなんか登ったこともなくてね、床にずっと座っていてさ、あそこにいきなり登れるかといったってね」




小菅さんでさえ、最初はそんな心配をした。それでもある日、ジャックの方から行くといった。みんなの心配をよそに、ジャックが塔を登り始め、やがてロープを渡りきってしまったのだ。遺伝子に組み込まれた野性の力が、20年のブランクをも吹き飛ばしてしまう瞬間だった。




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初めての綱渡りのあとで、ピーナッツやぶどうを味わったジャック。それは彼にとってどんな味がしたのだろう?




後編へ続く


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前編を読む





冬の屋内で楽しむ“多肉植物の寄せ植え”は雑木林のミニチュア




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それでもやっぱり冬は苦手という人、都心に住んでいるので近くに自然がないという人もいるだろう。そんな人におすすめなのが、屋内でも育てられる寄せ植え。柳生さんはさまざまな種類の植物を一緒に植えて楽しむ寄せ植えをこれまで多数提案してきた。

中でも簡単に育てられることで初心者にイチオシなのが、多肉植物の寄せ植えだ。多肉植物とは、砂漠や高山など水分がほとんどない場所でも生きられるよう、根や茎などに水分を蓄える性質を持ったサボテンのような植物のこと。多肉植物の寄せ植えは、さまざまな種類の多肉植物の葉を混ぜて土の上に撒くだけでいい。

「僕はこれを“多肉のふりかけ”と呼んでいます。何もせず放っておけば、自然に芽を出し根を張りどんどん育っていく。2〜3週間で根と芽が出始め、徐々に大きくなって、1〜2年後には多肉植物の雑木林ができあがりますよ。水は数週間に一度あげるだけ。これほど簡単なものはないでしょう(笑)。八ヶ岳は寒いので温室に置いていますが、霜が降りない地域なら外で育てても大丈夫ですよ」


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無造作に撒いた多肉植物の葉から芽が出て、根がどんどん広がっていく。そのありさまはまさに雑木林のミニチュアといった感じ。


「ちゃんと花も咲きますし、紅葉もします。本物の雑木林では、たとえ側にあったとしても、根を見たり触ったりすることはできないでしょう。でも多肉植物ならそれができる。植物の営みを身近に感じることができるのは、まさに寄せ植えの魅力の一つですね」






柳生さんは、多肉植物以外にも、メダカが泳ぐ水辺の寄せ植えや鳥が好んで集まる実がなる寄せ植え、気軽に食べられる野菜を集めたミックスサラダガーデンなど、いろいろな寄せ植えを作ってきた。

「自分の興味あるところから、気楽に始めたらいいと思います。大切なのはモチベーション。それがなければ長続きしません。『一所懸命世話しているのに枯れてしまった』という相談を受けることがありますが、絶対にそんなことはない。植物はある日突然枯れるのではなく、だんだんに枯れていくもの。だからこそ、モチベーションが持続しそうな、自分の好きなものから始めてみることが大切なんですよ」





柳生さんの家にある夏みかんの枝には一部ネットがかかっている。虫好きな子どもたちが芋虫を観察できるようにするためだ。

「大人にとって夏みかんは収穫して食べるための木かもしれないけれど、子供たちにとっては大好きな芋虫が住んでいる場所です。それを観察することも園芸の一つ。草や花を植えるだけが園芸ではないと僕は思います。植物、鳥、昆虫、水辺の生物もすべてはつながっているんですよ」


雑木林にも、庭にも、植木鉢の中にも、かけがえのない命の営みがある。自然の中を散歩することも、屋内で植物を育てることも生命に触れること。だからそこに無上の喜びがあるのかもしれない。



 
(飯島裕子)
Photos:浅野一哉





柳生真吾(やぎゅう・しんご)
1968年東京都生まれ。玉川大学農学部卒。10歳のころからほぼ毎週八ヶ岳に通い、父の雑木林作りを手伝う。大学卒業後、生産農家「タナベナーセリー」での園芸修行を経て八ヶ岳へ移住し、雑木林を核としたギャラリー&レストラン「八ヶ岳倶楽部」を運営。2000年からはNHK『趣味の園芸』のメインキャスターを務めるほか、全国各地で講演活動なども行っている。著書に『柳生真吾の八ヶ岳だより』(NHK出版)、『柳生真吾の、家族の里山園芸』(講談社)、『男のガーデニング入門』(角川書店)などがある。










(2007年1月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第65号 [特集 冬、満喫—冬ごもりレシピ]より)





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冬の雑木林、命の神秘に出会い、春の訪れを想像する



東京から車で約3時間。八ヶ岳南麓大泉村にある「八ヶ岳倶楽部」に柳生真吾さんを訪ねた。晴れた日には八ヶ岳や富士山が間近に見えるここは、真吾さんの父で俳優の柳生博さんが約30年前、荒れ果てた人工林に手を入れ、雑木林に戻すところから始めたもの。今では四季折々の美しさを見せるこの雑木林に、ギャラリーとレストランを併設し一般に開放している。





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(柳生真吾さん)





冬の“スッピンの林”を知らないと、本当の林を知ったとは言えない



まずは柳生さんと一緒に雑木林を歩いてみることにした。葉が青々と生い茂る夏や、紅葉に彩られた秋の風情とは異なり、冬の雑木林は閑散として静まり返っている。





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「冬の雑木林は、枯れ木や枯れ草の集まりだと思ったらオオマチガイ(笑)。よく観てください。花の芽がここに出ているでしょう」と柳生さん。確かに枝をじっくり観察してみると、そこにはしっかりした突起が付いている。




「一つの枝には、花の芽と葉の芽の2種類の突起がついているはずです。それはレンゲツツジの芽。丸いほうが花の芽で、細長いのが葉になります。花や葉のつぼみは秋にはもうできあがっているんですよ。

そっちにあるグレムリンみたいな顔をしている芽はムシカリ。耳の部分が葉の芽で、顔の部分が花の芽です。毛を生やすことで寒さを防ぎ、外敵から身を守っている。どれも実に個性的で観ているだけで楽しいでしょう。落葉樹は葉っぱをすべて落として、小さな芽にすべての栄養を詰め込んで厳しい冬を越すんです」





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(ムシカリ)




冬の雑木林には、新しい命の芽がたくさん隠れている。「冬は、飾らない“スッピンの林”が見られるまたとない機会」だと柳生さんは言う。

「スッピンの林とつきあわないと、本当の林を知ったとは言えないと思うんです。葉がない分、林の骨格がはっきりとわかる。葉や花ではなく、木肌や芽を見ただけで、何の木かわかるようになると、冬の散歩もぐっとおもしろくなりますよ」





冬の雑木林を歩くことで命の神秘に遭遇し、春の訪れを想像する楽しみを味わうことができる……凍てつく冬も億劫がらず、屋外に一歩足を踏み入れることで、新しい発見があるに違いない。

真冬の「八ヶ岳倶楽部」は、最低気温がマイナス10度を下まわる日もあるという。

「そんな時はやっぱり外に出るのは辛いですよね。だから僕は自分なりに気持ちを高めることにしているんです。かっこいいダウンジャケットを着て、おしゃれな長靴を履いたりしてね……。道具とか形って結構大切なんですよ」





もう一つ、柳生さんにとって欠かせない道具がデジタルカメラだ。

「自然をじっくり観察するには、デジカメが一番。僕はよく写真を撮るんですが、カメラを持ってファインダーをのぞくと“何か探さなきゃ”という意識がムクムクと出てくる。“カメラの眼”になるから、同じものが違って見えてくるんですよ」

 寒い冬、だからこそ、デジカメ片手に屋外に出てみてはどうだろう。




後編へ続く




柳生真吾(やぎゅう・しんご)
1968年東京都生まれ。玉川大学農学部卒。10歳のころからほぼ毎週八ヶ岳に通い、父の雑木林作りを手伝う。大学卒業後、生産農家「タナベナーセリー」での園芸修行を経て八ヶ岳へ移住し、雑木林を核としたギャラリー&レストラン「八ヶ岳倶楽部」を運営。2000年からはNHK『趣味の園芸』のメインキャスターを務めるほか、全国各地で講演活動なども行っている。著書に『柳生真吾の八ヶ岳だより』(NHK出版)、『柳生真吾の、家族の里山園芸』(講談社)、『男のガーデニング入門』(角川書店)などがある。








(2007年1月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第65号 [特集 冬、満喫—冬ごもりレシピ]より)








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(2011年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第174号より「ともに生きよう!東日本 レポート10」)






大野更紗 「困っているひと」があふれる被災地と日本社会を語る



福島県出身の大野更紗さんの本、『困ってるひと』が売れている。
ビルマ難民の支援活動をしていた2008年、
筋膜炎脂肪織炎症候群という突然の難病で「医療難民」となり、闘病生活に突入。
次々に直面する医療や福祉の課題に体当たりし、その現実を描き続けた『困ってるひと』。
大野さんに本のこと、フクシマのこと、そして日本社会について、インタビューした。






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(大野更紗さん。都内で。)




私は「日本の辺境」、おもしろい本が書きたかった




研究留学先のタイから身体を引きずるようにして帰国、検査でさまざまな病院を渡り歩いた後に都内の大学病院に入院。福祉や医療制度の谷間に突き落とされる現実、社会保障制度の不十分さを体験した。通院治療する道を選び、退院後に体験の執筆を始めた大野更紗。きっかけは何だったのだろう。

「辺境作家の高野秀行さんにポプラ社の現在の担当編集者さんを紹介していただき、ウェブマガジン『ポプラビーチ』で連載を始めました。私はずっと高野秀行さんの読者で、06年に講演会をお願いしたことがありました。通院治療を決めて準備していた頃、ラジオから高野さんの声が偶然流れてきました。1時間、未確認生物や怪獣の話をしていて『高野さん、まだこんなバカみたいなことをしてるんだ』とうれしくなりました。友人や社会と断絶した大変な時でしたが、高野さんが私の状況を聞いたら『日本の辺境だ』とおもしろがってくれるかもと思って。『何か書きたいんですけど、どうやったら物書きになれますか』とメールを打つと、翌日、リュックを背負って病院に探検に来てくれました。『とりあえず書いてみて』と言われ、原稿を送ったら、『あ、いいね、おもしろいね。これでいこう』と」

出版界では「闘病記」分類に入る『困ってるひと』。だが内容は「闘病記」というより「ノンフィクション」と「小説」の間の新ジャンルを拓いた感がある。

「高野さんには『闘病記じゃなくて、なんかおもしろい本を書きたいんですよね』って話しました。日本社会って本音と建前がかい離して、被害者や患者は美談か悲劇の中にしかいなくて、グレーゾーンや細部を描き出すことが少ない。そこを、エンターテインメントとして成立させたいと思いました」




本当の苦しさ、危機。外部者や援助者が立ち去ったあとに



隔週月曜日、原稿がウェブにアップされた瞬間から、ツイッターやメールで読者コメントが押し寄せた。回を重ねるごとにその数は増した。

「『おもしろい』って言ってもらえるのが一番うれしかった。読者と一緒に書いたという思い。一体感とグルーヴ感。『私もずっとそう思っていた』というのが一番多く、患者さんだけでなく、看護師さん、介護士さん、中には少ないけれど医師もいました。湧き上がってきたものをワーッと書いて。倒れかかって救急外来にかけこみながら書いたこともありました」

病名もつかない、治療方法もわからない、病院も見つからない状況からの治療開始。死が身近にある闘病生活と、厳しく苦しい内容も実は多い。実際に書いている時は、どんなことを考えていたのだろう。

「書きながら気づきもありました。『ああ、私、難民化しているな』とか。すると読者も一緒に『こりゃ難民だ』って思ってくれて。でも、ビルマ難民の研究していたことがはからずも功を奏したというか、援助を受ける当事者になっていた自分をどこか客観視していました。書きながらそういうプロセスを経て、根幹を問うていった感じかもしれません」

「(死を考えるなど)劇的な瞬間は実はそんなに重要ではなくて。本当に苦しいことは、その後の長い長い時間。外部者や援助者が現れ、でもいつしか去っていく。去った後に本当の危機が始まります。その点で、私は場面の細部を丁寧に書いていくことには気を配りました。それが大事なことだと思っています」

細部といえば、登場人物のキャラクターは実に奇異(いや個性的)だ。医師をはじめ、登場人物全員が、ある意味「困ってるひと」だ。

「患者やメディアの問題点もあるけれど、医師はあがめられるか、悪魔の手先のように恨まれる相手として扱われがちです。医療を絶対視しても、臨床にはスーパードクターなんていない。医師と患者は非対称な関係で、症例がない難病では依存関係にも陥る。でも、医師は福祉のことや、患者がどんな困難に直面するのかを知らない。人間だから当たり前なんですけどね」




どんな「くじ」を引いても、最低限普通に生きられる社会を



東日本大震災で原発事故が起き、避難を転々とする「原発難民」が生まれている。行政のサポートも薄く、「困ってるひと」が大量発生しかけている。

「大震災をはじめ、貧困、障害、セクシャル・マイノリティ、エスニシティ、あらゆる社会問題があって、実は、みんなが困っている人。ところが、それぞれが断層化して『ムラ化』している。ラベリングされて、コミュニケーションが成立しない構造だったり、当事者同士が対立してパイの争いをしている。そんな中で言葉の使い手が協働して現実をつくることが問われている。書くことで、その閉塞感や断層を突き通したいという感じもありました。私は人生について『くじを引く』という表現をしていますが、人間は生まれてから死ぬまで、ずっと強者、あるいはずっと弱者ではない。ただ、一人の人がどのくじを引こうが、最低限普通に生きていける社会の方が、みんなが気持ちよく生活していけるのではないかと思っています。この本が『生きていれば、普通にいろんなことがあるよね』というフラットな議論の場になってくれたらという思いもありました」

彼女の原点の一つになったビルマのことは、次のように話す。

「ビルマに惹かれたのはアウンサン・スーチーさんのこともありましたね。彼女の思想はいろんな解釈の仕方がありますが、徹底した実践家でもあります。失望も悲観もせず、ただ実践を積み重ねる。大変だけど、でもそういう人が出てきて、ちょっとずつ変わっていく。社会がすぐ変わる正解のようなものはたぶんアブナくて、正義とか愛とか、ぱっと寄り添いたくなるようなことを言うのは簡単ですが、たぶん一番ヤバい。自分の生活者としての感覚を大事に、時間をかけて実践する。今、言葉が上滑りする状況が続いていますが、身体的な言葉、日常感覚に届く言葉を探しています」

故郷福島を含む東日本を襲った大震災をめぐる現状は、大野にはどう映って見えているのだろうか。

「情報の路線整理ができていない。どう対処したらいいかわからないけれど、当面はここで暮らすという状況。除染とか放射線防護とか、生活の中で具体的に対処するための情報が必要だと思う。メディアは震災直後から、原発や抽象的な悪を暴くことにわりと終始しているけれど、経過する時間の中で個々の命を守るための具体的な議論がなされないのが現実。センセーショナルに物事を美談として切り取ることを繰り返して、被災者が言葉を発せられる状態になっていないのは深刻です」

生活者として文章を書く。それが一歩一歩の実践だと言う大野。今も、この一瞬も、痛みと闘っている大野。大量の痛み止めも「役立たず」な中、文字通り身を削り取るように書く。一文字一文字がそんな身体の痛みから生み出されている。

「基本的に昏睡してるか、書いてるか、本や資料を読んでいるか。大変なんですけど、こんな人生もあるのかと、ちょっと自分で自分を笑うというか。すごく大変なくじを引いたんだけど、でも最近は大変だとか悲劇だとかは思わなくなりました。日本社会の奥底を歩く、毎日が旅のような感じですかね」(本文敬称略)




(藍原寛子)

福島市生まれ。ジャーナリスト。大野更紗さんとは、同じアジア研究プログラムの仲間。





大野更紗
福島県生まれ。作家。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程休学中。08年、自己免疫疾患系の難病を発病、都内で在宅通院により闘病生活を送る。
ブログ
ツイッター

「困っている人」はウェブ連載中から話題を集め、出版後は4万部を超す話題作。



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(2006年11月15日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第61号 特集「美しく戦う—抑圧と偏見を解く女たち」より)




誰もが幸せになる社会を目指して歩むことは私にとっての名誉




「難民鎖国」日本の中で、外国人の権利や平和問題を中心に
幅広く活躍する若き弁護士、土井香苗さん。
現在アメリカでの「ヒューマンライツ・ウォッチ」で研修中の土井さんに、電話インタビュー。






土井早苗
(土井香苗さん)





日本は1951年、難民条約に加入し、国連の難民援助機関UNHCRへは、アメリカにつぐ年間7640万ドル(91億円)の拠出国。にもかかわらず、89〜97年各年での難民認定者は1〜6名、98〜04年では10〜26名、05年は46名となっている。この数字は難民認定数(2002年)約2万8千のアメリカ、2万3千のドイツ、1万9千のイギリスに比べるべくもない低さであり、また難民を収容所などに拘束する率も一番高い。

このような「難民鎖国」日本で、日本にいる外国人の人権を守る数少ない弁護士として活躍、難民たちの希望となっているのが、土井香苗さんである。

土井さんは、大学3年のとき当時最年少で司法試験に合格。97年、援助される側の視点を手に入れたいと、NGOピースボートの一員として、30年にわたる独立戦争を戦って独立したアフリカのエリトリアに出向く。そして、エリトリア憲法策定のための調査員として1年間働いた。

98年に帰国。奇しくも、日本にエリトリア系難民が逃れてきていること、彼らが難民申請を拒絶されている現実を知り、日本の中で難民を弁護する道へ進もうと決意する。00年の弁護士登録後は、タリバン政権の迫害を逃れてきたアフガニスタン難民が東京入管に収容される「アフガニスタン一斉収容事件」(01年)や、先進国の中では前例のない、国連が難民と認めて保護を要請していた者を母国に送還するという「クルド難民の強制送還」(05年)、などで弁護にかかわってきた。そんな土井さんが目指す社会とは?
 



BI 東大法学部3年生の時、当時最年少で司法試験に合格し、注目を浴びた土井さんですが、そもそも弁護士になるきっかけは、何だったんですか?


土井 私は法律家志望で法学部に入ったというわけではないんです。母がとても厳しい人で、「女は資格がなければ生きていけない」と言われて育ちました。そんな母に言われるがまま法学部に入り、嫌々ながら司法試験の勉強を始めたんです。

私に転機が訪れたのは、大学2年の時。父と母の折り合いが悪く、耐えられなくなった私は、妹と一緒に家を出ました。生活費のためにアルバイトをしなくてはならず、勉強との両立に苦労しましたが、それまでになかった“自由”が手に入り、経験したことのない“幸せ”を感じたことを、今でもよく覚えています。

その後、NGOの「ピースボート」でボランティアを始め、いろいろな世界を知り、人権のために頑張っている素晴らしい弁護士の人たちに出会いました。そんな経験をする中で、「弁護士になりたい」と心から思うようになっていったんです。





BI 司法試験に合格した後、「ピースボート」で、アフリカのエリトリアでの法律策定のボランティアに参加されましたね。なぜエリトリアに行こうと思われたのですか?


土井 これは私の原点でもあるんですが、中高時代に犬養道子さんの『人間の大地』という本を読んで衝撃を受けたんです。以来、アフリカの飢餓や難民、南北格差の問題を実際にこの目で見てみたいと思ってきました。最初は難民キャンプに行くことを希望していたのですが、何の技術も持たない私には難しいことがわかり、法律の知識が生かせるエリトリアを勧められたんです。

当時エリトリアは、30年近く続いた独立戦争がようやく終結し、独立したばかりでした。

「新しい国を自分たちの手で作るぞ」という気概を持ったエリトリアの人たちと一緒に、刑法や民法などの法律を策定する作業を行いました。




BI その後、弁護士に登録なさってからは、在日外国人やアフガニスタン難民のための弁護活動など、人権問題に積極的に取り組んでいらっしゃいますね。

土井 南北問題や難民への興味からアフリカへ行きましたが、日本に帰ってきて愕然としました。日本政府はアフガニスタン難民の受け入れを拒否し、彼らを収容し、強制送還している……アフリカでなくて、こんな身近なところにも難民問題があったんですね。世界中にアフガニスタン難民がいますが、日本の扱いはあまりにもひどい。強制収容所に閉じ込めて、いつ解放されるかもまったく分からない。絶望の中、自殺未遂をする難民が後を絶ちませんでした。そんな状況をとにかく何とかしたかったんです。




BI 在日外国人やアフガニスタン難民など、弱い立場の人を助けることは素晴らしいことだと思いますが、その分苦労も多いのではありませんか?

土井 確かに企業の弁護を引き受けることと比較すれば、経済的にも恵まれないでしょうし、検事や裁判官のように出世して政府の中で地位を得るということもないでしょう。

でも私にとっては、弱い立場におかれている人の権利や尊厳を守ることによって得られる喜びのほうが、お金や地位に勝るのです。もっとも弱い人の立場に立って、国や法務大臣が相手であっても裁判を挑む。正義があれば、勝利することもあります。誰でも幸せになれる社会を目指して闘うことのほうがずっとかっこいいし、私にとって名誉なことだと思うんですよ。




BI 現在、土井さんが研修を受けているNGO「ヒューマンライツ・ウォッチ」について教えてください。

土井 「ヒューマンライツ・ウォッチ」は、世界中に職員を配置し、その人権状況を監視、公表している国際的なNGOです。メンバーには法律家も多く、これまでに地雷禁止キャンペーンの一員としてノーベル平和賞受賞したほか、武力紛争への子供の関与に関する子どもの権利条約の選択議定書や旧ユーゴスラビア国際刑事法廷の実現に寄与しています。

こちらに来てまだ二ヶ月足らずですが、それでも毎日が新鮮な驚きでいっぱいです。私が研修を受けているアメリカの「ヒューマンライツ・ウォッチ」の本部は、ニューヨークのど真ん中、エンパイヤステートビルの中にあります。政府からの助成金などは一切ありませんが、それでも昨年度の収入は約47億円、常勤職員が約200人という規模の組織です。アメリカの市民社会の大きさと層の厚さには本当に驚かされます。人権のために積極的に活動することが、個人、政府、企業から見ても、とてもすばらしいこととして高く評価されているのを感じますね。

私はアジア地域を中心に、人権が守られているかどうかをモニターする部門で研修しています。特にヒューマンライツ・ウォッチが力を入れている国に、重大な人権侵害が行われているビルマやアフガニスタン、北朝鮮などがありますが、日本もモニターの対象です。 例えば、先日、宮崎県の都城市で、「性別または性的指向にかかわらず」人権を尊重すると記されていた条例から、この文言を削除する条例案が提案されたことに対して、「ヒューマンライツ・ウォッチ」として抗議し、市長、議員宛にレターを送りました。日本ではほとんど報道されなかったことですが、こうしたLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスセクシュアル)の権利は米国で大きな注目を浴びている問題なのです。




BI 「ヒューマンライツ・ウォッチ」での活動はあと1年ほどあるそうですが、帰国後、弁護士としてやっていきたいことはありますか? 

土井 日本で難民や移民の問題に取り組んで来ましたが、それだけではなく、その根っこにある南北格差や民族差別などを解決することの必要を感じるようになりました。日本の法律家として、世界の不公正や人権の侵害を止め、すべての人々が尊厳を持って生きることができる社会にするために貢献する必要があると考えるに至ったのです。

そこで立ち上げたのが、「ヒューマンライツ・ナウ」。「地球上のすべてのひとたちのかけがえのない人権を守るために」をメッセージに、世界中のすべての人がヒューマンライツを享受できる社会を実現させることが目標です。国連とカンボジア政府の合意に基づいて設置された「クメール・ルージュ特別法廷」で被害者の参加を求める意見書を提出するなど、すでに活動を始めています。




BI 「人権問題」に対して、弁護士ではない私たち一般人ができることはあるのでしょうか?

土井 弁護士などの資格がなくても、人権を守るために活動することはできます。NGOでボランティアをしてみること、NGOに寄付するだけでもいいんです。あるいはフェアトレードの品物を買う、第三世界を旅し、そこで見たことを人に話すとか……。

日本では「人権」と言うと過剰な権利の要求をイメージされ敬遠されがちですが、「人権」はもっと身近なものなんです。「人権」は、人間が幸せに生きていく上でかけがえのないものであり、「人権」を守るための活動はかっこいいことなんだと、一人でも多くの人に伝えていくことも、私の仕事だと思っているんですよ。

(飯島裕子)







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法律の保護は、すべてを捨てて逃げる人だけに 大決心が求められる被害女性



「みずら」(NPO かながわ女のスペースみずら)はドメスティック・バイオレンス(DV)の被害者などを一時的に保護するシェルターなど、被害女性の自立支援の活動を17年間続けてきた。事務局長の阿部裕子さんに、DV被害者の現状を聞く。

シェルター利用の7割がDVの被害者


洗面所2

「みずら」は、現在、夫などからの暴力、経済的困窮などさまざまな理由で行き場を失った女性や母子のためのシェルター(一時保護施設)を4ヶ所運営していて、神奈川県と協力しながらDV被害者の自立支援を行っている。事務局長の阿部裕子さんによれば、昨年1年間にシェルターを利用した205ケース、延べ399人のうち7割がDVの被害者だった。年齢層は10代から70代まで幅広い。

DV被害者には、10代で優しくしてくれた年上の男性と結婚するも同居後、相手の態度が豹変したという若い女性もいれば、出産直後、子育てに没頭するなかで暴力が始まったというケースもある。長年、夫からの暴力はどうにもならないものとして耐え、刃物を持って襲われたときに初めて、「普通ではない」と感じて逃げ出したという女性もいる。

一般にDVには、殴る、蹴る、物を投げるといった身体的暴力以外にも、罵り、蔑み、罵倒、脅しなどの精神的暴力、レイプまがいのセックスなど性的暴力といったさまざまな暴力が含まれる。みずらのシェルター利用者もまた、複合的な暴力の被害に遭っているという。

嫉妬妄想に陥った夫が、浮気をしていると決めつけて妻を拘束したり、経済的にしめつけながら“誰に食わせてもらっているんだ”という言葉を繰り返し長期間にわたってあびせ、妻の行動をコントロールしているケースもあります。痣や骨折など身体的な暴力の痕跡が見られなくても、DV被害者の多くは精神的に相当まいっています。


シェルターの一番の目的は、安心と安全の提供だ。具体的な支援としては、その上で、あくまでも本人の自己決定と自立を援助すること、と阿部さんは言う。

まず、DVの被害者には、ここにいれば見つかりません、ゆっくり休んでくださいとお伝えします。最初、身体はどこも悪くないと言っていても、3、4日経って緊張が解けると、殴られたところがあちこち痛くなるという方が多いんです。物音がするたびに動悸がしたり、専門医からPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断される方もいます。『みずら』では、それぞれの利用者に必要な治療につなげながら、本人の意向を探りつつ、生活保護の申請や離婚手続きのための弁護士や法律扶助協会についての情報を提供しています。




 

「暴力から逃げたいので保護を」と助けは明確に



DV被害者の女性が、切羽詰まるまで暴力から逃れられないのは、加害男性から逃げることへの脅しがかけられていることもあるが、そのほかの事情を阿部さんはこう説明する。

電話相談などで、何かあったら相談に行っていいですか、とおっしゃる女性がいます。何かあったらというのは今度、夫さんがキレてひどい暴力をふるったら、ということだそうです。そんなに精神的緊張を強いられているなら、何もないうちに堂々と出たらどうですか、情報提供しますから、とお話するんですが、加害者は自分が選んだ人だし、自らも家族を形成することに大きなエネルギーを費やし、地域社会で生活基盤を築いてきておられる。今のDV防止法は『被害者が生活基盤を捨てて逃げるなら保護する』という内容ですから、家を出るために一大決心をしなければならないのです。


また、加害男性の多くは、暴力の合間に、悪かったと謝ったり、優しい態度をとったりすることもあるため、被害者の女性が、「私には本音をさらけ出してくれている」「私は必要とされている」と思いこみ、暴力を愛情と勘違いしてしまうこともある。

過去に、いったんはシェルターに逃げ込みながら、夫の元に戻ることを選択して、その夫から殺害された女性もいる。また、相対的に女性の賃金が低いだけでなく、「繰り返し罵られることで、自己評価が低くなり、自分一人で子供を育てていくことに自信が持てず、奴隷のような精神状態になっている」こともある。

では、「一大決心」をして家を出ることになったら。
大切なもの、子供たちの写真など“替えのきかないかさばらないもの”と通帳、保険証、母子手帳、当面の着替えを信頼できる人にこっそり預かってもらうと安心です。また、夜間や休日など行政の窓口が開いていない場合に警察に相談するときは、漠然と助けてと言うのではなく、暴力の被害を受けていて逃げたいから保護してほしい、と明確に伝えることが必要です。


理解しておいた方がよいのは、加害者となる男性像は一律ではないということ。

社会的地位の高いといわれる人たち、裁判官や医師、国家公務員、警察官もいます。共通しているのは、彼らが暴力によって妻を屈服させようとしていること、無意識に暴力をふるっているわけではなく、妻への暴力を選択していることです。いくらイライラしても、会社で上司を同じように殴るわけではないでしょう。


かえって、外では、いい人、いい夫を演じていることが多い。そのため、DV被害を相談された友人や親族が、不用意に夫との間に入るべきではない、と阿部さんは強調する。

なだめるつもりで友人や親族が介入することは加害者を刺激し、人に知られたくないことをしゃべった妻への怒りを喚起します。ですから、DV被害を知ったら、知人や親族は、まず被害者に対して“大変だね、よくがまんしたね”という、つらさやしんどさへの共感と聞く耳を持ち、本人の希望を聞きながら、専門の相談窓口につなげてください。


DV防止法が成立し、改正法が施行されてなお、パートナーの暴力によって家や居場所を失った女性と子供が経済的にも精神的にも安心して安定した生活を送れる環境はいまだ整っていない。また、直面する現実の厳しさにも大きな変化はないという。

(清水直子)


「みずら」(特定非営利法人 かながわ女のスペース みずら/福原啓子代表)

1990年、女性が直面する問題の解決と自己決定を支援する任意団体として発足、2000年に特定非営利法人取得。電話、来所、同行による国籍、テーマを問わない相談活動(労働組合である、女のユニオン・かながわを併設)、シェルターの運営、学習会や研修活動を行う。

★みずら相談室
TEL045・451・0740
(月〜金14時〜17時・19時〜21時/土14時〜17時)※祝祭日はお休み。

★女性への暴力相談[週末ホットライン]TEL045・451・0740
(土・日・祝日の金17時〜21時)

http://www.mizura.jp/



 

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(2006年8月15日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第55号 特集「愛と暴力の狭間で—D.V.(ドメスティック・バイオレンス)からの出口はある」より)






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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

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(2006年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第52号より)






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怒りは希望にも絶望にもなる、自分らしく怒り生きる力を身につける



人間にとって「怒り」とは何か? なぜ、怒ることが必要なのか? 
辛口のコメントでも有名な辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)が、
社会に対して怒ることの意味、新しい怒り方を語る。
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