(2011年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第175号より)
時とともに記憶が薄れていくことは、人が生きる上での知恵ではあるが、記憶の中には薄れさせてはいけないものもある。10年前の9月11日の事件はその一つだ。ニューヨークの世界貿易センタービルにジェット2機が突っ込み建物は壊滅した。さらに1機はペンタゴンに突っ込み、1機は原発を狙ったといわれている。これは機内で乗っ取り犯と格闘の末、途中落下した。本当に原発に向かっていたのか? さまざまな情報が飛び交い真相は見えない。それはともかく、3000人を超える死者の一人ひとりの悲劇を私たちは忘れてはいけない。
福島原発事故は言うまでもない。9月11日はこの事故から半年にあたる。事故はまだ収束していない。原子炉を継続して冷却するために循環冷却注水システムが増設されて何とかしのいでいる状態だが、溶けた燃料が十分に冷えているとはいえない状態だ。放射能は環境へ出続けているので、原子炉建屋をすっぽりカバーするための工事が1号機から始まっている。現場を伝えるフクイチライブカメラは遅々として進まない工事の様子を映し出している。これでは4号機までカバーし終わるのに、とても半年では無理のようだ。
爆発で飛散した放射能は、折からの雪や雨とともに降り注ぎ、大地を汚染した。放出された放射性セシウムの量は広島原爆の168倍と評価されている。どちらも推定値の比較だが、いかに多くの放射能が福島から放出されたことか。この影響は少なくとも数十年にわたって続いていくことになる。だが、汚染地に暮らさざるを得ない人々が多い。彼らは放射能の影響を心配して、全国へ訴えながら、行政へ働きかけたり、食品の放射能測定をすすめて、何とか子どもたちを守ろうと必死の思いだ。一方で、他県の人々からの冷たい差別的な視線を感じて「もう騒がないでほしい」といった悲痛な声も漏れてくる。
放射能は確かに危険だが、人から人へうつるわけではない。流布している誤解が過剰な反応を招いている。悲しいことだ。
福島原発問題はまだまだ続くが、あきらめずに途を切り開いていこう。
伴 英幸(ばん・ひでゆき)
1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)