Genpatsu

(2011年12月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第180号より)




福島第一原発の敷地内が11月12日に初めて報道陣に公開された。マスコミ各社は多数の写真を載せて報じた。爆発した建屋のうちカバーで覆われていない3号機と4号機は無残な姿をさらしていた。東電が公開している、ふくいちライブカメラでは見えないアングルのショットに、改めて爆発のすさまじさが伝わってくる。

原子炉の上部に設置されている使用済み核燃料プールが健全だったといわれているが、建屋下部の壁も吹き飛び、中がめちゃくちゃに壊れている様子からは、にわかに信じられない。東電はこれらの廃炉を決めたが、どう修理しても二度と使えるとはとても思えない。

事故処理に毎日3000人が従事しているという。だが、写真からは8ヵ月たってもなかなか作業が進んでいないことがうかがえる。廃炉に30年以上かかることも納得できる。高い放射線の影響で作業がはかどらないのだ。

記者たちはバスから降りることなくシャッターを切りまくった。完全防護服は放射能を吸い込まないようにするのには役立つが、飛んでくる放射線を防ぐことはできない。わずか3時間程度の滞在で、記者たちの被曝線量は75マイクロシーベルトに達したと報じられている。記者の被曝も高いが、作業員はどれほどだろうか。1日の作業時間は4時間ほどと聞くが、作業時間外の被曝はカウントされていないので、記録された線量よりも高いことは確実だ。将来の影響が心配される。

爆発で広範囲に広がった放射能は調査が進むにつれ、予想をはるかに超えて広がっていることが見えてきた。文部科学省が公開している地図は北アルプス山麓に点々と広がる汚染の高いエリアを映し出している。国際原子力機関は無駄だといったが、政府は改めて年間の被曝線量が1ミリシーベルトを超えるエリアを除染すると発表した。この姿勢を歓迎したい。

事故処理の陣頭指揮をとっている吉田昌郎所長はインタビューに答えて、もうダメかと観念したことが3度あったという。この時私たちの命も危機にさらされていたことになる。しかし、命の危機は回避できたことに素直に安堵できない。放射能汚染からは逃れられないからだ。





伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)