(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)






P17 アサザの大群落

(アサザの大群落)






百花繚乱、流域全体に広がるプロジェクト




さて、驚くなかれ、アサザプロジェクトの主役は流域170をこえる小学校の小学生である。総合学習の一環として、子供たちがアサザの里親になり、アサザの種を株になるまで育て、湖に入って植え付けを行う。また、自然護岸が残っていた頃の霞ヶ浦の植生を再現すべく、お年寄りからの聞き取り調査をし、その成果を生かし、学校のビオトープでオニバス、ヨシ、マコモ、ガマ、ショウブなどの100種類もの水草を育てて湖に供給する。子供たちがアサザプロジェクトの大元を支えているのだ。


P17 ビオトープを学校に



これにとどまらず、子供たちの参加によるNECの地域の環境情報収集システムや、人工衛星を使った衛星画像を利用した自然再生・地域再生のための活動も始まった。また、アサザプロジェクトが飛び火し、秋田の八郎湖流域の小学校でも、3年前からアサザ基金との交流を深め、同様のプロジェクトを始め成果をあげている。

アサザ基金がアイディアを出し、霞ヶ浦に流入する河川の一つ、山王川では、石岡市が三面コンクリート張りの川の中に自然を回復する試みとして、石材組合から廃石材を得て川底に敷き、ヨシを植えている。




流域の地場産業との連携もめざましい。粗朶消波堤の設置のために、地元の森林組合と連携して霞ヶ浦粗朶組合をつくり、組合が粗朶の材料となる間伐材を供給している。これには建設省(当時)からの予算がつき、林業者の生業になることで、停滞していた森林組合の活動も復活した。一般ボランティアが参加する”一日きこり“の活動も生まれ、間伐が森林の再生に役立つとともに、人々が自然と触れ合う場もつくりだしている。

霞ヶ浦の在来魚の保護が”のっこみランド“で行われているが、漁業者と連携して外来魚の駆除も行われている。捕獲された外来魚を魚粉(肥料)にし有機農業で菜の花などを育てる。外来魚の水揚げは漁業者の生業になるとともに、菜の花からは食用油を作り地元の給食センターに供給、その廃油はバイオディーゼル燃料として活用し、鹿島鉄道を走らせることが目標だ。最終的にはCO2の削減にも役立つ。また、すでに魚粉を堆肥に使った野菜が地元のスーパーや生協で販売されている。



P17 野菜の肥料




さらに、霞ヶ浦の源流の里山にある谷津田の保全を兼ねた、湧き水利用の酒米づくりには企業(NEC)が参加し、酒づくりには地元の酒造メーカーが参加してブランド化を目指すなど、霞ヶ浦流域で展開する環境改善プロジェクトは枚挙にいとまがない。




小さなもの、無力なものが大きなものと闘える





このような壮大なアサザプロジェクトのとば口を開いた飯島さんとは、どんな人物なのだろうか? もともと植物や昆虫が好きな少年ではあったが、中学の時に水俣病の現実を知ったことが、その後の飯島さんの生き方を決定づけたという。

「水俣病ですね。あの時、不知火海の”生きもの“たちがおかしいという異変に漁師さんたちは気がついた。けれど、チッソも、国や厚生省、東大の研究者たちもそれを認めなかった。地元の人たちの直感に基づく訴えに耳を傾けませんでした。科学者のいうところの科学知と漁師さんの生活知が対等じゃなかったんです」

普通なら、公害をなくすために研究者を目指そうとするだろうが、飯島さんは違った。「あれだけひどい公害に誰も何もできないことが、おかしいと思ったんです。それが強烈に脳裏に焼きついている。権威から離れていても、世の中を変えられる人間になりたいと思ったんです。あの漁師のような立場、無力な立場でものを言い、問題を解決し社会を変えていくことに挑戦したかった。ばかばかしいほど小さなもの、無力なものが大きなものに対抗できるということを証明したかったんです」

飯島さんは、いったんは高校進学もやめようと思ったが、敬愛する祖母の願いで高校にだけは進学する。祖母が話してくれた白樺派やガンジーの影響も受けた。英国植民地下のインドで政府の塩の専売に反対し、海岸を目指し320㎞を歩いたガンジーの「塩のサティーヤグラハ(不服従)」。この塩の行進がきっかけでインドは独立を果す。「日常生活の中の、ただの塩。そこからまったく違う意味が生み出されていく」ことに感銘を受けたという。「それは、アサザも同じなんです」と飯島さんは言葉を継ぐ。

高校生の頃には、社会全体が敵だとも思いつめていた。そして一人で闘うためには、表現力が必要だとも感じていた。「ガンジーとか、ソ連の反体制のチェリスト、ロストロポービッチ、ソルジェニツィンも表現するものを持っていたから、それを表現し続けることによって闘い続けることができた。表現する力があれば、どんなに大きな力に対しても、対等に闘うことができる。今でも、表現だと思いますよ。チラシ一つにもキャッチコピーをきちんとつけていくとか、一つひとつの言葉がすごく大事。言葉がすべてを変えてしまいます」




僕は主体ではない。一つの”場“なんです。



飯島さんは自分の中に自然に対するとぎすまされた神経を保持する状態を”ある状態“と呼び、意識的に維持しようとしてきたと言う。知識を詰め込むのではなく、細い糸を紡ぐように、心の中の”ある状態“を壊されないように守ってきたのだと。そんな飯島さんの中から、力のある言葉や具体的な戦略が生まれてくる。

「不思議なもので、そのつど自分が惹かれたものにとことんこだわり、その中身を探っていくと、その中で自然に何かがつながり、ぽこぽこ言葉が出てきます。ある間隔をおいて、熟して実がなるように、自分の中で総合化されていく。このアサザプロジェクトは、実は僕の中の総合化のプロセスそのものなのですよ。たどっていくと、僕がそのとき考えていたことと、社会の中で事業化していくことが、ほとんど全部一致している。だから、お前一人でやっているんだろうといわれるかもしれないけれど、実はそうじゃない。僕自身は一つの場なんです。主体でも何でもない。場として開いている。いろんなものが出会って何かが起きる場なんです。たぶん一人ひとり誰でもそうなんです。誰でもできるけれど、誰もそのようにしないんですよ。自分の殻をつくって、自分というものを枠の中で見せようとするだけで。でも、実際、人間というのは場なんです。いろんな人とのつながりやできごとが起こる…」

「一人ひとりがまったく違う偶然と必然によって成り立っている。違う環境におかれて、違う時間を生きていて、百人百様ある多様性と、一人ひとりが自分の中で行っている総合化をこれからの社会にどういかに生かしていくのか? 個々の人格が機能するネットワーク。人格というのはさまざまなものを有機的に結びつける場なんです」




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Photos:アサザ基金提供
Photos:高松英昭