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居場所の限界。SOSを発せられる社会へ



2012年2月、さいたま市で、60代の夫妻と30代の長男が亡くなっているのが発見された。所持金は数円。電気・ガスは止められ、半年ほど前から家賃も滞納していたという。遺体は死後2ヵ月が経った状況で、死因は餓死と見られている。この事件は、あまりにも多くの課題を私たちに突きつけた。

まず、死者に30代の長男が含まれていることへの衝撃を多くの人が口にした。建設作業員だったらしい彼の背景を、私は知らない。ひきこもりや心の病といった文脈から語る人もいるが、詳しいことはわからない。ただ一つ言えるのは、「若者ホームレス」にかなり近い状態の者が両親が健在の「家庭」の中にいたということである。しかし、いつからか家族ごと困窮していた。

さいたま市では、2年前の夏にも痛ましい事件が起きている。76歳の男性が熱中症で死亡したのだ。10年以上前に電気を止められていた男性は、40代の長男と同居していた。しかし、長男は腰痛などで長年働けず、2人は男性の年金で生活していたという。




こういった痛ましい死が伝えられるたびに、「つながり」という言葉が強調される。特に「地域社会の見守り」の重要性が語られる。しかし、親と成人した子どもが同居している場合、私たちの目は彼らを「見守りの対象」から外してしまう。「あの家は息子さんがいるから大丈夫」「親と一緒に暮らしているなら問題ないだろう」。そんな思い込みにまったく根拠がないことを、改めて突きつけられている。




親子3人の死と「若者ホームレス」が抱える問題の共通点は、「SOSを発していない」ということだ。彼らは生活保護の相談に訪れることもなく、窮状を隠すように暮らしていたという。

若者ホームレスの多くも、滅多にSOSを発信しない。多くの者が、自らの窮状を知られることを恐れ、「生活の立てなおし」に関する情報も持っていない。また、多くが、他人や行政が「助けてくれる」ことをそもそも欠片も信じていない。背景には、そこに至るまでの厳しい経験がある。

学校でのイジメや複雑な親子関係、使い捨て労働の繰り返しや、生存競争の中での他人や企業の手痛い裏切り。社会や他人への信頼を根底から奪われるような経験を、彼らの多くは持っている。




では「居場所」的なつながりがあれば解決できるのだろうか?

ここ数年、若者支援や困窮者支援の現場を見てきて、「居場所」の限界も感じている。もちろん、そこで他者への信頼を取り戻した、元気になったという声も多く聞く。しかし、居場所は時に「共通言語」などのハードルをクリアしなければ存在できない。常に無条件性が担保されているわけではない。誰にとっても居心地のいい居場所は存在しない。だからこそ、それは万能の解決策ではない。

生涯未婚率が上がる中、これからどんどん単身者は増えていく。また、親と同居しながら「若者ホームレス」とかなり近い状態にある人は予想以上に多いはずだ。どんな状況にあろうとも、尊厳を傷つけられずにSOSを発信できる社会。そして具体的なシステムの構築。若者ホームレス問題と無縁社会、そして孤独死の問題への処方箋は、多くの共通点を持っている。




雨宮 処凛(作家。反貧困ネットワーク副代表)




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