世界は驚きに満ちている
2011年に好評を博したBBCの「フローズンプラネット」シリーズをはじめ多数の自然ドキュメンタリーで解説役を務めてきたデヴィッド・アッテンボローは、86歳にしてイギリス最高の自然ドキュメンタリー作家でありつづけている。アッテンボロー卿が、自身の非凡な人生、BBCとの60年、自然ドキュメンタリーの未来、そしてなぜ「自然界はつきない喜びをもたらしてくれるか」について語る。
(Photo : REUTERS/Dylan Martinez)
「君は物理学者なのかね?」とデヴィッド・アッテンボロー卿は、例の朗々とした声で私に尋ねた。
なんてことだろう。ヒッグス粒子についてたどたどしく解説してみせたせいだろうか、私も科学者仲間なのだという誤った印象を、イギリスの自然史ドキュメンタリー界の重鎮に与えてしまったようだ。
赤面しながら、「いいえ、ただの科学好きのアマチュアです」と答えた。「そう」と言ってにっこり笑うと、アッテンボロー卿は私を品定めするように見た。「きっとブライアン・コックス(訳注:1968年英国生まれの物理学者。ロックバンドのキーボード奏者として活動していたこともある。テレビやラジオのプレゼンターやキャスターとしても数多くの科学番組に出演している)のポスターを部屋に飾っているんじゃないかな」
どうしてばれたんだろう? 思い切って「ある意味でコックス博士は物理の世界におけるアッテンボロー卿なのです。あなたがコトドリの鳴きまね声やゴリラの社会的行動を紹介して私たちを夢中にさせたように、コックス博士はビッグバンや宇宙のはて、原子の内部構造について、一般の人々の興味をかきたてましたから」と言うと、アッテンボロー卿は「コックス博士は私なんかよりずっと頭がいいよ」と答えた。
「本当のことだ。物理学者だからね――素粒子物理学のことを考えると、私なんかわけがわからなくてぽかんとしてしまう。本当に並外れた学問だよ。コックス博士の仕事にくらべれば、私のやっていることなどごくごく易しいことだろうね」
あまりに身近な存在であるため「とんでもなく物知りのお祖父ちゃん」のように思えるアッテンボロー卿だが、偉ぶってみせないだけなのだ。
1979年から2008年の間に8作が放送され大反響をよんだ 「Life」シリーズを制作、2001年に好評をはくした「ブルー・プラネット」ではナレーターをつとめ、60~70年代にはBBC第2局の局長、BBCテレビ全体の編成局長として、英国初のカラー放送を行い、その日のサッカーゲームをハイライトで紹介する「Match of the Day」や伝説的なコメディ番組「モンティ・パイソン」を世に送りだすなど、数々の偉業をなしとげてきた。
2012年はアッテンボロー卿がBBCで仕事をはじめて60周年となるが、今でも見るからにBBCへの誇りにあふれている。それに、隠居を決め込むつもりもさらさらないようだ。
なんといっても85歳にして初めて北極に立ち、ホッキョクグマをなでてみせた人物なのだ。そのクマは大人しく、有名人との邂逅を気にとめていないようだったが、撮影の後で飛びついてきた子グマたちに噛みつかれたそうだ。
昨年放送された「フローズンプラネット」シリーズは、BBCが依然として世界最高の自然ドキュメンタリー番組の作り手であることを証明してみせた。シャチの集団に襲われて安全な氷上から海に落とされる哀れなアザラシの表情が放映されたとたん、ソーシャルメディアにはかわいそうだという書き込みがあふれた。フェイスブックに感想を書き込んだ人々は、涙を誘ったのがどの番組なのかをわざわざ書く必要はなかった。皆が同じ気持ちだったからだ。
アッテンボロー卿は、こうした番組の制作に多額の予算をさける時代が終わりつつあるという危惧を示した。「フローズンプラネットは制作に4年をかけ、カメラマンは総勢40名という大変なビッグプロジェクトだった。チャンネル数が増えたので、当然ながら一番組あたりの視聴者数は減っている。こうしたプロジェクトにかけられる予算は減る一方で、資金集めもますます難しくなっている」
BBCにはまだビッグプロジェクトを実現する力があるが、孤立無援に近い状況の上、あらさがしをしようと待ちかまえている者までいる。ホッキョクグマのコグマのいくつかの映像が氷盤上ではなく動物園で撮影されたことがあきらかになったとき、マスコミは視聴者を誤解させたとしてBBCを一斉に批判した――だが、その事実を明らかにしたのはBBCの番組ウェブサイトに他ならなかったのだ。
BBCのマーク・トンプソン会長は、大衆紙は大騒ぎをすることで、政府のメディア倫理調査委員会(訳注:メディア王ルパート・マードック率いるニューズコーポレーションの大衆向け新聞ニュース・オブ・ザ・ワールドによる盗聴スキャンダルを発端に設けられた英政府のメディア倫理調査委員会)へのしっぺ返しにこの事件を利用したと批判している。
こうした厳しい批判と釈明の応酬が行われるなか、アッテンボロー卿も連日モーニングショーに出演したり、数多くの新聞取材に応えて弁明に奔走していた。そうした事情もあり、なんとこのインタビューではホッキョクグマやBBCを持ち出さないようにとの注意を受けていた。インタビューの間も、まるでこの業界の長老には付き添いが必要だというように、広報担当者がメモ帳を片手に部屋の反対側に控えていた。
もちろん付き添い役など必要ないが、アッテンボロー卿は少し疲れているように見えた。美しい白髪の分け目はいつものようにまっすぐではなかったし、淡いブルーのシャツの上に羽織ったスポーツジャケットには少ししわがよっていた。その日もすでに何時間もの取材に答えた後だったのだ。私が部屋に入ると、膝が悪いにもかかわらず礼儀正しく立ち上がり軽くお辞儀をして握手で迎えてくれた。「調子はどうです?」と尋ねると、茶目っ気たっぷりにぐるりと目をまわせてみせた。
「BBCは世界最高の放送局だ」とアッテンボロー卿が言い、ふたりして広報のお達しを無視することにした。「欠点も多いだろう。いいときもあれば悪いときもあった。だが、世界中で本当の意味で真に公共放送局といえるのはBBCだけだ。テレビはもっとも有力なメディアであり、公衆への奉仕につとめなければ。ただの金儲け以上にできることは多い」
BBCでの地位を捨ててまで、情熱のままに地球の生物について番組を作りつづけてきたアッテンボロー卿だが、今でも自然界の抗しがたい魅力にとらわれている。しかし、比類のないキャリアを築いてきた道のりは犠牲を伴った。1997年に妻のジェーンが脳出血で倒れたときには、ニュージーランドで「ライフ・オブ・バーズ」を撮影中だった。かけつけた彼が手をにぎると、昏睡状態だった妻からかすかな反応があったという。47年間連れ添った妻の死についてアッテンボロー卿が語ることはめったにないが、妻のいない生活に寂しさを感じることは認めている。
子どもたちとは親しい関係だという。妻の死後は、娘がしょっちゅう家に来て、掃除をしたり、卵をゆでるのさえやっとの父親のために食事を作ってくれるそうだ。しかし、撮影で旅行が多かったために、子どもたちが小さなころはあまり一緒に過ごせなかったと話す。「もっと一緒に過ごせればよかったけれど、お土産にサルを持って帰ってあげられたからね」と穏やかに続けた。
それはすごい!面白い土産話をたくさん聞かせてあげられたでしょうと言うつもりだったが、かわりに「サルは最高のお土産話ですね」と言った。「そうだね。我が家には、小さなブッシュベイビーのコロニーがあったんだ」とアッテンボロー卿は笑うと、ブッシュベイビーは大きな目をした夜行性のサルだと説明した。「専用の部屋をつくって、寝床にうろのある木を置いた。ブッシュベイビーは赤ん坊を口にくわえて運ぶんだよ」
アッテンボロー卿が自然に興味を持ったきっかけが居間で飼っていたブッシュベイビーだったなら最高のエピソードになるところだが、実際にはごく普通のみみずを見て、「人間と生命をわかちあう生き物にすっかり魅惑された」のだと言う。
アッテンボロー卿に言わせれば、子どもなら誰もが3、4歳でそうした感動を覚えるようになるが、失うのもたやすい。「現代社会でそうした感動が失われている最大の要因がコンピューターだよ。その結果、私たちは非常に貴重なものを失っている。つまり、生命の喜びだ」
アッテンボロー卿はEメールにも断固反対だ。「私はメールをしない――絶対に。私の友人にも、朝起きたらまず1時間半ほどメールチェックなんていうばかばかしい作業にいそしむ連中がいる。だが、連絡がとりたければ郵便がある。何の不都合があるというんだろう?」
「もうひとつメールについて腹が立つのは、人間生活の何より優先されているところだね。相手が子どもの世話をするより先に自分のメールに返事をするのが当然みたいに考えられている。今メールしたのにどうして20秒以内に返事をしないんだ、とか。こっちは他のことで忙しいんだと言ってやるべきだ」
朝起きて、それほど重要な「他のこと」がある者はあまりいないだろうが、アッテンボロー卿も80代半だ。いつまでもずっとイモムシの一生や楽園の鳥の求愛行動について解説してくれることは期待できない。後を継ぐのは誰だと思っているのか尋ねてみた。
しばらく考えたあと、アッテンボロー卿は言った。「私のような存在は必ずしも必要ではないのかもしれない。人間が出演しなくても、素晴らしい自然ドキュメンタリーをつくることはできる。実際、最高の作品には解説者は出演していないからね」
アッテンボロー卿自身は、これまでの自分の業績を単なる偶然のたまもので、BBCが解説者を出演させるというアイデアをテレビの生放送からドキュメンタリーに持ち込んだおかげだと話すが、そのように簡単に片づけられるものではないだろう。少なくとも、自然ドキュメンタリーの分野で彼の後を継げるような者は見あたらない。アッテンボロー卿がいなくなれば、代わりはいないのかもしれない。
「かぎりある命だからね」とアッテンボロー卿は言った。「年をとるにつれて神について考えることが多くなったよ。今でも私は不可知論者だし、死後の世界について尋ねられれば『さあね。何の証拠もない。死後の世界はあるかもしれない。だからって、私に何ができる?』と答えるだろうがね」兄でアカデミー賞受賞監督のリチャード・アッテンボロー卿は、ロンドンの自宅での転倒事故後に車いす生活となり、70年におよぶ映画界の仕事からの引退を発表した。しかし、弟のアッテンボロー卿のほうは3Dテレビの可能性にドキュメンタリー制作への情熱を新たにしているところだ。
新年にスカイチャンネルで放送されたペンギンのドキュメンタリーを3Dでつくり、現在は今年の後半に放送予定のガラパゴス諸島のドキュメンタリーを企画中だ。60年代に新技術のカラー放送に飛びついたように、3D放送の熱烈な支持者なのだ。「3Dだとよりリアルに見せることができるからね」
アッテンボロー卿は、これからも膝の調子が許すかぎり仕事を続けていくつもりだ。何十年もの間いくつもの大陸を旅してきたが、今はなんと荒涼としたゴビ砂漠で発掘作業をするのが夢だという。理由を尋ねると、「自分の目で見るほうが見ないよりもいいからね」と単純明快な答が返ってきた。「世界は驚きに満ちた場所で、素晴らしいことが起こっている。自然の世界から得られる喜びはつきない」