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アメリカン・ドリームの終焉
アンドレイさんがアメリカに来てから数年の月日が流れた。ある日の晴れた午後、24歳になったばかりのアンドレイさんが庭でビールを飲んでいたら、警察が2人家宅捜索にきた。
アンドレイさんは警察がきた時に、会社側から予め準備されていた書類を警察に見せたが、彼等は普通警察でなく、国境警察だった。国境警察が書類に記載してある幾つかの会社に電話して、書類確認をしたところ、偽造書類だということが判明し、アンドレイさんとチームメンバーは否応無しに手錠をかけられてしまった。
国境警察の話によると、数日前、一緒に暮らしているチームメンバーのひとりが小売店で靴下を盗んで、警察につかまったそうだ。その時に「ぼくたちはリトアニアから送られて、現在奴隷としてアメリカのスーパーマーケットで掃除員として働かされています。今すぐ国に帰りたいので、どうか助けて下さい。」と警察に訴えたそうだ。
しかし、その万引きした男は、その日はそのまま家に帰れと釈放されたので、その男は警察が助けてくれないことに失望し、そのまま家に帰ったそうだ。しかしその男は警察に捕まったことを一緒に暮らしているチームの誰にも言わなかった。それは今思えば、警察のおとり捜査で、国境警察がアンドレイさんたちの家にきたのは、その出来事からわずか数日後のことだった。
アンドレイさんは他のチームメンバーと一緒に、そのまま入国管理局刑務所に送還された。
刑務所での生活
入国管理局刑務所は、シャワーのない15人1室の狭い簡素な部屋だった。連れてこられた全員が一斉に服を脱がされて、身体を隅から隅まで検査された。再び長時間に渡る事情聴取が行なわれ、すぐに裁判の手続きが手配された。
アンドレイさんとチームメンバーたちは、他の犯罪者とは隔離され、仲間と一緒の部屋に入れられた。それから2週間後、ミシガン州のモンロー・カントリー刑務所(Monroe County Jail)に移送された。
モンロー・カントリー刑務所には、二つの大部屋があり、その一つは90人1室の規模で、違法・不法労働問題関係で逮捕された人ばかり集められていた。
刑務所での生活は禁酒・禁煙、お茶さえも部屋に持ち込めず、さらにお茶を飲む時に、砂糖を摂取することも禁止されており、ベッドに家族の写真を飾ることさえも禁止されていた。アメリカでの刑務所生活は、いわゆるアメリカの映画に出てくるような自由なイメージとは、かなりほど遠いものだった。
アンドレイさんとチームメンバーは、ここでいつ通達が来るかわからない裁判の日を、じっと待ち続けた。
裁判と強制送還
モンロー・カントリー刑務所に入所してから約1ヶ月の月日が流れた。待ちに待った裁判の当日、フロリダ州からやってきたという裁判官に、アンドレイさんはこれまでのいきさつを正直に説明。判決では、アンドレイさんたちの過失責任が問われることはなく、リトアニアへの強制送還が決定した。
アンドレイさんが裁判を待っていた間、友人や両親が刑務所に4回、小切手で送金してくれたが、刑務所にいる間は一切受け取ることはできなかった。 そして「君は5年間のビザがあるから、まだ頑張ればアメリカに帰って来れるチャンスがあるだろう。」と、刑務官に言われていたが、今回の判決で、10年間のアメリカへの出入国禁止が言い渡された。
裁判で判決が出た後も、さらに約1ヶ月、強制送還されるのを刑務所で待つ日々が続いた。
刑務所での唯一の娯楽は、段ボール箱2個に無造作に入った古い映画のビデオテープだった。何度も何度も繰り返し同じ映画を見ていたので、映画によっては、テープが伸びきってしまっているものもあった。
ある日、いつものように皆で映画を見終わって、テープが巻き戻っている時、偶然CNNに繋がり、大都市の大きなビルに、飛行機が突っ込んでいる映像が数秒間見えた。刑務所にいた全員がその映像を見ており、皆口々に「アメリカで戦争が始まった」「戦争の相手はどこだ」と大騒ぎになったが、刑務官に何が起こったのかを尋ねても、無言のままで何も答えてくれなかった。
CNNの衝撃的な映像を見た2日後の早朝、突然、強制送還が言い渡され、今日中に刑務所を出ることになった。アメリカ2カ所で、合計2ヶ月半ほどの刑務所生活だった。刑務所を出所する朝、刑務官から食費として150ドルずつと、アンドレイさんの友人と両親が送ってくれた4つの小切手も返却された。
朝食の後、すぐに手錠をかけられ、護送車に乗せられ、 刑務所からデトロイトの空港に到着した。手錠を隠そうという刑務官の配慮で、手元に白い布をかけられていたが、それがかえって人々の注目をあびているような気がしてならなかった。いつの間にかどこからか報道陣が集ってきて、映像や写真を撮られた。
着席するまでは手錠をかけられたままだったので、機内にいた大半の人が「テロリストのいる飛行機には乗れないからをキャンセルしたい」と口々に叫んでいた。乗客はアンドレイさんたちの搭乗拒否を訴えたが、それが無理だとわかると、突然大声で泣き出す人や、飛行機から無理矢理降りて、航空券をキャンセルする人が後を絶たなかった。
アンドレイさんたちは、自分たちがテロリストと間違われるなんて心外だと思っていたが、この日が2001年9月11日の、アメリカ同時多発テロ事件の2日後だったと知ったのは、リトアニアに到着してからのことだった。
約半数の人たちが飛行機をキャンセルしたようだった。いっぱいだった機内はがらんとしていた。アンドレイさんたちへのアルコールの提供は禁止されていたようで、アンドレイさんがキャビンアテンダントにアルコールを頼んでも断られた。乗り継ぎのためにデトロイトからアムステルダムに到着し、飛行機を降りようとした時、先ほどのキャビンアテンダントが、たくさんのアルコールとお菓子や食べ物をいっぱい詰めた袋をアンドレイさんにそっと手渡してくれた。
アムステルダムからリトアニアへの乗り継ぎに、4−5時間の待ち時間があったので、キャビンアテンダントから貰った食べ物を好きなだけ食べて、しばらくぶりのアルコールを飲んで、ほろ酔い気分になった。アンドレイさんは一緒にいたチームメンバーと、長年夢見ていていた自由を満喫し、久しぶりに冗談を言い合い、大声で笑った。
アムステルダムからリトアニアまでの帰途の飛行機は、ビジネスクラスだった。
ビジネスクラスにはアンドレイさんたちを除くと、スーツを着たビジネスマン風の男が2−3人いただけだった。初めて乗るビジネスクラスに心が躍った。キャビンアテンダントからも、他のビジネスマンの身なりとは違い、着の身着のままの格好なのに、いつもよりも丁寧に扱われているような気がして悪い心地はしなかった。
ビジネスクラスに乗るなんて、一生に一回のことかもしれないから、この状況をより楽しみたいと思ったアンドレイさんは、キャビンアテンダントにわざとビジネスマン風の英語で話かけてみた。美しいキャビンアテンダントが満面の笑みで、英語で応対してくれた。刑務所から出てきたばかりの自分が、国際的なビジネスマンを演じていることに、リトアニアに到着するまで、ずっと笑いが止まらなかった。
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