前編を読む

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「そういえばね」と館長。「関東と関西では、土の色がぜんぜん違うんですよ」とまたひとつ引き出しを開ける。関東地方の土は、黒っぽいものが多い。色も茶色にグレーと地味めだ。一方の関西の土は、色鮮やか! オレンジ色に近い鮮やかな茶色から、ピンク、緑、黄色、青とみさかいない。「関西の土はカラフルでしょう。これは僕の持論なんだけどね、関西の女性がカラフルな服を着るのは、土のせいだと踏んでるんですよ。関西のおばちゃんは土とともに生きてるっていうかね」。なるほど! あのパワーも土から得てるのか!?

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土の下の世界、生命の過去、いま、未来



再び一階に下がり、今度は展覧会場に入ると、そこには宇宙が広がっていた。64点もの「土壌モノリス」と呼ばれる土の標本がずらり。さっきまでは、人の手を加えた土の作品を見てきたけれど、土そのものの、なんて美しいこと。

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「僕は土の魅力は色だと思ってるんです。特に赤土を見ると、興奮するんですよね」と辻さん。土に囲まれて、心底うれしそうに笑う。「一般的に、土壌が1センチできるには100年かかると言われているんです。僕は今年60歳だから、やっと6ミリの土壌ができたところですね」

600万年前、中部地方にあった巨大な「東海湖」に480万年かけて堆積した土は肥沃な濃尾平野の基盤となり、湖の北と南の良質な陶土が、焼き物の町瀬戸と常滑を生んだ。「300万年前に積もった粘土層で瀬戸物をつくってきたんですから、まさに僕たちに飯を食わしてくれた粘土といっていいでしょうね」

「工業製品なんかも土の中にあったものを引っ張り出して、鉄や石油として利用してるわけですよね。人間が作り出したものなんてなくて、土の中のものを引っ張り出して消費しているだけなんですよね。土ですら、人間は作れないですからね」

一番奥にある4・25メートルに及ぶ土壌モノリスには、「28000年」の目盛りが刻まれている。その時の流れの中に、どれほどの生物たちの生の営みが、どれほどの人々の喜怒哀楽が詰め込まれ、そして土に返っていったのだろう。その時空をこえたスケールの大きさに、そして命を与え続けてくれるその寛大さ、懐の深さにただただ畏敬の念しか湧いてこない。しばし、その2万8千年の時に思いをはせた。

普段は見ることのない、土の下の世界。そこは、これまでの生命の歴史を刻む「過去」であり、今生きている私たちの命の源であり、これから命を生み出す「未来」でもあったのだ。

「旧約聖書には人は土の塵で作られたとありますし、肉体と土は一体であり、分かれるものではない、という意味の身土不二という言葉もあります。土という宇宙の中で人は生かされているんです。最近は、精神の不調を訴える人が多いのも、人間が土と離れた生活をしているからではないでしょうか」 

(八鍬加容子)

(INAXライブミュージアム)

「窯のある広場・資料館」「世界のタイル博物館」「陶楽工房」「土・どろんこ館」「ものづくり工房」の5つの館から成る。土から焼き物まで、その歴史や文化、美しさや楽しさを体感・体験できる。館長は「赤土好き」の辻孝二郎さん。

〒479-8586 愛知県常滑市奥栄町1-130
http://www.inax.co.jp/ilm/
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(2008年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第104号より)

土壌、1センチできるのに100年。生の営み、喜怒哀楽うめる土宇宙



私たちの暮らしをずっと温かく見守ってきてくれた母なる大地。
なのに最近、土に触れる機会がめっきり減った。だからこそ、土の魅力を大公開!


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百変化の土、すっぴんの素朴さからバッチリメイクのレディの顔まで



最近いつ土を踏みしめただろうか? 最近いつ土の匂いをかいだだろうか? 

あれは、春。桜のピンクと、菜の花の黄色が出迎えてくれた河川敷の丘を、釣りするおじさんを眼下にして通った。梅雨時期には前に通った人の足形が残っていて、自分の大きさと比べてみたりしたっけ。鼻腔を土と雨の交じり合った匂いがくすぐる。思えば、土との思い出は、どれも忙しい毎日をふっと離れ、わき道にそれた「寄り道」時間の先にある。

空高くうろこ雲がたなびくある日、ちょっと遠出の寄り道に出かけた。場所は愛知県常滑市。1000年続く焼き物の町だ。「INAXライブミュージアム」館長の辻孝二郎さんが、土の魅力を思う存分語ってくださるという。

最初に出迎えてくれたのが、ベージュ色の土壁の「土・どろんこ館」。一歩中に入ると、一陣の風が吹き抜けた後の砂漠のような、美しい凹凸の壁。左官職人、久住有生さんの手仕事だという。均一に見えた模様も、近くによって見ると、藁や細かい砂の粒が豊かな表情を見せる。少し角が取れ、丸みが出ているものもある。

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「オープン2日目で子どもたちが壁を駆けあがっちゃってねぇ。どうしようかなあとスタッフとも相談したんですけど、こりゃ、のぼりたくなるよなあってなってね」と笑う、辻館長。「最近は物が壊れるということを体験しないじゃないですか。壊れない丈夫なものに囲まれていて。でも壊れるからこそ大事にする、愛着をもつのかなあと思うんですよねぇ」。そして、自身もその土の温かみを確かめるように、愛おしそうに丸くなった壁の角をなでる。

その横はもっと素朴な印象の日干しレンガがダイナミックな曲線を作る。子どもを含む市民220人が6日間かけて作った。「曲線を使うと空間に無駄が出るんですよ。まっすぐ直線にすると無駄がなくなって効率がいいんですけど、本当にそれがいいのかと疑問でねぇ。人間も有機体だし、そういう無駄っていうのを大切にしたいと思いましてね」

床は焼かないでつくった「ソイルセラミックス」という建材で仕上げられているという。触ってみると、ひんやりしてるのに、芯は何となく温かい。トイレを使わせてもらおうと扉を開けると、色とりどりのタイルで装飾された華やかな空間が広がった。すっぴんの素朴さと、バッチリメイクしたレディの顔と、百変化の土の魅力満載だ。

そんないろんな土に囲まれながら、子どもたちが光るどろだんごづくりに興じていた。鉛色だった粘土の玉が、磨きをかけられて光を放ってくる。でこぼこな表面をおさえてなめらかにすると光を反射する粘土の特性を生かしたものだ。「もう、いっちょ前の職人だね」と子どもの様子を見ていると、横ではお母さんも一心不乱に玉を磨いている。一人ひとりが真剣に土と向かい合っている。

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カラフルな服を着る関西女性、それは土のせい



2階に上がると、16畳ほどのスペースに引き出しがずらり。その一つひとつが土に関する企画展のようなものだという。のび太くんの机の引き出しもびっくりの、タイムトラベルが楽しめる。

ひとつめの引き出しを開けてみると、竹の枠組みに土を塗っていく、伝統的な左官の土壁の技が顔をのぞかせる。次の引き出しでは、泥染めで染め上げられたハンカチが光をやわらかく反射。岩絵の具の引き出しでは、鮮やかな青、緑、赤がまぶしい。群青色のもとになる鉱石は高価で、西洋ではエリザベス1世がその権力の象徴としてアイシャドウに使用したともいわれている。

「化粧は昔、泥でしていたでしょう。今の化粧品や胃腸薬にも入っていますしね」。胃薬の粘土は、弱くなった胃の壁を守ったり、余分な水分を吸収して下痢を止めたりしているという。おしろいや口紅も、薄くきれいにのびて肌を守ってくれる粘土の性質を利用している。「アフリカからの留学生が調子が悪くなると、地元の土をなめて治すという話も聞いたことがあります」。土と密接にかかわってきた私たちの衣食住が、一つひとつの引き出しに詰まっている。

後編に続く>*2/6アップ予定
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みなさんこんにちは、ビッグイシュー・オンライン編集部のイケダです。2/1から路上で発売中の232号より、個人的な読みどころをピックアップいたします。

雪エネルギーの可能性



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最新号の特集は「雪エネルギー。『雪国』日本の資源」。雪を用いたエネルギーの研究をしてきた媚山政良さん、雪エネルギーを実用化している新潟県安塚町の伊藤親臣さんのインタビューなどが掲載されています。

立ち読み版として、媚山さんのインタビューから、冷熱エネルギーの可能性を抜粋でご紹介します。

「もし雪の山を夏まで保存できたら、どうでしょう?排雪される5000万トンのうち6割でも利用できれば、それは200リットルのドラム缶にして150万本分の石油と同じ冷熱エネルギーに相当します。そして重要なのは、夏まで保存するのは、ちょっとした工夫で簡単にできるということなんです。」


「雪エネルギー」の活用事例としてまず紹介されているのは「雪室」。断熱材で囲んだ一つの部屋に雪を入れて、余った空間に野菜を貯蔵するという自然の冷蔵庫です。

その結果は、予想以上のものだった。雪は夏が来ても消えることなく、野菜を冷やしつづけた。しかも貯蔵が大変むずかしいといわれてきた長芋は、電気冷蔵庫で保存した場合およそ30日で5%しなびる(減耗する)のが普通だったが、この雪室に貯蔵すれば300日たっても4%しかしなびず、それまでの10倍以上の期間、保存できるようになったのだ


野菜の貯蔵だけでなく、雪は「冷房」にも活用せています。事例として北海道美唄市の「雪冷房マンション」が紹介されています。

美唄市にはいくつもの雪冷房施設がありますが、中でも最も注目されて きたのは「雪冷房マンション」でしょう。集合住宅やマンションとしては 世界初でした。以下のような流れで雪を貯蔵します。

1.駐車場に積もった雪を貯雪庫の前に寄せる
2.雪解け(春先)に貯雪庫の大きな扉を開け、ロータリー車を使って中に入れる
3.貯雪庫内で夏まで保存
4.夏に少しずつ雪を解かしマンション内の冷房に利用

世界初の雪冷房施設がある! | 冬のくらし | 北海道ファンマガジン


雪冷房はあの新千歳空港でも導入されています。すでに年間冷房の1/4をまかなっているというから驚き。

09年には北海道・新千歳空港の滑走路沿いに、縦100メートル、横200メートル、高さ9メートルもの巨大な雪山をつくり、これを利用した雪冷房がターミナルを冷やし始めた。


他にも雪エネルギーの事例としては、メタンガスやプロパンガスを吸収させた「燃える雪」、「雪解け水」の活用に向けた研究も進められているそうです。

雪が降る地域であれな、どこでも利用できるのが雪エネルギー。南は島根県、滋賀県でも活用していて、その事例は少しずつ増えつつあります。


特集では他にも特別豪雪地帯である新潟県安塚町の「冷水循環式雪冷房」、雪室で食品貯蔵する物産館、雪の科学館の取材レポートが掲載されています。

雪エネルギーについてここまでまとまった特集記事はそうそうないと思いますので、関心がある方はぜひ路上にて「ビッグイシュー日本版 232号」を手に取ってみてください。

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Genpatsu
(2014年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 230号より)

軍事利用の防止へ。原子力委員会に求められるこれからの役割



安倍政権下で原子力委員会のあり方を見直していた有識者会議が、縮小継続の方向で報告書をまとめた(昨年12月10日)。

大きな柱であった原子力政策をまとめる仕事と、原子力関連の予算を配分する仕事など、多くがなくなった。残った仕事は平和利用の確保と放射性廃棄物に関する政策や管理・運営だ。廃棄物には福島第一原発の爆発事故の後始末も含まれている。

仕事が減ったからか、委員が5人から3人に減らされた。しかし、残った仕事はいずれも重要で、むずかしい課題を抱えている。これを支える事務方は経済産業省や文部科学省から応援を受けるようだ。これで仕事を充分にこなせるのか不安が残る。

原子力委員会の歴史は古く、1955年に法律に基づいて発足した。原子力開発利用を進めるための委員会だ。当初は安全も推進も一緒だったが、78年に原子力船「むつ」が航海試験中に放射線漏れ事故を起こしたことを契機に原子力安全委員会が分離・設置されるようになった。

01年に行政改革で中央省庁が再編され、原子力委員長は国務大臣から民間人へ変更になり、委員会決定の尊重義務条項がなくなった。これを機に、原子力推進の主役が経産省に、研究用原子炉開発の主役が文科省に移っていった。

今回の見直しの契機は、福島原発事故後の原子力政策の改定について、利益集団だけで秘密会合を開き議論の方向を誘導していたことが明らかになったことだった。

しかし、01年の時点で原子力委員会は基本的な役割を終えていたとも言える。とはいえ、この間に核兵器に転用可能とされるプルトニウムを余分に保有しない国際公約や、これが転用されていないことを示す在庫データをくわしく公表するなど、重要な仕事をした。

特定秘密保護法が成立して、原子力分野での動きが注目されるが、国際公約を維持し、プルトニウム管理データを公表し続けて、軍事利用の疑念を払拭し続けてほしい。



伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2008年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第104号より)

どうして粘土を焼かないといけない?根源的な問いが作品を生む



信楽にほど近い、滋賀県・甲西に窯を構える陶芸作家・宮本ルリ子さん。パプアニューギニアの土器で原点の原点に出合った宮本さんは、あえて粘土を焼かない作品などにも挑戦している。


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焚き火で焼くパプアニューギニアの土器



1万年以上前から現在まで、土を練り、形を整え、焼成されて生まれる、焼き物を私たちは日常的に使っている。窯の中で高温(約1200〜1300度)で焼成するものは「陶磁器」、野焼きで低温(約700〜800度)で焼くものは一般的に「土器(または素焼き)」と呼ぶ。

滋賀県を拠点に活動している陶芸作家の宮本ルリ子さんは、この陶磁器の前身といえる「土器」に深い関心を寄せている。

「縄文土器は1万年以上も前のものが土器片として見つかっています。粘土は焼くと、半永久的に残るんですね。土には返らない。誰が作っても、焼いてしまえば何千年も残っていくという不思議さ。そして同時に、その責任の大きさも感じますね」

大学卒業後、宮本さんは青年海外協力隊員として赴いたフィリピンで、土器作りの現場に出合った。また、その後勤務した「滋賀県立陶芸の森」で世界の土器を収集・調査する機会を得た。

「パプアニューギニアで今も作られている土器は、日本の縄文時代のものと似た点が多いんです。粘土を掘る、形を整える、焼く。そのすべての工程において、過去を今に見るような感じでした。まるで焚き火をしているような、お料理をしているかのような小さな火でも、実は土器を焼いている。人類が一番最初に火を使って器を作った、原点の原点を見たような気がしました」

そんな経験をもとに、宮本さんは滋賀県が推進する「世界にひとつの宝物づくり事業」の野焼きのワークショップなどを通じて、子どもに焼き物の楽しさを伝えている。「土を火で焼くと、化学反応によって硬い焼き物になる。まずはそれを経験してもらいたいんです」

土も釉薬も自然の素材なので、時期や掘る場所が少し違うだけで、その相違が作品にも如実に出てくる。火から下ろすと、予想外の色に仕上がっていることもあれば、割れていることもある。

「そして、土で形をつくることはある程度思い通りになるけれど、『焼く』という工程では、一度手放して火に任せることになるので、100%はコントロールできないことも知ってほしいんです」

自然と人工素材の融合した作品をつくる



一方で、宮本さんは「陶磁器」をベースに、独創的な作品をつくり続けている。

「子どものころから絵を描いたり、ものを作るのが大好きでした。美術系の大学へ進学すると決めたとき、数ある専攻の中から選んだのは陶芸。最先端の美術を追求するというよりも、長い歴史にはぐくまれ伝統的な裏づけのあるものを学びたいと思いました」

土、アスファルト、紙、木など、さまざまな素材と組み合わせるミックスド・メディアという手法で生み出されるのが、宮本さんの作品群だ。「土器」をモチーフに「21世紀の壺」と題したものや、鑑賞者に複数の作品から気になるものを選んでもらい、その作品から喚起される問いを考えてもらうといったものなど、テーマ性のあるものが多い。

あるとき、「どうして粘土を焼かないといけないんだろう」という根源的な疑問がわいた宮本さんは、ある試みをする。焼き物は、コントロールできないという事実とできあがりの予想外のおもしろさがヒントとなり、粘土を焼かずに屋外に置き、その上を人に歩いてもらって模様をつけた。また、大きな鉄板に数個の穴を開け、その上に泥を乗せて屋外で雨に打たせ、放置した。乾燥すると、でこぼこやヒビが生まれ、そして鉄から出る錆も加わり、自然の模様を描いていく。写真の作品は、そんな「人為・天意」と名づけたシリーズのひとつだ。


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「人為・天意 '94」


それらの作品には、人間と大地の深い結びつきを思わせる壮大なスケール感と、両者の共存のために何が必要かを静かに考えさせる力が備わっているように感じられる。

「自然の素材と人工的な素材を組み合わせると、そこにどんな表情が生まれるのか。現代人は『自然』というものに憧れを抱くけれど、もはやその中だけで生活することは困難。だけど、文明社会だけを突き進んでいくことにも疑問や限界を感じています。その融合点を作品として表現しようと思いました。どの作品(「もの」や「行為」)もその根底に、目には見えないけれど大切な気づきのようなものを表現したい、そんな思いを込めています。作品を観る方にもそれを体感してもらえればうれしい」

(松岡理絵)
Photo:中西真誠

みやもと・るりこ
1963年、岡山県生まれ。陶芸家。滋賀県立陶芸の森「世界にひとつの宝物づくり事業」実行委員、コーディネーター。大阪芸術大学工芸科卒業、多摩美術大学大学院美術研究科修了。87年から2年間、青年海外協力隊・陶磁器隊員としてフィリピンのパンガシナン州立大学へ。帰国後、90年から(財)滋賀県陶芸の森で指導員として勤務。03年独立。09年4月3〜6日、滋賀県・信楽町の「窯元散策路」美術イベント「信楽ACT」で作品展示予定。
http://www.eonet.ne.jp/~ruriko/


(プロフィール写真)
Photo:中西真誠

(作品写真キャプション)
「人為・天意 '94」
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2月1日発売のビッグイシュー日本版232号のご紹介です。

スペシャルインタビュー 中村蒼×佐々部清

平凡な20代の若者が父親の借金をきっかけにホームレス状態へ陥っていく姿を描いた、映画『東京難民』。若者ホームレスとなる主人公を熱演した俳優・中村蒼と、佐々部清監督が、若者の今、そして「やり直しのできる社会」への希望を語ります。

国際記事 英国、居場所・働く力をつくる「ガルゲール・トラスト」

スコットランド・グラスゴーのとあるユニークなプロジェクトでは、精神疾患や失業問題に、バイキング船が一役買っています。かんな削りや機械の音に包まれた、ガルゲールの工場からレポートします。

特集 雪エネルギー。「雪国」日本の資源
日本は世界一の雪国。国土の半分以上の52パーセントが積雪地帯、約2千万人の人々が「豪雪地帯」に住んでいます。こんな例は世界にないといいます。
除雪などの日々の負担が大きい半面、春に解ける雪は地下水を涵養し、稲作や生活の大きな恵みともなってきました。そして今、雪をエネルギーとして活用し、積極的に暮らしに生かしていこうという動きが広がっています。
そこで、長年、雪を用いた冷熱エネルギー研究をされてきた媚山政良さん(室蘭工業大学大学院名誉教授)に「雪エネルギーの可能性と末来」について聞きました。
また、特別豪雪地帯である、新潟県安塚町(現上越市安塚区)では雪エネルギーを実用化。冬場の雪をストックして「冷水循環式雪冷房」を中学校の全室に導入しています。その設計者、伊藤親臣さん(雪だるま財団)にインタビュー、安塚中学校も訪問しました。雪室で食品貯蔵する物産館も取材。
そして、世界で初めて雪の結晶をつくり、「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残した、中谷宇吉郎博士を記念する雪の科学館も訪ねました。

基金レポート 『住宅政策提案書』シンポジウム開催

ビッグイシュー基金は2013年12月5日、東京都内で「市民が考える住宅政策」と題するシンポジウムを開催しました。10月に発行した『住宅政策提案書』の検討委員による発表の後、市民のみなさんからは自分や身近な人の困りごと、斬新なアイディアなどが寄せられました。

この他にも、「ホームレス人生相談」やオンラインでは掲載していない各種連載などもりだくさんです。詳しくはこちらのページをごらんください。

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Genpatsu
(2014年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 230号より)

さらなる運転に数千億円。「もんじゅ」研究計画



昨年の12月7日、「もんじゅを廃炉へ! 全国集会」が福井県敦賀市で開催された。雨模様のこの日、対岸の白木浜には全国からおよそ1000人が駆けつけ、同原子炉を所有する日本原子力研究開発機構(以下、原研機構)に対して廃炉にすることを求めた。

集会に先立って、福井県と敦賀市、ならびに滋賀県と岐阜県に、実効性ある防災対策が策定できないかぎり「もんじゅ」の運転再開に同意しないことを求めた。

主催団体である「原子力発電に反対する福井県民会議」は1995年の事故以来、毎年集会を開催してきた。同年40パーセント出力で試験運転を実施していた最中にナトリウム漏えい火災事故を起こして以来、「もんじゅ」はまともに動いたことがない。

1万件を超える点検もれにより運転再開準備の停止命令を原子力規制委員会から受けたのち、「根本原因分析」を行い、原研機構改革案をまとめて公表したのが昨年9月。

同様の作業は過去に6回もあったが、体質は改まらなかった。また同じ日には「もんじゅ」研究計画が文部科学省から公表された。6年ほど運転して成果をまとめるという。民主党時代には成果をまとめて研究終了となっていたが、安倍政権はその先は後に検討することとしている。

「もんじゅ」は高速増殖炉の開発を目指すための原型となる原子炉として開発された。増殖炉は消費する以上の燃料を作り出しながら運転できる「夢の原子炉」とされた。開発先進国は膨大な費用がかかること、安全上に問題があること、社会的な合意が得られないことなどの理由ですでに撤退している。

「もんじゅ」も増殖炉の位置から燃料を燃やすだけの原子炉に格下げされた。松浦祥次郎原研機構長は12月3日に開催された核セキュリティに関する国際フォーラムの挨拶で「高速原型炉もんじゅ」と表現した。日本も同じ道を歩んでいるようだ。

「もんじゅ」の開発にはこれまで2兆円ほど費やされてきた。わずか6年程度の運転のためにさらに数千億円が必要になろう。福島事故で安全上の対策が必要となるからだ。廃炉にすれば無駄遣いせずにすむのに、それができないのは責任をとらない官僚たちのせいか。



伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2008年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第102号より)

前編を読む

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働く者の不幸を深めた、日本特有の雇用慣行



「不幸な偶然」と「不可逆的な趨勢」によって日本経済がドラスティックに変化する一方、日本は社員を大事に抱え込む従来の日本的雇用モデルを一部に温存したまま、それを補うかたちで外部に両極端ともいえる膨大な非正社員の世界をつくり出した。本田さんは、この3つ目の日本特有の問題が、日本の働く者の不幸を一層深める要因になった、と指摘する。

「つまり、日本の正社員と非正社員というのは、まったく違った原理で成り立っている別世界なわけです。たとえば日本の正社員は、自分が専門的に担うジョブがはっきりしておらず、雇用された途端に、企業に与えられた包括的人事権によって転勤や職種転換など、自由に動かされる立場にあります。これを『メンバーシップwithoutジョブ』と呼んでいるんですが、雇ってもらってメンバーに入れてもらう代わりに、何でもしますという状況です。そのことが、長時間労働や過重なノルマによって、精神が病むほどに働かされる原因にもなっています。

一方、非正社員はこれとは正反対の『ジョブwithoutメンバーシップ』になっている。その人が担うべき固定的なジョブは一応あるが、そのジョブは、たとえば工場労働で未加工の部品を出したり、入れたりするような、もうジョブにも値しないような単調な作業であって、そこからスキルの幅を広げたり、難しい仕事にステップアップしていくような配慮はなされないんです。つまり、ジョブはあるが、メンバーシップはないに等しい。まるで機械のアーム1本のような扱い方をされながら、場合によっては生存さえ危ぶまれるような過酷な労働条件に置かれている」

「日本では、この両極端の世界がまったく別の原理で併存しているばかりか、お互いが奇妙に補強しあうかたちで成り立ってしまっています。正社員には非正社員の世界に落ちる恐怖を、非正社員には正社員の世界にステップアップできる期待を抱かせながら、それぞれに過酷な労働を強いる結果につながっているわけです」


日本は、生き残ったアンモナイト。必要なのは、ほどほどのメンバーシップとほどほどのジョブ



他の先進国と比べて、日本の若年労働市場の変化は遅く急激に訪れたために、労働市場慣行や制度の適応が追いついてこなかった。そればかりか、日本的な精神論を伴った「若者バッシング」によって、若者を二重に排除するという結果も招いてきた。本田さんには、そんな日本が先進国の中では特異な国に見える。

「他の先進国は環境変化に適応して、それなりに社会システムや制度設計を変化させ、変異を遂げながらやってきているのに、日本は生き残ってしまったアンモナイトのようなところがあって、制度的に発展途上国の特徴を引きずったまま、集団の団結ややる気みたいなもので、無理に環境変化を乗りこえてしまった。でも、もうこれ以上、その無理はききませんよ、というのが90年代以降に顕在化している問題だと思います」

本田さんは、若者を排除しない包摂型社会をつくっていくには、現在、両極端の原理によって成立している正社員の世界と非正社員の世界をともに歩み寄らせることが必要だ、と話す。   

「私は、『ほどほどのメンバーシップwithほどほどのジョブwithほどほどのパブリック・セーフティネット』と言っているのですが、今のようにメンバーシップかジョブのいずれかが欠けているような両極端の原理ではなく、もっと生身の人間が耐えうるような中間の原理に変える必要があると思っているんです」

「企業のメンバーシップは、学校のメンバーから間をあけずに企業のメンバーにならなければ、なかなか正社員の世界に入れないのが現状ですから、企業を誘導するかたちで、これを緩める。その上で、学校教育の段階から、希望する仕事の専門性を高めるなどの教育を行い、企業のやりたい放題に使いまわされないように個々のジョブの輪郭をはっきりさせる。他の多くの先進諸国では職種別の労働市場があるように、日本でもそのジョブの専門性を通じて正社員の世界に入っていけるように、自分のキャリアのコントロール権を取り戻すことが必要です。

そして、今までは日本ではまったく行われていなかった若者全般に対する社会保障を、住宅補助なども含めて手厚くしていく。私はそうすることでしか活路は開けないと思っています」

(稗田和博)
Photos:浅野カズヤ

ほんだ・ゆき
1964年生まれ。東京大学大学院教育学研究科准教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程を単位取得退学。博士(教育学)。日本労働研究機構研究員、東京大学社会科学研究所助教授を経て、現職。専門は、教育社会学。著書に『若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会)、『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13』(NTT出版)、『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』(双風舎)など。共著に『「ニート」って言うな! (光文社新書)』(光文社新書)、『若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか』(大月書店)など。




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ビッグイシューについて

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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊450円の雑誌を売ると半分以上の230円が彼らの収入となります。


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(2008年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第102号より)

メンバーシップも、仕事も、社会も。「偶然」「趨勢」「慣行」がつくった若者の悲劇をこえる



若者と仕事を取り巻く問題が大きな社会問題となっているが、その状況はいまだ改善されず、若年労働市場でいったい何が起きているのかも明らかになっていない。
気鋭の教育社会学者である本田由紀さん(東京大学准教授)が語る、若年労働市場を襲った悲劇の全貌と、目指すべき社会構想。


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現実と言説による二重の排除。悲劇は景気循環でも、若者のせいでもなかった



「これでは、あまりにひどすぎるじゃないか」

いま、そんな若者の切実な叫び声が、いたるところで上がっている。ある派遣社員は工場で命綱さえ持たせてもらえない状況に憤り、就職氷河期に社会に出た者は30代半ばを過ぎ、安定雇用どころか、不安定な仕事にすら就けない絶望を前に、窮状を訴える。

かつて、労働市場では相対的に有利な立場にあった若者。その存在は、未来を担うべき社会的な財産として扱われていたはずである。それが、いったいなぜ、こんなことになってしまったのか。まずは、この疑問がこの話の出発点である。

本田由紀さんは、複雑にからみあった糸をひとつずつ解きほぐすように話し出す。

「若年労働市場の問題は、90年代に入って、音を立てて崩れるように大きく変化してきたのですが、なぜそうなったのかということについては、ずいぶんと長い間、表層的で安易な説明がなされてきました。最も支配的だったのは、若者の労働意欲や努力が低下したから、フリーターやニートが増えたのだという説明です。つまり、社会の側に原因を求めるのではなく、若者の働く意識や心理といった内面の問題にフォーカスして、メディアを中心に『働かない、甘えた、ぜいたくな若者が現れた』といった指摘がなされてきたわけです」

「これと並行して、政府や経済界では景気循環だけに原因を求める考え方が主流を占めていました。『今は不況であって、このつらい時期を耐え忍べば、また80年代のようなジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた状況に戻るから、そのためには企業のやりやすいようにさせてあげて、景気がまた回復すれば、労働者にも恩恵が返ってくるのだ』といわれていたのです。しかし、いざなぎ越えといわれる景気回復で明らかになってきたのは、どうも景気の循環だけで説明できるものではなく、若者の労働意識のせいでもなかったということでした」

景気が回復した05年以降は、確かに新規大卒者の求人がバブル期並みとなり、一見すると若年労働市場は回復しているかにみえる。が、派遣社員、それにフリーターの定義から外れる35歳以上も含めた非正社員全体の数は、依然として増加傾向をたどり、また労働者の賃金上昇も過去の景気回復期とは比較にならないほど、わずかにとどまっている。

「さまざまな指標からわかるのは、若者の排除の実態には変化がないということです。むしろ、正社員の労働条件に悪化の兆しがあることを考えると、絶えず排除される若者を生み出す社会的構造が強化されていると言ってもいい。そうした厳しい現実面での排除に加えて、日本の社会では言説の面でも若者をおとしめ、彼らを二重の面で排除してきました。こうした表層的で誤った説明が、本当に私たちの社会で何が起こっているのかという事実を見えなくし、対処を遅らせてきたんです」


いったい何が起こったのか? 若者を襲った悲劇の3つの背景



90年代半ば以降の日本で、本当は何が起こっていたのか。その変化の全貌について、本田さんは少なくとも3つの要因を区別して理解しておく必要がある、と話す。

1つ目は、日本企業を襲った「不幸な偶然」である。どういうことだろうか。話は、90年代前半にさかのぼる。

当時、好景気に沸いた日本企業は、すでに労働市場に出始めていた人口規模の大きい団塊ジュニア世代を熱心に、かつ大量に採用した。ところが、急転直下、バブルが崩壊すると、この過剰採用がたちまち企業の大きな負担としてのしかかった。いや、むしろ事がそれだけで済めばよかったというべきかもしれない。バブル崩壊後、団塊ジュニア世代が大量に入社するのと入れ替わるように、今度は人口規模の大きい団塊世代が50代に近づき、高い賃金水準へと移行し始めたのである。未曾有の不況下で、日本企業は過剰な人件費圧力で身動きがとれなくなった。

「日本の年代別の人口構成はいびつな形をしているのですが、不幸にもその人口の2つのピークと景気循環の明暗の暗の部分が、偶然にも一致してしまったのです。日本の企業はもうこれでは到底やっていけないから、労働力を、これまでのようにきちんと抱え込む正社員と不安定な流動層とに分ける三層構造にさせてほしいということで、95年に日経連(当時)が『新時代の「日本的経営」』を打ち出し、これに事実上お墨付きを与えることになったわけです」

ただ、この「不幸な偶然」は、あくまでひとつの要因に過ぎない。実は、それ以前から、「不幸な偶然」とはまったく別の、産業が発展した先進国では決して避けて通ることができない大きな変化が、日本に訪れていた。それは、景気循環のような一時的な問題ではない、もとには戻らない時代の趨勢というべきもの。本田さんが「不可逆的な趨勢」と呼ぶ、産業構造の変化であった。これが2つ目の要因である。

「どの国でもそうですが、経済の成長期には、テレビや冷蔵庫、クーラーといったような、人間が生活するうえで必要な製品が大量生産、大量消費され、それがある程度ゆきわたると、生産と消費はサービス産業に移行するんです。これは、たとえばファミレスやコンビニのようなサービス産業を思い浮かべればわかりやすいですが、このサービス経済は忙しい時とそうでない時の業務の繁閑がものすごく激しいのが特徴です。そのために、忙しい時だけたくさん労働力を投入して、暇になると、さっと引き上げるという柔軟な労働力の使い方が求められるようになったわけです」

産業内部の変化は、当然ながら、これまでの経済を担っていた工場にも及んだ。工場では、ハイテクを導入した新製品や高いデザイン性の製品など、目新しさを追求した製品を少量生産するようになり、生産サイクルも短くなったため、ある一定期間だけ外部から労働力を投入して生産ラインを増やす生産形態へと移行することになった。そして、この産業構造の変化は、常に海外の安価な労働力との競争にさらされるグローバル経済の進展とあいまって、不安定で極めて人件費の安い非正社員を増やすことになっていったというわけだ。

「こうした産業構造の変化に伴う労働需要の質的変化は、他の先進国では70年代後半から問題となっていて、社会的対処が必要であると認識されていました。日本でも潜在的に同様の問題はありましたが、日本は80年代に日本的経営の花盛り期を迎え、ある種独特のかたちでこれを乗り切ってしまったがゆえに、この問題が覆い隠され、バブル崩壊後に、一気に、しかも極端なかたちで噴出することになったわけです。これは、先述の『不幸な偶然』も重なって、あまりに急激な変化であったがために、私たちはある種、めくらまし状態にあったかたちで、自分たちの社会でいったい何が起きているのか、まったく理解できないという状態に陥ったのです」

後編に続く
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