123人生相談





愚痴や不満。迷惑なお客さんへの対処に困っています



お客さんあってのサービス業とわかってはいるものの、「退職をして家でゴロゴロしている夫と顔を合わせるのがつらい」とか、「デート相手を紹介してほしい」など、しょうもない愚痴や頼まれごとばかりでうんざり。中には、明らかに病んでいる人もいます。笑顔で話を聞いていますが、全部聞いてあげるわけにもいかず、こんなご時世、逆切れされても怖いので、対処に困っています。
(男性/29歳/スポーツトレーナー)


俺は人の愚痴を聞いてあげるよりも、聞いてもらってる立場。お客さんにも、ビッグイシューの事務所にいても、愚痴ばっかり言うてる。だってな、「嫌なことは一切やりません。嫌な奴には頭を下げません。誰もわかってくれなかったら、暴れます」というバリバリの不良をやってきた俺みたいな人間に愚痴を言うても、しゃーないもん。

お客さんだってバカじゃない。たまには、テキトーに楽しんでもいいねんで。相談者の、この人を若いながらも頼もしい奴やと見込んで、いろいろと言うてきてるねんで。

でもな、俺も人生観がちょっと変わってしまった愚痴を聞いたこともあった。俺はリュックしょって日本全国を旅するのが大好きでね。たまたま乗った同じ電車に、東大や早稲田のエリート大学生がおったんや。キレイな顔した女の子が「飲みに行っても、『東大に通ってます』って自己紹介すると、誰も寄ってきません」と愚痴ったんや。俺は、「そうか、エリートにも悩みはあるんか」と、真剣に驚いた。向こうは俺と天と地ほどの差がある立場なのに、同じようにコンプレックスがあるなんて、考えたこともなかった。愚痴はコミュニケーションの一つ。自分の知らない世界を教えてくれる。

「心と身体はつながっている」って言うけど、ホンマそうや。ときどき言葉でどう伝えていいかわからなくなってしまう時がある。俺、脳みその容量が少ないから、身体がガチガチになってしまう。ちゃらんぽらんに生きてきた俺だって、病気になる。そやから、まじめに生きてきた人は、病気になって当然や。悪いけど、これからはそんな人がたくさん増えてくる。だから、専門書を読んで、知識として頭の片隅においておくのもええと思う。まぁ、頭の調子がおかしくなっている人を、丸ごと理解してやれとは言わん。本人がわかってないんやもんな(笑)。

ただ、愚痴を聞いたり、冗談を言いながら、お客さんの心を軽くして、身体を鍛えたら、効果あると思う。この人には、心と身体の両方を健康にするトレーナーを目指してほしいな。

(大阪/Yさん)


(THE BIG ISSUE JAPAN 第123号より)


Genpatsu
(2013年10月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 226号より)

重大な異常事象。福島原発、大量の汚染水漏れ



東京電力は8月20日に、汚染水の貯蔵タンクから300トンもの漏えいが起きていたと発表した。漏れの兆候は7月から見えていた。その付近の作業員の被曝線量が高い値を示していたからだ。漏れた汚染水は一部が地下へ浸透していった。一部がタンクの囲いから外へ出た。さらに、排水口を通じて海へ流れ出た。

地表の水たまりの上50センチでの放射線量は毎時100ミリシーベルトに達していたという。強烈な放射能だ。原子力規制委員会は28日の会合でこのトラブルが国際事故尺度で「レベル3」(重大な異常事象)とした。国内で3番目に深刻なトラブルとなった。

地盤沈下でタンクを解体・移設したことで接合部にずれが生じたからだとも、設置場所の地盤沈下でひずみが生じたからだともいわれている。

仮に漏れても拡散しないようにタンク群ごとに高さ50センチの囲いがあったが、雨水が貯まるのを避けるために囲いについているバルブは開いた状態で放置されていたために、そこから外へ漏れ出た。

使用しているタンクはボルト締めの簡易なもので、耐用年数は3年から5年といわれているし、設置時から接合部は劣化しやすく2年程度で漏れが始まるともいわれていた。こんなタンクが300基以上も使用されている。ということは、次々に漏れが始まってもおかしくない状況ということだ。今回の漏えいは大規模な漏えいの序章かもしれないと考えるとゾッとする。

なお悪いことに、即効性ある対策が示されていない。とりあえずは今と同様のタンクを設置したとしても、将来に向けて溶接された堅固な大容量タンクを建造すべきだ。そもそも2年前から大容量タンクの建造を進めていれば、今回の事態は回避できていただろう。

汚染水に四苦八苦している原因は、毎日毎日、原子炉建屋に流れ込んでくる400トンもの地下水だ。これが放射能汚染水となるので貯蔵せざるをえない。その量はどんどん増えて、今では34万トンを超えている。実に、25メートルプール900杯分にもなる。ところが、根本的な地下水対策が進んでいない。対策が後手後手になり、ますます右往左往する、そんな現状だ。


伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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リトアニアに帰国、イギリスでの新しい生活



アンドレイさんはその後、無事リトアニアに帰国し、家族に再会して、リトアニアで1から生活をスタートさせた。すぐに船員としてリトアニアの海運会社で働き、船上シェフとして、数年間、世界を旅したという。 2004年、リトアニアが欧州連合 (EU) に加盟したことをきっかけに、東欧のコミュニティとネットワークが強く、英語が話せる土地ということで、イギリスに移住を決意。EU加盟国に行くのにはビザは必要なく、自由に行き来できるのが魅力だった。続きを読む
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アメリカン・ドリームの終焉



アンドレイさんがアメリカに来てから数年の月日が流れた。ある日の晴れた午後、24歳になったばかりのアンドレイさんが庭でビールを飲んでいたら、警察が2人家宅捜索にきた。

アンドレイさんは警察がきた時に、会社側から予め準備されていた書類を警察に見せたが、彼等は普通警察でなく、国境警察だった。国境警察が書類に記載してある幾つかの会社に電話して、書類確認をしたところ、偽造書類だということが判明し、アンドレイさんとチームメンバーは否応無しに手錠をかけられてしまった。




国境警察の話によると、数日前、一緒に暮らしているチームメンバーのひとりが小売店で靴下を盗んで、警察につかまったそうだ。その時に「ぼくたちはリトアニアから送られて、現在奴隷としてアメリカのスーパーマーケットで掃除員として働かされています。今すぐ国に帰りたいので、どうか助けて下さい。」と警察に訴えたそうだ。

しかし、その万引きした男は、その日はそのまま家に帰れと釈放されたので、その男は警察が助けてくれないことに失望し、そのまま家に帰ったそうだ。しかしその男は警察に捕まったことを一緒に暮らしているチームの誰にも言わなかった。それは今思えば、警察のおとり捜査で、国境警察がアンドレイさんたちの家にきたのは、その出来事からわずか数日後のことだった。

アンドレイさんは他のチームメンバーと一緒に、そのまま入国管理局刑務所に送還された。




刑務所での生活



入国管理局刑務所は、シャワーのない15人1室の狭い簡素な部屋だった。連れてこられた全員が一斉に服を脱がされて、身体を隅から隅まで検査された。再び長時間に渡る事情聴取が行なわれ、すぐに裁判の手続きが手配された。

アンドレイさんとチームメンバーたちは、他の犯罪者とは隔離され、仲間と一緒の部屋に入れられた。それから2週間後、ミシガン州のモンロー・カントリー刑務所(Monroe County Jail)に移送された。

モンロー・カントリー刑務所には、二つの大部屋があり、その一つは90人1室の規模で、違法・不法労働問題関係で逮捕された人ばかり集められていた。

刑務所での生活は禁酒・禁煙、お茶さえも部屋に持ち込めず、さらにお茶を飲む時に、砂糖を摂取することも禁止されており、ベッドに家族の写真を飾ることさえも禁止されていた。アメリカでの刑務所生活は、いわゆるアメリカの映画に出てくるような自由なイメージとは、かなりほど遠いものだった。

アンドレイさんとチームメンバーは、ここでいつ通達が来るかわからない裁判の日を、じっと待ち続けた。





裁判と強制送還



モンロー・カントリー刑務所に入所してから約1ヶ月の月日が流れた。待ちに待った裁判の当日、フロリダ州からやってきたという裁判官に、アンドレイさんはこれまでのいきさつを正直に説明。判決では、アンドレイさんたちの過失責任が問われることはなく、リトアニアへの強制送還が決定した。

アンドレイさんが裁判を待っていた間、友人や両親が刑務所に4回、小切手で送金してくれたが、刑務所にいる間は一切受け取ることはできなかった。 そして「君は5年間のビザがあるから、まだ頑張ればアメリカに帰って来れるチャンスがあるだろう。」と、刑務官に言われていたが、今回の判決で、10年間のアメリカへの出入国禁止が言い渡された。

裁判で判決が出た後も、さらに約1ヶ月、強制送還されるのを刑務所で待つ日々が続いた。

刑務所での唯一の娯楽は、段ボール箱2個に無造作に入った古い映画のビデオテープだった。何度も何度も繰り返し同じ映画を見ていたので、映画によっては、テープが伸びきってしまっているものもあった。




ある日、いつものように皆で映画を見終わって、テープが巻き戻っている時、偶然CNNに繋がり、大都市の大きなビルに、飛行機が突っ込んでいる映像が数秒間見えた。刑務所にいた全員がその映像を見ており、皆口々に「アメリカで戦争が始まった」「戦争の相手はどこだ」と大騒ぎになったが、刑務官に何が起こったのかを尋ねても、無言のままで何も答えてくれなかった。

CNNの衝撃的な映像を見た2日後の早朝、突然、強制送還が言い渡され、今日中に刑務所を出ることになった。アメリカ2カ所で、合計2ヶ月半ほどの刑務所生活だった。刑務所を出所する朝、刑務官から食費として150ドルずつと、アンドレイさんの友人と両親が送ってくれた4つの小切手も返却された。




朝食の後、すぐに手錠をかけられ、護送車に乗せられ、 刑務所からデトロイトの空港に到着した。手錠を隠そうという刑務官の配慮で、手元に白い布をかけられていたが、それがかえって人々の注目をあびているような気がしてならなかった。いつの間にかどこからか報道陣が集ってきて、映像や写真を撮られた。

着席するまでは手錠をかけられたままだったので、機内にいた大半の人が「テロリストのいる飛行機には乗れないからをキャンセルしたい」と口々に叫んでいた。乗客はアンドレイさんたちの搭乗拒否を訴えたが、それが無理だとわかると、突然大声で泣き出す人や、飛行機から無理矢理降りて、航空券をキャンセルする人が後を絶たなかった。

アンドレイさんたちは、自分たちがテロリストと間違われるなんて心外だと思っていたが、この日が2001年9月11日の、アメリカ同時多発テロ事件の2日後だったと知ったのは、リトアニアに到着してからのことだった。

約半数の人たちが飛行機をキャンセルしたようだった。いっぱいだった機内はがらんとしていた。アンドレイさんたちへのアルコールの提供は禁止されていたようで、アンドレイさんがキャビンアテンダントにアルコールを頼んでも断られた。乗り継ぎのためにデトロイトからアムステルダムに到着し、飛行機を降りようとした時、先ほどのキャビンアテンダントが、たくさんのアルコールとお菓子や食べ物をいっぱい詰めた袋をアンドレイさんにそっと手渡してくれた。

アムステルダムからリトアニアへの乗り継ぎに、4−5時間の待ち時間があったので、キャビンアテンダントから貰った食べ物を好きなだけ食べて、しばらくぶりのアルコールを飲んで、ほろ酔い気分になった。アンドレイさんは一緒にいたチームメンバーと、長年夢見ていていた自由を満喫し、久しぶりに冗談を言い合い、大声で笑った。




アムステルダムからリトアニアまでの帰途の飛行機は、ビジネスクラスだった。

ビジネスクラスにはアンドレイさんたちを除くと、スーツを着たビジネスマン風の男が2−3人いただけだった。初めて乗るビジネスクラスに心が躍った。キャビンアテンダントからも、他のビジネスマンの身なりとは違い、着の身着のままの格好なのに、いつもよりも丁寧に扱われているような気がして悪い心地はしなかった。

ビジネスクラスに乗るなんて、一生に一回のことかもしれないから、この状況をより楽しみたいと思ったアンドレイさんは、キャビンアテンダントにわざとビジネスマン風の英語で話かけてみた。美しいキャビンアテンダントが満面の笑みで、英語で応対してくれた。刑務所から出てきたばかりの自分が、国際的なビジネスマンを演じていることに、リトアニアに到着するまで、ずっと笑いが止まらなかった。




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12月1日発売のビッグイシュー日本版228号のご紹介です。



スペシャルインタビュー レディー・ガガ


たびたび日本好きを公言し、震災後の来日で大フィーバーを巻き起こしてからはや2年。2015年には、なんと人類初の宇宙コンサート計画を予定しているというレディー・ガガ。ついに全貌を現したアルバム『ARTPOP』について、存分に語りつくします。



連続スペシャル企画 「貧困大国アメリカ」その2


2001年同時多発テロ後、変節する米国に危機感を抱いた堤未果さんは米国から帰国し、ジャーナリストに転職。日本の近未来を警告する『貧困大国アメリカ』三部作を次々に執筆しました。そんな堤さんに聞くインタビュー。前回「食と農」(226号)に続く、続編のテーマは「教育と若者」。



ビッグイシュー・アイ 木原雅子さんが語る「WYSHプロジェクト」


さまざまな問題を抱える10代の子どもたち。彼らに「WYSH(ウィッシュ)教育」を行う社会疫学者の木原雅子さん(京都大学大学院准教授)に、自分で考え切り拓き、こころの自立を目指す「WYSH教育」について聞きました。



特集 宇宙と生命。呼応する身体の時間


12月。1年の終わりに、改めて考えたい“時間”。
人類は生きのびるため、太陽や月の運動を観測して暦をつくってきました。時の数え方はなぜ、1年は365日、1日は24時間で、1時間60分なのでしょうか?
一方で、地球上の生物はすべて身体の中に時を刻む時計をもっています。人の身体の中には、24時間のサーカディアンリズムをはじめ、90分、7日、1ヵ月、1.3年などのリズムが組み込まれ、それが乱れると身体に変調をきたすといいます。
そこで、片山真人さん(国立天文台天文情報センター暦計算室長)に「暦とは何か? 太陽と月と地球の時間」について、大塚邦明さん(東京女子医科大学名誉教授)に「生物時計とは何か? 時を刻む生命のしくみと生体リズム」について聞きました。
さらに、飯山青海さん(大阪市立科学館)に、12月の夜空を彩る「流星・彗星観測」について取材。
すぎゆく2013年、宇宙と呼応する生命の時間をあなたの身体で感じてみませんか。



この他にも、「ホームレス人生相談」やオンラインでは掲載していない各種連載などもりだくさんです。詳しくはこちらのページをごらんください。

最新号は、ぜひお近くの販売者からお求めください。
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アメリカン・ドリームの現実




何時間眠ったのかわからない程、ぐっすりと眠り続けた。アンドレイさんが目を覚ました時、まだ他のみんなは眠っていた。アンドレイさんがマットレスから立ち上がった瞬間、すぐにアメリカ人の男がきて、住居についての簡単な説明を英語で受けた。

アメリカ人の男は続けて、今日中に住民登録をし、アメリカの銀行口座を開くよう、会社から指示がきたと言った。通常アメリカで銀行口座を開くには、ナショナル・インシュランス・ナンバー(社会保障番号)が必要で、そのためにはアメリカ国籍を持っていなければならないが、イリノイ州では住民登録と納税をしていたら、ナショナル・インシュランス・ナンバーを貰えるということだった。

納税の書類を手渡され、指示に従って手続きをし、銀行口座も簡単に開くことができた。明日から通勤で必要だというので、中古車を購入。これらの書類はすべてアメリカ側の会社が管理するというので、アンドレイさんの手元には一切残らなかった。




仕事について質問すると、「お前の仕事は船員ではなく、巨大スーパーマーケットの清掃業だ。」との返事。それでは話が違うと言うと、「文句があるなら今すぐ渡航費や仲介費を全額返済しろ。」と言う。アンドレイさんは僅かの現金しか持っておらず、渡航費や仲介費を返済出来るあてもなかった。

「全額返済出来るまで、パスポートや書類は預かっておく。全額返済した暁には、パスポート・住民票・銀行口座の書類は全て返却する。その後、自分で仕事を探すか、俺たちの会社で続けて働くかは、お前が自由に決めればいい。とにかく忘れないでほしいのは、俺たちの会社は、お前たちのような若者の将来を手助けしてやっているんだよ。それがわかったら、今はただ黙って仕事するんだ。」と男は静かに言った。

結局のところ、到着した日に連れて行かれた事務所で、アンドレイさんが実際にサインしたアメリカ側の契約書をもう一度読み返すと、渡航費や仲介費の返済義務について書かれていたが、その返済金額はどこにも明記されていなかった。しかしその返済合計額が121500ドル(日本円で約1220万円)だったと知らされたのは、ずっと後になってからのことだった。




巨大スーパーマーケットの清掃は、深夜12時から朝8時までで、スーパーマーケットの大きさによって、5−8人のチーム編成が組まれ、掃除を分担していくというものだった。

この清掃業の給料は月額1400ドル(日本円で約14万円)で、1000ドルはアメリカの会社への借金返済へあてられ、300ドルは住居費、光熱費、通勤のためのガソリン代に消えてしまい、月にアンドレイさんが受け取るお金は現金でわずか約100ドル(日本円で約1万円)だった。そのなけなしのお金もすべて食費に消えてしまい、月末になるとお金がつきて、食事がとれないこともしばしばあった。




毎日働いているのに1日も休みが与えられなかった。アンドレイさんは英語も他の人より上手く、仕事を早く覚えたこともあり、数ヶ月後には清掃チームの監視役のポジションに着いた。

しかし責任が重い割に、他の人より給料が100ドル多い程度だった。アンドレイさんの仕事は、各スーパーマーケットのマネージャーとの清掃についての打ち合わせ、清掃員のチーム編成、掃除の指導と監督。

しかし、チームには常に人数が足りない状態だったので、アンドレイさんは、皆が嫌がる最も危険な化学薬品を使用しているワックスがけを積極的に行なった。これらの強烈な業務用洗剤の化学薬品により、チームメンバーの全身にアレルギー反応がでていたが、 病院に行くことは許可されていなかった上、日々の生活をアメリカ人に監視されているため、自由に外出することは不可能だった。




掃除を担当していた郊外の巨大スーパーマーケットが営業不振で倒産すると、チームで引っ越し、新しいスーパーマーケットで仕事を始めるという生活が続いた。

アンドレイさんは、最初の1年間で、インディアナ、ウエストバージニア、イリノイ、ウィスコンシン、ルイジアナなど、合計7カ所の州に移り住んだ。引っ越しはアメリカの会社から突然言い渡され、その当日に荷物をまとめて引っ越さなければならなかった。あまりにも引っ越しが多すぎて、どこに住んでいるかもわからなくなることもしばしばあった。




小さな一軒家にチーム7−8人全員と監視役のアメリカ人が暮らしているので、プライベートな部屋も生活も全くなかった。 アメリカ人は個室を与えられていたが、リトアニア人は雑魚寝だった。

生活は貧しく、自分の自由になるお金がなかった。食費を削りに削っても、ようやくテレフォンカードが1ヶ月に1回買えるかどうかだった。リトアニアにいるアンドレイさんの家族は、アメリカ行きを反対していたから、今自分のおかれている状況を説明出来ずにいた。

アンドレイさん自身、自分の判断が間違いだったことは充分にわかっていたし、家族に話しても心配させるだけで、どうしようもないと思っていたが、借金さえ返せば、いつか自由の身になると信じていたため、アンドレイさんは家族に、アメリカでの生活が充実したものであると偽って話していた。

家族にプレゼントを送るために、 食事を何日か抜いて、無理をして、身体がフラフラになったりもした。それでも家族へのプレゼントは、クリスマスやイースターが終わり、売れ残った商品のチョコレートやカードが半額以下になるのを待ってからでないと、買うことができなかった。




こうして1年後には、アンドレイさんはマネージメント業務もまかされるようになり、2200ドル(約22万円)の給料を得るまでとなった。

当時のアメリカのスーパーマーケットのマネージャークラスで1000ドル(約10万円)の給料だったそうだから、かなりの高給だった。しかし、アンドレイさんは、 給料のほとんどを借金の返済に充てていたから、貧しい生活からは抜け出せなかった。アンドレイさんは、早く借金を返し、自由になりたいという一心で、ただ毎日必死に働いていた。

仕事は厳しかったが、アメリカの会社は月に一回、庭でバーベキューを開催し、その時には好きなだけ肉を食べたり、アルコールを飲んだりすることができた。その繰り返しで、リトアニア人たちが逃げ出したくなる欲求を押さえ込もうとしていたのだ。アメと鞭の繰り返しだった。




part4へ続く


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現代でも、世界各地で人身売買が絶えることなく、今も横行している。人身売買された経験を持つイギリス在住のアンドレイさん(36歳)にインタビューした。


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思いがけず訪れたアメリカ行きのチャンス



ある日、アンドレイさんの友人が、アメリカでの船員の仕事を、リトアニアの新聞の求職欄で見つけた。最初にアンドレイさんがこの話を聞いた時、こんな時代にリトアニアからアメリカに仕事で行けるなんて信じられなかったという。続きを読む
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現代でも、世界各地で人身売買が絶えることなく、今も横行している。人身売買された経験を持つイギリス在住のアンドレイさん(36歳)にインタビューした。






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前編を読む




欲望の原形、権力の象徴としてのお金。平和な時代に金貸しがはびこる




天皇から寺院、幕府、庶民にいたるまで、古今東西、多くの人を困惑させ、時代の背後に潜んで歴史をも動かしてきたお金。この摩訶不思議なお金は、そもそも人間にとってどんな存在だったのだろうか?





水上さんは、貨幣の始まりをこんなふうに解説してみせる。

「まだ貨幣という概念が存在していない時代、当時先進国だった中国から銅銭が入ってきましたが、それを初めて目にした人たちは、円形で中央に穴が開き、ピカピカに光った金属を珍品と見たのではないかと思うんです。

しかも、加工技術がない時代だから、みんな同じような形をしている貨幣は物珍しく、宝石を蒐集するみたいに集めたくなった。それは、子どもが河原でキレイな石を拾い集めるような、他人が持っていない珍しいものを所有したいという人間の欲望の原形だったのではないでしょうか」





貨幣が登場するまで、物々交換の主要な役割を果たしていたのは、日本においては「米」や「絹」だった。とくに「米」は他の食糧に比べ、長期間の保存がきくため、お金のような役割を担うことができた。つまり、物を交換する際に腐りもしなければ、目減りすることもない貨幣は、豊かさや価値を保存する上で最も適した物質として普及することになったのだ。




また、お金は国を統一する手段の一つであり、時の権力の象徴でもあった、と水上さんは話す。

「天下を統一するということは、必然的に度量衡から言語に至るまで画一化したシステムをつくるということです。だから、価値を画一的に計る貨幣という存在は国を治める上でなくてはならないものでした。世界で最初に紙幣を発行したのはチンギス・ハーンのモンゴル帝国ですが、単なる紙切れに相応の価値を保証できたのは、朝鮮半島から東ヨーロッパに達する史上最大の帝国という絶対的権力があったからです」




貨幣の誕生から日本史を縦断し、お金と人間の抜き差しならない関係を見てくると、平成という今の時代も、また違ったかたちに見えてくる。

「日本史の中では、金貸しがリセットされたことが少なくとも3度ありました。戦国時代と明治維新、それから第2次世界大戦の時で、誰がいつ死ぬかわからない、みんなが命を賭けて生きている時代に金は貸せなかった。逆に、百花繚乱のごとく金貸しがはびこったのは、太平の世といわれた江戸時代です。皮肉な言い方ですが、歴史の上だけで見れば、消費者金融が長者番付の上位を独占していた頃は、それだけ平和な時代だともいえます」




欲望をどこで抑えるか、お金のセンスを磨く



現在、水上さんは、消費者が「お金とは何か?」について考える場を提供する「NPO法人 マネー・マネジメント・アソシエーション」の事務局長として、お金のリテラシーについて教育する活動を行っている。

ただ、「お金のリテラシー」といっても、一概にお金の節約、貯蓄が美徳であることを教えるようなことはしない。賢いお金の使い方を身につけるのが難しいことは、歴史がすでに証明しているからだ。

「今や、政府の借金は約800兆円(編集部注:2013年11月現在、1,000兆円を超えました)です。一人当たり約600万円、地方の借金を入れれば1000万円も、私たちは次世代から借金している計算になる。これだけ多くの借金をみんながしていた時代は、おそらく歴史上もなかった。頭のいい人たちが寄ってたかって国会で審議して、お金の使い方を決めてもこの程度なんです。だから、個人がお金で失敗しても、そんなに恥ずかしいことじゃない」




そもそも全員が質素倹約、貯蓄を始めたら、それこそ国が金詰まりを起こして、経済がたちまち立ちゆかなくなる。

「結局、お金というのは、人間の欲望そのもので、欲望が人類を発展させてきたとすれば、お金は人生ともいえる。人生に振り回されるなと言っても至難の業ですから、お金のリテラシーというのは、人それぞれ自分の欲望をどこで抑えるか、お金のセンスを磨くということに尽きる」

「むしろ大事なのは、お金はコントロールできないものだということを知っておくことです。そのためには、時々お金について考えてみる。自分はお金で何を失ったか、お金で買えないものは何なのか、と。そういうことが必要だと思いますね」




(稗田和博)
Photo:鈴木奈保子




みずかみ・ひろあき
1955年、北海道札幌市生まれ。「NPO法人 マネー・マネジメント・アソシエーション」事務局長。立教大学法学部卒業後、社団法人「日本クレジット産業協会」に勤務。そのかたわら、「金貸し」と「借金」に関する文献を読み漁り、独自の視点から日本通史を提示。著書に『金貸しの日本史』(新潮新書)、『クレジットカードの知識』(日本経済新聞出版社)がある。
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