(2013年4月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第213号、「ノーンギシュの日々--ケニア・マサイマラから」より)






象牙密猟の犠牲になった雄ゾウ、ヘリテージ




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「ヘリテージ」と呼ばれる大きな雄ゾウが、象牙密猟の犠牲になった。ヘリテージのことは2006年の頃からよく知っていた。当時、私は保護区外にあるマサイランドの森のすぐ横に住んでいたからだ。

ヘリテージはよく、うちの庭のフェンスをゆっくり持ち上げて野菜畑に入ってきては、トウモロコシを盗んでいった。私は唐辛子の粉を混ぜたオイルをフェンスに塗ったりして、彼が庭に入ってこないように工夫したのを覚えている。




ゾウは保護区の中だけでは、生きのびていくことができない。サバンナが広がる保護区の中には、木がポツンポツンとしか生えていなくて、大きなゾウたちがお腹いっぱい食べられるほどの植物がないからだ。そのため、大きな雄ゾウの多くが保護区の外にある森に入り、そこで多くの時間を過ごしている。

深い原生林で長年の間、平和な時を過ごしてきたゾウたち。しかし、ゾウたちにとって平和な場所はもうなくなりつつある。優しい雄ゾウ、ヘリテージの死骸は、彼が大好きだった深い緑の森の中で見つかった。




横たわった、山のように大きな彼の身体。機関銃から放たれた銃弾が身体の右側に10個以上埋まっていた。身体の反対側には、あと何発ぐらいの銃弾が埋まっているのかは、わからなかった。

大きくて、とても静かだったヘリテージ。彼の動きを把握するため無線ラジオコラーをつけようとしたことがあり、大きな鼻から息を数えて麻酔のモニタリングをしたのが、彼を見た最後となってしまった。その時、眠っていた彼の滑らかな象牙を撫でたので、私もその大きさと美しさは見ている。でも、それは生きている姿の美しさであり、決して彼の命に代わるものではない。

1頭1頭、大きな象牙を持った雄が殺され、生きのびた雌ゾウたちも子孫が残せなくなって、ゾウはこのままいなくなってしまうのだろうか……。彼らの将来を考えると、心配で眠れない日が続く。




(C) Marc Goss


たきた・あすか
1975年生まれ。NY州のスキッドモア・カレッジで動物学専攻。大学卒業後、就職活動でアフリカ各地を放浪。ナイロビ大学獣医学部に編入、2005年獣医に。現在はケニアでマサイマラ巡回家畜診療プロジェクトなどの活動を行う。ノーンギシュは滝田さんの愛称(マサイ語で牛の好きな女)。著書に『獣の女医 ―サバンナを行く』(産経新聞出版)などがある。
https://www.taelephants.org/
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(2008年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第97号




市民権か?難民か?ブータンに住むチベット人難民




50年代にブータン国王に迎えられたチベット難民。
彼らの思いは二つの「母国」の間で揺れている。







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依然として厳しい統制下にあるブータン



テレビに映し出されているのは、チベットの中国支配とそれに反発する世界各国の抗議行動だ。

ヒマラヤ山脈の奥深い小さなチベット人難民集落の人々は、画面を見つめながら、自分たちにはなすすべもない無力感でいっぱいだった。

小さな仏教王国ブータン(※1)では、北側の国境を接する隣国のチベットと民族的にも文化的にもまた言語的にも近いが、デモ行為は許されない。チベット族の若者は、トラブルを恐れ、インタビューで名乗ることすらためらった。

「私たちも抗議はしたい。でも私たちにはその権利はない。とても残念なことです」。テンジンと名乗った24歳の女性は語った。「抗議行動を起こすことができれば、チベットはチベット人のものであることを世界に伝えることができるのに」




60年前、チベットとブータンは、外の世界から隔絶された封建的な社会だった。しかし、チベットが中国にのみ込まれてしまった後は、ブータンはインドに近づき(※2)、徐々に近代化と開国へ踏み出した。昨年の上院議員選挙に続き、今年3月には下院議員選挙が実施され、4月にはブータン調和党(DPT)のジグミ・ティンレイ党首が首相に任命され、新内閣が発足した。一世紀におよぶ王政に終止符が打たれ、民主制へとまた一歩、歩みを進めることになったのだ。

だが、そのような民主化に向けた進歩が見られる中でも、ブータンでは、支配層への批判、ましてや抗議行動などは許されない、依然として厳しい統制下におかれた国である。




チベット帰還の権利放棄で与えられる選挙権



チベット人難民は、1950年代にブータン国王に迎え入れられ、土地を与えられた。ブータン中央部に位置するホンツオでは、チベット人家族らがジャガイモやりんごを栽培し、道路脇などで販売している。

ツシェリン・ジャムツショーが両親の背中におわれ、チベットからブータンまでの長く危険な道のりを渡ってきたのは59年、彼が2歳のときだった。チベットの精神的指導者、ダライ・ラマが中国政府の統治に対する蜂起に失敗した後、インドに亡命した年である(※3)。




ジャムツショーは言う。ここで得た安全な居場所に対しては、いつも感謝している、と。

「私はチベットで生まれ、ブータンで育ちました」。ダライ・ラマやブータンの歴代王らの写真が飾られた、バターランプの灯りのともる自宅の祭壇の前で、彼は話してくれた。「この二つの国は、私にとって父と母みたいなものです」




チベットにいつの日か戻るという権利を放棄したチベット人難民には、ブータンの市民権が与えられ、先週行われた選挙での投票が許された。

しかし、大多数のチベット人難民は、チベットに帰りたいという意思をブータン政府側に示した。結果として、彼らは難民という身分を持ち続けるほかなく、それが自分たちをまるで2級市民のように感じさせるのだと若い層は不満を口にする。




難民の身分のままでは、政府から人物証明(セキュリティ・クリアランス)を取得することは事実上不可能だといわれているが、一方、それがなければ政府関係の職に就くことや、子どもを高等教育機関に入れること、また商売や事業を行うための認可を得ることもできない。

多くのチベット人は、ブータン人から商売の許可証を借用することで何とかやっているが、彼らが大変不安定な状態にあることには変わりない。

「私たちがそのような許可証や証明書の類を手に入れるのは大変難しく、仕事も容易には見つかりません」。

ブータンの首都ティンプーにある小さなマーケットで、チベット土産を売る女性はそう語った。

「もし独立が実現するなら、チベットに帰りたい。でも、もし難民の身分のままでも人物証明が取得できたら、おそらくこちらに残るでしょう」







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国境封鎖、歓迎されない新たな難民



ブータンの人口は100万人にも満たず、59年にチベット人難民を受け入れた後は、政府はさらに難民が大挙して押し寄せることを恐れ、北側の国境を閉鎖した。新たな難民はもはや歓迎されないということである。




農家の妻である48歳のドルカーは、両親が安全な暮らしを求めて敢行した危険な道のりの途中、ヒマラヤ山脈の高い場所で生まれたのだという。彼女は、今は82歳となったその母親と一緒に暮らしているが、残りの家族はばらばらに住んでいる。

それぞれ19歳、18歳、15歳になるドルカーの子どもたちは、全員インドのムスーリーで学んでいる。またドルカーの妹はカナダに、兄はヒマラヤ山脈に囲まれたインド北部のラダック州に住んでいる。




「軍がやって来て、いくつかの家族に拷問を加え、そのほかの者は逃げるしかありませんでした」。

59年に家族がたどった長くつらい旅路をドルカーが語っている間、顔に深く皺が刻まれ、背骨の曲がった母親は、ベッドに座って静かに数珠を手繰っていた。


「両親の兄弟の多くは、投獄されてしまい、その後彼らがどうなったのかわかりません。その後生き延びたのか、死んでしまったのかもわからないのです」。娘がそう話した時、母親はつらそうな表情を見せた。




彼女らの住む質素な土床の家の中は、遠く離れた子どもたちの思い出の品や、アーノルド・シュワルツネッガーのポスター、クレヨンで描かれたブータンの仏塔や田園風景の絵などが飾られていた。

「いつも小さな希望は持ち続けていますが、本当に自由を得られる日が来るかどうかは、わかりません」最後に彼女はそう言った。

(Simon Denyer /Courtesy of Reuters © Street News Service: www.street-papers.org)

Photo:REUTERS/Desmond Boylan




※1 ブータンの民族は、チベット系約80%。ネパール系約20%。宗教は、チベット仏教、ヒンドゥー教など。1972年に就任した第4代国王の下で、国の近代化と民主化が進められたが一方で、民族アイデンティティー強化施策が国内のネパール系住民の反発を招き、多くのネパール系住民が難民となってネパールに流入していることが問題になっている。

※2 インドとは、49年のインド・ブータン条約により特殊な関係(対外政策に関するインドの助言)にあったが、昨年3月の改定により同助言に関する条項が廃止された。

※3 59年3月、ダライ・ラマ14世が中華人民共和国に拉致されることをおそれたラサ市民がノルブリンカ宮を包囲(59年のチベット蜂起)。ラサ駐屯の中国人民解放軍に解散を要求し、さもなくば砲撃すると通告した。 その後、ダライ・ラマ14世はチベットを脱出し、インドへの国境越えの直前、チベット臨時政府の樹立を宣言した。




<関連記事、関連サイト>
視点・論点 「"幸せの国"ブータン もうひとつの顔」 | 視点・論点 | 解説委員室:NHK
「ブータン――「幸福な国」の不都合な真実」根本 かおる 著 | Kousyoublog
難民支援NGO"Dream for Children"チベット難民の暮らし

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人種や国境を越え、語り継がれていく 「フード・ストーリー」



ロンドンの下町ブリクストン(Brixton)在住のアーティスト、ソフィー・ヘルクスハイマー(Sophie Herxheimer)さん。彼女の底抜けに明るく、フレンドリーでダイナミックなキャラクターは、まさにロンドンっ子たちのお母さん的存在。
ロンドンをはじめイギリス各都市で暮らす一般の人々から、食べ物にまつわる話「フード・ストーリー」を紡ぎだす彼女にインタビューした。






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「フード・ストーリー」を始めたきっかけ




タケトモコ:「フード・ストーリー」のプロジェクトを始めたきっかけを教えてください。

ソフィー:世界中のどんな場所に生きる人でも、毎日何かを食べていますよね。みなさんもそうだと思いますが、私も食べることが大好きで、 子どもの頃からキッチンに入り浸り、本を読んだり、詩を書いたり、絵を描いたりしていました。

現在、私にはふたりの子どもがいるんですが、下の息子が自閉症で、息子から話を聞くことの大切さを学んだんです。

人々から食べ物にまつわる話「フード・ストーリー」を聞いて、そこから大切なエッセンスを引き出し、相手の本質を理解することが、次第にトレーニングされていきました。日常生活の中で、人の話を聞いたり、詩を書くこと、ドローイングといったクリエイションの作業と食が、ごく自然に結びついていったのです。その人らしいユニークな食にまつわる話を引き出し、短い文章とドローイングに表現して、共有する面白さを発見し、ストリートに集ってきた人々に、じっくり話を聞くことから始めました。

話をひととおり聞き終わってから、印象的なシーンを短いストーリーとしてまとめ、ストーリーからインスピレーションを得て、話してくれた人の目の前でドローイングを描いていきます。





ロンドン・テムズ川の橋にかかった全長300mのテーブルクロス




ソフィー:ロンドンのテムズフェスティバル2010で行なわれた"橋の饗宴"では、ロンドンのテムズ川に架かる橋の上で、300mのダイニング・テーブルが準備され、朝から晩まで食事が振る舞われるという企画でした。ロンドン市民の声を作品として生かしたかったので、私はテムズ川近くのストリートにブースを構え、ロンドンっ子たちから「フード・ストーリー」を集めていきました。こうしてまとめた一つひとつのストーリーとドローイングを、毎日テーブルクロスにシルクスクリーンで手刷りしていき、長いテーブルクロスを作成しました。





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ソフィー:日本のみなさんもご存知だと思いますが、ロンドンはあらゆる人種や文化が解け合い、共存している土地です。地元の人々と新旧の移民が混ざりあうロンドンっ子の話はとても個性的で、一度たりとも同じ話を聞いたことはありません。

例えば、南ロンドン出身のある人は、こんな思い出話を語ってくれました。英国東部のサフォーク州にいた時からお父さんがニワトリを飼っていて、子どもの頃、いつも納屋から卵を持ってきてくれていたそうです。ニワトリや七面鳥の羽のむしり方や解体の仕方、ウサギの皮を剥ぐ方法まで教わったとのことでした。

またコンゴ出身の人は、ロンドンに移民としてやってきた学生時代に、シェアハウスで作ったスパゲティ・ボロネーゼの話をしてくれました。

「フード・ストーリー」の魅力は、ロンドンっ子がニワトリを飼っていたり、コンゴ出身の人がスパゲティ・ボロネーゼをつくるといった、ステレオタイプでないユニークな話が飛び出すことです。「食べ物」や「食べること」という普遍的な話から個人的な思い出を引き出し、人々と共有しながら、社会に還元していけるのです。

人種・肌の色や文化を超えて、個人の食にまつわる話にフォーカスをあてる、有機的なプロジェクトですので、それぞれの「フード・ストーリー」にドラマを感じます。音楽に例えると、1つのストーリーはメロディですが、たくさんのストーリーが集まると、オーケストラのような美しいハーモニーが生まれてくる―――私はいわば、オーケストラの指揮者のような役割ですね。






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タケトモコ:「フード・ストーリー」のプロジェクトの中で、一番面白いと思ったことは何ですか?


ソフィー:人々から話を聞いていると、突然ヴィジョンが浮かんできて、言葉が飛び出してくることがあるんです。

例えば、ノルウェー・オスロ出身の女性から話を聞いている時、突然に小さなサルと彼女がいる場面が浮かんできたので、「ああ、あなたの飼っている小さなサルと一緒に行ったんですね。」と言ったら、その人が「なぜ私が小さなサルを飼っていることを知っているんですか?今あなたに話そうと思っていたところなのに!!!」と目を丸くして驚いていました。

「フード・ストーリー」を始めてから、何百人、何千人の話を聞いていると、時々、目の前にいる人が、次に何を話そうと思っているのかが、ヴィジョンとして見えてくることがあるんですよ。そういう体験も含めて、「フード・ストーリー」は面白いんですよね。






ゴーストタウンに暮らす難民たちの「フード・ストーリー」




ソフィー: イギリス東南の海沿いの地方都市マーゲート(Margate)でも、「フード・ストーリー」のプロジェクトを行ないました。この土地は1950年〜60年代には、ドリーム・ランドと呼ばれ、労働者階級の観光客がひしめき合っていた土地です。

しかし今では、観光客は激安フライトでスペインやポルトガルなどの国外のビーチに訪れるため、ゴーストタウンと化してしまった土地です。

ここで私は、難民としてこの土地に来て、暮らしている人たちから話を聞いて、たくさんの「フード・ストーリー」を集めました。多くの難民たちの話は、非常に個人的で琴線に触れるものでした。そのストーリーとドローイングをまとめて、”PIE DAYS & HOLIDAY”という本にしました。




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海岸で偶然拾った、銀のナイフの話




タケトモコ:マーゲートでのプロジェクト、”PIE DAYS & HOLIDAY”で印象に残っている話を聞かせてください。


ソフィー:ある男性の話なんですが、彼がまだ子どもの頃、彼のお父さんが農場従事者で、農場の土を肥やすために、海から海草を採ってきて、乾燥させた海藻を粉々にして農場に蒔き、土にミネラルを補給していたそうです。

この話をしてくれた男性が6歳の頃、彼のお父さんがいつものように海岸に海藻をとりにいくと、海岸に豪華な装飾が施された純銀のナイフが落ちていました。

お父さんは海からの宝物だと思い、 大切に家に持ち帰り、 銀のナイフをポケットから取り出し、嬉しそうに拾ったときのエピソードを彼とお母さんに話しました。しかし、お母さんはその薄汚れた銀のナイフを見て、頭ごなしに怒鳴りつけ、誰のものかわからないナイフを食卓に並べることに批判的でした。

しかしお父さんは、その銀のナイフを毎日美しく磨き上げて、食事をするのを楽しみにしていました。




貧しい環境と家庭環境で育った子どもの彼は、お父さんの夢のような宝物の話が、現実のおとぎ話のようで、羨ましくもあり、誇りに思っていたそうです。

食事のたびに、両親は、その銀のナイフのことで喧嘩をしていましたが、結局そのナイフは捨てられることはなかった。彼はその頃からすると随分年を重ねて、現在60歳だそうですが、その当時にはわからなかった、両親の心理が理解出来るようになったと話してくれました。

その話を聞いてから、ストーリーをまとめあげ、銀のナイフのドローイングを描いたのですが、そのナイフがお父さんの持っていたものとそっくりだと、その男性はいたく感動して、涙ぐんでいました。




ソフィー:難民の人たちは貧しい家庭に育ち、英語が話せても、読み書きが出来ない人が多いので、このプロジェクトは、文字の表現よりも、それ以外のコミュニケーションやドローイングが生かされました。

食べ物にまつわる「フード・ストーリー」から、その人の背負ってきた背景、その人の生きざま、価値観、 そしてそこから文化が見えてくるのです。「フード・ストーリー」は、なにもなさそうに見える日常から、大切な「なにか」を生み出します。人々の食べ物にまつわる話は、私というアーティストの媒体を通して、ストーリーとドローイングとして視覚化され、人種や国境を越えて、あらゆる人々に共有されながら、様々な土地で語り継がれていくのです。





タケトモコ
美術家。アムステルダム在住。現地のストリート・マガジン『Z!』誌とともに、”HOMELESSHOME PROJECT”(ホームレスホーム・プロジェクト)を企画するなど、あらゆるマイノリティ問題を軸に、衣食住をテーマにした創作活動を展開している。
ツイッター:@TTAKE_NL
ウェブサイト:http://tomokotake.net/index2.html




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(2008年6月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第96号





北欧先住民サーミ、森林伐採で存立の危機に



スウェーデン、ノルウェー、フィンランドを中心に
約10万人いるといわれる北欧の先住民族、サーミ。
そのうち約8000人を占めるフィンランドのサーミは、
森林伐採や土地利用権などをめぐって危機的状況にある。





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森林伐採でトナカイ遊牧に被害



フィンランドに住む先住民族サーミの人々は、彼らの伝統的な生活様式を守ることができないのではという懸念を募らせている。

フィンランドの憲法では、サーミは先住民族として認識されている。彼らは独自の議会を持ち、母語でさまざまな市民サービスを受ける権利も持っている。しかし、一部の地方自治体では、サーミに対する憲法上の認識に十分な配慮がなされていないと、首都ヘルシンキから170キロメートル離れたトゥルク市にあるオーボ・アカデミー大学で国際法を教えるマーティン・シェイミン教授は語る。




サーミは、北ヨーロッパの先住民族で、約10万人が主にスウェーデン、ノルウェー、フィンランドに住んでおり、フィンランドには約8000人が住んでいる。何百ものサーミの家族が、彼らの伝統的な生計手段であるトナカイの遊牧に従事している。しかし、同化政策により、多くのサーミがフィンランド人のライフスタイルに移行しつつある。

シェイミン教授によると、サーミの生活は、政府による森林の樹木伐採によって、トナカイの牧草地を荒らされ、遊牧に被害が出ているという。多くのサーミが住む北部の広大な土地は、政府の所有地だ。「政府がこの土地をどのようにして所有するに至ったのか、誰から買ったのか、誰も知りません。政府はただ単に、この土地を取得したのです」と、シェイミン教授は語る。

「政府の森林省は、森林伐採プロジェクトは規模が小さいため、サーミのトナカイ遊牧に悪い影響は与えないと主張して、森林の伐採を続けています。でも、全体を見わたしてみると、伐採は大きなインパクトを及ぼすのです」




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ILOの「先住民の土地に関する権利協定」を批准しないフィンランド



サーミ会議の議長ペッカ・アイキオ氏は、サーミの大多数が住んでいるノルウェーでは、政府がサーミや他の地元の人々に対して、土地の共同所有権を認めているため、状況はましだと言う。

一方、フィンランドは、89年に採決され91年に有効となった、国際労働機関ILOの「先住民および部族民の土地に関する権利協定169」を批准していないため、サーミの人々の土地使用権は複雑だ。

協定の第14条は、「政府は必要に応じて、関係する人々が代々占用していた土地を特定し、その所有権の効果的な保護を保障しなければならない」としている。ILOの協定169を適用すれば、フィンランドはサーミに帰属する土地の所有権を認めるか土地の使用権を保護することにより、土地の分割を始めなければならない。




シェイミン教授によると、土地に関する資源権は、サーミの人々の自然に根ざした生活様式だけでなく、彼らの言語と文化を守る上で、非常に大切なことだ。

「トナカイ遊牧や自然を基本とした生活様式に根ざした社会活動が、生きた言葉を維持していくのです。サーミ語は、サーミの生活の仕方とともに生き死にする。もしサーミの生活様式が博物館入りしてしまえば、サーミ語の将来はないでしょう」




フィンランドのマイノリティ・オンブズマンであるヨハンナ・スーパ氏は、言語に関する困難さについても言及した。

「法律では、サーミの人々は彼らの母語で国のサービスを受ける権利があるとありますが、現在彼らが受けられるサービスは限られています」。

それは、北部では、サーミ語を十分に話せる公務員がいないからだ。いつも議論の焦点は土地所有権だが、言語の問題も危機的であるとスーパ氏は語った。




「彼らが生活様式をどうにか継続できたのは、親戚から国境を越えてサポートがあったからです。もしこれがフィンランドだけの問題であったなら、過去20年の間に、あるいはもっと早くに、サーミの生活様式は失われていたでしょう」




(Linus Atarah / Courtesy of Inter Press Service © Street News Service : www.street-papers.org)

(人物写真クレジット)
Linus Atarah/IPS





議論の余地ある土地や水の優先権—サーミの歩み



サーミとは、スカンジナビア半島北部(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)および、ロシア北部のコラ半島に居住する先住民。かつてはラップとも呼ばれたが、「ラップランド」とはスウェーデンから見て辺境の地を呼んだ蔑称。

彼ら自身は、サーミあるいはサーメと自称している。北方少数民族として、アイヌ民族などとの交流もある。トナカイ遊牧に従事する山岳サーミと森林サーミ、漁業を生業とする河川サーミと湖サーミ、海岸サーミなど多様な生活様式を持つ。

1953年に、北欧3国のサーミ人全国組織の代表をメンバーとする第1回「北欧サーミ評議会」が設置され、87年には、サーミの代表機関「サーミ会議」を設置する法律が制定された。これらの法律により、サーミの法的地位の改善は進んだ一方で、土地や水に対するサーミの優先権の確立についてはまだ議論の余地がある。

(『ラップランドのサーミ人』ピアーズ・ビテブスキー著/リブリオ出版、『サーミ人の歴史 北欧史』山川出版社、ウィキペディア)


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<編集部より:人気記事「なぜ増える?見えない女性ホームレス。単身女性3人に1人が貧困(雨宮処凛)」の翻訳版です。未読の方は日本語版をご覧下さい。>




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Last year, statistics released by the Japanese bureau of national statistics* revealed that one in three single women is living in poverty. The news left the country in shock. It was so unusual; there was not even a word for it. The term 'Hinkonjyoshi', which translates as 'girls in poverty' has since been added to the Japanese vocabulary.




Although the study also revealed a high proportion of single men living in poverty (a quarter of all single men between 20-64), it was the single women's poverty rate of 32% that sent shock waves through the country- particularly because it was previously unknown to most.

Experts say the signs were all there. The outdated Japanese social security system is built on the very traditional family model in which the father is breadwinner and the mother cares for the children. Despite obvious changes in society, with increased numbers of divorced and unmarried women, the benefit system has not been amended.




Further clues can be found in employment statistics. Whilst temporary jobs account for less than 40 per cent of the country total, more than half of all females are in temporary employment. And wage distribution tells its own story. Although 42 per cent of Japan's total labour force is made up by women, they earn almost a half of what men workers do. Many say signs were simply not recognised because of the popular belief that women should stay at home once they are married.

When it comes to homelessness, it is easy to ignore the problems women face, simply because they are harder to find. The number of female homeless is fewer than that of men. They are more 'invisible' in the streets, but they do exist. The reason many homeless women are unnoticeable is because they try not to be recognised as homeless in order to keep themselves safe.

It is the homeless shelters that see the real picture. During the New Year holidays, traditionally a family time, emergency shelters took in single women, some of them only in their twenties. I interviewed some of them to try and find out what underlying problems drove these girls to the streets.




One girl told me she could not rely on her family and became homeless after flat-sharing with a friend ended with a dispute. She said: "I tried everything to conceal myself at night."

Another lady told me that she was so scared to be in the streets at night that she went around internet cafés and 24-hour restaurants to spend the time until dawn. She is in her 40s and had suffered from mental illness for a long time. She used to make a living on a part-time job but lost her job and subsequently her own home.

When she went back to ask for help from her family, her parents were not happy about the situation and eventually kicked her out. She got together with a man she met on the street, but once he moved in to a temporary male shelter, she was alone again. Nowadays, she makes ends meet by taking on small day jobs where she can, and makes a tour of fast food restaurants during the night. She hardly lies down and gets little sleep. Yet, no one in Japan would imagine that a lady sitting in a fast food restaurant at night could be homeless.




And then there is the factor all too often intertwined with homelessness in Japan: prostitution.




Kanae is in her twenties and has been in the industry 'for a long time'. She has a bad relationship with her family and had been thrown out of home when she was still a teenager. She moved to the city and soon convinced herself that working as a prostitute was the only job she could get with an immediate pay in cash and accommodation.

After a while, she met her boyfriend and they moved in together. But things did not go well for Kanae as she soon found herself exposed domestic violence from her boyfriend. She chose to stay with him and tolerated abuse for some years, because: "I had only three paths to choose from: putting up with him, returning to prostitution or becoming homeless."

In the end, she put an end to the relationship and went back to prostitution. However, depression hit her, making it impossible for her to continue work and pay for the guesthouse she stayed at. Kanae eventually ended up on the streets. Luckily, she found access to a livelihood support programme and she is currently receiving treatment in a mental health clinic.




Female poverty and homelessness has many causes. The economic issues of unstable employment and unequal pay rates go some way in explaining the problems. The lack of a safety net for single women in particular is also proving to play a huge part, and in some way has become a breeding ground for prostitution and domestic violence.

Even if women overcome these obstacles, there are hardly any social security such as support centre for women or stable employment ensuring proper sustainable living afterwards. What is more, they tend to deny and hide the fact that they are homeless for their own protection and this makes them blind to any potential help.

These stories of young, single homeless women remind me of the tragic case of Sanae Himomura, who was accused of letting her own children die of starvation. Without any work experience, the only job she could find after a divorce was prostitution. It is in this shocking reality, where women have very limited choices when hit by difficult times, that the problems of female poverty in Japan are really laid bare. And I should not be the only one to feel this way.




*The report by the National Institute of Population and Social Security Research showed that one in three single household women aged between 20 and 64 years old live in poverty.




Translated into English by Aya Kawanishi


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(2013年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 215号より)

1万件の点検漏れ。「もんじゅ」停止命令




「もんじゅ」は1万件におよぶ点検漏れで、原子力規制委員会から停止命令が出された。これによって運転再開へ向けた燃料交換などの準備作業ができなくなり、日本原子力研究開発機構(以下、機構)が予定していた10月からの試験運転の再開はできなくなった。

「もんじゅ」での点検漏れはこれまでもたびたび報道された。機構が原子力規制委員会に提出した報告書によれば、2010年以降、電気・計測制御設備などの点検漏れが9847件もあった。この中には安全上重要な機器類が55も含まれていた。

発端は昨年9月頃、ナトリウム漏れ検出器の点検計画変更で「手続きの不備」がわかり、同様の事例がないか調査したところ判明した。何のことはない、期限がきても必要な点検を先送りしていたわけだ。

「もんじゅ」が停止しているので試験運転再開前に点検を終わらせればよいと考えたからだろうが、そうだとしても、点検が先送り可能だとする安全評価と相応の手続きが必要だった。根本原因として安全文化の欠如を掲げたのは、今回で7回目。トラブルが起きるたびにこれを繰り返している。規制委員会では「こんな組織の存在を許していることが問題」と厳しい意見も出た。

「もんじゅ」は試験運転中の95年にナトリウム漏えい火災事故を起こし、生々しい現場映像を隠蔽したことで社会的な指弾を受け、以来15年にわたって停止していた。その間、名古屋高裁が安全審査に不備があったとして、「もんじゅ」の許可処分を取り消す判決を言い渡したこともあった。

10年5月に出力0パーセントでの試験運転に成功したが、8月には燃料交換のための炉内中継装置を原子炉内に落下させ、また、非常用のディーゼル発電機のシリンダーに亀裂が見つかるなどのトラブルが相次ぎ、再び停止状態に入った。

福島原発事故を受けて研究炉に対する規制が強化されたので、これに適合しないと再開はない。さらに、規制委員会による敷地内の断層の再調査が今後予定されている。原子炉は地表まで達している断層の上にあり、機構は破砕帯としているが、活断層となると「もんじゅ」は廃炉となる。

こんな「もんじゅ」が動くとすれば危なくて仕方ない。廃炉とすべきだ。





伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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こんにちは、オンライン版編集長のイケダです。「販売者の方から買う前に中身を知りたい!」という声にお答えして、最新号の読みどころをピックアップいたします。続きを読む
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(2009年10月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第128号







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低家賃も、ハイクオリティな住居も—都心部で増える若者の「シェア居住」 



近年、東京や横浜などの特に家賃の高い都心部において、20〜30代の若年単身者を中心にシェア居住が増えている。これは、一つの住宅に家族ではない複数の居住者が台所や風呂、トイレなどの空間や設備を共同に利用する住まいである。

筆者がこの調査を始めた5年前は、家賃や生活費を安く抑えられることが最も大きな入居理由だったが、最近の傾向としては、ワンルームマンションと同家賃でも、好立地で住環境が整っているクオリティの高いシェア居住を望む入居希望者も増えている。

シェア居住は、住宅形態、立地、居住者の年齢・性別などによってさまざまな特徴がみられるが、いくつかの事例を紹介する。



2人の友人と同居の20代の大学生は、シェア居住のよさを語る。「100㎡の戸建て住宅を75,000円で安く借りました。個室にいる時は寝る時ぐらい、友達を呼ぶ時には共用空間のリビングで他の同居人とともに仲よくパーティをやっています」

研究のために家族と離れ東京でシェア居住をしている50代の大学研究員は、「同居人は3人の30代のキャリアウーマン。彼女たちが仕事などで帰宅が遅くなると自分の子どものように心配で、全員を待っています」と言う。


中国国籍の20代留学生は、「日本語がまったく話せなかった時、2人の同居人の日本人が区役所での外国人登録手続きや銀行の口座開設も手伝ってくれました。おかげで安心して生活ができるようになった」と話す。

1室で5人とドミトリーをしている20代の男性は、「フリーターでアルバイトをしています。家賃は光熱費などを入れて4万円程度ですが、他の居住者と一緒にご飯を食べるのがとても楽しいです」と言う。そして、「職を探すために1ヵ月前に東京に来ました。5人の同居人たちが就職の情報や面接方法などを親切に教えてくれて助かっています。来週2ヵ所の会社の面接に行きます」と言う20代の女性。




以上のようにシェア居住は、フリーターからサラリーマンまでさまざまな職種や国籍、性別の人々が混ざって住んでおり、今後は単身者の居住スタイルの一つとして確立していくだろう。





丁 志映(ちょん・じよん)
千葉大学大学院助教。2003年9月日本女子大学大学院博士課程修了・博士(学術)。日本学術振興会(JSPS)外国人特別研究員と芝浦工業大学非常勤講師を経て、07年9月より千葉大学大学院工学研究科助教に。著書に『若者たちに住まいを!−格差社会の住宅問題』(岩波ブックレット)、『もうひとつの家族、コレクティブハウス』(ハンギョレ新聞社)などがある。
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シエラレオネ内戦を長引かせたダイヤモンド




91年に始まり10年にも及んだシエラレオネ内戦は、7万5千人もの死者を出し、同国を疲弊させた。内戦を長期化させたのは、同国の豊かなダイヤモンド資源だったともいわれている。内戦終結から6年、「紛争ダイヤモンド」の行方を追った。






内戦を長引かせたのはダイヤモンド



1990年代、西アフリカのシエラレオネは10年に及ぶ内戦によって壊滅寸前に追い込まれ、450万人いた国民の実に半数以上が難民と化した。

反政府勢力RUF(革命統一戦線)によって91年に勃発したこの内戦は、シエラレオネの人々に耐え難い苦痛を強いるものであった。多くの子どもが誘拐され、少年たちは少年兵として強制徴用され、また少女たちは、政府勢力と反政府勢力の両方から性的対象として虐待された。

数多くの村が反政府勢力の襲撃を受け、推定でも10万人の罪なき市民が、政府側に加担しないよう、見せしめとして腕や脚を切り落とされるなどの残虐な行為の犠牲者となった。さらに悲惨なことに、合わせて7万5千人が命を落としたという。




同国では、内戦以前にも長年の政治腐敗に対する反発や不満は存在していた。だが、内戦を長引かせたものは政治思想ではなく、同国の豊かな資源、ダイヤモンドだった。

内戦の勃発には、隣国リベリアも絡んでいた。当時、リベリア前大統領チャールズ・テイラーは武装集団の一リーダーにすぎなかったが、シエラレオネ政府の弱体化を図るために、RUFに資金や軍事技術を供与したのである。テイラーは、ブルキナファソ政府とも取り引きを行い、RUFに代わって傭兵の調達を行ったとされている。RUFへの武器支援や軍事訓練の供与と引き換えに、シエラレオネの密輸ダイヤモンドを手に入れるという算段だった。

内戦は10年続き、その間行われた和平へのあらゆる交渉・試みは失敗に終わった。ようやく00年の5月になって英国軍が派遣され、国内にとどまっていた外国人を救出し、秩序の回復に取り組んだ。そしてギニア軍も投入され、RUFの拠点に対し攻撃を加えた。このような軍事介入は徐々に停戦に向けた動きを促進し、02年初めには政府・RUF間で約7万2千人の武装解除が実現し、同年1月18日、内戦は武装解除完了宣言をもってようやく終結を迎えた。




違法ダイヤモンドが、貧困から抜け出す唯一の手がかり



シエラレオネを破滅に追い込んだ原因となったいわゆる「紛争ダイヤモンド」の密輸を撲滅するために、00年、国連総会は紛争とダイヤモンド原石取り引きに係る決議を採択。ダイヤモンド原石の違法取り引きと紛争の「リンク」を断ち切り、紛争の抑止と解決に貢献することを決意した。

世界のダイヤモンド業界も独自の手段を考案し、「紛争ダイヤモンド」が市場に混入することを阻止する機能を業界全体で強化しようと取り組んでいる。03年、業界代表者は「キンバリー・プロセス認証制度」を設立し、71の加盟国間以外の取り引きを行わず、相互の施設をモニターし、「ダイヤモンド原石が紛争と無関係であることを証明する」証書を発行することとした。




ダイヤモンド業界団体によると、世界のダイヤモンドの99%以上までが、現在では紛争とは無関係の産地から輸出されているとし、各国の紛争のピーク期にあっても、シエラレオネ、リベリア、コンゴ民主共和国やアンゴラの反政府勢力によって掌握されたダイヤモンドは、世界の産出量の15%にすぎなかったという。

業界は、違反した国には除名処分等の罰則を科している。例えばコンゴ民主共和国は、04年にダイヤモンド輸出量がゼロであるという虚偽の報告を行った際に除名処分を受けており、またベネズエラも05年に一時資格停止の処分を受けている。




しかし、このような自主規制は本当に機能しているのだろうか? コイドゥ・ホールディングス社が03年に開設したシエラレオネ最大のダイヤモンド鉱山は、1ヶ月に250万ドル(約2億5千万円)相当ものダイヤモンドを輸出している。それに反比例して、密輸ダイヤモンドの取引量は減少したであろうことが推測される。

しかし、コイドゥ・ホールディングス社の鉱山マネージャーであり、シエラレオネ大統領のダイヤモンド顧問も務めたジャン・ケテラール氏によると、公式統計はどれも信用できないという。

コイドゥ鉱山の周辺には、水道も電気もお腹を満たす適切な食料もない環境に生きる貧窮した多数の住民がいる。彼らにとっては、土まみれになって地面をかきまわし、違法ダイヤモンドを手に入れることだけが、貧困から抜け出す唯一の手がかりなのである。




鉱山近くに住むシャリ・アマラ少年は、6人兄弟の長男である。兄弟のうち3人はすでに亡くなり、彼の家族の将来は、彼がダイヤモンドを探し当てるか否かにかかっている。

「一つでもいいからダイヤモンドを見つけられれば、学校に行くお金もできるし、勉強して、家族や村のみんなを助けることもできるんだ」という彼の言葉は、この国で同じような状況に置かれた多くの人々の思いと重なる。鉱山一帯は、政府の監視員がパトロールを行っているが、実際に見回りが実施される回数は少ない。それもそのはず、総勢200人いる監視員はUSAID(米国国際開発庁)から供与されたわずか10台のバイクを共用しており、密輸を根絶するなど到底不可能である。隣国リベリアとの国境線はコイドゥ鉱山からわずか30マイルの距離にあり、その間には無数の「密輸ルート」の道が存在する。

また、ギニアとの国境を挟む道路は合計36あり、そのうち監視所があるのは3ケ所である。その3つのルートでさえ毎月、監視員が町に給料を受け取りに出かける前後数日間は無人となる。




「紛争ダイヤモンド」から「フェアトレードダイヤモンド」へ



米国においても、税関や財務省が違法ダイヤモンド取り引きを完全に掌握しきれていない状況を会計検査院が明らかにしている。米国に輸入された以上のカラット数が、米国から輸出されていたのである。つまり、ダイヤモンドの産出国ではない米国で、違法なダイヤモンド取り引きが行われていたことになる。

さらに、人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが2年前に米国のダイヤモンド小売業者を対象に実施したアンケート調査によると、「紛争ダイヤモンド」の取り引きに対する規制を行っている業者はほとんどいないことがわかった。アムネスティは英国政府に、ダイヤモンド業界が「キンバリー・プロセス」を順守するよう監督すること、また英国のダイヤモンド業者が自主規制を守るよう厳格に検査するよう求めている。




このような取り組みとは別に、問題の根源である「貧困」、つまりわずかな賃金のために、鉱山で過酷な労働条件で働かざるをえない人たちの問題に取り組む企業も現れている。一部のコーヒー業者に見られるような「フェアトレード」の仕組みをダイヤモンドにも適用しようというものである。

南アフリカのデビアス社は二つの活動団体とともにDDI(ダイヤモンド開発イニシアティブ)という国際活動団体を設立し、ダイヤモンド鉱山労働者らに対して安全の知識や経済観念などの教育機会を提供し、また、採掘の仕事に代わって農業に転じるよう説得を行うなどしている。この試みが成功すれば、同様の活動をアフリカ全土に広げていきたい、と同団体では期待を寄せている。

紛争の根本原因である貧困、失業、飢饉、疫病や政治腐敗など社会の不安定を招く事態はまだ根強く存在しており、血塗られたダイヤモンドの絡む同様の戦争がいつ勃発してもおかしくない状態は続いている。




(Jennifer May/Reprinted from Issues Magazine/© Street News Service: www.street-papers.org)







(2008年5月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第94号





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