(2012年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第199号より)




東インド、“誰からも忘れられた戦争”の村—67年から続く抗争の果てに



東インドのジャールカンド州は、インド政府がテロ組織に指定する毛派グループの中心地だ。農民の多くは毛派の思想に共感を寄せるが、その暴力的な手法には否定的だ。








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(元ナクサライト戦闘員のアジャイ)




時の流れが止まった村。勢力増す毛派のナクサライト



アジャイ(仮名)は、ピセルトリ村のはずれの木立に身を隠した。朝の雨でぬれた水田が日の光に輝き、周囲には手作りのタイルで屋根をふいた泥と石の家々が並ぶ。

緑の丘陵地帯のふもと、四角いキャベツ畑の青緑色と収穫を終えた水田の刈り株の黄土色との間をマンゴーとタマリンドの木の鮮やかな緑がふちどっている。まさに、絵に描いたような静かな田園風景だ。

しかし、アジャイは緊張を隠せない。毛派の元戦闘員である27歳の彼は、取材中も警察のスパイや毛派シンパの住民に見とがめられることを恐れて、たえず背後をうかがっていた。

ピセルトリ村があるのは、インドにおける毛沢東主義の中心地であるジャールカンド州のグムラー県。インドの毛派は「ナクサライト」とも呼ばれ、中央政府によってテロリスト集団として弾圧されている。




アジャイは、「兄は一帯を統括するナクサライトの将軍で、弟も部隊長を務めていました」と声をひそめた。この地方で話されているサドリ語だ。

「兄は殺され、弟は刑務所にいます」。子どもの頃は、警察が毎日のように家にやって来たという。

「14歳の時には、ひどく殴られてナクサライトの居場所を言うように迫られました。当時の私は教師になるのが夢でしたが、復讐を誓いナクサライトに加わったんです」




ハイテク産業で好景気にわく大都市の喧噪を遠く離れ、グムラー県の農村地帯を訪れると、まるで過去にタイムスリップしたような気がする。ここでは牛が鋤をひいて水田を耕し、電気は通じておらず、舗装した道路もほとんどない。橋は地元のナクサライトがたえず爆破するので常に工事中の状態だ。

ナクサライト過激派の起源は、1967年に西ベンガルのナクサルバーリーの茶葉プランテーションで働いていた貧しい労働者の一団が、地主に対して起こした反乱にさかのぼる。

70年代になると各地で学校を設立し、武力でもって農地解放を進めた。80年代に運動はいったん下火になったものの、06年にネパールで革命勢力により王制が廃止されると息を吹き返し、10年にはインド国内の少なくとも4万平方キロに及ぶ地域を制圧した。

80年以降、武力闘争により1万人超の死者が出たとみられるが、その半数以上はこの10年間のものだ。






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(グムラー県、ダフパニ村。NGOがナクサライトと交渉し、集落間を結ぶ道路工事が進められている。Photos:Simon Murphy)




村の学校が戦場に。1年間に34の学校が爆破



深い森はナクサライトにとって格好の隠れ家だが、同時にインドの少数部族が代々暮らしてきた場所でもある。彼らは過去数十年にわたって、鉱山会社や地主、役所によって立ち退きを強制され、移住させられてきた。土地や生計の手段を失った者が増えるほど、毛派への支持が高まっていった。

人々がナクサライトに加わる動機はさまざまだとアジャイは語る。

「地主や鉱山会社に奪われた土地を取り返したいと考える者もいれば、職にあぶれ、毛派が与えてくれる賃金と仕事が目当ての者もいます。それに、ナクサライトは村にやって来ると、略奪などの犯罪行為を一掃してくれました」




だが、民間シンクタンクの平和紛争研究所(IPCS)によれば、ナクサライトは数百から数千人の子どもたちを強制的に連れ去り、虐待している。

逆に、政府が支援する反毛派組織や特殊警察の隊員たちも、学校を占拠し戦いの拠点にしている。そのため学校は、警察への報復として攻撃対象となることも多い。09年にはジャールカンド州内で34の学校が爆破されている。





8歳のカムラ・シンは、何年もの間、誰もが怖くて学校に通えなかったと話す。

「ナクサライトが怖くて行けない時もあったし、警察が学校を使っていたこともありました。恐怖のあまり、外から村にやって来る人もほとんどいなかったんです」


ある支援団体の職員は話す。

「警察は決して助けには来てくれません。すっかり怖じ気づいているんですよ。これは誰からも忘れられた戦争です。中央政府が助けにくることも、何か問題はないかと尋ねてくることもないのです」

(Lucy Adams/The Herald, ©www.street-papers.org)


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(2008年4月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第92号より)






La Calle Portada Noviembre




伝説のスラムから誕生 ストリートマガジン『La Calle』


 
首都ボゴタの一角に位置するエル・カルトゥーチョ(火薬庫の意)は、コロンビアで最も伝説的なスラム街だった。以前はスペイン風の家々が建ち並ぶ裕福な地域であったが、60年代以降、ボゴタの富裕層が市北部へと移り住み、家主たちは定期的な借家人を見つけることができなかった。

家主たちに残った最後の手段は、地元を牛耳る者たちに家を貸すことだった。彼らはこれらの家々を薬物の取り引き場とし、何千人ものホームレス状態の人々、売春婦、犯罪者がこの地域へやって来た。次第にこの地域独自のルールができ上がり、隠語が生まれた。「ガソリンなしで180で行く」というのは、薬はほしいが買う金がないことを意味する。

大統領官邸や市長官邸、最高裁判所などの主要な公共の建物は、ほんの5ブロック先にあった。この近さは、喜劇的であったが、時には悲劇的だった。02年の大統領就任式では、ゲリラが無警察状態のエル・カルトゥーチョを拠点として迫撃砲で攻撃し、居合わせた12人が死亡した。




98年から00年まで市長を務めたエンリケ・ペニャローサは、この地域を「政府の無能さと混沌の象徴」と呼び、彼と後任の市長らは、エル・カルトゥーチョを「公共に役立てるために再生させる」と宣言。03年に最後に残った住宅が取り壊されたとき、ある市会議員は「40年におよぶ恥」が終焉したと歓迎した。




そして建物は姿を消したが、それらの建物が象徴していたこの地域の社会からの隔絶は、それ以降も続いている。エル・カルトゥーチョの元住人たちは公のプログラムには見向きもせず、路上に住む。ある者は富裕層が数年前に移り住んだ市北部へ移動した。そこではレストランで残り物がもらえるからだ。

昨年11月、ボゴタでコロンビア版ビッグイシュー『La Calle』(ストリートの意)が販売を開始した。人々に声をかけ、同じ社会の一員として、お互いを避けあうようなことはやめようと呼びかけている。

そうでなければ、疎外されている住人たちは、また新しいスラム街に集まって住み続けるだろう。そして、かつてエル・カルトゥーチョがそうであったように、新しくできたスラム街も取り壊され、悪性腫瘍のように別の場所に転移することだろう。





(Henry Mance / Reprinted from The Big Issue In The North / Street News Service : www.street-papers.org)



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106人生相談





B型は、何をやっても長続きしないのでしょうか?



子どもの頃から新しいもの好き。おけいこごとを一通りやって、大人になってからも英語に韓国語、ダンス、アロマテラピー、パン作りなど、何でもチャレンジする行動力はあるのですが、どれも長続きしません。友人に相談すると、「あなたは、B型だから仕方ない」って言われるのですが、やっぱりB型って飽きっぽいものなのでしょうか?
(42歳/女性/派遣社員)






日本人って、ほんとに血液型が好き。今も、血液型別の『自分の説明書』とかいう本がものすごく売れているじゃないですか。僕は、ぜんぜん信じてないんです、血液型占いのようなもの。なんか、血液型を逃げ道にしているみたいで嫌なんです。

僕の場合、実は3年前にたまたま献血車で調べてもらってA型と言われるまで、てっきりB型だとばかり思い込んでいたんですよ。子どもの頃は、A型って知っていたはずなんですよ。それなのに、いつのまにか40年近くもずっとB型だと思って過ごしてきた。びっくりしたよ。

部屋を片づけるのがすごく苦手だったり、根気がなかったりするので、知らないうちに「B型だ」と自分に言い訳していたのかもしれないですね。改めてA型だと判定されると、今度は「そういえば、A型っぽいな」って思うこともたくさんあったりしてね。いい加減なもんですよ、人間って。そんなことで、これまで自分の可能性を狭めていたのだとしたら、もったいないことしたなと思う。




「長続きしない」というのは、別に悲観することじゃないと思うな。だって、いろいろなことにチャレンジしていれば、それが一生に一回の転機にハマるかもしれないでしょ。いろんなことに興味があってチャレンジするのは、すごくイイこと。
ほら、よく演歌歌手とかでも、いろんな職業を経験して、歌手として花開いたりしてる人もいるもんね。

そういえば、八代亜紀なんて、ものすごく多趣味ですよ。歌だけじゃなく、絵画で二科展に出展したり、陶芸にチャレンジしたりして、いろんな才能を発揮してる。

彼女の血液型は知らないけど、もしB型だったらおもしろいよね。B型が飽きっぽいというのは、やっぱり迷信だったということになるから。少なくとも才能を発揮できる人は、血液型とかそういうのをまったく信じていない人、なんじゃないかな。

長続きしないと悲観せず、今は本当に自分が好きなものに出合うステップだって考えたらどうかな。
「自分には何かあるはず」。そう思って生きた方が楽しくなるしね。

(大阪/I)




(THE BIG ISSUE JAPAN 第106号より)







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(2012年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第199号より)

 

政治に被災地のリアリティを。アート作品、南相馬市の「政治家の家」


政治家の家1

 

福島県南相馬市原町区郊外の空き地に、一人のアーティストの作品「政治家の家」が設置された。「仮設住宅」を模したような4畳半程度の小屋の外側正面に取りつけられた巨大看板「政治家の家」が目印。

制作したのは、第4回岡本太郎記念現代芸術大賞(TARO賞)優秀賞なども受賞したアーティスト開発好明さん。福島第一原発2号機の水素爆発から丸1年後の、今年3月15日に完成した。

 

開発さんは震災後、福島県を何度も訪れている。初めて車で南相馬市へ向かう途中、全村避難した飯舘村を通った際に、ゴーストタウンの風景に強く衝撃を受けた。

「ニュースで見てはいたが、ショックだった。頭で考え、想像するだけではわからない現実があった」と開発さん。その後も除染作業を見たり、仮設住宅で暮らす人々と会った。福島で何が起きているのか。芸術に何ができるのか、深く考えた。

 

「部屋が10室もある家に住んでいた人が、今は狭いプレハブの仮設住宅で暮らす。仮設住宅は外観とは違い、中はずっと狭い。そのアンバランスさに驚いた」。

被災地の現状も仮設住宅と同じ。外から見るのと、中で見るのでは相当違う。今、一番必要なのは被災地のリアリティ、特にそれが必要なのは政治家ではないか。

そうして誕生したのが「政治家の家」だ。

 

開発さんは言う。「私は原発に対してニュートラルな立場だが、今、モノづくりやアートに何ができるのか考えた。それは新しい可能性、みんながさまざまなやり方を提起し、何かを考え始めるきっかけを生み出すことではないかと思った」

 

開発さんの思いに福島県内の友人が賛同、土地を提供し「政治家の家」が完成した。家には窓が一つ、爆発した福島第一原発の方角に向いている。

内部には大人用と子ども用の椅子が1脚ずつ、同じ向きで窓に向いて並ぶ。この家は誰でも外から見られるが、中に入れるのは政治家だけ。毎月15日に一般公開している。国会議員全員に招待状を出したが、中に入った国会議員はまだいないという。

現在、「政治家の家」は移転が検討されており、交流会は8月15日で一区切り。この日は開発さんや友人らが地元福島、都内など各地から駆けつけ、風船に願いごとを書いて空に放った。

 

(文と写真 藍原寛子)
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105人生相談





母の監視をやめてもらいたい



友人と飲みに行ったりして、夜10時ぐらいになると、同居している母親が「いま、どこにいるの? 何してるの?」と必ず電話してきます。母は心配していると言うのですが、私には監視しているようにしか思えません。しかも、私はもう30代で、立派な大人。こんな母は、どうしたら、監視をやめてくれるのでしょうか?
(33歳/女性/OL)






難しいな~、僕は親に監視されたことがないから。父親は早くに亡くなったし、母親は僕が中学のとき、家に帰ってきたら、台所で倒れて亡くなってたからね。もうあっけにとられたよ。人間の死って、こんなもんなんだな~って。

母親は、プロレスとか西武ライオンズが好きで、よく近所のテレビのある家に観戦しに行ってた。あと思い出といえば、年末の紅白を観ながら、いつもこたつでミカンを食べてたことぐらいかな。だから、母親に監視されてるなんて、ちょっとうらやましいかな。

ただ、僕も自分が親だったときはすごい心配性だったから、このお母さんの気持ちがよくわかる。妻と離婚したあとも、子どもがどうしてるか心配になって、ホームビデオで子どもを撮ってもらったし、今の路上生活になってからも、そのビデオだけはずっと持ち歩いている。こんな状況でも子どもが心配になるんだから、親はみんな子どもが心配なんです。




それに、お母さんは、話し相手がいなくて、寂しいんじゃないかな。
よく道を歩いてたら、見た目は普通の格好をしてるのに、わけのわからないことをブツブツ言っている人がいるでしょう。そういう人を見ると、やっぱり人間ってひとりでは生きていけないんだなって思う。

僕だって、朝にビッグイシューを仕入れて売り場に立ったら、もう翌朝まで完全にひとりでしょ。だから、ビッグイシューの事務所に行ったら、できるだけしゃべろうと思ってるよ。

でないと、自分もいつ、ブツブツ言う人になるかわからない。
人間って、いつも寂しいんだよ。そういうことも、ちょっとわかってあげてほしいな。




そうだな、お母さんから電話がかかってくる前に、自分から電話をかけるっていうのはどうかな? 「まだ起きてるの? 早く寝なさい!」とか言ったりして(笑)。逆に、お母さんを監視する。監視されてると思うから、うっとうしいんであって、自分が監視してると思ったら、腹も立たないんじゃない? 

きっと、お母さんは監視されると、喜ぶと思いますよ。

(大阪/Y)




(THE BIG ISSUE JAPAN 第105号より)







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(2007年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第79号より)




悪夢になったアメリカンドリーム 在米30年のメキシコ人家族の苦難



2003年に米国で新設された国土安全保障省。
その中でも最大規模を誇る機関「移民・税関法執行局」の取り締まりは
移民社会を不安におとしいれ、差別を生み出している。
30年間合法的な移民として生活してきたメヒア一家も
不法移民同然の扱いを受けた。






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いやがらせ、差別的発言、不当な拘束。



ジーナ・メヒアが米国ワシントン州モンロー市に家を購入したのは、その町が大変美しく、多くの教会があったからだった。しかし、隣人たちによるキリスト教的慈愛の精神は、このメキシコ人夫婦には少しも示されないことを、ジーナは当初知るよしもなかった。

メヒア夫妻が東部から移ってきたのは2004年。それまでも30年間、彼らは合法的な市民として米国で生活を送ってきた。にもかかわらず、白人の隣人とのトラブルは転居直後から始まった。ジーナ・メヒアによると、転居してから3年の間に、隣の主人がバールを手に威嚇してきたり、夫の顔に唾を吐いたり、人種差別的暴言を吐いたりしたという。





彼女はすぐに隣人に対する接近禁止命令(*1)を裁判所より取得したが、実際に隣人が命令無視をしても地元モンロー市警察は何もしてくれなかったという。

そして2005年8月、隣人の嫌がらせに耐えかねたメヒア夫妻が新たな保護命令(*2)を申請した翌日、武器を携帯した移民局職員が玄関先に現れ、息子の居場所はどこかと彼女に迫った。彼女は自主的に協力し、当時30歳で、仕事もあり、二人の幼い子どもの父親でもあった息子シーザー・キーモーレンとモンロー警察署に出頭した。




彼女によると、それからわずか数時間後、息子キーモーレンはまるで動物のような扱いで警察署から連れ出され、ワシントン州タコマ市にある北西部拘置センターに移された。彼は生まれてからずっと米国に暮らす合法的な市民であるにもかかわらず、そこから出るのに2ヶ月かかったと、彼女は言う。




移民の問題に関する支援活動団体によると、シーザー・キーモーレンのようなケースは珍しくない。このような不当な扱いに抗議する人たちが、7月13日・14日の両日、拘置センターの外で、24時間徹夜の抗議の座り込みを行ったのも、そのためである。

座り込みに先立って行われた記者会見には、シアトル大都市圏教会協議会、移民コミュニティを応援し民主主義や正義、権利の保障を呼びかける支援団体「ヘイト・フリー・ゾーン」、ワシントン州コミュニティ・アクション・ネットワークなどの活動団体のメンバーらが出席し、移民の拘置センターを「民間経営の強制収容所」と称した。

一度入ってしまった人が、そこから出られる機会は国外退去命令ヒアリングの場しかなく、その場合でも、有償でないかぎり、弁護士など法的手続きなどの手助けは一切ない。




職場での強制捜査、捕えられているのは合法的に働く人々



6月末、不法移民の取り締まりの解決策として打ち出された移民改革法案が米国上院で否決されたことを受け、支援活動団体はワシントン州のベリンガムやポートランド、また全米各地において国土安全保障省の機関である移民・税関法執行局(ICE)が最近実施している職場などの強制家宅捜索の即時中止を求めた。

タコマ市の権利章典支援協会の会長、ティム・スミスは、一連の強制捜査で捕えられているのは、犯罪人ではなくキーモーレンのように家庭や子どももいる合法的に働く人だと語る。




「このような職場での強制捜査は、はるか1920年代にも行われており、そのころは共産主義者や同性愛主義者が対象でした」とスミスは言う。オレゴン州やワシントン州で行われた強制捜査では、結果として何百人という移民がタコマ拘置センターに拘束され、「移民コミュニティはもちろん、全米に大きな不安をもたらしました」と「ヘイト・フリー・ゾーン」の政策ディレクター、シャンカール・ナラヤンも言う。

息子の経験した1000床収容の拘置所を、メヒアは「人の精神を狂わせる場所」と説明する。拘置センターは、民間刑務所運営会社ワッケンハット社の系列会社GEO社によって運営されている。メヒアによれば、息子に与えられたのは、粗末な食事と汚れた着替えで、凶悪な犯罪者と一緒に独房に入れられたという。




ICEが息子に目をつけた理由は、かつてガールフレンドと彼の子どもの母親との間で起こした喧嘩の結果、DV(家庭内暴力)の罪に問われ、有罪となったためだという。申し渡された判決「365日の保護観察処分」は、重罪として扱われるため、ICEは国外退去を命令することができる。そのため、メヒアは弁護士を雇い、ガールフレンドの母親と叔母を証人としてたて、法廷に出廷した。

その結果、裁判官は量刑を1日減刑。刑が364日以内であれば、国外追放は免責となるため、これにより、キーモーレンが強制退去させられる法的根拠が取り除かれた。2006年2月、彼はようやく釈放された。




「この事件は、控訴中でしたが、彼は減刑を受けたので、強制退去から免責されました。ICEは、外国人が国外追放に相当するかしないかの最終決定はしません。その責任は、国の移民判事にゆだねられています」。ICEの広報担当官ローリー・ヘイリーは言う。

何故そもそもシーザー・キーモーレンがICEの注目するところとなったのか、ヘイリーは、詳細はコメントできないと言うが、当局は「地元警察を含め、複数の角度から」情報やヒントを入手しているという。モンロー市警察署にコメントを求めたが、回答は得られなかった。メヒアは、この不公正な扱いにいまだにショック状態にあるといい、モンロー市で暮らしていくには、不安が大きすぎると語る。

「私たちは合法的な移民です」と彼女は涙をこらえながら訴える。「私たちはテロリストではありません。私たちは犯罪人ではありません。私たちはただアメリカン・ドリームを求めてやって来たのに、今や夢は悪夢になってしまいました。この家を売って引っ越します。たぶん2度とこの町に足を踏み入れることはないと思います」




(Cydney Gillis / Reprinted from Real Change  Street News Service: www.street-papers.org)




*1接近禁止命令 家庭内暴力やセクハラ行為、嫌がらせ行為などについて、加害者の行動を制限するための裁判所命令。
*2保護命令 裁判所が精神的、肉体的暴力行為の被害者の訴えを受けて発令される。加害者が命令を無視した場合、有罪となる。


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(2007年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第79号より)




日本漁業は崩壊のせとぎわに—自給できていた魚介類。安全ではない輸入魚が崩す



モロッコのタコ、地中海のマグロ、ノルウェーのサケ。いつから、なぜ、魚屋やスーパーの店頭に輸入物の魚が増えてきたのか? 日本人の食、日本の漁業が変化している背景には何があるのか?






エビやマグロが、水産物輸入ダントツの1位2位



動物は身のまわりの入手しやすい食物を常食にしている。人間も例外ではない。海に囲まれた日本では、魚を重要なたんぱく源に日本人は生きてきた。

しかし、高度経済成長期以降、日本はその経済力によって、先進諸国の中で唯一、大半の食材を外国から輸入するという道を選び、飽食時代を実現させた。

そして、そのことにより、日本人の「ハレの食事」(特別な食事)と「ケの食事」(日常の食事)の構造が崩壊し、食卓の魚料理が一変したのだ。(『漁業崩壊―国産魚を切り捨てる飽食日本』木幡孜著/まな出版企画)




確かに、十数年前と比べると、エビ、マグロ、サケなどが頻繁に庶民の食卓に上がるようになった。平成19年版の『水産白書』をひもとき、水産物の主要品目別輸入量を調べてみた。すると、かつての「ハレの食事」だったエビやマグロ・カジキなどが、近年はダントツの1位、2位の輸入量を占めているのだ。エビやマグロ・カジキが、まさしく「ハレ」から「ケの食事」になってしまったことを裏づけるデータである(図1)。






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総務省の家計調査によれば、1965年に600グラムだったマグロの一人当たりの購入量は2006年に906グラムに、サケも500グラムから931グラムへと激増している。逆に、これまでの長い間、日本人の伝統的な「ケの食事」の主役であったアジは、1900グラムから546グラム、サバは1600グラムから492グラムと、半分以下に激減している。





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さらに、日本漁業の生産高を見てみると、1985年頃をピークに、現在は最盛期の半分程度に落ちている。1965年当時、日本の魚介類の自給率は110%あった。それが、2005年には57%へと低下、自給できなくなっている(図2)。






ダイオキシン、地中海マグロ51倍、ノルウェーサケ12倍







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しかし、世界的に見ると、水産物の需要は増大している。この30年間(1973〜2003)で、隣国の中国の国民1人当たりの魚介類の消費量は5倍も増え、またBSEや鳥インフルエンザによる食肉不安と健康志向の影響もあって、米国では1・4倍、EU15ヶ国では1・3倍に増えている(図3)。




世界規模で水産物の需要が高まる中、国連食糧農業機関(FAO)は、世界の海洋水産資源利用を、魚場の半分が完全利用状態、4分の1が過剰利用または枯渇状態、残り4分の1が適度または低・未利用と、4分の3が危機的な状況にあると報告した。

このような需要と供給のギャップから、2015年には世界で1100万トンの供給不足が起こると予測している。(2006年『世界漁業、養殖業白書』)。

さらに、海洋生態系の破壊が今のペースですすめば、2048年までに世界中の海産食品資源が消滅してしまうだろうという、国際研究チーム(カナダ・ダルハウジー大学、ボリス・ワーム氏ほか)によるショッキングな研究結果も『サイエンス』(06年11月)に発表された。




つまり、現在日本が輸入している魚介類を将来にわたって継続して輸入できる保証はまったくないのだ。また、たとえ輸入が可能であったとしても、輸入魚介類の安全性の問題が残る。

水産庁平成17年度報告によると、顕著な例では、地中海産(スペイン)の養殖クロマグロのダイオキシン類は国産天然のクロマグロ(メジ/九州南部沖)の約51倍、ノルウェー産の養殖サケ(タイセイヨウサケ)も国産天然のシロザケ(襟裳岬以東太平洋)の約12倍のダイオキシン類を含んでいるといわれる。




さらに、国産魚の消費低下によって、1949年には109万人いた日本の漁業者は現在わずか22万人に減少、漁業に携わる人の約半数が60歳をこえ高齢化がすすむ。そして、富栄養化の問題が追い打ちをかける。日本の漁業自体が崩壊の危機に瀕している。

本来自給できるはずの資源の魚介類を輸入に頼り、わざわざ安全性に問題のある魚介類を大量に食べ、沿岸海域を汚染し、枯渇の恐れある魚介類を乱獲し、国内漁業を崩壊に向かわせている日本人。この悪循環を止め、世界の海と水産資源を守るために、私たちができることは何だろうか?

まず、スーパーの魚売り場で、産地表示や品質表示に敏感になることが必要だ。そして、持続可能な水産資源として、かつて日本人の「ケの食事」であったサバ、アジ、イワシなどの地場の魚介類を節度をもって食すこと、それらを生み出す海や漁業者に思いを馳せ、海に注ぎ込む水の汚染を減らすことが、その第一歩かもしれない。

(編集部)













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4月15日発売のビッグイシュー日本版213号のご紹介です。



スペシャルインタビュー レオナルド・ディカプリオ


環境や社会問題に熱心に取り組むレオナルド・ディカプリオ。
『華麗なるギャツビー』では、『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマン監督と久々にタッグを組み、豪華絢爛で危ういアメリカンドリームの世界を描き出しました。ディカプリオが俳優の名声や、人生における大切なものについて語ります。



私の分岐点 飯田譲治さん


映画「アナザヘブン」、小説「NIGHT HEAD」など、数多くの作品を手がけてきた飯田譲治さん。30歳の時、理想世界だと思っていたハリウッドに身を置きますが、そこで目の当たりにしたある体験が人生の分岐点になったと語ります。



特集 やり直す―出所者のセルフヘルプ


今、刑務所に入所する57.4パーセントの人々は、再犯者によって占められています(2012年『犯罪白書』より)。特に満期出所の人は、出所後の就労支援がほとんどないことから、10年以内の再入率が62.5パーセントにのぼります。
しかし、問題は就労支援だけではありません。出所者の多くが「今度こそ人生をやり直したい」と思っていても、そのために必要な住居、頼れる家族や適切な支援機関のないことも大きな理由になっています。
その悪循環を断ち切る鍵が、出所者のセルフヘルプ(自助活動)です。これまで「再犯につながる」と避けられてきた出所者同士の接触ですが、当事者が生活再建のために支え合うことで、再犯率が大幅に減少することが実証されてきました。
今号では、日本とスウェーデン、3つのセルフヘルプ・グループに取材。また、刑務所内でセルフヘルプ活動を行う「島根あさひ社会復帰促進センター」へも訪問取材しました。
犯罪を減らし、人生をやり直そうとする人々の挑戦を共有したいと思います。



国際記事 英国、「グルテンフリーダイエット」と「セリアック病」


英国では今、「グルテンフリーダイエット」という不思議なダイエット法が空前のブームを呼んでいます。そもそもグルテンとは何でしょうか? そのブームが、欧米に多いとされるセリアック病患者にもたらすかもしれない朗報とは?



この他にも、「ホームレス人生相談」やオンラインでは掲載していない各種連載などもりだくさんです。詳しくはこちらのページをごらんください。

最新号は、ぜひお近くの販売者からお求めください。
販売場所検索はこちらです。

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(2007年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第79号より)




クラゲが大発生する、荒れ果てた日本の海




60年代東京湾、90年代瀬戸内海、そして2002年からは毎年のように日本海がクラゲだらけになる。この物言わぬ海の生物は私たちに何を警告しているのか?






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苛酷な海の環境に耐え切れなかった魚たち



日本の海がクラゲだらけになる。そんなSFかホラー映画のような話が現実に起こりつつある。

1960年代、高度成長期で富栄養化と沿岸開発が急速に進んだ東京湾にミズクラゲが異常発生。臨海の火力発電所に押し寄せて冷却水を止めてしまい、都市が大停電に陥った。「富栄養化と埋め立てが進んだ苛酷な海の環境に、弱い魚は耐え切れなかった。そんな状況にでも耐えられるクラゲだけが残ったんです」と広島大学、生物生産学部教授の上真一さんは語る。

1990年代には、漁獲量が半減した瀬戸内海でも猛威を振るったミズクラゲ。2000年代に入ると、02年からのほぼ毎年、体重200をこえる世界最大級のエチゼンクラゲが、朝鮮半島と中国本土に囲まれた渤海、黄海、北部東シナ海などから日本海に群れを成してお目見えするようになった。




なぜ、今クラゲなのか? この物言わぬ海の生物は、何を私たちに警告してくれているのか? 

クラゲ大発生の原因は、完全には解明できていないが、だいたい以下の四つが考えられているという。

「一つは、クラゲと餌を取り合うことになる魚類が、乱獲により減少していることがあげられると思います」。結果、餌となるプランクトンを独り占めできるクラゲの独壇場となった。

二つ目は、富栄養化によりクラゲの餌が増えたこと、三つ目は護岸工事や埋め立てが実施されることにより、海岸で付着生活を送るクラゲが個体数を増やす「ポリプ期」の付着場所が増えたことが考えられる。

そして、最後が温暖化だ。「黄海では、ここ25年間で冬季の水温が2度も上昇しています。クラゲの生殖能力は水温が高いほど高まるため、クラゲの増殖速度は年々増しているといえます」。

そして大発生したクラゲは、海流に乗って日本海に漂着する。





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赤潮は風邪、クラゲ大発生は内臓不全で瀕死の状態



上さんはもともと小型の動物プランクトンを専門にしていた。実験用のプランクトンを捕りによく海に出向いていたのだが、1990年代前後からクラゲの被害が出始め、容易にプランクトンを見つけることができなくなったことが、クラゲを研究するきっかけとなった。

「はじめはクラゲの入らない網で、プランクトンだけを取ったりしていました。でも、『これは海が変わった』というのを肌で感じて、まずは敵を知らなければならない、と思ったんです」と語る。




クラゲの研究を進めるうちに見えてきたことは、クラゲ大発生の裏に潜む人間の営みだった。

「海の”生物を支える力“というのは、昔も今もそれほど変化はありません。それでも、最終的に産物として取り上げる漁獲量が昔と比べてこれだけ減ってきているというのは、人間が乱獲によって生産資源そのものを相当低いレベルに追い詰めてしまっている現状があります」

結果、日本の海はクラゲがしばしば大発生するほど荒れ果ててしまった。一度クラゲが圧倒的優位に立ってしまうと、魚類の餌を横取りし、せっかく生まれた卵や稚魚をも捕食してしまう。逆戻りすることのできない「クラゲスパイラル」ともいうべき事態へと陥っていく。





そのスパイラルを食い止めるべく、対処法を探していた上さんたちの研究班は、クラゲのポリプ期の天敵として巻貝が有効であることを発見した。また、食塩とミョウバンを使って、クラゲを食用に加工することも考えた。

しかし、結局このスパイラルを食い止めるために必要不可欠なのは、単にクラゲを退治するのではなく、「我々がどういう風に生きていくか」という問いを発することだという。乱獲、富栄養化、自然海岸の減少、温暖化……クラゲ大発生の要因すべてが、私たちの日々の暮らし方、生き方に密接な関係を持つからだ。




「資源としてその魚がたっぷりあるか、一目見てわかるようなシールを貼って販売するような試みも行われているようです。今でしたら、ウナギやマグロなんかはレッドカードでしょうね」。そうした消費者である私たちをも巻き込んだ、適正な漁業資源の管理が有効な手立てとなる。

海の状態を人間に例えれば、赤潮は少し風邪をひいて顔が赤くなった状態。クラゲスパイラルはいくつもの病気を併発し、内臓不全におちいったような瀕死の状態です。少しでも早く、手立てが必要です」




(八鍬加容子)
写真提供:上真一




うえ・しんいち
1950年、山口県生まれ。広島大学水畜産学部卒業。東北大学大学院農学研究科博士課程を経て、現在広島大学生物生産学部教授。
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