(2007年11月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第82号より)




颯爽、かっこよく。さらば満員電車、クルマ渋滞



自転車は身近すぎて、その重要性になかなか気づかない。
自転車ツーキニストの疋田智さんは、
「未来は間違いなく自転車とともにある」と、自転車乗りの気概を語る。







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満員電車が嫌で始めたツーキニスト、二度と元には戻らない



満員電車に乗るのが好きな人は珍しいし、クルマで渋滞に巻き込まれるのが好きな人だってそうそういないだろう。毎日の通勤だったらなおさらのことで、そんな時はつり革につかまったり、ハンドルによりかかったりしながら、誰もがこっそりため息をついているんじゃないだろうか?

そんなため息のあいだを縫うようにして、颯爽と、かっこよく、私たちの横を通り過ぎていく人たちがいる。満員電車にも渋滞にも縛られないで自由に走り抜けるその姿はちょっぴり羨ましい。自転車で通勤する「自転車ツーキニスト」たちのことだ。





疋田さんは自転車ツーキニストという言葉をはやらせた張本人。自身でも毎日、自転車通勤を続けている。

「なんだかんだで10年ちょいたつんですけど、当初はね、例えば交差点に止まってても自転車に乗っているのは自分だけだったんですよ。『ああ、オレひとりかぁ』みたいなね。今はもうどこの交差点に止まってても、あそこにいる、あそこにもいるって感じでね」




自転車ツーキニストは今ちょっとしたブームなのだ。ただ普通のブームとちがうのは、これが一時の流行りで終わらないところにある。

「みんなもう満員電車っていうのが嫌なんですよ。それでいったん自転車に乗って通勤し始めると、もう二度と元に戻らないんです」




それだけじゃない。自転車生活の魅力はまだまだ他にもたくさんあるのだ。

例えば、自転車に乗るのは健康的であることを疋田さんは身をもって証明している。自転車通勤を始める前、84kgだった体重は1年後67kgに。ホームページに掲載されている「使用前」「使用後」という写真を見比べてみると、その差は歴然だ。自転車が糖尿病患者やその予備軍に最も合理的で、長く続けられるエアロビクス(有酸素運動)として勧められているのもうなずけてしまう。

やっぱり苦労して痩せても食事制限だけだとすぐに戻っちゃうでしょう。それが自転車の場合、カロリーを消費しやすい身体をつくることにつながるんです」

なにより自分の身体を使って自転車に乗るのは、愉しくて、気持ちがいいと疋田さんは言う。






電車なら50分、自転車ならドアトゥドアで35分



夏の朝は、ひんやりとした空気を吸い込んでペダルをこぎ出す。秋には霞ヶ関の丘をこえるとき、黄色く色づいたイチョウの並木道を通り抜ける。季節によって川の匂いが変わることに気づいて、移ろいゆく季節と街を、自分の目と鼻で味わい、確かめていく。

「これが電車とかクルマなら気づけないでしょう。東京だって春になるとモンシロチョウが飛んでたりするんですよ。皇居の周りにだって蝶々が飛んでるんです。夏の黄昏時になるとコウモリが飛んでたりしてね。東京にもコウモリがいるんだって最初はびっくりですよ。自転車だとそういうことに気づけるんです」

意外なのは、自宅から港区赤坂の会社まで通勤する疋田さんにとって、最も速い通勤手段はクルマでも電車でもなく自転車だということだ。電車なら50分はかかるところ、自転車なら35分でドアトゥドア。オートバイよりも早く着いてしまう。




この速さには二つの理由があって、ひとつは疋田さんの自転車がいわゆるママチャリではなく、それよりもっと速い自転車であること。それからもうひとつは、自転車が歩道ではなく車道を走るためだ。

……えっ? どうして自転車が車道を走れるのかって?

確かにこれは多くの人が驚く事実かもしれない。けれど自転車は、法律的には元々「車道を走るべきもの」なのだ。そんなこと知らないから、ついつい車道を走る自転車を見かけると「あれでいいのかなぁ」なんて口にしてしまうのだけど(自分もその一人でした)、本来は車道のほうが正しい。間違っているのはむしろ自転車を危ない目に合わせるインフラの側なのだ。






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「こんなことやってるのは日本だけでしてね。世界のどこ行ったって自転車は車道を走るものなんですよ。車道がクルマの聖域なんて日本だけ。本来は逆なんです。歩道は歩行者や交通弱者しか通っちゃいけません。それ以外のものは車道を分かち合ってくれ、というのが当たり前だったんですけど、日本だけが違ってしまったんです」

自転車といえばすぐに連想されるママチャリも、歩道の上を自転車が走る日本の特殊な状況に合わせて生まれたものだった。本来はもっと速く走れるはずの自転車をわざと遅いものにして、歩行者との事故を防ごうとしたためだ。ママチャリ市場は今も日本にしか存在しないのである。


後編へ続く


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(2011年10月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第176号より)




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台湾、人材流出に警鐘を鳴らす「人材宣言」



ここ数年、人材の流出が止まらない台湾で、ついに最高学術研究機関である中央研究院の翁啓恵院長が経済界、メディアなどの代表者と連名で「人材宣言」を発表し、政府に人材確保の対策を講じるよう提言した。

翁院長によると、台湾は既に人材の輸出国になっており、国内の人材をとどめるとともに国外の優秀な人材を入れなければ、10年以内に人材が枯渇し、国際競争力を失うという。

流出の原因として、硬直した給与体系、取得した技術と雇用需要のミスマッチなどをあげている。国内に限界を感じた優秀な人材は中国やシンガポールに高い報酬で引き抜かれ、毎年2〜3万人が流出しているという。一方、外国人就労者は49万人で、そのうちホワイトカラーは2万人しかいない。

「人材宣言」を受け、政府は人材の育成、確保のために4年間で600億元(1600億円)を投じると表明した。それに対し、人材流出の要因は経済の低迷と好転の兆しがないことだと考え、効果を疑問視する声もある。

(森若裕子/参照:亜洲週刊、経済日報、聯合報)


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(2011年10月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第176号より)




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インド・バングラデシュ、見過ごされてきた国境犯罪



インドとバングラデシュの国境地帯は、武器の密輸や人身売買など、犯罪の温床とされている。ただ、この問題がメディアに取り上げられる機会は少なく、国際的に問題意識が共有されているとは言いがたいのが実情だ。

インド北東部メガラヤ州で8月、自警団の銃撃で、バングラデシュから密入国した2人が死亡する事件があった。インド当局は、木材が盗まれそうになったと説明しているが、事実関係ははっきりしていない。

事態が深刻なのは、治安当局でさえ、先入観だけで発砲を繰り返してきた経緯があるからだ。インド国境警備隊(BSF)に親族を射殺されたある住民は「一帯では暴力が日常的かつ恣意的に行われている」との見方を示す。過去10年間の銃撃で、約1000人が死亡したとの推計もある。

両国は、国境地帯の共同管理で協力する方針を打ち出したばかり。9月には、国境線の画定に取り組むことで合意している。

(長谷川亮/参照:ヒンズー、タイムズ・オブ・インディア、ガーディアン)


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(2008年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第97号より)





97人生相談






「長男だから」と、特別扱いされる弟に嫉妬。どうすればこんな自分から抜け出せますか?



現在、退職した両親と妹、弟と住んでいます。最近、弟はアパートを借りました。両親はそれに対してあまり干渉しません。「長男に家を継いでもらわないといけないから」と遠慮しているようです。昔は厳しかったのに今では弟の機嫌を取っているように見え、弟に嫉妬している自分が嫌になります。

(会社員/28歳/女性)





ぼくも就職して2年ぐらいしたころかな、弟さんみたいなころがあったよ。親父の気持ちがわからんでもないけれど、自分としては干渉されたくないって。ぼくも二人きょうだいの長男だったから、両親の期待にこたえなあかん反面、それが重みになってたように思うし。

ぼくの場合は、家がカメラ屋さんで、家を継ぐというより家業を継ぐかどうかが問題だった。親父は将来的に商売を続けるのが難しいと思っていたし、お前の好きにやっていいよって言ってくれて、ぼくはそれに甘えてたんだ。結婚したときも、同居しろともなんとも言わなかったし。

それが、31か32歳の頃だったかな。親父が久しぶりに「相撲をやろう」と言うんでやってみたら、ころっとねぇ、簡単に親父を負かしちゃったんだ…。昔はそんなこと考えられなかったよ。小さいころは、親父って大きくて強いと思ってたから…。このことがきっかけかな、一度きちんと家に住んで家業を継いだ方がいいのかなって考え始めたのは。

人それぞれ生まれ育った環境が違うから何ともいえないけど、ご両親も弟さんもお互いの本音を聞くのが怖いし、気を使い合ってるんだよ。それに弟さんってまだ23歳だろ、遊び半分、仕事半分って時じゃない。結婚しているわけではないし、今はまだ守ってくべき対象物がはっきりしていないだろうしね。

あなたが感じているいらだちや嫉妬も、きっと時間が解決してくれると思うよ。ぼくにも姉が一人いたけど、お互いに嫉妬してたこともあったと思う。

ぼくからすると、姉は両親や周りからもチヤホヤされて見えるし、姉にしてみれば、ぼくはあと継ぎということで特別扱いされてるってね。仲良かったのは高校生ぐらいまでかな。

お互いに働くようになってからは、あんまりしゃべらなくなったよ。

それが変わったのは、姉が結婚して子どもができてから。今度は昔にしゃべれなかったことがしゃべれるようになったんだ。子どもをきっかけに、ワンクッションおいて話せるようになったっていうのかな。「小さいときはああやった、こうやった」みたいに。きっとそういう時がくると思うよ。

(大阪/T)




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こんにちは、ビッグイシュー・オンライン編集長のイケダです。最新号の読みどころをピックアップしてご紹介いたします。




映画監督・園子温さんが芸人に転向?!



以前、園子温の書籍「非道に生きる」を読み、大変感銘を受けました。人から嫌われるのを恐れない姿勢、いえ、それどころか、「すすんで嫌われるようなことをしようとする姿勢」に、いつも空気を読んで生きていたぼくは、強烈な感銘を受けました。






「映画の外道、映画の非道を生き抜きたい」という僕の気持ちは、つまるところ自分の人生そのものだ。

思えば生まれたときから僕はへそ曲がりであまのじゃくで常に世間にそっぽを向いて歩いてきたし、世間も僕にそっぽを向いてきた。これからもそうだろうし、むしろどんどん嫌われて、「こんなの映画じゃない」と言われる映画を撮り続けたい。










園子温氏は「俺は園子温だ!(1985年)」で鮮烈なデビューを飾った映画監督。代表作に『愛のむきだし(2008年、ベルリン国際映画祭「カリガリ賞受賞」)』や『冷たい熱帯魚(2011年)』といった作品があります。人間のグロテスクな内実を暴く作風は国内外で高く評価されています。好き嫌いは分かれますが、注目せざるを得ないパワーを持っていることは間違いありません。








最新号の巻頭では、そんな園子温氏のインタビューが掲載されています。

インタビュー冒頭、いきなり驚かされたのは、「お笑い芸人に転向する」という話。

今度、映画監督からお笑い芸人に転向しようと思っているんです。ようやく映画監督として名が知られるようになってきたのに、何をふざけているんだ!?って言われそうだけど、本気です。

(中略)でも今の自分にとっては、すべてをゼロに戻し、けもの道を歩くという選択が必要なんです。逆境の中に身を投げ出し、自分を奮い立たせる—ずっとそうやって生きてきたから、そうするしか能がないんだと思う。


冗談ではなく、本気でお笑い芸人を目指すとのこと…凄まじい生き方ですね。「人生あっという間。監督だけやってたらもったいないじゃん」という台詞からは、読んでいる自分の小ささを痛感します…(笑)

刺激たっぷりのすばらしいインタビュー記事なので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいところです。




210号ではその他にも、

・デンゼル・ワシントンのインタビュー
・若者を支援するエイミー・ワインハウス財団について
・地震大国日本を扱う特集「動く大地を生きる」

などなど、魅力的なコンテンツが多数収録されています。街で販売者の方を見かけたら、ぜひご購入を!

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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より)





人口100万人と固有の動物が共存 奇跡の森の「命(ぬち)どぅ宝(たから)」



沖縄島北部”やんばるの森“に生息する、飛べない鳥、ヤンバルクイナ。絶滅の危機に瀕するヤンバルクイナの保護に取り組む、長嶺隆さん(NPO法人どうぶつたちの病院事務局長)から届いた緊急レポート。







ヤンバルクイナ




人が導入したマングース、ヤンバルクイナの天敵に



1981年、やんばる(沖縄島北部地域)の森で新種のクイナが発見された。先進工業国での新種の鳥類の発見は「世紀の発見」といわれ、”やんばるの森“の神秘さをあらためて知らしめた。

当時、浪人中だった私は夢中で国頭村に向かった。幻想的な朝靄の中、ヤンバルクイナは沢沿いの茂みからゆっくりと姿を現し、水辺に脚を踏み入れ真っ赤な嘴で何かをひとつまみしたかと思うと、再び茂みに戻っていった。そのすべての場面を鮮明に覚えている。

ヤンバルクイナはチャボくらいの大きさの、真っ赤な嘴に真っ赤な脚を持つ派手な鳥。胸から腹まで黒と白の横縞で彩られている。国内で唯一の飛べない鳥であり、飛べないクイナの北限種でもある。発見から10年後で既に、ヤンバルクイナは生息分布域を大幅に減少させていた。森は残っているのに、なぜヤンバルクイナが絶滅へ向かい始めたのだろうか?




その原因はやはり我々人間にあった。外来種マングースの侵入である。1910年、毒蛇ハブや農作物に被害を与えるネズミ退治のために、マングースをインドから導入し、17頭が沖縄島の南部、那覇市近郊で放獣された。以来マングースは沖縄島を北進し続け、80年代に入ると”やんばるの森“へ侵入し、ヤンバルクイナの天敵となった。

81年、ヤンバルクイナはやんばる全域に分布し、約2千羽いたとされる。だが00年頃までに、その生息地は半減し千羽をきってしまう。現在はわずか7百羽程度に追いつめられ、発見からわずか26年で、日本で最も絶滅に近い鳥類となってしまった。片やマングースは3万頭をこえた。




追い打ちかける、捨て猫、交通事故



さらに不運なことに、南からマングースによって追いつめられたヤンバルクイナを森の中で待ち受けていたのが、捨てネコであった。捨てネコは自らの命をつなぐために森の生き物たちの命を奪っていたのだ。2001年、(財)山階鳥類研究所はノネコによるヤンバルクイナの捕食を証明し、発表する。

獣医師になり18年ぶりに沖縄に戻っていた私に、この事実は衝撃だった。ネコをはじめペットの命を救う仕事を10年以上続けていながら、一方で捨てられるネコたちの命には見向きもしてこなかったのではと、自問自答した。 




02年、国や沖縄県はノネコの捕獲を開始し、動物愛護団体と対立していた。そこで、私たちは「クイナもネコも守ろう」と獣医師グループを立ち上げ、ヤンバルクイナの主要生息地である国頭村安田区と協働で活動を始めた。

公民館で飼いネコの不妊手術と飼い主を明確にするためのマイクロチップを導入するという、地域での「ネコの飼育のルールづくり」である。これが効を奏し人口約200人の安田区ではノネコがいなくなり、集落内でヤンバルクイナの繁殖が始まった。




環境省はこの事例をモデルに、やんばる地域の三つの村で「モデル事業」を展開。獣医師会やNGOが参加し、2年間で約500頭の飼いネコに避妊手術とマイクロチップを施し、国内で初めて飼養登録制度も義務づけた「ネコの飼養条例」を施行した。

01年に捕獲されたノネコは約200頭だったが、現在は10分の1の20頭にまで減少した。捕獲されたネコたちは保護され新たな飼い主探しを行い、これまで1頭のネコも処分されていない。それは「命どぅ宝(ぬちどぅたから/命は宝)」を発信し続けてきた沖縄で、世代の責任としてやらなければならないことであった。世界的に見ても、このネコ対策の解決へ向けた速度は異例といえるだろう。




一方、マングースは北進を続けている。マングースの根絶に成功した例は海外でも報告がなく、ヤンバルクイナの絶滅は秒読み段階に入ったと考えていいだろう。

さらに追い討ちをかけるのが、交通事故だ。昨年は13件が発生し過去最多となった。私たちは安田区と協働でヤンバルクイナ救命救急センターを設置し、事故にあったクイナを救護し森に帰す活動を展開している。

救護したヤンバルクイナの治療や飼育から学び、万が一直面するかもしれない絶滅の危機を回避するために、飼育下の繁殖に着手した。残された時間は少ない。






ヤンバルクイナ手術中





琉球列島を代表する”やんばるの森“は「奇跡の森」とも呼ばれている。「大陸のかけら」という地理的要因もあいまって独特の固有の進化を遂げた動物たちの宝庫だ。

しかし、「奇跡の森」といわれるもう一つの大きな理由は、100万人をこえる人々がこの島に暮らし続けながら固有の動物たちが生き続けていることにある。私たちの沖縄は、沖縄のいとおしい野生動物たちと共存できるはずだ。それが誇りであり、それが次世代への義務であり、先人たちが残してくれた心であると信じている。


(長嶺隆)
(Photo:金城道男)
(写真提供:どうぶつたちの病院)

ながみね・たかし
1963年、沖縄県生まれ。日本大学農獣医学部卒業。獣医。2004年、仲間とNPO法人「どうぶつたちの病院 沖縄」を設立。現在、理事長。人と飼育動物(ペット)と野生生物が共生していくための事業を行う。やんばる・西表・対馬に活動拠点を持ち、ヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコ、ツシマヤマネコなどの保護活動を行っている。
http://yanbarukuina.jp/

〈寄付郵便振替口座〉
口座名義 どうぶつたちの病院
口座番号 01780−8−137038
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前編を読む





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サバンナの守り神、マサイ族。保護と住民の間を架橋する家畜診療プロジェクト



「現在、マサイマラ国立保護区の周辺で起きている問題に、マサイの個人所有の土地の貸し出しがあります」と指摘する滝田さん。主にナロックと呼ばれる町の周辺で起きている状況だが、ここではマサイが持つ土地を白人やインド人経営の大規模農園がリースし、今までサバンナだった地域が麦畑に姿を変えている。

野生動物と共存することが可能なライフスタイルを送る遊牧民と違って、農耕民族(農業)の野生動物との共存は不可能に近い。農作物を野生動物に荒らされないようにするため、農地はフェンスで囲まれる。そのフェンスは野生動物の食糧を奪うだけではなく、水や草を求めて移動する動物の妨げとなる。

「年間わずかのお金で大農園にリースされる、サバンナ。そして、小規模な炭作りのためにリースされた土地の、消え行く森林。観光客たちが触れることのない、マサイランドの中で起きている問題なんです」




伝統的な家畜業をいとなむマサイは、言ってみれば、サバンナの守り神である。マサイが家畜業を止め自分たちの土地を外部に貸し出し始める日。それは、サバンナが消えてしまう日だ。そして、保護区との境界線のサバンナが消え、フェンスが立てられることによって、今までより、さらに野生動物と地域住民との衝突が増える。

一方で、乾季などによる栄養失調や風土病などの問題から、マサイのゼブー牛は痩せていて「屠殺利益」は他の牛種に比べ、かなり低い。教育を受け、今までのライフスタイルに疑問を持つ若者や、経済観念を身につけたマサイにとって、家畜業は魅力がなくなり始めている。放牧スタイルの家畜業だからこそサバンナを守り野生動物と共存できていたのに、少しずつ変化が起こっているのである。




だが、そんなサバンナの守り神とも呼ばれるマサイの牛や家畜を守るための獣医療サービスは、ほとんどなきに等しい。マサイが、牛から得る利益がサバンナを貸し出す利益より少ないと感じてしまう日、また一つサバンナが消えてしまうというのに。

そこで、マラコンサーバンシーは、保護区や保護区周辺に暮らすマサイ族の牛、ヤギ、羊などの家畜の診療活動をするために、マサイマラ巡回家畜診療プロジェクトを立ち上げた。

マラコンサーバンシーが、地域の人々に一番必要とされている獣医を派遣することは、保護区が野生動物だけでなく、地域社会をも大事にしていることの証明となる。そして、家畜の健康状態が向上すれば、家畜からの利益が上がる。このプロジェクトは、地域社会の人々の暮らしを向上させることを通して、保護区の自然保護を実現させようとする、いわば保護区と地域住民の架け橋なのである。




滝田さんはこの巡回家畜診療プロジェクトの誘いを二つ返事で引き受け、現在、獣医として活動している。「学んできた動物学と獣医学の両方を活用できる自分にふさわしい活動かもしれない」と感じている。だが、プロジェクトはスポンサー探しや資金集めなどに苦労していて、プロジェクトを軌道に乗せようとするのに精一杯であるという。

最近、滝田さんはナイロビ郊外からマサイマラに引っ越した。愛犬、愛猫と共のケニア生活も、早8年。今日も滝田さんは、マサイの村に出かけて家畜の診療や治療を行う。時には、十分な器具もない中で、野外手術も辞さない。




どんな仕事もいとわない滝田さんに、マサイの人が贈った名前は「ノーンギシュ」(牛の好きな女)。マサイの人の親しみと愛情が表わされているような気がする。

「このプロジェクトが軌道に乗り、将来的にマサイの人たちの中で獣医、もしくは家畜アドバイザーを育て上げ、彼らが自分たちのコミュニティーの中で家畜の病気と闘っていけるようにするのが、私の今の将来の夢なんです」

滝田さんの夢が1日も早く実現することを、同じ地球市民として祈りたい。

(メールインタビュー/編集部)
(写真提供:滝田明日香)




たきた・あすか
1975年生まれ。幼少からシンガポールなど海外で暮らす。NY州のスキッドモア・カレッジで動物学専攻、アフリカに魅せられケニアとボツワナに留学。大学卒業後、ボツワナ、レソト、南ア、ジンバブエ、ザンビアなどを就職活動で放浪。ザンビアではルワンファ国立公園に職を見つけるがビザ問題で断念。2000年ナイロビ大学獣医学部に編入、05年獣医に。現在はマサイマラ国立保護区のすぐそばに住み、獣医として、マサイマラ巡回家畜診療プロジェクトなどの活動を行う。著書に、『晴れときどきサバンナ』二見書房&幻冬舎文庫、『サバンナの宝箱』幻冬舎、がある。


〈寄付郵便振替口座〉
口座名義 マサイマラ巡回家畜診療プロジェクト
口座番号 00100・0・667889






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(2012年8月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第197号より)





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ドイツ、若年層一人親家庭支援プロジェクト



ベルリンのマルツァーン地区でこのたび、住居管理組合が中心になって若年層一人親家庭支援プロジェクト「Jule」を立ち上げ、話題を呼んでいる。

同地区は旧東ドイツ時代に開発された、パネル建築による高層住宅が多い新興住宅エリア。世帯の47パーセントが一人親家庭とドイツの中でもずば抜けて高く、その中でも近年若年層のシングルマザー世帯が増えて社会問題となっている。

若年層のシングルマザーに多いのが、学校を中途退学し、職業訓練を受ける機会もなく、小さな子どもを抱えて生活保護を受けているというケース。

「Jule」では彼らがその状態から抜け出せるよう、ベルリンの住居管理組合とマルツァーン区役所、ジョブセンターが共同で、18〜27歳の一人親世帯を対象に同地区の住宅を提供。

職業訓練や職探し、育児に関するサポート、家事全般や健康な食事に関する生活教育、借金などの生活相談を行う態勢も設け、さらに同じ境遇にある一人親家庭が相互に助け合うかたちを目指すという。

(見市知/参照:Tagesspiegel)


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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より)




野生の患者は、野生からの伝言者。選ばれて、自然の今を伝えに来る



北海道東川町に森の診療所を開く竹田津実さん。
30年間、傷ついた野生動物の保護、治療、リハビリに無償で取り組んできた。そんな竹田津さんが綴る、野生動物と巡り合う日々。






BIG ISSUE004






野生動物は無主物。その診療は犯罪行為!



野生たちの診療を始めて30年が過ぎた。バカなことである。やっとここ7〜8年は犯罪者扱いされなくなったが、それ以前はれっきとした法律違反者としてお上ににらまれていた。

野生動物は無主物。誰のものでもありませんと法は定めている。ところが「……ならば私が」とカスミ網やワナなどを仕掛けとらえて焼き鳥なんぞにされたらたまらんと、国家は数種の法をかぶせた。捕ってはなりません。当然飼うこともいけませんと明記した。

そこで道端で苦しむ野生を見て助けなくてはと思わず手を出した人……多くは子供か老人と呼ばれる人たちである……がいたらどうなるか。立派な法律違反者となったのである。

「あの先生のところへ……」と考えて走る。すると当然あの先生も犯罪者の仲間入り。

かくして心優しき子供やお年寄りは咎人となり、心ならずも受けた獣医師もその仲間入りを果す。

そのうえ……これを特に言いたい……獣医師は貧乏となる。

無主物である野生の生き物はお金を持って来ない。かわいそうだと思わず手を出した人たちには診療費、入院費の支払いの義務がない。当たり前である。もしお金を支払うとその患者はあなたのものですかと問われる。そうですとは言えない。言えば、私はれっきとした犯罪者であると自白しているようなもの。誰ひとりお金は支払わないのである。

ついでに言うと、傷つき病んで苦しんでいる生き物たちを見ても、見て見ぬふりをし、知らん顔を決め込む者たちをこの国では良しとしている。正常と言っている。なんだか気味が悪い。







BIG ISSUE003




先生、それって殺すことではないですか?



以上が、野生動物の診療所を取り巻く現状であった。

これが7〜8年前から少しずつ変わった。なぜか知らない。なにはともあれ現場を見て「限りなく犯罪に近い」と言われなくなってほっとしている。

30年前、二人の少年がやって来た。抱えたダンボールの中にはトビがいた。「飛べません。かわいそうです。治してやってください」と言った。

「家畜以外は診ませんよ」と言ってみたが、半分泣き顔になっている兄弟……二人は兄弟であった……には帰ってくれとは言えない。そこで理由探しをした。幸い(?)当のトビは検査の結果、翼の骨の一部が欠損していることがわかった。これなら十分な理由になった。

そこでレントゲン写真を見せて説明をする。すると「どうしましょう」とつぶやく。そこで技術者としていかにもまっとうな理由(安楽死)を口にした。これがまずかった。「安楽死とはなんですか」と聞くので説明するに、兄弟は少し考えて「先生、それって殺すことではないですか」ときた。

これは少し困った。獣医師は生き物を助けるためにあるもの……といった世間の常識に背を向けるわけにはいくまいと身構えて見せたが、うまい答えが登場しない。ぶつぶつ言った挙句、「まあそんなことだな」と予定外の台詞が飛び出してしまったのである。一瞬間があって「ワー」という兄弟の泣き声に、私はただただ立ちすくんだのである。

ともかく帰ってもらおうという作戦。「なんとかしよう。ともかく今日は帰りなさい」と説得する。「ナントカシマショウ」を連発。帰ってしまえばこっちのもの。「安楽死を選択しよう」と決めていたのである。

ところが敵(?)もさる者。当方の魂胆を見抜く。そして言ったセリフ。「明日も来てみます」ときた。来られたらアウト。ともかくトビの命は1日伸びることになった。

次の日、兄弟はやって来た。肉片を持ってきて「ピーコ、ほれ、おいしいよ」と言いながら餌を食べさせ帰っていった。「明日も来てみます」という言葉を残して。

それが1週間も続くと私ももう技術者としての一つの作業をあきらめていた。

トビと兄弟と獣医師の妙な関係は、その後半年間も続く。結局トビの死という現実が登場するまで。

兄弟は別れを納得し、獣医師は兄弟の気持ちに寄り添うことを学ぶ。そんな技術屋が一人くらいいてもいいのかなとつぶやきながら。





BIG ISSUE002






どうして診療所に来た?今日も探す野生の企み



それから数年たった年の5月。

我が家の玄関は大騒ぎとなっていた。次々と患者がやって来た。本来であれば喜ばしいことだが、野生動物の診療所としては逆である。

お金を払わないものたちが押し寄せると、当然のことながら貧乏になり、やがて倒産の憂き目にあう。

そのときもこれは間違いなく夜逃げを考えなくては……といった繁盛ぶりとなった。

患者は小型の渡り鳥、コムクドリである。次々とやって来た。2羽、5羽、はては7羽も一つのダンボールで運ばれて来る軍団もあった。病状は中毒病、明らかに農薬の集団中毒であった。散布された農薬に苦しむ虫たちを腹いっぱい食べた鳥たちが二次被害にかかったということだろう。ともかくにも大騒動を強いて、あげく9割が死んで終わった。

おびただしい死骸を目の当たりにして、彼らがなぜ我が家の玄関の戸をたたいたのかを考えてみることにした。豊かだ豊かだといわれる北の大地が予想以上に農薬に汚染されている現実にたどり着く。

それに対するささやかではあるが多くのお百姓さんの参加する作業がこのことをきっかけに始まったのである。




以来、私は私の診療台の上に横たわる野生の患者が「どうしてここに来たのか」という理由を聞くことにしている。しつこく、詳細に。

いつの間にか、患者たちは自然の今を伝えるためにやって来たに違いないと思うようになっている。しかも選ばれて来るような気がする。草原の草のかげや森の奥深くで彼らはときどき会議を開き、今度はこの問題について誰を送り出そうかなんて企らんでいるように思えるのである。野生からの伝言者として。

馬鹿みたいな作業が続いている。そのバカみたいな作業の中に隠された野性の企みを私は今日も探そうとしている。

(文と写真 竹田津 実)




たけたづ・みのる
1937年、大分県生まれ。岐阜大学農学部獣医学科卒業。野生動物にあこがれて63年、北海道斜里郡小清水町農業共済組合・家畜診療所に獣医師として赴任、91年退職。66年からキタキツネの生態調査をはじめ、72年より野生動物の保護、治療、リハビリに無償で取り組む。映画『キタキツネ物語』の企画・動物監督、テレビの動物番組の監督も手がける。著書には、『子ぎつねヘレンがのこしたもの』偕成社(『子ぎつねヘレン』として映画化)、写真集『えぞ王国 写真 北海道動物記』、『野生からの伝言』集英社、『タヌキのひとり』新潮社、など多数。









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ビッグイシューについて

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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊450円の雑誌を売ると半分以上の230円が彼らの収入となります。


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