http://bigissue-online.jp/wp-content/uploads/2012/11/203_01s1.jpg">


11月15日発売のビッグイシュー日本版203号のご紹介です。



スペシャルインタビュー ダニエル・クレイグ


12月1日に公開が始まる『007 スカイフォール』。ダニエル・クレイグにとって、3回目のボンド役となりました。「だんまりボンド」と評されつつ、夏のオリンピック開幕式ではエリザベス女王のエスコート役も務めたクレイグ。『スカイフォール』を、ボンド映画本来の持ち味が活きている自信作だと語ります。



リレーインタビュー 株式会社チームラボ 猪子寿之さん


インターネットの登場に衝撃を受け、「これからは誰もが自由に情報を発信できる時代。最先端のテクノロジーで仕事をしよう」と会社を興した猪子寿之さん。原点は「高校時代の文化祭にある」と、ユニークな仕事観を語ります。



国際記事 未来のために銀行を選ぼう!


英国では、7月に発覚した一連の金融スキャンダル以来、5大銀行を捨て、中小銀行に乗り換える市民が続出しています。勢いを増す、コミュニティ銀行やチャリティ活動に融資するエシカル銀行。この流れは、新たな時代の金融の幕開けとなるのでしょうか?



特集 いま、屹立するアート


日々忘れられ、遠くなりつつある3.11。アーティストたちは、いま、それらにどのように向き合っているのでしょうか? 彼らは、3.11体験を通して、何を表現しようとしているのでしょうか?
3年前より宮城県「北釜(きたがま)」に移り住んでいた、写真家の志賀理江子さん。チェルノブイリ原発事故をきっかけに、放射能汚染をテーマにしてきた現代美術作家のヤノベケンジさん。仙台を拠点にボランティア活動を展開したタノタイガさん。それぞれに話を聞きました。
また、美術家のやなぎみわさんには「3.11の後で考える、社会とアート」についてエッセイを寄せてもらいました。
それぞれのアーティストが「深く静かな体験」として表現をし始めています。彼らの社会に対峙する感覚、彼らが見る世界を、私たちは共有できるのでしょうか?



この他にも、「ホームレス人生相談」やオンラインでは掲載していない各種連載など
もりだくさんです。詳しくはこちらのページをごらんください。

最新号は、ぜひお近くの販売者からお求めください。
販売場所検索はこちらです。


    このエントリーをはてなブックマークに追加




(2006年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第63号より)






P23 01




試練の連続を経て、ようやくたどり着いた幸せ、でも狭くても自分の部屋がほしい



渋谷の東急プラザ前にあるロータリーで、プロペラのついた帽子をかぶった男性を見かけたら、その人が下谷芳男さん(59歳)だ。多彩なファッションの若者が行き交う渋谷でも一際目につく帽子を指さし、くすくす笑う女子高生たちがいる。学校の行き帰りに必ずぽかーんと見上げていく小学生の女の子がいる。




「この帽子は高田馬場のリサイクルセンターで買ったの。たったの10円。洗うたびに乾燥機にかけていたら、5回目に片方のプロペラが折れちゃった」

以来、ちょっとバランスの悪いプロペラを頭上で回しながら奮闘する下谷さんには常連客が多く、1日の売り上げは平均40冊。応援してくれるお客さんに親しみを込めて、いつもたこ焼きをくれる女性には「たこ焼き夫人」、おむすびを三つくれる女性には「のり巻き夫人」と、下谷さんはこっそり名前をつけている。




ユーモアのセンスに富んだ下谷さんだが、その半生は波乱に満ちていて、生まれ故郷の青森ではこれまでに二度、生死の境をさまよった。一度目は小学校に入学する日。風邪をこじらせて大量に血を吐き、子供ながらに魂が抜けていきそうになるのを感じたという。

二度目は中学を卒業後、一級板金技能士の資格を持つ義兄に就いて、ブリキの屋根葺きをしていた19歳の年の暮れ。屋根から滑り落ち、29日間意識不明になった。頭から落ちなかったのが不幸中の幸いだったが、その事故で右目の視力を失い、傷めた足の具合は今もすぐれない。

「あれが紆余曲折の始まりよ。退院してからも病院通いばかりでやる気が出ないから、水道屋で穴掘りしたり、墓石屋で石磨きしたりと職を転々とした。29歳の年に東京の瓦屋に就職が決まって上京したけど、雑用ばかりさせられてすぐに辞めた。それからはキャバレーのボーイもやったし、金属プレスの工場で機械に挟まれて、左手の指を2本失ったりもした。注意散漫なんだよねえ」




やがて住む場所を失った下谷さんは、スポーツ新聞の求人欄で建築の仕事を探しては飯場(作業員宿舎)に入り、仕事がないときはドヤに泊まるようになった。

「ところが、それまで身体を酷使してきたせいであちこちにガタがきて、力仕事を1日すると2、3日働けなくなった。それで仕方なくヤマ(寄せ場)に行って日雇いの仕事をもらったり、古本を拾い集めたりして、その日その日を凌いだ」




そんな今年4月の下旬、神田川沿いのベンチに腰掛けて鉄道工事をぼおっと眺めていた下谷さんに、ビッグイシューのスタッフ、池田さんが声をかけてきた。

「路上で売る雑誌なんか売れるわけがないと思って断ったら、翌日にはもう一人のスタッフを連れて説得にきた。それで根負けして半信半疑のまま始めたわけ」

いざ立ってみると真夏の路面は想像以上に暑く、百円ショップで買った温度計が40度をさして倒れそうになったこともあった。それでも朝3時頃に起きてヤマへ行き、40もある袋詰めのセメントを担いで3階まで何往復もさせられたことを思い出せば、何とか乗り切れた。

「日雇いの仕事と何よりも違うのは、一から十まで指示されてやるんじゃなくて、自分の好きなやり方でできること。俺の販売場所はただでさえ騒々しいから、大声はあげないの。展示している雑誌の前で佇んでいる人がいたら、声をかけてくれるのを忍耐強く待つ。これは、古本屋のおやじを見て思いついたやり方」




もちろん、ただ立っているだけではない。サラリーマンの昼休みに間に合うよう早めにお昼を済ませたら、午後8時半まで立ち続ける。買ってくれたお客さんが月刊誌と間違えないように、毎月2回の発売日を教える。お勧めのバックナンバーを目立つところに置いておくなど、入念な仕掛けあっての古本屋商法なのだ。また、下谷さんは倹約家でもある。

「安い店をメモした地図をいつも持ち歩いているし、1日の楽しみといったら、仕事の後のワンカップくらい。そうはいっても食費を削るにも限度があるし、仕入れ場所までの交通費だって馬鹿にならない。これで貯金できたら魔法使いよ」




それでも試練の連続だった半生を振り返れば、今の生活はとても幸せだという。

「1日3回、飯が食えるだけでありがたいよ。でもかなうことなら、狭くてもいいから自分の部屋を借りて、そこから販売場所に通ってみたいね」

数え切れないほどの街を渡り歩いてきた下谷さんにとっては今のところ、渋谷の喧噪こそが心休まる安住の地なのかもしれない。

(香月真理子)

Photo:高松英昭


    このエントリーをはてなブックマークに追加




Genpatsu

(2012年6月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第192号より)




5月5日に北海道にある泊原子力発電所3号機が定期検査に入り、日本中の原発がすべて止まった。多くの人たちが待ちわびていた時がきた。お祝いをした人たちも多いと聞く。枝野幸男経済産業大臣はすべての原発が「一瞬止まる」ことがあると言ったが、人々の願いは「このままずっと止まっていてほしい」である。

そんな中で、いま運転再開をめぐって熱いやり取りが続いているのが、福井県にある大飯原子力発電所の2基だ。

毎日新聞の報道によれば(5月9日付)、原子力委員会の新大綱策定会議では原発と地域の共生をテーマに議論する計画だったが、経済産業省や電気事業連合会から、「今テーマに取り上げる運転再開の地元同意は、福井県だけでなく滋賀県や京都府、大阪府などからも得るべきとの意見が、経済学者の金子勝氏や伴英幸氏(筆者)らから出てくるだろう」との意見が出されて、議論を先送りしたという。近藤駿介原子力委員会委員長はこれを否定している。報道は妙にリアルで、ありそうなことだと思う。会合は枝野大臣が地元へお願いに行く日に開かれていたからだ。こざかしいやり方に原子力への不信はいっそう深まった。

5月2日、経済産業省の前で瀬戸内寂聴さんや澤地久枝さん、鎌田慧さんらが日没までハンガーストライキに参加した。瀬戸内さんは「90年生きてきて今ほど悪い日本はない」「何を考えているのか」と再稼働の動きを一喝した。福井県に隣接する滋賀県、京都府も再開には反対だ。加えて橋下大阪市長もきわめて強い姿勢で反対の声をあげている。

一方、14日地元おおい町議会は運転再開を受け入れることを決めた。その理由は地元の経済問題だ。地域経済を原発に頼っている悲しい現実といえる。それが目を曇らせて、このまま運転に入っていけば福島原発事故を超える事故が起こるかもしれないとの認識を薄くしている。

関西電力は再開を強く望んで、あの手この手で再開の必要性を訴えているのだ。猛暑の夏がくれば、節電努力をしてもなお14・9パーセントも不足すると、報告書をまとめた。政府もこの報告書を妥当と認めた。だが数日後には、他の電力会社から融通してもらえば足りるとの試算結果も公表した。どうやら猛暑でも、節電努力と他社からの融通などで大丈夫そうだ。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




    このエントリーをはてなブックマークに追加




(2009年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第126号より)




126hanbaisha1




ボールを追いかけているうちに仲間たちとの輪ができて、気持ちも前向きになってきた



「この左耳のピアス? 若くして亡くなった恋人との思い出がつまった宝物なんだ。だから、生きている限り、ずっと外さないつもり」

そう言って人なつっこい笑顔を見せる日高進さん(53歳)は、大阪・なんば高島屋前でビッグイシューを販売し始めて約半年。目の前のビルにかかる大型ビジョンの迫力に負けないようにと、明るい色の服を着て奮闘中だ。




そんな日高さんが今、販売の仕事のほかに全力で取り組んでいることがある。それは、スタッフに声をかけられて始めたサッカー。この9月、イタリア・ミラノで開催される第7回ホームレス・ワールドカップに、日本代表「野武士ジャパン」の一員として出場する。

「疲れは思いのほかたまってないよ。好きなことをして楽しんでいるからかな。サッカーを通じて何か得られるものがあればいいなと思ってチームに入れてもらったんだけど、すでにたくさんの収穫があってね。一番大きな収穫は、明るい気持ちになれたこと。他の販売者と一緒になってボールを追いかけているうちに、いつの間にか何にも代えがたい人の輪ができた。仲間たちとあれこれ話している時間は、まるで心の洗濯だね」




これまでは自分のことで精一杯だったが、緊張している新人販売者に積極的に声をかけることが増えるなど、徐々に他の人に目を向けられる余裕も出てきたという。また、1日に2箱吸っていたというタバコも1箱に減った。

「これまでは売り上げのよくない日が続くとただ落ち込むだけだったけれど、サッカーをしていると束の間でも悩みを忘れられるし前向きにものを考えられる。本当にいい汗をかいてるよ」

目の前に迫ったワールドカップへの抱負を尋ねると、「1勝できたらうれしいなぁ。たとえ負けたとしても、1点を取って帰ってくるのが目標だね」と目を輝かせた。




日高さんは5人きょうだいの末っ子で、中学3年生までを埼玉県で過ごした。

「ちょっとやんちゃ坊主でね。15歳の時に母が亡くなって、そのショックもあって一人で当てもなく沖縄へ行っちゃったんだ。胡差焼の工房でお皿や湯飲みをつくるアルバイトをしながら数カ月過ごして、そのあと東京へ出た。東京では黒服のようなことをしたり、飲み屋で働いたり。28歳の時に九州へ行って、そこで結婚して10年ぐらい過ごしたかな」

その後離婚を経て、一人で北海道へ。山の斜面に落石防護のための網を整備する仕事を5年ほど続けていたが、腰を痛めてしまった。新たな仕事を求めて向かった名古屋では、主に土木工事の仕事をしていたが、景気の悪化とともに仕事が減少してしまった。

「埼玉から沖縄に行って、東京に北海道に名古屋、そして大阪に来たのが去年の秋。大阪なら何か仕事があるだろうと期待していたんだけど、まったくなかった。そんな時にビッグイシューのことを知り、販売者に加えてもらった。スタッフの皆さんは僕と同じ目線で何ごとも一緒に考えてくれて、アドバイスをくれる。それがとても温かく感じられて、心のよりどころになっているよ」





126hanbaisha2




1週間のうち6日はダンボールの上で眠るが、1日は自分へのご褒美としてドヤに泊まる。布団の温かさに触れ、「当たり前に生活すること」への執念をもち続けるのだという。

「以前、テレビの取材で『声をかけてもらえるだけで元気が出ます』と言ったら、それを見た人が100人ぐらい声をかけてくれて、ありがたかった。でも、残念ながら本を買ってくれたのはその中の8人だけ。次からはもっと本にも興味をもってもらえたらいいなぁ」

今はまだ社会復帰のための基礎訓練中だという日高さん。どんな夢や目標をもっているのだろうか。「何かを作ることに喜びを感じるので、ものづくりにかかわる仕事に携わりたい。そして一所懸命働いてお金を貯めて、晩年はどこかの国の片田舎で畑を耕し、のんびりと自給自足の生活をしてみたいね」

真剣な表情でそう話し、最後にまたくしゃくしゃの笑顔を見せてくれた。

(松岡理絵)

Photos:BI
    このエントリーをはてなブックマークに追加

p23_012

干渉しすぎる母親に困っています


 



Q: 同居している78歳の母親に必要以上に干渉され困っています。
私が少し病気をしただけで大騒ぎをし、知人に電話をかけまくる、私の行動を監視し、ごみ袋の中身をチェックするなど、年々エスカレートしているようなのです。
精神的に辛くなり、母親にそれとなくお願いをしても「邪魔者扱いして」と自分の部屋に駆け込んで泣きじゃくります。
これからもこの母親と二人で暮らしていくのかと思うと憂鬱な気分になります。
どういうふうに伝えれば母親を安心させ、干渉をやめてもらえるのかアドバイス頂ければ幸いです。
(女性/48歳)



続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加




Genpatsu

(2012年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第191号より)





チェルノブイリ原発事故から26年目の4月26日が過ぎた。原子力の専門家のほとんどが、放射能が日本まで飛んでくることを否定したが、実際にはヨウ素やセシウムが飛来して、食品の放射能汚染が大きな問題となった。当時を知らない世代が増えている。

26年前チェルノブイリでは、定期検査で原子炉を止めるのに合わせて、停止後も何秒くらい発電が可能かを調べる実験が計画された。ディーゼル発電機の起動までの時間稼ぎにつながるか調べたかったわけだ。しかし、電力供給要請で、低出力で8時間も運転する羽目になった。これが災いし、さらに制御棒の欠陥などが要因として重なり、成功したかに見えた実験は、核分裂が暴走し爆発する結果になってしまった。

チェルノブイリ原発の半径30キロメートルは永久居住禁止になっている。放射能汚染は広範で、汚染の高い地域が数多くある。500の村が廃村となった。人びとは強制的に移住させられ、今なお戻れないでいる。

最近の報道は、除染を断念した村の様子を伝えていた。チェルノブイリ原発から110キロメートル離れたコロステニ村は「避難勧告地域」に指定され、事故の4年後から本格的な除染が行われた。しかし、20年たった頃、費用に見合う効果が得られなかったとして断念された。それぞれの事情があろうが、600万人近い人たちが今なお汚染地域に暮らし続けている。さまざまなガンが増えているとの報告や、健康な子どもたちが一割程度しかいない地域もあるとロシアやベラルーシなどの研究者が伝えている。

福島原発事故は放射能の放出量ではチェルノブイリの数分の1程度と言われている。しかし、セシウムの汚染でみると、発電所から北西に数十キロのエリアはチェルノブイリの事故でいえば、強制的に避難や移住する地域や避難勧告地域に匹敵している。こうした地域の多くは、10年後もなお住民の年間被曝線量が20ミリシーベルトを超えると推定される地域で、野田政権は巨額の費用をかけても十分な効果が得られない除染を断念して、避難住民の支援を充実させる方向で検討を進めると25日の報道は伝えている。

チェルノブイリ事故で住民に起きたことは将来に福島事故で日本の人々に起きる恐れのあることとして参考になることが多い。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




    このエントリーをはてなブックマークに追加




(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)





P19 5
(NPO法人アサザ基金理事長・飯島博さん)




壊すんじゃない、世の中を溶かす勇気を持つ



このようなアサザプロジェクトを動かしてきた、アサザ基金を、飯島さんは、中心のないネットワークだと言いきる。

「組織がない、中心がないっていうのは、無力だということです。強力なリーダーがいなくてしっかりした組織もない。中心のないネットワークで進んでいくのは、勇気が必要なんですよ。誰もが、何らかの中心とつながっていた方がいいと思っています。最初から、本気でそういうところに自分を放り出すなんてできない…。だから管理されてしまうんですけれどね」




だが、中心のないネットワークには強みがある。「それは、無制限に広がっていくネットワークなんです。動き出していくと、社会のいたるところから予想外の、いろいろな価値や意味が浮上してきます。中心のないネットワークに、違いが溶け込んで総合化が起こって、また違いが起こって溶ける。それを繰り返していくんです。遺伝子もそうですよね。ほとんど役に立たない遺伝子もあるけれど、役に立たないことで役に立っているかもしれません。役立つ、役に立たないという二分法でしか考えないから何も見えてこない。白紙の状態で見たらまったく違うものが見えてくることもある。そうしないと、自然のダイナミズムだとか、生命力とかは出てこない。私たちはそれをまだやってきてないんですよ」

中心のないネットワークの中で、飯島さんは自然に対して、人に対して、開いている。自然の中を歩くことでアサザから、プロジェクトのインスピレーションを得たが、子供たちと作業をともにすることで、飯島さん自身、自分の感性が絶えず試されていると感じる。そして、科学と生命のバランスの危うさについて思いをめぐらせる。

「科学は、よくも悪くもある種の決定打を出してしまいます。過去から未来を想定して決定論的に進めていくような。人間にはそういう特性もありますよ。しかし、もう一方で人間の創造活動、アートのような領域で、まったく未決定なこともしますよね」

「生命っていうのは、まったく予想外なこともするアートなんだと思います。バランスを取らないといけないと思います。何でも科学じゃない。地域の中でいろんな問題が起きたときも科学者を呼んで委員会つくって、その人たちに判断を求めるというのは異常ですね。なぜ、そこまで生活知、経験知というものがさげすまれなければならないのでしょうか? 科学知と経験知はもっと対等な立場でいい。子供の感性を丸ごと受け入れるという度量のない科学知に固まった社会になっているから、社会で子供がばかにされている。そこを打破していくべきです。科学者がえらくなりすぎている。科学者は他のことは無視して特定の分野だけ研究している。そういう認識のしかたは社会にとって障害なんですよ」




以前、あるインタビューで、「じゃあ、行政の枠組みを壊すんですか?」と聞かれて、飯島さんの口からとっさに出た言葉は、「いえ、溶かすんです」だった。

「自分の中で総合化が起きたときに、その状況にふさわしい言葉が出るんです。もちろん、新しい領域に入っていくわけですから、常に危険はありますよ。虫がさなぎを脱ぎ捨てて成虫になるときは、一番危険なときなんです。でも、それによって世界が開けるわけです。蝶だと、完全変態を遂げて、イモ虫からさなぎになる。そのときイモ虫の身体は溶けてドロドロになっているんですよ。だから、人間の世の中も壊すんじゃなくて、溶かす勇気が必要だと思います」

飯島さんの眼差しの先に、100年後にトキの舞う霞ヶ浦が見えた気がした。





スクリーンショット 2012 11 06 11 36 07





(水越洋子)
Photos:高松英昭




飯島博(いいじま・ひろし)
1956年生まれ。NPO法人アサザ基金理事長、霞ヶ浦・北浦をよくする市民連絡会議事務局長。日本の里山に生息した「ガキ大将組」に属するおそらく最後の世代。アサザプロジェクトの企画運営、ビオトープの企画設計、霞ヶ浦粗朶組合の設立、環境教育プログラムの企画運営をはじめ、多彩な活動を行っている。
共著者に、『よみがえれアサザ咲く水辺—霞ヶ浦からの挑戦』文一総合出版、『水をめぐる人と自然』有斐閣選書、などがある。








特定非営利活動法人 アサザ基金
 〒300・1233
 茨城県牛久市栄町6・387
 電話029・871・7166
    このエントリーをはてなブックマークに追加

P23 02


彼氏がはっきりしてくれません



Q: 彼とは、3年間つきあって、別れてからさらに4年が経ちますが、定期的に交際を続けています。
私としてはよりを戻したいと思っているのですが、向こうは「つき合ってへん。元カノや」と取り合ってくれません。
私ももう32歳で結婚も本気で考えているのですが、このままのらりくらりと逃げられそうで悩んでいます。
どうすれば彼にはっきりした返事をもらえるでしょうか。 
(女性/32歳)



続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加




(2007年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第64号 [特集 100年かけ「霞ヶ浦再生」を実現するアサザプロジェクト]より)





非力なものが知恵を出して遊ぶ。霞ヶ浦は遊び相手



P18 2



なぜ、子供たちがアサザプロジェクトの主役になれるのだろうか? と問うと、「それは、子供たちが自然と同じ時間を持っているから」と即座に返事が返ってきた。

自然はすべて潜在性のかたまり、コントロールできるものではない。それと向き合う子供たちが持っているのは、効率に対する非効率、合理性に対する非合理性だ。アサザプロジェクトに行き着くまでは、それとまったく逆の発想の効率や合理性を基準に活動していたと、飯島さんはふり返る。




「霞ヶ浦を再生するといっても、自然が相手なんです。こちらが自然の時間に合わせないと知恵も生まれないし発見もない。湖を歩いたのはよかった。時間の中に浸りこんで溶け込んで、丸々1日湖の空間を身体に感じて。だからこそ、アサザからひらめきをもらえたんだと思います。自然の時間と同じ時間を持っている子供たちとじっくり歩いて、じっくり見て。子供たちが一緒にやってくれたからここまできたと思います」

飯島さんによると、小学生の日常的な行動範囲はだいたい2㎞くらい。かつて近隣の池や川は、子供にとって身体の延長、身体の一部だった。アサザプロジェクトはそういう子供たちの感性の息づく空間をもう一回取り戻すための大きなムーブメントであるとも言う。

「僕らは子供の感性を丸ごと本気で受け入れます。遊びなんですよ。大きなものに、できるだけ小さなもの、当たり前なもの、どうでもいいようなものを向かい合わせるという遊びをしているんですよ。大きな霞ヶ浦は、僕らの遊び相手なんですよ。力対力じゃなくて、非力なものが知恵を出して湖に遊んでもらうんです」




子供たちが総合学習で取り組む




P18 3


”アサザの里親“も単純に水草を増やすということではない。「里親になるということは、相手を知るということなんです。湖のこと、植物の育つ環境、季節の変化などを知らないと、アサザを育てられない。生き物の視点で、上流から下流まで、どんな生物にどのような問題があるのかを調べ把握して、子供たち自身が新しい試みを提案していきます。ただ『環境を守らないといけない』なんて、独りよがりのことを言っててもだめで、人間はどういう生き方をしたらいいのかということを、野生の生物とつき合いながら気づいていくんです」

03年からは、NECと連携して子供たちが地域の環境情報を集めている。温度、湿度、水温、日照時間をセンサーが自動的に感知して10分おきにデータが教室のコンピュータに送られる。それを通して、蛙が冬眠に入るのは何度くらいか? 春になって地中の温度が何度くらいになるとヒキガエルが卵を産むのか? 水温が何度くらいになるとメダカが泳ぎだすのか? などを調べる。ほとんど研究者レベルといっておかしくない。




05年からは、宇宙開発関連の研究機関と連携して、大型衛星『大地』を使った「宇宙から蛙を見つけよう」という衛星画像を利用した霞ヶ浦の水循環再生のための現状把握活動も始まった。


「この計画には、子供の力が必要なのです。宇宙から見ると、蛙が生息している湿った土の波長が違うので、それをフィルターにかけて色をつけます。その色のついたところに子供たちは出かけていく。どのくらい衛星が読み取ったデータと現場の状況が当たっているのか? アカガエルが卵を産んでいるかな? ニヤンマやサワガニはどうしているかな? どのくらい湧き水があってどんな生物がいるのか? 2200㎢という広大な地域でそれを調べています。

こんなことは、子供が参加してくれないとできないことですよ。しかも子供たちは地元をよく知っているので、研究者以上にきちんとやれる。宇宙開発というと、国家威信をかけた巨大なプロジェクト。それと子供や蛙などという小さなもの。とんでもない大きさの違いがおもしろいんですね」




いよいよ、子供たちにとっても、アサザプロジェクトは総合学習の域をこえてきた。06年11月には、牛久市の神谷小学校の5年生が、市長や部課長の前で、霞ヶ浦水源地の再生計画のプレゼンテーションを行った。市民に向けた地元説明会も終えて、小学生の提案する公共事業がついに実施される見込みである。




海外からも視察、地域コミュニティの積み上げという普遍性



国交省のすすめてきた河川管理、利水の既存の枠組みの中で可能性を追求する時代は終わった。縦割りの社会システムで、地域コミュニティや自然の空間が分断され、水の循環が分断され、生物の移動、生息地も分断され、人間としての当たり前の生活さえ分断される。飯島さんは、国や行政や専門分化した研究者がつくりあげてきた近代化とは異なる、まったく新しい自然と共存する社会システムの展開を考える。

従来、地域がらみの公共事業の問題が出てきたときは、公共事業以外の選択肢がなく、その事業をやるやらないの議論のレベルにとどまっていた。民間活力の導入も声高にいわれるが、企業は投資したお金を最大限回収しなければならず、ビジネスに最適なループをつくることが使命。そこで、3番目の選択肢をつくるNPOの出番である。資金の回収の必要がない非営利団体が、新しい発想で、新しいもの、金、人の動きをつくりあげていくのだ。

「94年頃に戦略をつくりました。既存の霞ヶ浦流域システムを質的に転換しようと考えたときの最大の課題は、流域という広大な地域をおおう面的な展開を実現させることでした。その土台になる鍵が小学校だった。小学校の流域全体のネットワークができあがれば、一気に質的転換が可能だという周到な読みと戦略があったんです」




確かにアサザプロジェクトの事業はどれも有機的につながっているように見える。しかし、総合学習の一環とはいえ、子供が公共事業を担うような事例は全国どこにもない。

「日本の田舎の小学校は、地域で子供を育てるという文化伝統が、今でもなくなっていない。学校教育をどうこうしようというのではなく、地域ぐるみで子供たちを育てる、当たり前のことが地域で始まればいい。その拠点として学校があればいい。お年寄りへのヒアリングも、相手から何かを引き出していこうという子供たちの強い意志があって、それによって相手も生かされる。アサザで育った子供たちは、見えないものを見たり、いろんな働きかけのできる大人になっていくのかなと思います」

11年の間、粗朶組合を筆頭に、具体的なビジネスモデルの提案をし続けてきたことも、アサザプロジェクトが動いてきた大きな理由だと、飯島さんは言う。しかも、そのビジネスモデルは、地域の生業や日常生活に深く結びついていることがポイントだ。しかも、アサザプロジェクトでは、粗朶消波堤のような伝統的な技術から、宇宙開発のような先端的な技術まで、さまざまな試みが地域コミュニティで機能していく。

地域の当たり前のものを読み直し潜在性を引き出しているアサザプロジェクト。その基本の方法論は地域コミュニティの積み上げ。だから、普遍性がある。秋田、八郎湖でも霞ヶ浦のノウハウは生きた。すでにアジア、アフリカなど30数ヶ所の国々からの視察も相次いでいる。




第四回へ





Photos:高松英昭



    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ