(2008年8月1日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第100号より)




大好きだったスロットよりも、ビッグイシューにハマってる




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若者文化の発信地としてにぎわい、ひっきりなしに人が行き交うJR中野駅。その北口のガード下に、田中光彦さん(37歳)は今年5月下旬から立っている。朝9時から夕方4時までの間に10冊前後が売れていく。本音をいえばもう少し部数を伸ばしたいところだが、血圧が高くて無理がきかない。昨年の秋頃までは渋谷で売っていた。ところが、音信の途絶えた息子の身を案じた福島の両親が捜索願を出し、半年近くを実家で過ごすことになった。「だけどやっぱり東京が恋しくなって、ビッグイシューに戻ってきちゃった。また渋谷でもよかったんだけど、あそこは発売日だけポンポン売れて、だんだん部数が落ちていく」。それよりも、「毎日コンスタントに売れる」中野を再スタートの地に選んだ。

顔なじみのお客さんも増えつつある。先日も、見覚えのある高校生5人が「取材させてください」とやって来た。聞けば、ビッグイシューのことを学校で宣伝したいという。「ひとりでもいいから、友達がほしい」と切望する田中さんは、こうやってお客さんと話す時間がとにかくうれしくてたまらない。

福島の農家に生まれ、姉と妹に挟まれて育った田中さんは幼いころから物静かで、友達をつくるのが得意ではなかった。外で遊ぶよりも、家でテレビを見て過ごすことのほうが多かった。地元の高校を卒業してしばらくは家の農業を手伝った。「米も野菜も一所懸命つくったけど、全然お金にならなかった」。そこで外に出て少しでも稼ごうと、20歳のとき、叔父の紹介で地元の温泉旅館に就職した。

「いわゆる番頭さんですよ。昼過ぎには出勤して配膳から布団敷き、食器洗いまで何でもやった。一番大変なのは風呂掃除。全部終わるころには夜中の12時、1時を回っていた。こんなに働いて時給500円はいくら何でも安すぎますよね」

働きに見合った給料をもらえる仕事を求めて、職業安定所に足を運んだ田中さんは自衛隊にスカウトされた。田中さんは小柄なため規定の身長にとどいていなかったが、担当者は背伸びしてパスさせてくれた。しかし、連日の訓練は想像を上回るハードな内容だった。

「敬礼、回れ右、ほふく前進。今でも身体が覚えてるよ。3年間は頑張ってみたんだけど、どうしても体力がもたなかった」。宮城、秋田、横須賀、市ヶ谷と各地に配属された田中さんだったが、辞めた後は故郷の福島に戻り、両親に親孝行もした。

その後、地元のパチンコ店に就職したというので、趣味も兼ねていたのかと思いきや、「玉を自分の力で動かせないパチンコより、自分で合わせた実感を得られるスロット」派なのだとか。「どっちみち従業員は自分の店ではやれないので、よその店に行ってはスロットに注ぎ込んでた。月に30万円もらって、15万円が消えていく。そんな生活でした」

ところがあるとき、台を移動中に腰を痛め、店を辞めざるをえなくなった。福島ではなかなか次の仕事が見つからず、東京に望みをつないだ。しかし現実は厳しかった。職業安定所に通い、新聞の求人欄に目を走らせ、受けた面接はことごとく落ちた。

そしてちょうど3年前、途方に暮れて新宿の小田急百貨店前を歩いていた田中さんの目に、ビッグイシューを売る男性の姿が飛び込んできた。男性から話を聞き、自分のペースで働けるスタイルに魅力を感じた田中さんは、翌日からさっそく販売を開始。平日はビッグイシューを売り、週末は「引っ越し作業の手伝いや、工場でコンビニ弁当に野菜なんかをトッピングするアルバイト」に精を出した。


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それでもアパートの家賃を捻出するまでには至らず、今もまだファストフード店でテーブルに突っ伏して仮眠する生活が続いている。「路上よりは安全だけど、足を伸ばして眠れないから疲れが取れないんだよね。ネットカフェは1泊1000円以上もするから、奮発しても2週間に1度くらいしか泊まれない」という。

仕入れ先の事務所までは雨の日以外、徒歩で行く。少しでも貯金に回したいからだ。「渋谷で売ってたころはスロットにハマって、パンクしたことがある。仕入れができなくなるほど注ぎ込んでしまった。でも今は、見に行くことはあっても絶対にやらないよ」

今度の正月、高速バスで実家に帰るお金をコツコツ貯めているそうだ。捜索願が出されたときと同じように、また実家に帰ったまま、東京へ戻ってこなくなるのではないか。そう尋ねると、「それはないね。自分にとってこれ以上の仕事はないから。ビッグイシューにすっかりハマってるんだよね」という、明るい返事が返ってきた。

(香月真理子)

Photos:高松英昭
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(2011年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第95号より)




LDは「違いを学ぶ」ことで、こえられる。


「Learning Disabilities」から「Learning Differences」へ





自身もLD・ADHD的な傾向があるという上野一彦さん(東京学芸大学教授)は、
40年にわたってLD・ADHD(学習障害・注意欠陥多動性障害)教育の必要性を主張してきた。
そんな上野さんに「LDとは何か?」、そして「LD教育の未来」を聞いた。





みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう





BA学芸大学j 104(上野一彦さん)


誰にだって苦手なことはある。地図が読めない。名前が覚えられない。魚を焼くと丸こげになるし、アイロンをかけるとどうしてもしわくちゃになる。政治や経済の話はちょっと苦手……という人もけっこういるだろう。

ここで覚えておいてほしいのは、その苦手意識の感覚だ。誰もが苦手なものと向きあう大変さは理解できるはずだし、共感もできるだろう。

問題は日常生活を送るうえで、そうした苦手意識が人から見て「かわいらしい」レベルで済んでしまう人と、そうではない人がいることだ。かわいらしいとか、個性的だね、で済んでしまうなら、本人もそんなにはつらくない。けれど、「みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう?」と悩んでしまうのはとてもつらいことだ。

多くのLD(学習障害)の人たちが経験してきたのも、またそういうつらさだった。

「人の名前を覚えられないとか、地図が読めないとか、色の使い方が変わっているとか、そういうのはそうそう目立たないですね。不器用の一言で済んじゃう場合もあるでしょう。でも単に不器用な人をLDとはいわない。LDはその不器用が『勉強面に関係する部分で起こってくる』ことをいう。そうすると学校なんかでは非常に目立ちます。勉強が苦手というのはけっこう重いことなんです」

そう言ってうなずくのは、東京学芸大学教授の上野一彦さん。LDと出会って40年以上、上野さんは全国各地をまわりながらLDをはじめとする発達障害への理解を広く求め続けてきた。




LDのおよそ80%がディスレクシア(読み書き障害)



ここで少し、LDという言葉について説明しておこう。もともとは英語で『Learning Disabilities』といい、LDはこれを略称したもの。日本語では「学習障害」と訳されることが多い。

上野さんによるとLDのタイプにも個人差があり、その傾向は千差万別。その困難の目立ち方にもいろいろある。基本的には、㈰読み、書き、計算に関する困難、そして、㈪話し言葉の困難。他にも㈫〜㈭などの困難を重複する場合もあるという。

1. 『読み、書き、計算がなかなかうまくいかない』
2. 『言葉の使い方、聞きとり方にかたよりがある』
3. 『友達同士のルールがわからない』
4. 『運動が苦手』
5. 『落ち着きがなく、その場に適した行動がとりにくい』など。

原因について詳しいことはまだわかっていないが、少なくとも「遺伝やしつけが原因ではない」と考えられていることについては触れておきたい。

また、LDの起こるしくみには、脳のネットワークに何らかのトラブルがあるためと考えられており、上野さんはそれを「歯車」にたとえて説明してくれた。

「時計の歯車や部品がぜんぶそろっているのに、進んだり、遅れたりすることってあるでしょう。LDのDは『ダメージ』じゃなくて『ディスアビリティ=動きがわるい』っていう意味なんです。だからLDの特徴は脳の全体がうまくいかないんじゃなくて、ある一部分がうまくいかないってことなんです。でも、それは誰もがそうじゃない? 同じように勉強してもすっと覚えられる人もいれば、そうでない人もいるでしょう」

では、どうしてLDの人の歯車がとりわけ目立ってしまうのか? これはさっき挙げた五つの特徴のうち、特に一つ目に注目することで理解の糸口がつかめるかもしれない。

例えば、多くのLDの人たちは文のつながりをうまく区切ることが苦手だ。もし「がっこうへいく」という文があったとしても、それを「がっこう・へ・いく」とは区切れずに「が・っ・こ・う・へ・い・く」と1字ずつ逐次読みしてしまう。

また「っ、ゃ、ょ」などの小さな文字をうまく発音できないために、文字を書く際にも正しく書くことが苦手になるという。

こうした「読み書き障害」については、欧米で『ディスレクシア』という言葉が古くから定着しており、LDのおよそ80%がこのディスレクシアであるともいわれてきた。

改めて確認するまでもなく、私たちの社会では読み書きのできることが「当たり前」とされている。そこでつまずいてしまえば、さまざまな可能性が閉ざされてしまうのも残念ながら今の現実といえるのだ。 そのもっとも典型的な例が、「学校」という場所だろう。もし読み書きが苦手だったなら、そもそも教科書やノートという道具自体がつまずきをもたらす。テストだってほとんどが筆記なのだ。




教育の鍵、それぞれの子の学び方で教える




「また、今の学校っていうのは横並びですからね。2年生の終わりにはみんな九九をできなきゃいけないでしょう。あるいは、九九はできるけど、他の計算がやたらにできない子だっています。そうやってことごとく勉強ができないと、非常に居心地がわるいし、人格が傷つけられることだってあります」

そこで上野さんは何度も強調する。LDの人は決して勉強ができないのではなくて、「できるのに時間がかかる」または「違うやり方が必要になるだけ」なのだと。

「学校なんかでは先生が一般的な教え方をしようとするでしょ。ところが、LDの子どものなかには暗算が弱くて指を使おうとする子もいるのです。指っていうのは、確かに使わないほうが発展性はあるんだけど、ゆっくり学ぶ必要のある子に『指を使っちゃいけない!』って言うと、もう頭の中はグチャグチャだし、自分の唯一のやり方をとられちゃうわけだ。『こんな簡単なこと、なんでできないの!』って責められたら、つらいですね。だから、指を使ってもいいよって。それから指を使わないやり方もゆっくり教えていく。子どもだって指を使わないほうがカッコいいと思えたら、そっちに移っていく可能性があるわけでしょう。『もし子どもたちが私たちの教えるやり方で学べないのであれば、その子の学び方で教えてごらん』って言葉があってね。それがこれからの教育の鍵なんですよ」

そうした周りの理解がどんどん広がっていけば、これまで閉じられていたLDの人たちの可能性もこれからはもっと社会に開かれていくはずだ。私たちはそのことを歴史上の有名人たちからも教えてもらうことができる。




後編に続く





うえの・かずひこ
1943年、東京生まれ。東京学芸大学教授、日本LD学会会長。日本にいち早くLDを紹介し、LD教育の必要性を主張。全国LD親の会、日本LD学会の設立にかかわる。著書『LD教授の贈り物』(講談社)では、みずからのLD・ADHD的傾向をエッセイに綴った。他にも、『LDのすべてがわかる本』講談社、『LDとディスレクシア』(講談社+α新書)など著書多数。





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(2006年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第52号より)






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怒りは希望にも絶望にもなる、自分らしく怒り生きる力を身につける



人間にとって「怒り」とは何か? なぜ、怒ることが必要なのか? 
辛口のコメントでも有名な辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)が、
社会に対して怒ることの意味、新しい怒り方を語る。
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Genpatsu

(2011年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第174号より)




当たり前と考えていることがまったく通用しないことがある。アメリカでは、人間は神様が土からつくったのだと教える学校があるという。しかもそう教えることが義務となっている州があるというのだ。そのアメリカは科学技術を駆使して66年前に原爆を作った。
核がさく裂した時の悲惨さは広島や長崎の体験が教えている。世代を超えて被害がなお続いている。核廃絶を願う何千万もの署名にもかかわらず、現実には米ソで核兵器の開発競争が繰り広げられてきた。現在に至っても核軍縮の歩みはあまりにものろい。それどころか、核の悲劇を二度と繰り返さないとの思いは色あせてきたのではないか。

政府は、平和を愛するより、国を愛する心が大事と教育基本法を「改悪」した。広島・長崎を訪れる平和教育の取り組みもめっきり少なくなったという。核兵器を持てば核攻撃されない、という幻想が若い世代にも染まりつつあるようだ。「歴史は繰り返す」の名言は核戦争には当たってほしくない。

毎年8月6日と9日に広島と長崎で行われる平和記念式典で、核廃絶へ向けた宣言が繰り返されるが、今年は特別な内容が盛り込まれた。被爆を体験した日本だからこそ核の平和利用を進めるのだ、という考えがやっと変わった。

松井一實広島市長は政府に「エネルギー政策を見直し、具体的な対策を講じるべき」と注文をつけ、菅直人内閣総理大臣も「原発に依存しない社会を目指す」と持論を展開した。田上富久長崎市長は平和宣言を福島原発事故から語り始め「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちがどうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのか」と問いかけ、「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要」と訴えた。長崎会場では大きな拍手が起きたという。列席者の琴線に触れたのだ。 

広島ではもっと踏み込むべきだとの意見を聞いたが、原発問題に触れたことは初めてで画期的だったと受け止めたい。来年にはさらに進んだ発言を引き出すよう楽しみができた。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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(2006年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第56号より)





<前編(朝ご飯「冷や汁」)はこちら>






ひるごはん


昼食いめーじ1

マグロ納豆うどん 2人分

【 材 料 】
 納豆 大1パック(100g)
 マグロ刺身 80g
 しょうゆ、わさび 各少々
 うどん 2食分
 卵黄 2個分
 めんつゆ(つけつゆの濃さ) 1カップ
 冷水 1/2カップ
 細ネギの小口切り・せん切り海苔 適量




【 作り方 】
1.マグロは食べやすく切る。しょうゆとわさび少々で和えておく。納豆に添付のたれを加えてよく混ぜておく。
2.うどんを茹でて冷水ですすいで締め、水けを切って器に盛る。納豆とマグロをのせ、真ん中に卵黄を一個ずつのせて、めんつゆを分量の冷水で薄めたものをかける。細ネギと海苔を振り、混ぜながら食べる。


昼食2






よるごはん


夕食2
(まずは常備菜で晩酌。冷奴にしょうがのすりおろしをのせて、イカの塩辛に刻んだ青柚子を振って、もう二品。)



① なす味噌 4人分
【 材 料 】
 なす 6本
 塩  大さじ1
 サラダ油 約1/2カップ
 A 味噌・だしまたは水  各大さじ2と1/2
  砂糖    大さじ1

【 作り方 】
1. なすはガクを削るようにむいて、一口大に乱切りにする。塩大さじ1と水4カップを混ぜた中に漬ける。浮き上がらないように、皿などをのせて2〜3分おいてから、ざるにあげて水けをきる。さらにしっかり布巾などで水けをおさえる。
2. フライパンにサラダ油を入れて180度くらい、菜ばしの先を入れてしゅわしゅわと気泡が出てくるくらいになったら、なすを入れて皮がつややかになるまで強火で揚げ焼きする。<菜ばしで、真ん中の一番厚みのある部分を押さて柔らかさをチェックするとよい>フライパンの油をさっとふく。
3. Aを混ぜてフライパンに入れ、なすを戻し入れてからめる。




②レンコンキンピラ
【 材 料 】
 レンコン 中1節<200gくらい>
 ごま油 大さじ1と1/2
 A 酒、みりん、薄口しょうゆ   
  各大さじ1と1/2
  昆布茶 少々
  水 1/4カップ
 七味唐辛子 少々

【 作り方 】
1.レンコンは皮つきのまま、薄切りにして水に放してさっとすすぎ、ざるにあげて水けをしっかり切る。
2.ごま油をフライパンに熱して、レンコンを入れて中火で炒める。つややかになり、軽くしんなりしてきたら、Aの調味料を順に加えて、水けがなくなるまで炒め煮して、最後に火を強めて水分をとばして仕上げ、好みで七味唐辛子をふる。







大根2


③干しダイコンの煮物
【 材 料 】
 干しダイコン(切干しダイコンでも) 60gくらい
 油あげ 2枚
 だし 1カップ
 A 酒 大さじ3
しょうゆ 大さじ2
みりん 大さじ1〜2

【 作り方 】
1. 干しダイコンはひたひたの水に漬けて戻す。油あげは湯を廻しかけて油抜きをし、2〜3センチ角に切る。
2. 干しダイコンの戻し汁を鍋に入れてだしも加える。Aの調味料も入れ、ダイコンと油あげを加えて落し蓋をし、中火で20分ほど煮る。




④とろろ茶漬け 2人分
【 材 料 】
 長いも 100g
 塩 少々
 梅干 2個
 昆布茶 小さじ1
 ご飯 茶碗2杯
 煎茶 適量


【 作り方 】
長いもはすりおろして塩少々を混ぜる。温かいご飯に昆布茶を半量ずつ振って、とろろをかけ、梅を載せて熱々の煎茶を注ぐ。梅をほぐし、混ぜながらいただきます。






photos:浅野一哉


えだもと・なほみ

料理研究家。料理雑誌やテレビ番組で活躍中。『枝元なほみさんの根菜&豆おかず』別冊主婦と生活、『おりおりのおりょうり』集英社be文庫、など著書多数。




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P23 04

働きはじめて8年が経ち、このまま仕事を続けるべきか悩んでいます。


Q 大学卒業後、同じ会社でずっと働いてきました。全力疾走し、気づいたら8年間経っていたという感じです。
ふと周りを見渡して、このまま仕事だけの人生でいいのか、と思い悩み始めました。
いったん会社を辞めて、ゆっくり考えたいと思っています。
でも、友達に相談すると、「履歴書に空白ができると、もう後がなくなるよ」と言われてしまいました。
仕事を続けるべきか、思い切って辞めるか、とても悩んでいます。(30歳/男性)

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(2006年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第56号より)




なほみさんイメージ




枝元なほみさんの「照葉樹林ごはん」、朝・昼・夜


  
日本の文化の基層で、日本人のおいしさの元にある照葉樹林文化。
枝元なほみさんに、「照葉樹林ごはん」朝・昼・夜のメニューを提案してもらいました。
なつかしく、あきない、心が安定するごはんです。








照葉樹林文化、という言葉は本で知りました。中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』という本から。ちょっとむつかしいような気もしましたが、料理を仕事にする身にはとても興味深いものでした。

照葉樹林地帯、アジアの中で椿の葉のようなつやつやとした樹木が茂る地帯では、米を主食にし、酒などをふくむ発酵食品や発酵調味料を多く使う特徴がある、というもの。比較して、例えば、新大陸文化として分けられる南米などでは、とうもろこしが主食。小麦から作るパンが主食の地中海農耕文化などもあげられていて、なるほど、日本の食の特徴はよその文化と比較することで、すごくわかりやすくなるのだな、と心に焼きついた覚えがあります。

納豆をかき混ぜながらねばねばと引く糸を見て、確かに、こりゃ納豆なぞ見たこともない文化の人が見たら、ほんとに不思議な、オーマイゴッドなものだろうなぁ、なんて思うんですね。

アジの開きを焼く匂いも、それをほぐして味噌と混ぜて焙るときの匂いも、日本人には、鼻から入って骨の髄にまで到達するかぐわしき香りなのに、朝食がミルク&ハニーの土地の人からしたら、信じられないような︿なにこれなにこれ?﹀な匂いともいえるんですよね。海に囲まれた土地で、魚介や海藻を食卓にのせ、きれいな水に育てられた野菜や米を糧にする、穏やかな平和な暮らし。

先祖が大昔から育ててきた食べ物がいとおしく感じられるようになりました。しみじみおいしい、という感覚はDNAが記憶しているものなんじゃないかしら、とも思うようになりました。

異なった気候風土のさまざまな文化の下、みんなが自分の思うおいしいを育てている、いいですよね、土地土地ではぐくまれる<おいしい>を大事に、誇りにしていきたいものだと思ってるんです。「くー、やっぱりこれだねえ」って言えるような食べ物があるって、平和で、健康的なことだとしみじみ思うんです。 (枝元なほみ)





あさごはん
朝食 冷汁たて

冷や汁 4人分

【 材 料 】
 アジの干物 2枚
 白いりごま 大さじ5
 味噌 大さじ5
 水 3〜4カップ
 きゅうり 1本
 みょうが 2個
 細ネギ 3〜4本
 麦ご飯 適量




過程2


【 作り方 】
1.アジの干物はグリルで焼いて、皮と骨をよけて身をほぐす。
2.みょうがは輪切りにして水に放す。きゅうりも輪切り、細ネギは小口切りにする。
3.すり鉢で、いりごまをすり、1の干物を入れてすりまぜ、味噌も加えてペースト状にすり混ぜる。ゴムベラで、すり鉢の内側にすりつけるようにしてから、直火にかざして、軽く焦げ目がつくまで焙る。
4.水を少しずつ加えて溶きのばし、2を浮かべる。麦飯にかけていただく。
※ 糠漬けのにんじんときゅうりを 添える。






photos:浅野一哉




後編はこちら





えだもと・なほみ

料理研究家。料理雑誌やテレビ番組で活躍中。『枝元なほみさんの根菜&豆おかず』別冊主婦と生活、『おりおりのおりょうり』集英社be文庫、など著書多数。








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Genpatsu

(2011年8月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第173号より)

牛はかわいそうである。BSE(牛海綿状脳症)で嫌われ、その次には口蹄疫で騒がれ、いま放射能汚染で排斥されている。牛には何の責任もない。すべて人間の仕業である。

きっかけは、東京都の健康安全研究センターで測定された牛肉から基準(1キロあたり500ベクレル)を4倍以上超える放射能が検出されたことだった。福島県の南相馬市から出荷された牛だった。牛が放射能を浴びたからではなかった。犯人は稲わらだった。

屋外で乾燥された稲わらが高い放射能で汚染されていた。それを食べていた牛の肉に放射能が蓄積された。放射性のセシウムは筋肉や内臓に蓄積する性質があるからだ。汚染牛は福島にとどまらなかった。次々に発見されて、北は北海道から南は島根まで16道県に及んでいる。そして、46都道府県に出荷されていたことが明らかとなった。ほぼ日本全国である。その頭数は2900を超え、さらに増えつつある。秋田県では県産牛4500頭をすべて検査するという。検査費用も231万円というからばかにならない。

農林水産省は餌の牧草に関する基準値(300ベクレル)を通知していたが、稲わらには言及がなかった。福島第一原発の爆発で放出された放射能が100キロメートルも離れた宮城県の田んぼの稲わらを強く汚染することなど、酪農家には思いもよらなかったとしても不思議ではない。

しかし、政府や東京電力は明らかに知り得た。放射能がどのように広がったかをちゃんと把握していたからだ。政府は基準値を超える牛肉を民間の食肉流通団体に買い取らせ、同団体はその費用を東京電力に損害賠償請求するという。これらは焼却処分される。また、基準値以下でも冷凍保存を促し保管料を請求するようだ。ほとぼりが冷めたころに流通しないか心配は拭えない。

放射能はいったん環境に放出されると、食べ物を通して静かに広がっていくことを牛は教えてくれた。和牛が庶民の食卓にのぼってくるのはそれほど多くないかもしれないが、しかし、子どもたちや青年男女には汚染されていない食べ物を勧めたい。放射能による内部被曝を避けるべきだからだ。



伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)










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ビッグイシューについて

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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊450円の雑誌を売ると半分以上の230円が彼らの収入となります。


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(2006年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第56号より)




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料理を手段に人間教育「キッズ・キッチン」。かまどのごはん、味噌汁、そして魚料理



御食国(みけつくに)として知られている福井県の小浜市では、就学前の幼児が本物の包丁を使って魚をさばいている?! 子供対象とはいえ、本格的なこの「キッズ・キッチン」、いまや子供たちの人気のまと。中田典子さん(福井県小浜市食のまちづくり課勤務)にその誕生の経緯と人気の秘密を聞いた。






始まりは1回だけの予定だったイベント「キッズ・キッチン」




Kamado


2003年11月2日、若狭おばま食文化館の1階キッチンスタジオで、就学前の幼児対象に2時間に及ぶ食のイベントが行われていた。

子供たちに本物の包丁を持たせ、地場で取れた食材を使って料理をする。メニューはクッキーでもスイートポテトでもなく、白いごはんと具だくさんの味噌汁だけ。親はいっさい手を出さず、固唾を呑んで見守るだけの「キッズ・キッチン」。

さあ、この2時間、どんなことになるのか?

だが、普段は危ないから触っちゃだめと言われている包丁を、きちんとルールを守って使う。出汁を取るのに、煮干を使うが、それを「金魚すくい」だと言って楽しむ。たっぷり2時間集中して料理に取り組む子供たちがいた。自分が包丁で刻んだきゅうりやナスはその子供にとって特別なものになる。最後まで見守っていた親とできあがった料理を一緒に食べる子供たちの顔は誇らしげに輝いた。

「好き嫌いがなくなるとか、たくさん食べるとか、そんなレベルではなく、子供たちはこの体験を通して『やった!』という達成感を感じたんですね」。指導した中田典子さんは、そのときのことを「私がイメージしていたとおり、イベントの最初と最後で、本当に子供が変わったんです」と振り返る。

実はその年、中田さんは食のまちづくりを進める小浜市に食育専門職として社会人採用された。その時点で小浜は既に生涯食育のまちとして名を馳せており、「私がやれることは何だろう」と考えた末の「キッズ・キッチン」だった。

「いまさら子供の料理教室なんて?」「ケガでもしたら…」と否定的な意見が多かったにもかかわらず、中田さんの熱意に試しに1回だけやってみたらと開催されたイベント。結果は大好評。それ以降3年間で、小浜市の幼稚園、保育所の全年長児を含め、延べ2500人の子供たちが「キッズ・キッチン」を体験した。




食の持つ力はすごい。人を幸せにする力がある




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「キッズ・キッチン」の基本メニューは、ごはん、味噌汁、魚料理で、食材には必ず地場の野菜や魚を使う。魚は市場で中田さんが仕入れるし、野菜は地元特産の根元の白い部分が曲がった「谷田部ねぎ」などを意識して使っている。

「ゆっくりゆっくり包丁を下ろして、下につかえたと思ったら、そこで押したり引いたりしないで、包丁を上にあげるのよ」と中田さんが話しかけると、子供たちは緊張しながらも、そぉっと豆腐に包丁を入れる。しばし張りつめた緊張のあと、「できたぁー」「見て見て!」と歓声が上がる。中田さんはそのたびに感動で胸が熱くなる。

「自信のない子には『見ててあげるから、やってみる?』と声をかけます。子供は信頼されると、いじらしいくらい、それに応えようとしますよ」と中田さんは語る。

子供たちがお米を研ぐ。キッチンにすえられたカマドでお米が炊きあがると、みんなで鍋蓋をとる。もうもうと上がる白い湯気と炊き上がったばかりのごはんの匂い。「鳩が出てくるのかと思った」と言う子供の言葉に笑いが起こる。

小松菜を包丁で切るとき、じっと見つめている子供がいた。「この菜っ葉、生きている。血が通っているよ」と、その子は葉脈を発見したのだった。

魚を触るのにも何ら抵抗がない。4歳児がいわしの手開き、アジの三枚おろしもいとわない。魚の胃袋に「小さいお魚が中に入っているよ。餌だったの?」と、まな板に並ぶまで生きていた魚の命について考える。さらに、「キッズ・キッチン」での体験が忘れられず、「金魚すくいして、お出汁を取ろうよ」と意図せず自宅で親を教育したりもする。

「だから、キッズ・キッチンは料理教室ではありません。あくまで料理を手段にした人間としての教育なんです」と中田さんはきっぱりと言う。「本物の食材に勝る教材はないんですよ。えんどうのサヤむき、柔らかい葱と硬い大根を包丁で切り、胡麻をするときは、すり鉢の持ち役とすり役を二人で分担する。触る、匂う、むくなど、ゲーム感覚で子供たちは五感を使う。食の持つ力は本当にすごい。人を幸せにする力があります」

今年4月には、招かれて韓国の幼稚園へ「キッズ・キッチン」の出張教室も行った。そこでの子供たちの反応と母親たちの感動も日本と同じだった。中田さんは「韓国で、料理に言葉はいらないと思いました」と笑った。

 (編集部)

写真提供:小浜市食のまちづくり課





「キッズ・キッチン」
飛鳥時代から天皇に海産物を献上する御食国といわれた若狭・小浜。2001年、食のまちづくり条例を制定した福井県小浜市は、全年齢層を対象にした生涯食育で有名。「キッズ・キッチン」は、2003年に始まった就学前の幼児対象の料理を手段にした教育プログラム。小浜市の幼稚園、保育所の全年長児は全員が体験。随時行われる市内外の幼児対象「キッズ・キッチン」は人気のため抽選制をとっている。2〜3歳児対象のベビーキッチンも誕生。


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