30年間の「座り込み」。ホワイトハウス前で平和と非核訴え




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コンセプション・ピシオットさん(67歳)





アメリカの首都ワシントンDCにある、米大統領の公邸ホワイトハウス前。ホワイトハウスに向けてシャッターを切る多くの観光客の背中を見ながら、一人の女性が呼びかける。「核のある世界がどんなに危険か、考えてみて」。スペイン出身のコンセプション・ピシオットさん(67歳)。1981年から実に30年もこの場所で座り込み、平和と反核を訴え続けているのだ。

今、都内・霞ヶ関の経産省前では、福島や全国の女性たちによる脱原発の座り込み「未来を孕む とつきとおかのテントひろば行動」が展開されている。昨年秋以降は、経済や所得格差を訴え、ニューヨークウォール街で「オキュパイ(占領)運動」なども起きた。ピシオットさんは長年続けている、いわば〝先輩格〟だ。




10代で米国に来て、国連やスペイン領事館で秘書の仕事をした。結婚もし、娘ももうけたが離婚。政治活動に入り、やがてホワイトハウス前で座り込みを始めたのが30年前。当局にしめ出されたり、心ない人から罵声や暴力を受けたりしながらも、巨大な看板を設置して、その脇で身体を休めながら世界各国の観光客に平和の尊さや核廃絶を訴え続けた。

後に白いビニール製のテントが設けられ、彼女を「コニー」と呼ぶ友人や支援者が増えた。毎日の食事は観光客からの募金で賄い、トイレやシャワーは支援者や近くの教会、ファストフード店などで済ませている。実質「ホームレス」状態だが、日々多くの人と接し、自分の訴えを表現する自由さからか、日に焼けた横顔はツヤツヤと輝いている。





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観光客から写真を頼まれることもしばしば。「反核、平和」を訴え続ける




「ここで生活して危険ではないですか?」。そう尋ねるとピシオットさんはこう言った。「核兵器や原発のあるこの世界は、どこだって危険。安全な場所はどこにもない」。そして目の前のホワイトハウスを指差す。「世界で一番危険なのは、あそこだから」。ホワイトハウスの屋根に警備官の姿が見えた。核を持つ軍事大国ゆえに、テロの恐怖に直面するアメリカの矛盾が垣間見えた。

ピシオットさんをして素通りする人もいれば、立ち止まって「ユー・アー・ライト(あなたは正しい)」と言う人も。「日本は広島や長崎で核の危険を体験している。地震国なのに原発なんてとんでもない」。ピシオットさんは今日もたった一人、各国の観光客に平和を訴え続けている。

(文と写真 藍原寛子)




ピシオットさんの支援者らによるウェブページ
*参考資料 /「ホワイトハウスの裏庭」(91年9月13日、The Yomiuri America 堀田佳男)

THE BIG ISSUE JAPAN 189号より)


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THE BIG ISSUE JAPAN387号
特集:平和を照らす
アフガニスタン、イラク、シリア、北朝鮮、沖縄。日本の敗戦から75年目に、世界で戦争の爪痕と人々を写真に撮り続ける新世代の写真家を紹介したい。 鈴木雄介さんは、シリアをはじめ戦場という最前線に立ち続ける。林典子さんは、北朝鮮で暮らす「日本人妻」に寄り添い、その思いを記録する。豊里友行さんは、沖縄戦や辺野古の基地建設に向き合い、いま平和を求める人々を写真に収める。 3人の写真家たちの作品とエッセイに目と心を凝らせば、戦争や争いの残酷さ、哀しみという鏡に、平和への祈りが写る。
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https://www.bigissue.jp/backnumber/387/

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「若者ホームレス」と就職活動、生活保護





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いつかは自立したいとほぼ全員思っているにもかかわらず、4人のうち3人は就職活動をしていない。その理由としては、住所、本人確認書類、携帯電話、保証人等がないため、実際に就職活動を行っても、採用段階で断られてしまうなどの理由があげられている。

生活保護を受給しながら職探しをしている人も苦戦している。年齢制限、経験不足などさまざまな理由で求職活動の段階で門前払いを受けてしまっているケースも少なくない。





一方で、自立への意欲があっても、これまで仕事を通して受けた過酷な労働体験やイジメなどによるトラウマのせいで、仕事をする意欲を失っている人もいた。

将来を諦観している人も少なくなく、「結婚とか、家庭とかそういうことはあんまり考えない。一人のほうが楽」という人も。一方で「結婚もして子どももほしい」という声も少なからずあった。




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現在、生活保護を受給している人は8人いるが、生活保護を申請しようと役所に行ったが「若くて働ける人は申請できない」と断られた、「申請が受理される前に職がないと通らない」と誤った情報を伝えられたなど、申請すらできなかった人もいる。

現在受給中、もしくは受給経験がある人は、NPO団体等の支援を受け、生活保護を申請、受理されていることが多い。実際に、若年者が一人で生活保護を申請して受理されることは稀のようだ。一方、「親に連絡が行くので絶対に拒否する」など、生活保護に対して、消極的な人も多かった。





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1月15日発売のビッグイシュー日本版207号のご紹介です。



特集 「盲ろう者」 二重障害の世界


視覚と聴覚の両方を失っている、またはそれらが不十分な状態の人は「盲ろう者」と呼ばれています。厚労省調査(06年)の推計によると、20歳以上の「盲ろう者」は2.2万人。視覚・聴覚の二重障害によって外界からの情報が絶対的に不足し、周りの状況がつかめなくなったり、他者とのコミュニケーションが極端に困難になってしまいます。
そんな過酷な状態を超えて、門川紳一郎さんは外国の大学で学び、現在は盲ろう者の仕事や憩いの場である「NPO法人視聴覚二重障害者センターすまいる」を立ち上げ、活動しています。
また、森敦史さんは、ルーテル学院大学に入学し、通訳のサポートを受けながら「自分のような盲ろう者の役に立ちたい」と社会福祉を学んでいます。早坂洋子さんは、仙台で盲ろう者の活動を中心的に担っています。
「盲ろう者」が置かれている状況やその世界を知り、共有したいと思い、門川さんと「すまいる」のスタッフ、森さん、早坂さんにそれぞれ取材させていただきました。



スペシャルインタビュー 工藤夕貴さん


複数のハリウッド映画に出演するなど、国際的な活躍を続けてきた女優・工藤夕貴さん。今回、日本・カナダ合作のロードムービー『カラカラ』に主演して感じたこと、人生を変えた農業との出合いなどについて語ってくださいました。



リレーインタビュー 探検家 関野吉晴さん


一橋大学在学中に探検部を創設。アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下り、93年、アフリカに誕生した人類がアメリカ大陸にまで拡散していった行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始した関野吉晴さん。10年にもわたる長い旅のなかで気づいた自身のターニングポイントは「親から生まれたことだった」と語ります。



今月の人 新春座談会


1月1日号に続き、今回も「今月の人」は番外編。大阪の販売者さん4人による座談会です。鉄道クラブで琵琶湖1周した思い出、寒さ対策、日々感じる生きる喜びを語り合います。



この他にも、「ホームレス人生相談」やオンラインでは掲載していない各種連載などもりだくさんです。詳しくはこちらのページをごらんください。

最新号は、ぜひお近くの販売者からお求めください。
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仕事は楽しいけど、生活が成り立ちません…。



東京のアニメ制作会社で働いています。動画の下書きを描いたりする仕事で、徹夜・終電まで働くことも多いんですが、楽しくやってます。ただ生活が苦しいのが悩みのタネです。給料が歩合制で、保証金が10万円。そのうち家賃に6万円かかります。最近、先輩の給料も同じと聞いてあぜん。将来的にはゲームのクリエーターを目指し、今の仕事はステップアップとして始めたんですが、あんまりです。両親は北海道に戻ってきたらと言うし、地元にはやりたい仕事はないし、迷っています。
(24歳/女性)





仕事が楽しいことは結構なことだけど、仕事と生活は両立しないとどうにもならない。私なんかは戦後を経験しているから、粗食で十分だけど、24歳で家賃を払った残りの4万円だけの生活は、食べていくだけでも不満なはず。衣裳にも興味ある年ごろだろうし、遊びに行くのだって交通費がかかる。私だって息抜きに、好きな時代小説を買って読んだり、カラオケへ行ったりしているのに。

ましてや都会は事件や誘惑も多いから、我慢してギリギリで暮らしていて、つい魔が差したなんてこともなきにしもあらずでは。ここは実家に戻ることも選択肢に入れたらいいんじゃないかな。ご両親はこれまでも多少の援助をしてくれてきたはずだから、帰っても邪険な扱いはしないでしょう。お金をためて改めてやりたいことに挑戦してもいいと思いますよ。




確かに仕事は大切ですけどね、私の仕事も雑誌を売っているだけが能じゃないと思うんです。

私が売っている新宿は、まず通行人を見ているだけでも飽きないし、この人が東京に魅力を感じる気持ちもわかりますよ。特に部分的に観察したりするのもおもしろい。ずいぶんと奇抜なヘアスタイルの人もいるもんだから。最近は減ったけど、頭の真ん中だけを残して立たしている男の人。あれはチック油か何かで固めているのかな。毎日髪の毛を洗うわけにもいかないだろうから、夜は箱枕みたいなので寝ているのかもねえ。

昔からこの辺りへは、仕事でちょくちょく来ていたけど、現場と家の往復がほとんどで、この仕事を始めるまで、こんな人たちを見たことはなかった。




この人の地元は北海道か。一度仕事で札幌の現場へ行った後に五稜郭に立ち寄ったことがありますよ。東京と違って夜景がキレイだった。この辺のネオンとは全然違う。空気が澄んでいるから、景色が鮮明で、高いビルがないから360度全部が見えたことが忘れられないです。

そうだね、確かにこの人が言うように、北海道では今やっているような仕事はないんでしょうね。そのかわり、今度は知らなかった良さを発見したり、これまで興味なかった他の仕事にありつけるかもしれないね。まだ若いんだから、仕事に未練があるなら、しばらく頑張ってみてもいい。私はそう思いますよ。 

(東京/M)


(THE BIG ISSUE JAPAN 83号より)











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8割が正社員軽軽あり




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人間の負の感情にある、純粋さや根源的なものを描く




人けのない土地、後味が悪い結末。
負の感情を掘り下げ、独特な魅力を放つ







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劇団「乞局」主宰 下西 啓正さん




巧妙な会話劇と不思議な不穏さ。幸福や不幸の曖昧さ



下西啓正さんが率いる「乞局」の芝居には独特な魅力がある。結成12年。近年、数々の戯曲賞を受賞、平田オリザや岡田利規など気鋭の劇作家からも注目される劇団となった。

舞台の設定は「空港に隣接する人けのないマンション群」「都内の下水道」「都内の中央公園脇の墓地」など、たいてい都市のエアポケットのような寒々とした風景。その中で登場人物たちは切羽詰まった状況に追い込まれ、本性をさらけ出す。決して明るい芝居ではない。派手な音楽・照明・衣装はほぼなく、結末は大抵後味が悪い。しかし、巧妙な会話劇と不思議な不穏さで観客を飽きさせないのだ。下西さんは自作の信条をこう説明する。

「世の中で悪とされる人や物事にもそれなりの“筋の通ったもの”があるはずで、それを描きたいんです。幸福や不幸、善悪だって見方によって変わる。そういった曖昧さを大事にしています」




乞局の芝居の特徴は、人のもつ「負の感情」を大きく扱うこと。昨年12月の最新公演「乞局」での設定は「金網で覆われたテーブルのある、寂れた喫茶店」。

店主は、発病以降の記憶が蓄積できない病気の妻をかかえながら、実弟への多額の借金と妻の兄に居候される生活に苦しんでいる。だが、町内の人々は病気の妻を重宝がり、愚痴や悩み相談のはけ口として利用、お金まで支払いだす―。そんなストーリーで、肉親同士の憎しみ合い、不貞、コンプレックス、金への執着など人のドロドロとした部分を描いてみせた。






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「人の負の感情の中には、ある種の純粋さ、根源的な部分があるような気がします。それを描くことで、“人間”を表現したいんです」

舞台設定も“人間”を描くことに一役買う。「人けのない、忘れ去られたような土地を舞台にするのは、そこに、描きたい『昭和』な雰囲気を感じるから(笑)。日本人が元来もっている普遍性が描けるような気がして、物語が膨らみます」





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演劇の強さはナマモノ。生活と創作を両立させ、劇団は新たな段階へ



もともと、大学在学中に映画づくりを志し、サークルに入った下西さん。しかし、並行して行われる演劇活動のほうにより惹かれた。

「演劇のよさはナマモノだということ。観客にも役者にも、創作を疑似体験してもらえる。そこに表現としての強さがある気がします」




ただし、「疑似体験の場」をつくることはそう容易ではない。役者に舞台上で「きちんと生きて」もらうため、台詞や動きが自然に出るよう反復した稽古を求める。7分ほどのシーンを、延々繰り返したこともあり、さらに舞台上の小道具では、やり取りされるお金も本物を使うほど細部を徹底する。




最新作で20回目の公演。下西さんは、普段は台本印刷の会社で働き、社会生活と創作を両立しながら年2回の着実な活動をしてきた。

「きちんと社会で働くことが劇作にも活きています。芝居だけで食べていくより自分のスタイルとして合ってますね」

今回の最新作では、「今までの公演とは違った感慨を得た」と下西さん。今回の設定は実は06年の公演のものだが「見せ方として、以前とはまったく違ったアプローチができて幅が広がった。自分の中で一つの踏ん切りがつけられた感じです。次回はまた新たな段階へいきたいですね」と語る。

今年、乞局はオーディションで新たな「局員」を募集する。「団体として新しい空気を入れるためです。長い年月で俳優たちも自分も変わっていくのが楽しい。だから、とにかく劇団を続けていくことに意味があると思います。今は次を早く書きたいです」(山辺健史)





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撮影:鏡田伸幸




下西 啓正(しもにし・ひろまさ)

1977年広島県生まれ。慶應義塾大卒業後の2000年より劇団「乞局」を旗揚げ。乞局「局長」=(主宰・脚本・演出・役者)として、他の4人の「局員」と共に年2回のペースで活動。劇作家協会新人戯曲賞優秀賞など多数受賞。役者としても、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」などに客演。
http://kotubone.com/
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製造業派遣を転々として Dさん 36歳



東北地方出身。高校卒業後、就職。農産物加工会社、警備員等を経て、製造業派遣へ登録。2年ほどの間に7ヶ所の工場を転々とするが、人間関係がうまくいかず、派遣の寮を飛び出して以来、路上生活を続けている。






子どものころは活発で、勉強も得意なほうでした。父親が青果業を営んでいたんですが、経営がうまくいかなくて高校に上がるころに倒産。両親は離婚し、父親は家を出て行きました。サラ金からしょっちゅう電話がかかっていたので、子どもながら家の状態はうすうすわかっていたつもりです。「早く働いてお金を返すのが当たり前」という雰囲気があったんで、大学進学とかは考えなかったですね。




高校卒業後は、地元の農産物加工会社に正社員として就職。でも単純作業に飽きてしまって3ヶ月で退職しました。そこを辞めた後は地元の警備会社で2年ちょっとアルバイト。社員になる機会もあったんですけど、家計が苦しかったんであきらめました。保険とか年金とかいろいろ引かれるじゃないですか。そうすると手取り下がって生活できなくなっちゃうんですよね。それから2年ほどは土木とか、原発の作業員として単発で働きました。でもそういう仕事もどんどん減ってしまって、地元で長期の仕事を探していたんですが見つからず、製造業派遣に登録することにしたんです。




それから5年ほどはあちこちの工場を転々としました。短いと1ヶ月、長くても6ヶ月ほどで生産調整とか、作業終了とかで別の工場に回される。一番いやだったのは人間関係ですね。契約社員とか期間工とか、正社員とかいろいろあって、その人たちとは口も聞かないってことが当たり前でしたね。仕事内容はほとんど変わらないのに、派遣というだけで下に見られてバカにされる。この仕事をいつ切られるかわからない、今日かもしれない、明日かもしれないっていつも不安に思いながら働いてましたね。




最後のカーエアコンの工場では、リーダーと呼ばれる係長が最悪でした。完全無視されて一言も口を聞いてくれない。それでもガマンにガマンを重ねたけど、派遣を人と思ってないような態度に完全に頭来て、ある日爆発して、夜逃げ同然に寮を飛び出しました。その時、母親と妹は実家に身を寄せていたんで、帰る場所はありませんでした。





今の状態を変えたいとは思っているんですけどね。でも基本的に転職繰り返して、何のスキルも身についていない自分に就職なんて厳しいでしょう。できて製造業派遣か警備員くらい。でもどっちも厳しい仕事だし、条件的にも難しいし、ああいう仕事をするなら今のまま(ホームレス状態)でいいかなと。

人間関係のごちゃごちゃとかも苦手なんです。以前、ホームレス支援のNPOから整骨院の仕事を紹介されたことがあったんですよ。興味はあったんですけど、条件等が書かれたファックスの文字が殴り書きみたいにされてて、大事にされない感じがしたんで断りました。疑り深くなっちゃってダメですね。何の会社に入ってもうまくやっていけるか自信がないんですよ。





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ひどい家族から逃げ出して Cさん 27歳




東北地方出身。中学卒業後、上京。板前修業を経て、定時制高校に通うも中退。その後、地元に戻り製菓工場で派遣社員として働くが、工場閉鎖により職を失う。上京しネットカフェに泊まりながら職を探すも見つからず、路上へ。





今でいう虐待、受けてたんです。父親の暴力もあったけど、何より無視されてたのがきつかったですね。弟が生まれてからひどくなって、「勝手にやりなさい」って母親に言われて……飯に呼んでもらえない。家族がいない時間、一人で残り物とか食べてました。父親は自衛官なんですよ。自衛隊なんて死んでも行きたくないのに、『中学出たら自衛隊入れる』って毎日どやされてました。

そんな状況を中学の担任だけは知ってたんです。それでいよいよ進路を決めなきゃいけないって時に「東京に先生の知り合いがやっているお寿司屋さんがあるんだけど働いてみないか」って勧められたんです。「高校はいつでも行かれる。親元を離れるほうが先だ」って言ってくれて、親に直談判してくれました。




15歳から修行始めたんですけど、学校行きたいってずっと思ってて……。板前は自分で選んだ仕事じゃないって思いもあった
んで、やりたいことを探す意味で20歳の時、定時制高校に入学したんです。その担任が手続きとかいろいろ教えてくれました。でも寿司屋は夜仕事あるから定時制通えないんで、それで辞めて新聞奨学生になって住み込みで働きながら、高校に通うことになりました。でも結局仕事忙しすぎて、高校は卒業できず、1年で辞めちゃったんですけどね。




ある時、元担任からしばらくぶりに連絡が入ったんです。何かと思ったら、「両親が離婚するとかで、母親が会いたがっている」ってことだったんですけど、でも連絡しませんでした。それから半年くらい経って、東京での仕事がうまくいかなくなったんで、地元で仕事探そうと思ってすごい久しぶりに帰ったんです。実家がどうなってるか見に行ったら、家があった場所は「売地」になって、住んでた家は跡形もなくなってました。今家族がどこでどうしているのかわかりません。まあ自分には関係ないことなんでどうでもいいですけど。




地元に戻ってからは、製菓工場の機械オペレーターの仕事をしてました。いわゆる製造業派遣です。派遣の世界は厳しい弱肉強食の世界。自分の持ち場を与えられたら「ちゃんとできます」って強くアピールしないとほかの派遣にとられちゃう。工場でも作業によって死にそうにキツイものと比較的楽なものがある。立場が弱いとキツイ作業にまわされたり、いろんな持ち場をグルグル回されちゃうから、仕事が覚えられなくてヘマするっていう悪循環に陥るんです。

5年経った時、工場の中国移転が決まって閉鎖になっちゃったんです。遅配されてた給料も結局支払われず、寮を出るしかなかった。地元で仕事探すより、東京でネットカフェに泊まりながら探した方がいいと思って上京。でも結局見つからなくて所持金ゼロになって、路上に行くしかありませんでした。




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7月に子どもが生まれ、仕事に身が入りません。



7月に子どもが生まれ、価値観がガラリとかわりました。今までは仕事中心で徹夜、土日出勤もザラでした。とにかく家に飛んで帰って子どもの顔を見たくて、こんなことしてらんない…という心境です。妻は専業主婦だし、子どものためにも、稼がないといけないんですけど、仕事に身が入りません。みなさんはどうなんでしょう? おじさんの子育て経験なんかを聞かせてもらえますか。 (26歳/男性/会社員)





子どもがかわいいのは人情ですよ。でもね、仕事は仕事、家庭は家庭って割り切らないと。この人の子どもは今、泣くのが仕事。泣いて手足を動かして筋肉が育っていく。もう少したってヨチヨチ歩き出して、言葉を発するようになるころが、一番かわいくなりますよ。小中学生になったら、親を煙たがりはじめるけど、そのかわり成人したら、一緒に飲み屋へ行ける。子どもというのは、楽しいこととそうでないことが半分半分。

私にはね3人の子どもがいますけど、全部不肖の子ですよ。それなりにお金もかけたけれども、80手前になろうという私が子どもの尻ぬぐいをやっているんですから…。私はずっと職人で建築畑を歩いてきて、2回も心筋梗塞で倒れてもなお、こうやって働こうという意欲がある。うちの子どもにはそういう気持ちが欠如している。要は本人次第なんですよ。




この子は26歳か。若いのに子煩悩なんて、珍しいね。自分が遊びたいって年ごろでしょう。私のこのころといったら、戦後でしょ。何もなかった。おかげで今はどんな粗食でも耐えられるし、当時と比べたら、大抵のことはつらいとは思えない。それに私には、戦後の日本を、焼け野原から再生させたという自負がある。外務省や最高裁判所、ここでは言えないところをこの手で作ったんですから。




むろん、辛酸もなめてきました。男はワガママですから、遊び一本でいく人も、家庭に打ち込む人もいるだろうけど、私の場合は仕事。

この人も、子どもが趣味なのも結構だけど、家庭の延長が仕事、仕事の延長が家庭であっても困る。そんなに子どもが好きだったら、そのうち次の子もできるでしょう。




30歳を過ぎてからの子どもはまたかわいいし、孫っていうのはもうそれ以上の存在。冒頭でお話した状態ですから、孫といっても私と亡くなった家内が引き取って育てたんです。今じゃ所帯を持っているから、そうちょくちょく会えないけれど、その時はうれしいね。私もそんなにしゃべる方じゃないし、何を話すってことはないんだけど、元気な顔を見られたらそれでいい。そう思うのは、こんな年だからでしょうか。

子どもをかわいがるのも大切だけど、責任を取るというのも親の役割。仕事はおろそかにしないように、頑張ってください。

(東京/M)






(THE BIG ISSUE JAPAN 82号より)










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