(2012年5月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第190号より)
雪の舞う中、青い森公園には大勢の人が集まっていた。4月7日、青森県内の原子力施設の廃止を求める集会が行われた。主催したのは、県内の6団体が中心で、私たちの団体も加わった。1984年の4月9日に青森県は県内六ヶ所村に計画された原子力施設を受け入れることを決めた。以来、毎年この時期にこれに抗議する集会を開催してきた。今年で27回目となった。
今から40年ほど前に下北半島の付け根あたりに大規模な工業開発が計画された。これは、むつ小川原総合開発と呼ばれた。しかし、石油備蓄のための基地が誘致されたものの、それ以外の産業は来なかった。そこに原子力産業界は目をつけ、原子力関連の諸施設を誘致する計画を立てたのだった。当初から計画されていたとの指摘もある。
誘致された原子力関連の諸施設とは、ウラン濃縮工場、低レベルの放射性廃棄物を埋め捨てる埋設センター、そして再処理工場だ。いったん誘致が決まると、高レベルの放射性廃棄物を50年ほど貯蔵する施設や再処理で取り出したプルトニウムを燃料に加工する工場も作られることになった。一連の施設を総称して核燃料サイクル施設と呼んでいる。
中でも再処理は、原発で使い終わった燃料を切り刻んで処理をすることから、放射能を環境に出さないと運転できない。その量は「原発が1年間に環境に出す量を1日で出す」と言われている。海外の同様の施設周辺では子どもたちのがんが増えていると報告されている。さらに、莫大な費用がかかる。ウラン燃料を輸入する場合の10倍以上だ。負担するのは私たち。高い負担と健康被害、多少の犠牲はやむを得ないなんて許されない。
再処理工場の建設が始まったのが、93年のこと。04年から試験運転に入ったが、トラブル続きで止まったまま。
福島原発事故のあと、この再処理の見直しが進められているが、2兆円を超える建設費がムダになるとか、止めると原発の運転もできなくなるなど、電力会社や役人の強い抵抗にあっている。今年は勝負どころだ。
この日全国から集まった1200人は、青い森公園から市内をパレードし、再処理政策の転換を求めて進めている1000万人署名を達成しようと誓い合った。
伴 英幸(ばん・ひでゆき)
1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)