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浪費をやめたいと思いながらもやめられません。どうしたらやめられるでしょうか。


Q:浪費癖があり、貯金というものができません。
短大を卒業して働き出して3年目ですが、お給料をすべてブランド物につぎこんでいます。
物を買うことでストレスを発散しているような感じです。
どうしたら、こんなことをやめることができるでしょうか? (23歳/女性)

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Genpatsu

(2011年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第175号より)




時とともに記憶が薄れていくことは、人が生きる上での知恵ではあるが、記憶の中には薄れさせてはいけないものもある。10年前の9月11日の事件はその一つだ。ニューヨークの世界貿易センタービルにジェット2機が突っ込み建物は壊滅した。さらに1機はペンタゴンに突っ込み、1機は原発を狙ったといわれている。これは機内で乗っ取り犯と格闘の末、途中落下した。本当に原発に向かっていたのか? さまざまな情報が飛び交い真相は見えない。それはともかく、3000人を超える死者の一人ひとりの悲劇を私たちは忘れてはいけない。

福島原発事故は言うまでもない。9月11日はこの事故から半年にあたる。事故はまだ収束していない。原子炉を継続して冷却するために循環冷却注水システムが増設されて何とかしのいでいる状態だが、溶けた燃料が十分に冷えているとはいえない状態だ。放射能は環境へ出続けているので、原子炉建屋をすっぽりカバーするための工事が1号機から始まっている。現場を伝えるフクイチライブカメラは遅々として進まない工事の様子を映し出している。これでは4号機までカバーし終わるのに、とても半年では無理のようだ。

爆発で飛散した放射能は、折からの雪や雨とともに降り注ぎ、大地を汚染した。放出された放射性セシウムの量は広島原爆の168倍と評価されている。どちらも推定値の比較だが、いかに多くの放射能が福島から放出されたことか。この影響は少なくとも数十年にわたって続いていくことになる。だが、汚染地に暮らさざるを得ない人々が多い。彼らは放射能の影響を心配して、全国へ訴えながら、行政へ働きかけたり、食品の放射能測定をすすめて、何とか子どもたちを守ろうと必死の思いだ。一方で、他県の人々からの冷たい差別的な視線を感じて「もう騒がないでほしい」といった悲痛な声も漏れてくる。

放射能は確かに危険だが、人から人へうつるわけではない。流布している誤解が過剰な反応を招いている。悲しいことだ。

福島原発問題はまだまだ続くが、あきらめずに途を切り開いていこう。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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前編はこちら




LDの天才達





ディスレクシアを克服して作家になった、ジョン・アーヴィング




例えば、あのアルバート・アインシュタインはLDだったといわれている。彼は幼いころ、言葉を覚えるのが遅くて、数学以外の成績はからっきし駄目だった。大学受験にも失敗して世間に埋没しそうになっていた彼を、アインシュタインの叔父や友人、教師たちは、彼の「数学ができる」という長所をきちんと汲みとり、評価しようとしたのだった。

また、発明王と呼ばれるエジソンも読み書きと計算が苦手だった上に、学校では教師の話を聞かず、ボーッとすることの多いADHDの傾向があったという(LDとADHDは重複しやすいことがよく知られている)。とっぴな行動が多く、小学校を3ヶ月で放校処分になったエジソンだが、彼は幸いなことに母親という教育者に恵まれた。エジソンは母親という理解者を得ることによって、「電球の発明」へと一歩、足を踏み出すことができたのだった。

ほかにも、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ウォルト・ディズニー、ブルース・ジェンナーなどたくさんの名前を挙げることができるが、現在も活躍を続ける最も有名なディスレクシアの俳優がトム・クルーズだろう。彼は脚本を読みながらセリフを覚えるのではなくて、すべてをテープに吹き込んでもらってから内容を覚えるという。

さらに驚くべきは、たとえディスレクシアであってもそれはけっして「作家になる道」をも不可能にはしないという事実だ。

『ガープの世界』『オウエンのために祈りを』などで知られる作家ジョン・アーヴィングもそんなディスレクシアの一人。彼の場合、文章はゆっくり読み直し、作品を書く時は音読するなどして、読み書きの苦手を補っている。苦手な単語のつづりがあったら、周りの人が助け舟を出している。

「だから逆にいうと、LDだからってみんなと同じようにできないっていう考え方も私は間違ってると思うね。もしうまくいかないことがあったら、何かほかにうまくいくことがないだろうかと探してみる。もしそれが生きることにつながっていったら、なおすばらしいねって。もちろんみんながエジソンみたいにうまくいくわけじゃない。でも自分で納得したり、楽しめたりすることが見つけられたら、それでもいいよねって言いたい」




英国の消防庁にあるディスレクシア支援のコース




なにを隠そう、そのように語る上野さんも、実はLD・ADHD的な傾向があるという。昨年出版した『LD教授(パパ)の贈り物』も「ふつうであるより個性的に生きたい」と願う上野さんが綴ったドタバタ生活のエッセイ集だ。

「僕も個性的にしか生きてこられなかったからね。だから偉そうなことは言えない。自分がいじめをしなかったか、差別をしなかったかといえば、いや、気づかないでたくさんやってきたと思う。そういうことは僕にだってたくさんあるよ。だから『もっと理解したい』って思うんです。みんな『自分のことを理解してほしい』って言うけどね、でも『あなたがいろんなことをもっと理解していくことも大切だよ』って伝えたいですね」

発達障害をめぐる社会のしくみも、いま大きく変わり始めている。

昨年は、これまでの特殊教育に代わって新たに特別支援教育が始まった。特殊教育では障害の名前によって対象となる子どもを分け、サポートが行われてきたが、そこにLDやADHD、高機能自閉症の子どもは含まれなかった。それを今度の特別支援教育は、障害の種類にあまりとらわれることなく、一人ひとりの個性に合わせてサポートを行っていこうとしている。

「それは小学校を中心に一気に広まったね。でも中学校はまだまだ弱い。今年は高校に講演に呼ばれることも、わりと増えてきた。そうすると今度は大学でしょう。そうやってサポートできる水位もだんだん上がっていくわけです」

やがては、学校のみならず、社会全体にまでその水位を上げ、広げていくことが必要になってくる。そこで上野さんは英国の例をぜひ参考にしたいと話した。

「英国の消防庁に行くとね、ディスレクシアを支援するコースがあるんです。消防士の場合には判断力とか勇気とか、そういうのが大事でしょう。それがきちんとある人なら立派な隊員になれる。別の職場の例ですが、電話で応対するときとっさに単語が思い浮かばないといった弱点をもつ人がいました。そういう場合はコンピュータによって電話の音声が文字に換わる装置があれば、問題は改善されます。今、そういう技術がどんどん開発されています。そうすると、雇用主はその人をクビにしないで、そういう装置を買う。その費用は税金で還付される。英国ではLDとかディスレクシアという特徴があったとしても、こういう形でどんどん仕事についていけるようになってきてます」

だから心のなかで僕がいちばん願っていること、それはね……と上野さんが笑った。

「LDのLとDが『Learning Differences』に置き換わっていくことなんです」

それは『学び方が違う』とも『違いを学ぶ』とも訳せる、LDの新たな考え方。もしLDが『違いを学ぶ』ことになれば、それに取り組めるのは私たち全員だ。「そうなるといいなっていうのが僕の願いなんです」

(土田朋水)
Photo:高松英昭


うえの・かずひこ
1943年、東京生まれ。東京学芸大学教授、日本LD学会会長。日本にいち早くLDを紹介し、LD教育の必要性を主張。全国LD親の会、日本LD学会の設立にかかわる。著書『LD教授の贈り物』(講談社)では、みずからのLD・ADHD的傾向をエッセイに綴った。他にも、『LDのすべてがわかる本』講談社、『LDとディスレクシア』(講談社+α新書)など著書多数。










(2011年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第95号より)


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(2008年9月1日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第102号より)





ビッグイシュー始めて、人見知りもなおった。今は人と話すのが何より楽しい





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アスファルトの照り返しが厳しい渋谷の路上で、佐々木善勝さん(35歳)の頭に巻かれた、いなせなタオルが通行人の目を引く。今年5月半ばに代々木で販売を始めたが、翌月、もっと売れそうな渋谷へと移動してきた。

平日は朝8時から夜8時半頃まで宮益坂下交差点のりそな銀行裏に、土日は朝11時から夕方9時頃まで西武百貨店向かいの住友信託銀行前に立っている。ただし日曜日と月曜日は映画館で清掃のアルバイトをしているため、夕方4時前には片づけてしまう。

「古いヤクザ映画なんかを上映している映画館でさ、たまに仕事帰りのサラリーマンも来るけど、ほとんどがお年寄り。床にこぼれたお菓子とか灰皿にたまった煙草を片づけて、ごみを分別して、モップをかけ終えたころには夜の22時半を回ってる」。ファストフード店でうとうとしながら夜を明かしたら翌朝、また販売場所へ向かう。1泊1080円する漫画喫茶には月に1度泊まれればいいほうだ。

どこか温かい感じのするアクセントが気になって生まれを尋ねてみると、31歳のときに東北から上京してきたという。

「父は大工、母は俺が小学4年のときに亡くなった。双子の妹は何年か前に嫁いでいったから、実家には父ひとりだけ」

妹にお祝いを言いたくて、故郷へ帰ろうとしたこともある。ところが、「新潟まで新幹線で行ったのはいいけど、土砂崩れで先へ進めなくなった。代行バスも出てはいたけど、怖くて引き返してしまった」

それ以来、故郷からは足が遠のいている。故郷には仕事もなかった。高校を卒業して自衛隊に4年間在籍した後、地元の建設会社に就職したが、不況のあおりを受けて失業した。31歳で上京してからは飯場を渡り歩いたが「仕事もないし、そんなに人はいらない」と、ここでもまた切られ、働く場所を失った。

そんなとき、渋谷の路上仲間から「一緒にやろう」と勧められたのがビッグイシューだった。しかし、「説明を聞いても仕組みがさっぱり理解できなくて、断ったんだよね」。そして今年の5月半ば、新宿中央公園の炊き出しで何やらチラシを配っている「きれいな女性」が目に入った。それがビッグイシューのスタッフ池田さんだった。今度は俄然やる気になった。

翌日、さっそく事務所を訪ねると肝心の池田さんは外出中だった。当ては外れたものの、販売の登録手続きを済ませ、用意した20冊を初日から売り切った。それでも佐々木さんは、「これからもずっとこの調子で続けていけるのか不安で、その晩は眠れなかった」という。

実際に続けてみると、不安は徐々に解消されていった。「ビッグイシューを始めるまではひどかった人見知りもなおったし、この人を本当に信じていいのかなと疑うこともなくなった。今は、通勤途中の朝と晩に必ず挨拶を返してくれるお客さんもいて、人と話すことが何より楽しい」そうだ。

1日の仕事を終えた後、スーパーで買ったサバのみそ煮の缶詰をアテに缶ビールを飲み干す。まさに至福のひとときだ。と同時に、「こんなとき、何でも話せる彼女がいたらなあ」と、急に寂しさが込み上げてくることもある。飯場を渡り歩いていたころは、新宿の店で知り合った年下の女性とつき合っていた。

「酒を飲んで電話すると『酔っ払って電話してんじゃねえ、この野郎』と怒鳴る男っぽい性格の子だった。そんなとき俺はビクッとなって、『ごめんなさい』って平謝りしてた。渋谷でデートもした。ある日突然、店を辞めて連絡が取れなくなってしまったけど、渋谷にはいい思い出がたくさん詰まっているんだよね」

朝、いつものように売場近くでフリーペーパーを配る若者たちに挨拶をしていたら、彼女のことが不意に頭をよぎり、目が潤んでしまったことがある。気持ちを落ち着かせようとビッグイシューの事務所に電話をかけ、スタッフに話を聞いてもらった。感情は高ぶり、気がつくと号泣していた。だから、「今はなるべく別のことを考えるようにしている」

ビッグイシューの販売者とボランティアで結成したフットサル・チーム「野武士ジャパン」の練習も、佐々木さんにとってはいい気分転換になっている。販売を始めて間もないころ、蜂窩織炎という病気で足が腫れて2週間ほど療養した。


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「そんなときフットサル・チームのことを聞いて、リハビリになればと軽い気持ちで始めたんだけど、だんだんおもしろくなってきちゃってさ。先日の練習試合でも2得点あげたよ。夢はもちろん、来年夏にミラノで開催されるホームレス・ワールドカップに出場すること」。かつてサッカー少年だった佐々木さんの瞳が、いきいきと輝き出した。 

(香月真理子)

Photos:高松英昭
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人生相談56

 

31歳の彼女から結婚しようとプレッシャーをかけられるのですが、決断できません。どうしたらいいでしょうか。


 
Q:彼女が年上で今年31歳。つき合って今年で3年目になります。
そろそろ彼女は結婚適齢期というか、タイム・リミットで、いろいろとプレッシャーをかけられます。
僕自身は、フリーランスでやっていきたいんですが、不安定だし。
結婚するなら彼女だと思ってはいるのですが。決断ができません。どうすればいいんでしょう。
(フリーカメラマン・男性・20代)

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(2008年8月1日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第100号より)




大好きだったスロットよりも、ビッグイシューにハマってる




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若者文化の発信地としてにぎわい、ひっきりなしに人が行き交うJR中野駅。その北口のガード下に、田中光彦さん(37歳)は今年5月下旬から立っている。朝9時から夕方4時までの間に10冊前後が売れていく。本音をいえばもう少し部数を伸ばしたいところだが、血圧が高くて無理がきかない。昨年の秋頃までは渋谷で売っていた。ところが、音信の途絶えた息子の身を案じた福島の両親が捜索願を出し、半年近くを実家で過ごすことになった。「だけどやっぱり東京が恋しくなって、ビッグイシューに戻ってきちゃった。また渋谷でもよかったんだけど、あそこは発売日だけポンポン売れて、だんだん部数が落ちていく」。それよりも、「毎日コンスタントに売れる」中野を再スタートの地に選んだ。

顔なじみのお客さんも増えつつある。先日も、見覚えのある高校生5人が「取材させてください」とやって来た。聞けば、ビッグイシューのことを学校で宣伝したいという。「ひとりでもいいから、友達がほしい」と切望する田中さんは、こうやってお客さんと話す時間がとにかくうれしくてたまらない。

福島の農家に生まれ、姉と妹に挟まれて育った田中さんは幼いころから物静かで、友達をつくるのが得意ではなかった。外で遊ぶよりも、家でテレビを見て過ごすことのほうが多かった。地元の高校を卒業してしばらくは家の農業を手伝った。「米も野菜も一所懸命つくったけど、全然お金にならなかった」。そこで外に出て少しでも稼ごうと、20歳のとき、叔父の紹介で地元の温泉旅館に就職した。

「いわゆる番頭さんですよ。昼過ぎには出勤して配膳から布団敷き、食器洗いまで何でもやった。一番大変なのは風呂掃除。全部終わるころには夜中の12時、1時を回っていた。こんなに働いて時給500円はいくら何でも安すぎますよね」

働きに見合った給料をもらえる仕事を求めて、職業安定所に足を運んだ田中さんは自衛隊にスカウトされた。田中さんは小柄なため規定の身長にとどいていなかったが、担当者は背伸びしてパスさせてくれた。しかし、連日の訓練は想像を上回るハードな内容だった。

「敬礼、回れ右、ほふく前進。今でも身体が覚えてるよ。3年間は頑張ってみたんだけど、どうしても体力がもたなかった」。宮城、秋田、横須賀、市ヶ谷と各地に配属された田中さんだったが、辞めた後は故郷の福島に戻り、両親に親孝行もした。

その後、地元のパチンコ店に就職したというので、趣味も兼ねていたのかと思いきや、「玉を自分の力で動かせないパチンコより、自分で合わせた実感を得られるスロット」派なのだとか。「どっちみち従業員は自分の店ではやれないので、よその店に行ってはスロットに注ぎ込んでた。月に30万円もらって、15万円が消えていく。そんな生活でした」

ところがあるとき、台を移動中に腰を痛め、店を辞めざるをえなくなった。福島ではなかなか次の仕事が見つからず、東京に望みをつないだ。しかし現実は厳しかった。職業安定所に通い、新聞の求人欄に目を走らせ、受けた面接はことごとく落ちた。

そしてちょうど3年前、途方に暮れて新宿の小田急百貨店前を歩いていた田中さんの目に、ビッグイシューを売る男性の姿が飛び込んできた。男性から話を聞き、自分のペースで働けるスタイルに魅力を感じた田中さんは、翌日からさっそく販売を開始。平日はビッグイシューを売り、週末は「引っ越し作業の手伝いや、工場でコンビニ弁当に野菜なんかをトッピングするアルバイト」に精を出した。


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それでもアパートの家賃を捻出するまでには至らず、今もまだファストフード店でテーブルに突っ伏して仮眠する生活が続いている。「路上よりは安全だけど、足を伸ばして眠れないから疲れが取れないんだよね。ネットカフェは1泊1000円以上もするから、奮発しても2週間に1度くらいしか泊まれない」という。

仕入れ先の事務所までは雨の日以外、徒歩で行く。少しでも貯金に回したいからだ。「渋谷で売ってたころはスロットにハマって、パンクしたことがある。仕入れができなくなるほど注ぎ込んでしまった。でも今は、見に行くことはあっても絶対にやらないよ」

今度の正月、高速バスで実家に帰るお金をコツコツ貯めているそうだ。捜索願が出されたときと同じように、また実家に帰ったまま、東京へ戻ってこなくなるのではないか。そう尋ねると、「それはないね。自分にとってこれ以上の仕事はないから。ビッグイシューにすっかりハマってるんだよね」という、明るい返事が返ってきた。

(香月真理子)

Photos:高松英昭
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(2011年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第95号より)




LDは「違いを学ぶ」ことで、こえられる。


「Learning Disabilities」から「Learning Differences」へ





自身もLD・ADHD的な傾向があるという上野一彦さん(東京学芸大学教授)は、
40年にわたってLD・ADHD(学習障害・注意欠陥多動性障害)教育の必要性を主張してきた。
そんな上野さんに「LDとは何か?」、そして「LD教育の未来」を聞いた。





みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう





BA学芸大学j 104(上野一彦さん)


誰にだって苦手なことはある。地図が読めない。名前が覚えられない。魚を焼くと丸こげになるし、アイロンをかけるとどうしてもしわくちゃになる。政治や経済の話はちょっと苦手……という人もけっこういるだろう。

ここで覚えておいてほしいのは、その苦手意識の感覚だ。誰もが苦手なものと向きあう大変さは理解できるはずだし、共感もできるだろう。

問題は日常生活を送るうえで、そうした苦手意識が人から見て「かわいらしい」レベルで済んでしまう人と、そうではない人がいることだ。かわいらしいとか、個性的だね、で済んでしまうなら、本人もそんなにはつらくない。けれど、「みんなができるのに、どうして自分はできないのだろう?」と悩んでしまうのはとてもつらいことだ。

多くのLD(学習障害)の人たちが経験してきたのも、またそういうつらさだった。

「人の名前を覚えられないとか、地図が読めないとか、色の使い方が変わっているとか、そういうのはそうそう目立たないですね。不器用の一言で済んじゃう場合もあるでしょう。でも単に不器用な人をLDとはいわない。LDはその不器用が『勉強面に関係する部分で起こってくる』ことをいう。そうすると学校なんかでは非常に目立ちます。勉強が苦手というのはけっこう重いことなんです」

そう言ってうなずくのは、東京学芸大学教授の上野一彦さん。LDと出会って40年以上、上野さんは全国各地をまわりながらLDをはじめとする発達障害への理解を広く求め続けてきた。




LDのおよそ80%がディスレクシア(読み書き障害)



ここで少し、LDという言葉について説明しておこう。もともとは英語で『Learning Disabilities』といい、LDはこれを略称したもの。日本語では「学習障害」と訳されることが多い。

上野さんによるとLDのタイプにも個人差があり、その傾向は千差万別。その困難の目立ち方にもいろいろある。基本的には、㈰読み、書き、計算に関する困難、そして、㈪話し言葉の困難。他にも㈫〜㈭などの困難を重複する場合もあるという。

1. 『読み、書き、計算がなかなかうまくいかない』
2. 『言葉の使い方、聞きとり方にかたよりがある』
3. 『友達同士のルールがわからない』
4. 『運動が苦手』
5. 『落ち着きがなく、その場に適した行動がとりにくい』など。

原因について詳しいことはまだわかっていないが、少なくとも「遺伝やしつけが原因ではない」と考えられていることについては触れておきたい。

また、LDの起こるしくみには、脳のネットワークに何らかのトラブルがあるためと考えられており、上野さんはそれを「歯車」にたとえて説明してくれた。

「時計の歯車や部品がぜんぶそろっているのに、進んだり、遅れたりすることってあるでしょう。LDのDは『ダメージ』じゃなくて『ディスアビリティ=動きがわるい』っていう意味なんです。だからLDの特徴は脳の全体がうまくいかないんじゃなくて、ある一部分がうまくいかないってことなんです。でも、それは誰もがそうじゃない? 同じように勉強してもすっと覚えられる人もいれば、そうでない人もいるでしょう」

では、どうしてLDの人の歯車がとりわけ目立ってしまうのか? これはさっき挙げた五つの特徴のうち、特に一つ目に注目することで理解の糸口がつかめるかもしれない。

例えば、多くのLDの人たちは文のつながりをうまく区切ることが苦手だ。もし「がっこうへいく」という文があったとしても、それを「がっこう・へ・いく」とは区切れずに「が・っ・こ・う・へ・い・く」と1字ずつ逐次読みしてしまう。

また「っ、ゃ、ょ」などの小さな文字をうまく発音できないために、文字を書く際にも正しく書くことが苦手になるという。

こうした「読み書き障害」については、欧米で『ディスレクシア』という言葉が古くから定着しており、LDのおよそ80%がこのディスレクシアであるともいわれてきた。

改めて確認するまでもなく、私たちの社会では読み書きのできることが「当たり前」とされている。そこでつまずいてしまえば、さまざまな可能性が閉ざされてしまうのも残念ながら今の現実といえるのだ。 そのもっとも典型的な例が、「学校」という場所だろう。もし読み書きが苦手だったなら、そもそも教科書やノートという道具自体がつまずきをもたらす。テストだってほとんどが筆記なのだ。




教育の鍵、それぞれの子の学び方で教える




「また、今の学校っていうのは横並びですからね。2年生の終わりにはみんな九九をできなきゃいけないでしょう。あるいは、九九はできるけど、他の計算がやたらにできない子だっています。そうやってことごとく勉強ができないと、非常に居心地がわるいし、人格が傷つけられることだってあります」

そこで上野さんは何度も強調する。LDの人は決して勉強ができないのではなくて、「できるのに時間がかかる」または「違うやり方が必要になるだけ」なのだと。

「学校なんかでは先生が一般的な教え方をしようとするでしょ。ところが、LDの子どものなかには暗算が弱くて指を使おうとする子もいるのです。指っていうのは、確かに使わないほうが発展性はあるんだけど、ゆっくり学ぶ必要のある子に『指を使っちゃいけない!』って言うと、もう頭の中はグチャグチャだし、自分の唯一のやり方をとられちゃうわけだ。『こんな簡単なこと、なんでできないの!』って責められたら、つらいですね。だから、指を使ってもいいよって。それから指を使わないやり方もゆっくり教えていく。子どもだって指を使わないほうがカッコいいと思えたら、そっちに移っていく可能性があるわけでしょう。『もし子どもたちが私たちの教えるやり方で学べないのであれば、その子の学び方で教えてごらん』って言葉があってね。それがこれからの教育の鍵なんですよ」

そうした周りの理解がどんどん広がっていけば、これまで閉じられていたLDの人たちの可能性もこれからはもっと社会に開かれていくはずだ。私たちはそのことを歴史上の有名人たちからも教えてもらうことができる。




後編に続く





うえの・かずひこ
1943年、東京生まれ。東京学芸大学教授、日本LD学会会長。日本にいち早くLDを紹介し、LD教育の必要性を主張。全国LD親の会、日本LD学会の設立にかかわる。著書『LD教授の贈り物』(講談社)では、みずからのLD・ADHD的傾向をエッセイに綴った。他にも、『LDのすべてがわかる本』講談社、『LDとディスレクシア』(講談社+α新書)など著書多数。





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(2006年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第52号より)






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怒りは希望にも絶望にもなる、自分らしく怒り生きる力を身につける



人間にとって「怒り」とは何か? なぜ、怒ることが必要なのか? 
辛口のコメントでも有名な辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)が、
社会に対して怒ることの意味、新しい怒り方を語る。
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Genpatsu

(2011年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第174号より)




当たり前と考えていることがまったく通用しないことがある。アメリカでは、人間は神様が土からつくったのだと教える学校があるという。しかもそう教えることが義務となっている州があるというのだ。そのアメリカは科学技術を駆使して66年前に原爆を作った。
核がさく裂した時の悲惨さは広島や長崎の体験が教えている。世代を超えて被害がなお続いている。核廃絶を願う何千万もの署名にもかかわらず、現実には米ソで核兵器の開発競争が繰り広げられてきた。現在に至っても核軍縮の歩みはあまりにものろい。それどころか、核の悲劇を二度と繰り返さないとの思いは色あせてきたのではないか。

政府は、平和を愛するより、国を愛する心が大事と教育基本法を「改悪」した。広島・長崎を訪れる平和教育の取り組みもめっきり少なくなったという。核兵器を持てば核攻撃されない、という幻想が若い世代にも染まりつつあるようだ。「歴史は繰り返す」の名言は核戦争には当たってほしくない。

毎年8月6日と9日に広島と長崎で行われる平和記念式典で、核廃絶へ向けた宣言が繰り返されるが、今年は特別な内容が盛り込まれた。被爆を体験した日本だからこそ核の平和利用を進めるのだ、という考えがやっと変わった。

松井一實広島市長は政府に「エネルギー政策を見直し、具体的な対策を講じるべき」と注文をつけ、菅直人内閣総理大臣も「原発に依存しない社会を目指す」と持論を展開した。田上富久長崎市長は平和宣言を福島原発事故から語り始め「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちがどうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのか」と問いかけ、「原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要」と訴えた。長崎会場では大きな拍手が起きたという。列席者の琴線に触れたのだ。 

広島ではもっと踏み込むべきだとの意見を聞いたが、原発問題に触れたことは初めてで画期的だったと受け止めたい。来年にはさらに進んだ発言を引き出すよう楽しみができた。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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