その1を読む
僕が完全にひきこもることになるのは中学2年生から3年間。ひきこもった理由はいくつかあって、中学生になると兄より僕の方が体格が良くなっていて力も僕の方が上になっていた。そのためか兄による僕への暴力は無くなった。けれど兄の機嫌の悪さからくる気まぐれな暴れ方によって家の中に居場所がどんどん無くなっていった。
ある日トイレの使用中、兄の機嫌がとても悪く「トイレを使うな」と言われた。兄の部屋の前にトイレがあり気に障ったのだろう。今思えばただの気まぐれだったのだろうが、自宅のトイレを使用できなくなった。幸い、家の外に祖父母が使用していた昔ながらのトイレがあったのでそこを使用させてもらうことにした。
次に僕の生活出来る部屋。僕が生活できる範囲がどんどん狭くなっていき、最終的には応接間として使われていた部屋に逃げ込んだ。その日から20歳まで僕は薄暗い応接間で生活をすることになった。食事も基本的にひとりで食べた。そういった状況だったが自分自身は割りと素直に受け入れてそれなりに生活をしていた。

そんな暮らしをしていたある日、祖父から「トイレがすぐたまってしまうから使わないでくれ」と言われた。今思えば祖父は色々な事情を知らないからそう言ったのだろうし、僕が勝手に祖父母のトイレを使用していたのだからそう言われてもしょうがない。親に事情を説明してもらってトイレを継続して使用出来るようにしてもらえば良かった。だけど当時の僕と母にそんな発想は無かった。困り果てた僕は号泣してしまったが、最終的にバケツにトイレをすることになった。幸いにも?応接間には間仕切りできる玄関があり、狭いながらも用を足せるだけのスペースが確保できたのでそこにバケツを設置した。僕のバケツトイレ生活はその後20歳まで続く。
2~3日に1回ほどのペースだったろうか、家の前に50~60cm幅の川が流れていて深夜になるとそこにバケツいっぱいになった汚物を捨てに行っていた。捨てに行く際はご近所の目との闘いになる。そのためみんなが寝静まった午前1時~2時台に捨てに行くことがベストだった。バケツトイレ時代の初期の頃、バケツにお尻をそのまんまハメ込んで用を足していた。その際におそらくは汚物が醗酵していたのだと思うが、用を足すたびにお尻がヒリヒリして痛かった。そのせいか慢性的な痔にずっと悩まされて、毎回血だらけだった。オシッコをする際には片手でバケツを持ち上げて内壁に丁度いい角度でオシッコが当たるよう微調整して用を足していた。じゃないと音も出るしたまに跳ね返りがあり危険な行為だったからだ。色々な工夫を試すうちにバケツを2台用意してローテーションを組み、汚物を川に捨て忘れた日も安心して生活が出来る体制が出来上がっていった。

トイレバケツ生活も中期頃になると汚物の処理を巡って母と父が言い争うことがあった。母が「バケツを川に捨てに行っちゃって(行ってきて)」と父に迫ると父は語気を強めながら「分かっちょらぁーやぁー(そんなこと分かってる)」と言って捨てに行ってくれていた。僕としては自分の汚物を捨てに行かれることは恥ずかしさと一種の罪悪感を伴うものだったから「捨てに行かなくていいから」と強めに父に言っていたが、母に言われなくても汚物を川に捨てに行ってくれることもあった。自分の汚物を巡って親がケンカするなんて思い返せば笑えてくる。ケンカするにせよ人の汚物ではなく、自分の汚物でケンカしてほしいものだ。本当にシュールでオリジナルな思い出のひとつだ。
そんなトイレ生活にも革命が起こる日が来る。たまたま行ったホームセンターで介護用のポータブルトイレを発見したのだ。その瞬間、僕のバケツトイレ人生に文明開化の音が鳴り響いた。バケツを使用することは変わらない。しかし、その上からポータブルトイレを被せるとバケツにお尻をハメ込んで用をたす必要が無い。その上おしりと汚物との距離が離れるので醗酵によるお尻のヒリヒリも大分軽減されることになった。これには本当に感動した。年に一度の収入源であるお年玉からなけなしの5,000円を払うことにはなったが、それの何十倍もお得な買い物だった。その頃にはバケツを3つ駆使するほどになり、生活のクォリティも上がっていた。

真面目にトイレ生活について語ってしまったが、汚物を川に捨てに行くことが出来るのが深夜に限られたこと、母との家出の帰宅が深夜になること、そして進学した中学校が遠方にあったため早朝に起きる必要があり、慢性的な寝不足に陥っていた。そのために、常にフラフラで授業に付いて行くことも困難になり、小学校時代とは反対に学校生活が全く楽しくなかった。そして中学校2年生の頃には心も身体も限界を超えていた。だから自分の命と精神を守るために僕は「ひきこもる」ことを選択した。ひきこもった僕が気に入らないのか、兄の暴れる回数が多くなった。そのたびに母と海へよく行った。一緒に死のうと何度も迫られた。でも毎回「大丈夫、大丈夫、いつか良くなるよ」と、説得をしたら落ち着いてくれた。父はあまり家に帰ってこなくなった。
3年間ひきこもっていた時期には、過食症になって体重が100kgの大台にのったショックでゲロを吐いたり、暗い部屋でひたすらすね毛をライターで焼いてみたり、ゴミ箱の上で保育園時代の写真に火を付けてオシッコをかけて消火するっていうイカれた遊びをしていた。(その3に続く)
下田つきゆび(つきゆび倶楽部) 1983年高知県生まれ。中2から3年間の完全ひきこもりを経て、定時制高校、短大に進学。 30歳を機に地域のひきこもり支援機関や病院に行くようになり、強迫性障害とADHDと診断される。 31歳でひきこもり経験を活かした「つきゆび倶楽部」という表現活動を始める。 現在はひきこもりがちな生活を送りながらもWRAP(元気回復行動プラン)のファシリテーターとして活動中。 |
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