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瞬間芸術、新聞紙とガムテープでつくる巨大オブジェ



身近な素材でつくった『感性ネジ』で
第15回の岡本太郎現代芸術賞を受賞!





SORENARINIOOKIKU


造形作家 関口 光太郎さん





作品をつくる意義、大震災の中で考えた



見上げるほどの巨大な塔、その周りにはとにかくいろんなものがくっついている。カメレオンやごろ寝姿のカンガルー、団地のベランダ、通勤電車、ラッパや翼竜にマリリン・モンローまでご登場だ。上には何があるのだろうと、少し引いて眺めてみると、これが一つの大きなネジであることに気づいてうれしくなる。まるで今にもゴォーっと回り始めて、にぎやかな音色とともに上空へと浮かび上がっていくような気がするのだ。





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「感性ネジ」 ©岡本太郎美術館






造形作家であり、特別支援学校の教員でもある関口光太郎さんが、この『感性ネジ』を制作した背景には、東日本大震災でかみしめた思いがあったそうだ。

「私はこれまでアーティストとして、一見意味のわからないものをのほほんとつくってきました。でも、あの震災でたくさんの意味のあるものたちが破壊され、そんな大変な中で改めて私が作品をつくる意義はあるのだろうかとショックを受けたんです。その一方で、私は生徒たちに、ものづくりだとか芸術をあきらめる姿を見せるわけにはいかない、その楽しさを子どもたちや、作品を見てくれる人たちに伝えなきゃいけないんだと」

あらゆる物に使われている、ものづくりの象徴であるネジ、さらに終わりのない螺旋という形に〝つくり続ける〟という関口さんの決意を込めた。





関口さんはこれまでにも、アンコールワットのような『瞬間寺院』や、羽化する蝶をモチーフにした高さ7メートルを超える『明るい夜に出発だ』など、スケールの大きな作品で観る人をあっと驚かせてきたのだが、それらは実は、丸めた新聞紙とガムテープという、とてもシンプルで身近な素材でつくられている。もろくて長持ちしない分、スケッチのような感覚で、頭に浮かんだものをすぐに形にできるのが魅力だという。




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「瞬間寺院」





彼の作品は、子どもの頃夢中になった図画工作から一直線につながっている。もの心ついた時から絵が好きで、少年時代は手近な材料でプロレスの覆面や怪獣の着ぐるみをつくっては遊んでいた。その後、美大の彫刻科に進みさまざまな素材を試した結果、自身のものづくりの原点に常にあった新聞紙とガムテープが、自分をもっとも自由に表現できることに気づいたそうだ。




子どもたちに大人気の怪獣づくり



アートが好きという気持ちが一度も揺らいだことはなかったが、大学卒業後、悩んだ末に関口さんは職業として芸術家の道を歩むことを選ばなかった。何も知らない状態で飛び込んだという特別支援学校の中学部では、美術の他にもあらゆる教科を担当し、少人数の生徒一人ひとりにじっくりと向き合う。ずっと表現する側だった関口さんは、今、誰かの表現を引き出すことのおもしろさにはまっている。

「彼らは目のつけどころがいいです。うちには自閉症の生徒もいるのですが、うさぎさんやくまさんなんかを描いた上にばっとレタリングで『17』と書いたりするんです。その『17』が確かにきれいで美しくて、私も『あぁ、これは芸術だね』と。今回の作品に拝借しました(笑)」




そんなふうに創作の刺激も受けつつ、同じ目線で教え合い、学び合いながら生徒たちとともに成長していきたいと関口さんは考えている。

そして、美術館や小学校に招かれて行う出前授業のワークショップは、関口先生の本領発揮といえる。新聞紙やガムテープを使った怪獣づくりは、毎回子どもたちに大人気だ。




「ワークショップでは子どもたちに、自分で目標を決めて進む体験をしてほしいと思っています。普段の授業では『これを覚えなさい』『ここを目指してがんばりなさい』と課題を与えられることが多いけど、美術では大まかな枠組み以外は何をつくるか、何色を使うか自分で考えなきゃいけない。そうやってつくった自分の分身のような作品を『いいね~』と認めてあげることで、自己肯定感につながっていくんじゃないか。そんな気持ちでやっています」

「私はたぶん、アーティストだけの存在にはなれないんです。さびしがり屋だから」と関口さんは笑う。そんな彼を取り巻く、ごちゃごちゃして愉快で愛しい日常のかけらたちを取り込みながら、『感性ネジ』はつくられた。〝この世界に無意味なものなど何もないんだ〟。ネジはそんなメッセージを発している気がした。

(樋田碧子)
Photo:浅野カズヤ





せきぐち・こうたろう
1983年、群馬県生まれ。多摩美術大学彫刻科在学中から新聞紙と紙テープを使った彫刻を制作し、卒業後は07年から東京都の私立特別支援学校で、教員を務める傍ら創作活動を行う。08年六本木21_21Design Sightにおける「21世紀人展」に出品。今年、『感性ネジ』で第15回岡本太郎現代芸術賞の太郎賞(最高賞)を受賞した。
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人間の負の感情にある、純粋さや根源的なものを描く




人けのない土地、後味が悪い結末。
負の感情を掘り下げ、独特な魅力を放つ







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劇団「乞局」主宰 下西 啓正さん




巧妙な会話劇と不思議な不穏さ。幸福や不幸の曖昧さ



下西啓正さんが率いる「乞局」の芝居には独特な魅力がある。結成12年。近年、数々の戯曲賞を受賞、平田オリザや岡田利規など気鋭の劇作家からも注目される劇団となった。

舞台の設定は「空港に隣接する人けのないマンション群」「都内の下水道」「都内の中央公園脇の墓地」など、たいてい都市のエアポケットのような寒々とした風景。その中で登場人物たちは切羽詰まった状況に追い込まれ、本性をさらけ出す。決して明るい芝居ではない。派手な音楽・照明・衣装はほぼなく、結末は大抵後味が悪い。しかし、巧妙な会話劇と不思議な不穏さで観客を飽きさせないのだ。下西さんは自作の信条をこう説明する。

「世の中で悪とされる人や物事にもそれなりの“筋の通ったもの”があるはずで、それを描きたいんです。幸福や不幸、善悪だって見方によって変わる。そういった曖昧さを大事にしています」




乞局の芝居の特徴は、人のもつ「負の感情」を大きく扱うこと。昨年12月の最新公演「乞局」での設定は「金網で覆われたテーブルのある、寂れた喫茶店」。

店主は、発病以降の記憶が蓄積できない病気の妻をかかえながら、実弟への多額の借金と妻の兄に居候される生活に苦しんでいる。だが、町内の人々は病気の妻を重宝がり、愚痴や悩み相談のはけ口として利用、お金まで支払いだす―。そんなストーリーで、肉親同士の憎しみ合い、不貞、コンプレックス、金への執着など人のドロドロとした部分を描いてみせた。






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「人の負の感情の中には、ある種の純粋さ、根源的な部分があるような気がします。それを描くことで、“人間”を表現したいんです」

舞台設定も“人間”を描くことに一役買う。「人けのない、忘れ去られたような土地を舞台にするのは、そこに、描きたい『昭和』な雰囲気を感じるから(笑)。日本人が元来もっている普遍性が描けるような気がして、物語が膨らみます」





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演劇の強さはナマモノ。生活と創作を両立させ、劇団は新たな段階へ



もともと、大学在学中に映画づくりを志し、サークルに入った下西さん。しかし、並行して行われる演劇活動のほうにより惹かれた。

「演劇のよさはナマモノだということ。観客にも役者にも、創作を疑似体験してもらえる。そこに表現としての強さがある気がします」




ただし、「疑似体験の場」をつくることはそう容易ではない。役者に舞台上で「きちんと生きて」もらうため、台詞や動きが自然に出るよう反復した稽古を求める。7分ほどのシーンを、延々繰り返したこともあり、さらに舞台上の小道具では、やり取りされるお金も本物を使うほど細部を徹底する。




最新作で20回目の公演。下西さんは、普段は台本印刷の会社で働き、社会生活と創作を両立しながら年2回の着実な活動をしてきた。

「きちんと社会で働くことが劇作にも活きています。芝居だけで食べていくより自分のスタイルとして合ってますね」

今回の最新作では、「今までの公演とは違った感慨を得た」と下西さん。今回の設定は実は06年の公演のものだが「見せ方として、以前とはまったく違ったアプローチができて幅が広がった。自分の中で一つの踏ん切りがつけられた感じです。次回はまた新たな段階へいきたいですね」と語る。

今年、乞局はオーディションで新たな「局員」を募集する。「団体として新しい空気を入れるためです。長い年月で俳優たちも自分も変わっていくのが楽しい。だから、とにかく劇団を続けていくことに意味があると思います。今は次を早く書きたいです」(山辺健史)





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撮影:鏡田伸幸




下西 啓正(しもにし・ひろまさ)

1977年広島県生まれ。慶應義塾大卒業後の2000年より劇団「乞局」を旗揚げ。乞局「局長」=(主宰・脚本・演出・役者)として、他の4人の「局員」と共に年2回のペースで活動。劇作家協会新人戯曲賞優秀賞など多数受賞。役者としても、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」などに客演。
http://kotubone.com/
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(2011年3月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 163号より)





『毛皮のマリー』はR-15。大人をノックアウトする、新しい人形劇文化



一人で何体もの人形を演じ分け、時には自らも出演者となって、
人形と対等に迫真の演技を見せる。その平常さんが人形劇を通して伝えたいこととは?







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(人形劇俳優・平常さん)






両親が作った小さな舞台 表現の引き出しを開けてくれた



平常さんには、人形劇に初めて触れた瞬間の記憶がない。「物心ついた頃には呼吸と同じくらい当たり前に、人形劇を見たり披露したりしていた」という。三味線奏者であった父と薩摩琵琶法師の母は、文楽や腹話術、前衛舞踏など、息子が興味をもちそうなあらゆる番組を録画して見せてくれた。

平さんが小学校に入学すると、両親は日曜大工で木の枠をこしらえ、小さな舞台を作ってくれた。両端のひもを引くとオペラカーテンのように上がる、どん帳まで付いていた。

「それがうれしくて、2〜3週間ずっと上げ下げしていたのを覚えています」




小柄で体が弱く、同級生の遊びについていけない平さんだったが、人形劇を見せると友達が寄ってきて「ふれあい」が生まれた。「人形を通せば背の高い王子様にもなれるし、恥ずかしくて言えない『愛してるよ』だって口に出せる。そうかと思えば魔女や怪物にもなれる。人形が、私の表現の引き出しを次々と開けてくれたんです」




11歳になった平さんは母の薦めで、地元・札幌の児童劇団「やまびこ座遊劇舎」に入団。半年後には、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』をひとり人形劇で披露し、12歳で舞台デビューを果たした。その後も日舞や人形浄瑠璃を学びながら、演劇や人形劇の公演を重ねた平さんは19歳で上京し、個人の人形劇事務所を設立した。

東京では、寺山修司の義弟である森崎偏陸さん宅に下宿した。平さんは小学6年生の時に、彼が助監督を務める映画に出たことがあった。上京後、いっこうに表現活動の場を見いだせない平さんの背中を押したのも森崎さんだった。「海外にでも行ったら?」と、10年の期限付きで渡航費を貸してくれたのだ。

そのお金でアメリカに渡った平さんは、全米の人形遣いが集うイベント「パペッティアーズ・オブ・アメリカ」に飛び入り参加。『さくら さくら』を熱唱しながら、着物を着た女の子の人形に舞をさせた。

「ここで私は、人生初のスタンディングオベーションを経験しました。大人たちがこんなふうに人形劇を楽しめる文化を日本にも根づかせたい。そう誓って帰国しました」





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つらく悲しい経験をした大人だけに見える人形の表情



03年の初め、森崎さん宅で何気なく寺山修司原作『毛皮のマリー』の台本を手に取った平さんは、雷に打たれたような衝撃を覚えた。浮かんでくるイメージをノートに書き留め、ひとり人形劇で演じるプランを一気に書き上げると、その年の暮れから公演を始めた。

「会場は30人も入れば一杯になるギャラリーでした。初めは3人だったお客さんが口コミでだんだん増えて、24公演が終わる最後の1週間は、立ち見が出るほどになりました」

今年も新国立劇場で公演される『毛皮のマリー』には、15歳未満は観劇できない「R-15」指定が付いている。そこには、「つらく悲しい経験をした大人にしか見えない人形の表情を見てほしい」との願いが込められている。さらに、「大人がチケットを買って見に行くだけの価値がある人形劇を子どもにも見せたい」と思わせることで、子どもに人形劇を広めていく狙いもあるという。




「うれしかったのは、10歳の頃から私のファンだという男の子とお母さんが5年経って、一緒に『毛皮のマリー』を観に来てくれたこと」。アンケートにお母さんは「5年越しの夢がかないました」と書き、男の子は「衝撃が強すぎて、まだ頭の中で感想が整理できていません。これからゆっくり考えます」と書いていた。






泉鏡花原作の『天守物語』などR-15指定の作品は他にもあるが、多くの幼児向け作品や『オズの魔法使い』といったファミリー向け作品を含む、平さんの作品すべてが「大人も楽しめること」を大前提につくられている。

09年には、アーティストが芸術や表現についての授業を行う「アウトリーチ事業」の一環として、全国の小学校を回った。3年生のクラスでは、「本当の自分に戻れたみたいでドキドキしました」と感想を書いた女の子がいた。「子どもができたら人形劇で遊んであげたい」と、赤ちゃんに人形劇をしてみせる自分の絵を描いた男の子もいた。

「そんな子どもたちや、子育てに悩むお母さんとじかにふれあう場がほしい」との思いが募り、昨年11月、平さんは西新宿に自分専用の小劇場「THEATER JO」を開設した。毎月30日にはここで、0・1・2歳児を対象とした「赤ちゃんのための人形劇」を開催している。
「命続く限り、見る人が自分自身の魅力に気づき、生きる力を得て、前に一歩踏み出せるような作品をつくり続けていきたい」それが平さんの夢だ。


(香月真理子)

Photo:浅野カズヤ




平 常(たいら・じょう)

1981年札幌市生まれ。小規模公演から大ホールでの大型人形劇ミュージカルまで、すべてを一人で演じ分け、演出・脚本・音楽・美術をも自らプロデュース。『毛皮のマリー』で日本人形劇大賞銀賞を最年少で受賞。オリジナル作品が厚生労働大臣より表彰されるなど、受賞多数。
http://tairajo.com/



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(2011年4月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 164号より)




樹脂に閉じ込めた金魚が今にも動き出しそうに泳ぐ



本物かと見まがうような立体作品を生み出す“金魚絵師”は、
誰もが知る小さな魚に、どんな想いを抱いているのだろうか。







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(美術家・深堀隆介さん)





自暴自棄になった時、目にとまった赤い金魚




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手前:「和金(にきこがね)」、
奥:「月光(げっこう)」 
2009年制作、木桶、超難黄変エポキシ樹脂に着彩




深堀隆介さんは子どもの頃、長崎の祖父が正月に送ってくる「干支を描いた書画」が楽しみで仕方なかった。将来の夢は漫画家になることだった。母が週に1度、会社からどっさり持ち帰る使用済みのコピー用紙の裏に絵を描きまくり、使い切るのが日課となっていた。
大学でデザインを学んだ深堀さんは卒業後、樹脂で遊園地の造形物などをつくるメーカーで2年ほどアルバイトをしたのち、別の会社に就職した。

「そこでは主に、百貨店のショーウインドーを飾るディスプレイをつくりました。昼つくって夜設営するので、毎日寝不足でした。丹精込めてつくったものを『作品として売ってほしい』と言ってくれる人もいましたが、納品した商品なのでそうもいかず、結局廃棄されました」





後世に残るものをつくりたいと思うようになった深堀さんは、26歳で美術家を目指し始めた。「そうはいっても、作風はバラバラ。大きな立体をつくったかと思えば、急に平面作品をつくったりと、僕には自分の作風というものがありませんでした」

焦りは募り、「俺はもうダメかもしれない」と自暴自棄になっていった。

その時ふと目にとまったのが、枕元の水槽で糞にまみれた赤い金魚だった。それは学生の頃、金魚すくいのおじさんが「閉店だから持ってけ」と30匹ほどの金魚をくれた中の1匹だった。次々と死んでいく中で、その1匹だけが7年も生き続け、20センチ以上に成長していた。




「以前、金魚は人がフナを改良し、つくり出したものだと聞いたことがありました。鑑賞用として高く評価されるエリート金魚の裏では、先祖返りしたり、身体の部位が奇形になってしまった金魚がたくさん生まれているという現実に深く興味をいだいたんです」




金魚は、そんな人間の〝美への欲望〟やエゴをすべて包み込み、美しさと妖しさと虚しさを一身に背負って生きている存在なのだという。「この子のもつ多面性を描くことができれば、救われるんじゃないか」との思いが、深堀さんの胸にじわっと湧いてきた。

赤い水彩絵の具を絞り出し、手近にある木片やガラクタに手当たりしだい金魚を描いた。そのうち、頭の中に金魚の大群が浮かんできて、どんどん描けそうな気がした。




一面の和紙にほうきで描く。いつかはロケットにも



「金魚救い」が起きた年、深堀さんは、銀座にある銀行のショーウィンドーをディスプレイするコンペに応募し、見事採用された。猫の身体から抜け出した金魚の大群が、そばに干された洗濯物の間を勢いよく泳ぎ回るさまを表現した作品だった。タオルやTシャツ、そして深堀さんが小学生の頃に実際はいて泳いでいた海パンにまで、大量の金魚が描かれた。

金魚の大群は見る人に強烈なインパクトを与えたようで、何年か経ち、銀座のギャラリー巡りをした時も「金魚見たよ」と声をかけられたそうだ。




深堀さんは複数の金魚を飼ってはいるが、実在する金魚を忠実に模写しているわけではない。描くのは「自分が美しいと思う金魚」だ。だから厳密に見れば、現実にはありえない品種が泳いでいたりもする。しかし、深堀さんにとっては「どの金魚にも個性があり、命が宿っている」のだという。




そのことを最も感じさせてくれるのが、工業製品用の透明な樹脂を使い、升や桶、真っ二つに割れた竹の中で金魚が泳ぐ姿を表現した一連の作品だ。器に流し込んだ樹脂の上に、アクリル絵の具で金魚の一部を描く。その上からさらに厚さ数ミリ程度の樹脂を流し込み、2日以上置いて固まったら、また金魚の一部を描き加える。この工程を何度も繰り返すことで、今にも動き出しそうな立体的な金魚が完成する。





下絵は一切描かない。「この辺にいるなぁ」と金魚のイメージが浮かんできたら、その場所に筆をおろす。中には、糞まで描かれている作品もある。「この子はおなかの調子が悪いので糞は細め」というように、糞にも個性が表れている。




すっかり樹脂作品で知られるようになった深堀さんだが、大作にも意欲を燃やす。昨年8月には、神奈川県の保土ヶ谷公園でライブペインティングを行った。池の端に掲げた和紙のキャンバスに、ほうきで巨大な金魚を描いた。描いているうちに日が暮れて、競演した舞踏家の振り回す炎が、真っ赤な金魚を浮かび上がらせた。






ライブペイント 東京国際フォーラム アート ショップ エキジビション スぺース 個展時に公開制作 2010


「東京国際フォーラム館内でのライブペインティング風景」 2010年





「いつかロケットにも巨大な金魚を描いてみたい。途中で塗料が溶けて消えてしまうかもしれないけど、宇宙へ飛んでいく姿をぜひ見てみたいですね」
大空に舞う〝深堀金魚〟が見られる日も、そう遠くはないかもしれない。(香月真理子)




深堀 隆介(ふかほり・りゅうすけ)
1973年、愛知県生まれ。95年、愛知県立芸術大学美術学部デザイン専攻学科卒業。99年、退職後、制作活動を始める。第9回岡本太郎現代芸術大賞展2006入選。09年、ドイツ・ミュンヘンにて個展を開く。

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(2011年1月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 159号より)





祖母、母、私、三世代の道のり。生地に残った記憶をたぐる




在日コリアンとしての
アイデンティティから生まれた、静謐な世界。







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テキスタイルアーティスト 呉 夏枝さん





織り、染織、刺繍もこなし、着物とチマチョゴリをつなぎ合わす



刺繍を施したチマチョゴリや、麻縄を使ったインスタレーションなど、布や織物を用いたテキスタイルアートを展開している呉夏枝さん。

「布はエモーショナルな表現ができる素材。それに、軽いから微妙な空気感も表しやすいんです。シルクや綿や麻、それぞれに手触りも印象も異なるので、柔らかさや力強さなど、その時に表現したいものに合うものを選んでいます」



呉さんは布を使うだけでなく、織り機を用いて糸から織る。また、染色や刺繍も自身で手がけているという。「非常に手間も時間もかかりますが、そうやって自分の手で一つひとつの工程を経ていくからこそ生まれる、確かなものを信頼しています」

洋裁をしていた母の隣で、子どもの頃から自然と布に親しんでいた呉さん。いつしか布を使って何かを表現したいと考えるようになり、美術大学へ進学。染色と織物を専攻した。在学中に主に関心をもっていたのはコンテンポラリーアートだが、卒業制作を機に向き合うことにしたのは自身のアイデンティティだった。




「在日コリアン3世であること、女性であること。それまであまり考えてこなかったことを考えてみたい」という思いのもとにつくりあげたのが、着物とチマチョゴリをつなぎ合わせた衣服。それは、「韓国人なのか、日本人なのか」という在日コリアンに向けられがちな、また自身でも悩んでしまいがちな問いに対しての呉さんの一つの答えでもある。

「着物でもなくチマチョゴリでもない、美しい衣装をつくろうと思いました。どちらにも引っ張られずに、単独で美しい衣装であるようにと、そんな思いを込めました」
そして、この制作を機に使い始めたのが、「呉」という姓。日本で生まれ育ち、ずっと使ってきた「通称名」も自分の名だが、アーティスト活動をする時には、両親や祖父母たちが生きてきた歴史を表す「呉」を使うことに決めた。





沈黙の記憶、そして新しく生み出される記憶



「その後、祖母が亡くなったのですが、母は祖母のチョゴリを処分せずに取っておいてくれました。それをいつか作品にできたらと部屋に掛けておいたところ、ある日そこから祖母の存在を強く感じ取ったんです。祖母が語らなかったこと、私が聞くことができなかったこと。そんな、『沈黙の記憶』をこのチョゴリは知っている。雄弁に語られることのない、ある一人の女性の歴史をチョゴリを通じてたどっていけたら、と考えました」






010 3つの世代
『三つの世代』(Photo:イ・ソンミン)





写真作品『三つの世代』には、祖母のチマチョゴリ、母のチマチョゴリ、そして自分でつくったチマチョゴリを着た呉さんが曲りくねった道の真ん中に立っている。

「撮影場所は、祖母の出身地の韓国・済州島。祖母も母も、私と同じ年齢の時にはどんなことを感じていたのだろうかと考えながら撮影しました」





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「不在の存在」
(HIROSHIMA ART DOCUMENT 2008より)




白いオーガンジーでつくられた衣服が、部屋に浮遊しているかのように配された『不在の存在』という作品からは、今は亡き人が確かに存在していたこと、肉体はそこに残らなくとも、ある一人の人生がそこにあったことを想像させられる。


「作品を通して、そこにあったであろう物語を想像してもらえたら、そして、ご自身が関係する誰かとの記憶へとつなげてもらえたらうれしいですね。古い記憶は、その時に感じたものと合わさって、また新たな記憶が生み出されていく。悲しくつらい記憶は、永遠に悲しくつらい記憶ではなく、その記憶を受け取る人の想像力でいかなる記憶へも変わる可能性がある。だからこそ、どんな記憶をどうつないでいけるかが重要だと思うんです」





在日であることはアイデンティティを構成する一つの要素にしかすぎないが、同時に重要な部分でもあると話す呉さん。「その核を大切にしながら、さまざまな表現に挑戦していきたい。布をほぐして、また織り直していく。私の創作は、そういう作業。多くの方の思いを投影できる、そんな作品をつくっていきたいと思います」

筆者も在日コリアン3世。呉さんの作品を見ていると、亡き祖母と話がしたくなり、つい目頭が熱くなってしまった。




(松岡理絵)
Photo:中西真誠




呉夏枝(お・はぢ)
1976年、大阪府生まれ。現在、京都市立芸術大学美術研究科博士課程在籍中。02年〜04年ソウルで、言葉と韓服の縫製を学ぶ。06年「root—わたしの中の日本的なもの—」(京都・法然院)、08年「HIROSHIMA ART DOCUMENT2008」(広島・旧日本銀行広島支店被曝建造物)への出品他、個展・グループ展多数。 

http://hajioh.com/


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(2011年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 175号より)







7トンの塩で描く、生命の森




緻密な迷路や網の目の模様を塩で描く。気が遠くなるような作品づくりの裏には、生と死を見つめる強く優しいまなざしがあった。





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(インスタレーション作家 山本基さん)





一番の理解者だった妹の他界。「死」の周辺をテーマにしてきた







それは張りめぐらされた枝のようでもあり、密に編まれたレースのようでもある。鑑賞者は口々に「これも塩なんだって」「へえ、塩なんだ」と感心しながら、作品の前を通り過ぎていく。はるか向こうには、油差し用のボトルから精製塩を少しずつ出しては、細かい模様を描いていく男性の姿があった。この日、神奈川県・箱根彫刻の森美術館にて「しろきもりへ——現世の杜・常世の杜——」を公開制作中の山本基さんだ。




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山本さんは今回、箱根の自然豊かな森から着想を得て3つの作品を制作。本館ギャラリー1階には結晶塩と岩塩からできた枯山水風の庭をつくり、中2階には塩のブロックを天井まで積み上げた巨大な塔を建てた。2階の会場には16×16・5メートルにも及ぶ塩の網を描き、使用した塩の総計は約7トン。最後の追い込み作業は連日15時間を超えた。





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「摩天の杜」(2011年)




「制作風景を公開しないほうが、もちろん集中できるんです。でも、公開制作をしていると会場に来た人たちと話ができるし、子どもたちに『何かを積み上げていくことの大切さ』を感じてもらえると思ったんです」




もともと、やすりで金属を削ったり、鋸をひいたりした時に〝手に伝わる感覚〟が好きだったという山本さん。工業高校の機械科を卒業した後、「大学に行くつもりで4年間だけ働こう」と、造船所に就職。ところが1985年のプラザ合意に伴う急激な円高で日本の輸出業は大打撃を受け、造船所は希望退職者を募り、山本さんはこれに応じた。

その後、登山道具を持ってバイクで日本中を旅した山本さんは、いろいろな人と出会う。

「中には、どろどろの硫黄か何かを探している鉱物マニアの人もいました。こんな生き方もあるんだったら、僕もやりたいことをやろうと決意したんです」




そこで、ものづくりに携わろうと金沢美術工芸大学に進み、油絵を学んだ。その矢先、実の妹が脳腫瘍になり、24歳で他界した。「元気な人で、すごく仲がよくて、僕の一番の理解者でした」

その現実を受け入れようと、終末医療や脳死など「人が死ぬこと」の周辺にある、さまざまな事柄をテーマに作品をつくるようになり、葬儀に使われた「塩」の存在をふと思い出した。

「塩は、海からとれる身近な食べ物であると同時に、食べ物ではない役割を社会の中で担っています。その白さは美しい透明感をもっていて、油絵具のように乾くのを待つ必要もない。『その瞬間にある思いをすぐ表現したい』と考える自分の手に、しっくりくる材料だったんです」





雨に溶ける塩の小舟。一つひとつの網目に思い出を織り込む



96年から塩を使った作品づくりを行うようになり、今は展覧会の3分の2を海外で開く山本さん。身近な塩がアートになる驚きは、万国共通のリアクションだという。

海外で初の展覧会だった00年のメキシコでは、現地で塩をブロック状に焼き固めようと思っていたら、「そんな予算はない」と言われた。その代わり、現地の人が一緒になってレンガで窯をつくってくれた。ところが実際に塩を焼いてみると、外側は硬くなるが、内側は軟らかいままで、思い通りの形にならない。そこで急きょ、ブロックの内側をくり抜いて400ほどの小舟をつくった。

「ちょうど雨季だったから、スコールで小舟が溶けてなくなっていく過程を見せる作品にしたんです。計画通りにいかない出来事や、自分ではコントロールできない自然現象が、新しい展開を生み出すおもしろさを教えてもらいました」






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「記憶の泉」(2000年)




作品につけた名前は「記憶の泉」。


「僕が作品をつくり続ける理由は、妹の存在を忘れたくないからです。網目模様を描く時は、その一つひとつに妹との思い出を織り込むような気持ちになる。僕たちが亡くなった人にできることって、覚えておくことくらいしかないから」

展覧会の最終日には3、4年前から続けている「海に還る・プロジェクト」も予定。これは作品の一部を鑑賞者に持ち帰ってもらい、その塩を好きな海に還してもらう取り組みだ。
「海に還った塩は海水浴の時にうっかり飲んでしまうかもしれないし、作品にまた戻ってくるかもしれない。そうしてまた、海をめぐり、塩がさまざまな生き物の命を支えていく。そう考えると、夢が広がります」

(香月真理子)
Photo:高松英昭




山本 基(やまもと・もとい)

1966年、広島県尾道市生まれ。95年、金沢美術工芸大学絵画専攻卒業。02年、フィリップモリスKKアートアワード2002 PS1賞受賞。10年、ボイジャー/AITスカラシップ・プログラム受賞。現在、石川県金沢市在住。
www.motoi.biz




「現世の杜」(2011年)17×9m/撮影:高松英昭

「常世の杜」(2011年)16.5×16m/撮影:高松英昭

「記憶の泉」(2000年)
直径約4m/インスタレーション展(ベラクルス州立彫刻庭園美術館・メキシコ)

「摩天の杜」(2011年)
H3.6×W3.45×D2.6m/撮影:森澤 誠

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『ドボッケン』『弾丸レッシャー』「成長神話」から生まれた怪人



木版画という手法を使い、風刺のきいた作品を発表してきた風間サチコさんの原点は幼稚園までさかのぼる。年長組の頃から小学校を卒業するまで、風間さんはお絵描き教室に通っていた。

「教室では『海の中で息ができたら?』とか『動物としゃべれたら?』という大喜利的なお題に合わせて絵を描いたり、煮干しを1匹ずつ配られてスケッチしたりしました」

煮干しは、サイケデリックに描いたところ褒められたが、人の作品の影響を受けて描いたものだったので、後ろめたくて素直には喜べなかったそうだ。

「喘息にかこつけて3分の1しか登校しなかった」という中学時代は、はやりのアクリル画に飛びついた。定時制高校に通っていた頃は、話題のゴスロリ服を自分でつくってみた。

「ミーハーなところもある」と自身も認める風間さんは、専門学校で木版画を学ぶと、時代や流行を巧みにとらえながらも、その滑稽さをどこかでおもしろがっているような作品を制作し始めた。

25歳で開いた初の個展ではモデルハウスを描いた。

「まだ終身雇用、一億総中流というものが信じられていた1998年、その象徴でもあるモデルハウスを木版画にしたら何とも陰気な風景画になりました」

高度成長期の「成長神話」をテーマにした個展も開いた。建物の屋根など、身近なもののシルエットを右肩上がりの棒グラフになぞらえた。その延長で興味をもったのが「日本列島改造論」を唱えた田中角栄だった。「新婚旅行を兼ねて新潟の田中角榮記念館に行き、彼の著書『日本列島改造論』も読み込みました」

その結果、生まれたのが「列島改造人間」シリーズだ。氏が力を注いだ国土開発や上越新幹線を擬人化し、「ドボッケン」「弾丸レッシャー」といった怪人として描いた。


印刷用右満鉄人

『汽笛一声(満鉄人現る)』 2007/木版画/180×120cm
©2007 Sachiko Kazama Courtesy of Mujin-to Production Tokyo








戦争をテーマに『風雲13号地』 平成を振り返る『くるくる総理(コドモの国)』




くるくる総理

『くるくる総理(こどもの国)』
2010/木版画/53×38cm
© 2010 Sachiko Kazama Courtesy of Mujin-to
Production, Tokyo




やがて、「過去の見たくない史実をも自分なりに解釈して作品化したい」との思いから、テーマは「戦争」へと広がっていく。しかし、「戦争への怒りを現代にもつながるかたちで木版画にうまく落とし込めない」と悩む時期がしばらく続いた。

戦争の要素をとり入れて初めて大々的につくったのは、東京・お台場の風景を軍艦に見立てた『風雲13号地』という作品だった。

「フジテレビやテレコムセンターなどの、どこかパビリオン的な建物が戦艦大和の上にひしめき合い、幽霊船のように東京湾を漂っている。その景色の不自然さを表現しました」

そして今年は、日本生まれのアメリカ人、リンダ・ホーグランド監督が1960年の安保闘争をテーマに制作した映画『ANPO』にも出演。映画には、満州事変から太平洋戦争終結までの「十五年戦争」の始まりと終わりを描いた作品も登場した。

一つは『汽笛一声(満鉄人現る)』。1928年、中国の軍人が満州へと向かう途中、列車を爆破され、暗殺された張作霖爆殺事件をモチーフにした作品だ。

もう一つは『危うし60階(奇襲するプリズン・ス・ガモー)』。「罪」と書いた編み笠をかぶった巨人が東京・池袋のサンシャイン60を破壊する。ここにはかつて、東京裁判の戦犯が収監された巣鴨プリズンがあった。安保闘争に参加した父をもつ風間さんだが、親世代とはまた別の視点から戦争を見つめている。

風間さんはまた、戦前・戦中に開かれた博覧会の絵葉書コレクターでもある。「当時のパビリオンは軍艦やミサイルを模したものなど、外観だけで内容のわかるものが多いんです」。これを現代に置きかえて、平成の出来事を振り返る博覧会風に仕立てたのが、10月7日から11月27日まで開催されている個展『平成博2010』だ。

たとえば『くるくる総理(コドモの国)』では、見覚えのある総理大臣の似顔絵が観覧車となって、めまぐるしく回る。国会議事堂に設置されたすべり台が任期の短さを物語っている。『ふるさと創生館』では、ふるさと創生事業によってばらまかれたお金が各地にもたらしたハコモノをユーモアたっぷりに描いている。

「いさかいや戦争は、上から目線で独善的にものを言うところから始まる。だからこそ私はフィクションや冗談をまじえながら、自分なりに解釈した〝現実〟をこれからも表現していきたいと思います」
(香月真理子)




かざま・さちこ
1972年東京都生まれ。一貫して、日本の今と、今を形成した歴史を、木版画によって独自に検証。一版では表現の難しいグレーグラデーションという中間色を版画に用いることにより、善悪ではわりきれない人間の感情や、あいまいな社会の状況、そして白黒つかない過去の記憶と記録を表現。2006年岡本太郎記念現代美術大賞優秀賞受賞。現在都内2カ所で個展開催中。








(2010年11月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第155号より)


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