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(2011年3月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 163号より)





『毛皮のマリー』はR-15。大人をノックアウトする、新しい人形劇文化



一人で何体もの人形を演じ分け、時には自らも出演者となって、
人形と対等に迫真の演技を見せる。その平常さんが人形劇を通して伝えたいこととは?







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(人形劇俳優・平常さん)






両親が作った小さな舞台 表現の引き出しを開けてくれた



平常さんには、人形劇に初めて触れた瞬間の記憶がない。「物心ついた頃には呼吸と同じくらい当たり前に、人形劇を見たり披露したりしていた」という。三味線奏者であった父と薩摩琵琶法師の母は、文楽や腹話術、前衛舞踏など、息子が興味をもちそうなあらゆる番組を録画して見せてくれた。

平さんが小学校に入学すると、両親は日曜大工で木の枠をこしらえ、小さな舞台を作ってくれた。両端のひもを引くとオペラカーテンのように上がる、どん帳まで付いていた。

「それがうれしくて、2〜3週間ずっと上げ下げしていたのを覚えています」




小柄で体が弱く、同級生の遊びについていけない平さんだったが、人形劇を見せると友達が寄ってきて「ふれあい」が生まれた。「人形を通せば背の高い王子様にもなれるし、恥ずかしくて言えない『愛してるよ』だって口に出せる。そうかと思えば魔女や怪物にもなれる。人形が、私の表現の引き出しを次々と開けてくれたんです」




11歳になった平さんは母の薦めで、地元・札幌の児童劇団「やまびこ座遊劇舎」に入団。半年後には、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』をひとり人形劇で披露し、12歳で舞台デビューを果たした。その後も日舞や人形浄瑠璃を学びながら、演劇や人形劇の公演を重ねた平さんは19歳で上京し、個人の人形劇事務所を設立した。

東京では、寺山修司の義弟である森崎偏陸さん宅に下宿した。平さんは小学6年生の時に、彼が助監督を務める映画に出たことがあった。上京後、いっこうに表現活動の場を見いだせない平さんの背中を押したのも森崎さんだった。「海外にでも行ったら?」と、10年の期限付きで渡航費を貸してくれたのだ。

そのお金でアメリカに渡った平さんは、全米の人形遣いが集うイベント「パペッティアーズ・オブ・アメリカ」に飛び入り参加。『さくら さくら』を熱唱しながら、着物を着た女の子の人形に舞をさせた。

「ここで私は、人生初のスタンディングオベーションを経験しました。大人たちがこんなふうに人形劇を楽しめる文化を日本にも根づかせたい。そう誓って帰国しました」





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つらく悲しい経験をした大人だけに見える人形の表情



03年の初め、森崎さん宅で何気なく寺山修司原作『毛皮のマリー』の台本を手に取った平さんは、雷に打たれたような衝撃を覚えた。浮かんでくるイメージをノートに書き留め、ひとり人形劇で演じるプランを一気に書き上げると、その年の暮れから公演を始めた。

「会場は30人も入れば一杯になるギャラリーでした。初めは3人だったお客さんが口コミでだんだん増えて、24公演が終わる最後の1週間は、立ち見が出るほどになりました」

今年も新国立劇場で公演される『毛皮のマリー』には、15歳未満は観劇できない「R-15」指定が付いている。そこには、「つらく悲しい経験をした大人にしか見えない人形の表情を見てほしい」との願いが込められている。さらに、「大人がチケットを買って見に行くだけの価値がある人形劇を子どもにも見せたい」と思わせることで、子どもに人形劇を広めていく狙いもあるという。




「うれしかったのは、10歳の頃から私のファンだという男の子とお母さんが5年経って、一緒に『毛皮のマリー』を観に来てくれたこと」。アンケートにお母さんは「5年越しの夢がかないました」と書き、男の子は「衝撃が強すぎて、まだ頭の中で感想が整理できていません。これからゆっくり考えます」と書いていた。






泉鏡花原作の『天守物語』などR-15指定の作品は他にもあるが、多くの幼児向け作品や『オズの魔法使い』といったファミリー向け作品を含む、平さんの作品すべてが「大人も楽しめること」を大前提につくられている。

09年には、アーティストが芸術や表現についての授業を行う「アウトリーチ事業」の一環として、全国の小学校を回った。3年生のクラスでは、「本当の自分に戻れたみたいでドキドキしました」と感想を書いた女の子がいた。「子どもができたら人形劇で遊んであげたい」と、赤ちゃんに人形劇をしてみせる自分の絵を描いた男の子もいた。

「そんな子どもたちや、子育てに悩むお母さんとじかにふれあう場がほしい」との思いが募り、昨年11月、平さんは西新宿に自分専用の小劇場「THEATER JO」を開設した。毎月30日にはここで、0・1・2歳児を対象とした「赤ちゃんのための人形劇」を開催している。
「命続く限り、見る人が自分自身の魅力に気づき、生きる力を得て、前に一歩踏み出せるような作品をつくり続けていきたい」それが平さんの夢だ。


(香月真理子)

Photo:浅野カズヤ




平 常(たいら・じょう)

1981年札幌市生まれ。小規模公演から大ホールでの大型人形劇ミュージカルまで、すべてを一人で演じ分け、演出・脚本・音楽・美術をも自らプロデュース。『毛皮のマリー』で日本人形劇大賞銀賞を最年少で受賞。オリジナル作品が厚生労働大臣より表彰されるなど、受賞多数。
http://tairajo.com/



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(2011年4月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 164号より)




樹脂に閉じ込めた金魚が今にも動き出しそうに泳ぐ



本物かと見まがうような立体作品を生み出す“金魚絵師”は、
誰もが知る小さな魚に、どんな想いを抱いているのだろうか。







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(美術家・深堀隆介さん)





自暴自棄になった時、目にとまった赤い金魚




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手前:「和金(にきこがね)」、
奥:「月光(げっこう)」 
2009年制作、木桶、超難黄変エポキシ樹脂に着彩




深堀隆介さんは子どもの頃、長崎の祖父が正月に送ってくる「干支を描いた書画」が楽しみで仕方なかった。将来の夢は漫画家になることだった。母が週に1度、会社からどっさり持ち帰る使用済みのコピー用紙の裏に絵を描きまくり、使い切るのが日課となっていた。
大学でデザインを学んだ深堀さんは卒業後、樹脂で遊園地の造形物などをつくるメーカーで2年ほどアルバイトをしたのち、別の会社に就職した。

「そこでは主に、百貨店のショーウインドーを飾るディスプレイをつくりました。昼つくって夜設営するので、毎日寝不足でした。丹精込めてつくったものを『作品として売ってほしい』と言ってくれる人もいましたが、納品した商品なのでそうもいかず、結局廃棄されました」





後世に残るものをつくりたいと思うようになった深堀さんは、26歳で美術家を目指し始めた。「そうはいっても、作風はバラバラ。大きな立体をつくったかと思えば、急に平面作品をつくったりと、僕には自分の作風というものがありませんでした」

焦りは募り、「俺はもうダメかもしれない」と自暴自棄になっていった。

その時ふと目にとまったのが、枕元の水槽で糞にまみれた赤い金魚だった。それは学生の頃、金魚すくいのおじさんが「閉店だから持ってけ」と30匹ほどの金魚をくれた中の1匹だった。次々と死んでいく中で、その1匹だけが7年も生き続け、20センチ以上に成長していた。




「以前、金魚は人がフナを改良し、つくり出したものだと聞いたことがありました。鑑賞用として高く評価されるエリート金魚の裏では、先祖返りしたり、身体の部位が奇形になってしまった金魚がたくさん生まれているという現実に深く興味をいだいたんです」




金魚は、そんな人間の〝美への欲望〟やエゴをすべて包み込み、美しさと妖しさと虚しさを一身に背負って生きている存在なのだという。「この子のもつ多面性を描くことができれば、救われるんじゃないか」との思いが、深堀さんの胸にじわっと湧いてきた。

赤い水彩絵の具を絞り出し、手近にある木片やガラクタに手当たりしだい金魚を描いた。そのうち、頭の中に金魚の大群が浮かんできて、どんどん描けそうな気がした。




一面の和紙にほうきで描く。いつかはロケットにも



「金魚救い」が起きた年、深堀さんは、銀座にある銀行のショーウィンドーをディスプレイするコンペに応募し、見事採用された。猫の身体から抜け出した金魚の大群が、そばに干された洗濯物の間を勢いよく泳ぎ回るさまを表現した作品だった。タオルやTシャツ、そして深堀さんが小学生の頃に実際はいて泳いでいた海パンにまで、大量の金魚が描かれた。

金魚の大群は見る人に強烈なインパクトを与えたようで、何年か経ち、銀座のギャラリー巡りをした時も「金魚見たよ」と声をかけられたそうだ。




深堀さんは複数の金魚を飼ってはいるが、実在する金魚を忠実に模写しているわけではない。描くのは「自分が美しいと思う金魚」だ。だから厳密に見れば、現実にはありえない品種が泳いでいたりもする。しかし、深堀さんにとっては「どの金魚にも個性があり、命が宿っている」のだという。




そのことを最も感じさせてくれるのが、工業製品用の透明な樹脂を使い、升や桶、真っ二つに割れた竹の中で金魚が泳ぐ姿を表現した一連の作品だ。器に流し込んだ樹脂の上に、アクリル絵の具で金魚の一部を描く。その上からさらに厚さ数ミリ程度の樹脂を流し込み、2日以上置いて固まったら、また金魚の一部を描き加える。この工程を何度も繰り返すことで、今にも動き出しそうな立体的な金魚が完成する。





下絵は一切描かない。「この辺にいるなぁ」と金魚のイメージが浮かんできたら、その場所に筆をおろす。中には、糞まで描かれている作品もある。「この子はおなかの調子が悪いので糞は細め」というように、糞にも個性が表れている。




すっかり樹脂作品で知られるようになった深堀さんだが、大作にも意欲を燃やす。昨年8月には、神奈川県の保土ヶ谷公園でライブペインティングを行った。池の端に掲げた和紙のキャンバスに、ほうきで巨大な金魚を描いた。描いているうちに日が暮れて、競演した舞踏家の振り回す炎が、真っ赤な金魚を浮かび上がらせた。






ライブペイント 東京国際フォーラム アート ショップ エキジビション スぺース 個展時に公開制作 2010


「東京国際フォーラム館内でのライブペインティング風景」 2010年





「いつかロケットにも巨大な金魚を描いてみたい。途中で塗料が溶けて消えてしまうかもしれないけど、宇宙へ飛んでいく姿をぜひ見てみたいですね」
大空に舞う〝深堀金魚〟が見られる日も、そう遠くはないかもしれない。(香月真理子)




深堀 隆介(ふかほり・りゅうすけ)
1973年、愛知県生まれ。95年、愛知県立芸術大学美術学部デザイン専攻学科卒業。99年、退職後、制作活動を始める。第9回岡本太郎現代芸術大賞展2006入選。09年、ドイツ・ミュンヘンにて個展を開く。

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(2011年1月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 159号より)





祖母、母、私、三世代の道のり。生地に残った記憶をたぐる




在日コリアンとしての
アイデンティティから生まれた、静謐な世界。







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テキスタイルアーティスト 呉 夏枝さん





織り、染織、刺繍もこなし、着物とチマチョゴリをつなぎ合わす



刺繍を施したチマチョゴリや、麻縄を使ったインスタレーションなど、布や織物を用いたテキスタイルアートを展開している呉夏枝さん。

「布はエモーショナルな表現ができる素材。それに、軽いから微妙な空気感も表しやすいんです。シルクや綿や麻、それぞれに手触りも印象も異なるので、柔らかさや力強さなど、その時に表現したいものに合うものを選んでいます」



呉さんは布を使うだけでなく、織り機を用いて糸から織る。また、染色や刺繍も自身で手がけているという。「非常に手間も時間もかかりますが、そうやって自分の手で一つひとつの工程を経ていくからこそ生まれる、確かなものを信頼しています」

洋裁をしていた母の隣で、子どもの頃から自然と布に親しんでいた呉さん。いつしか布を使って何かを表現したいと考えるようになり、美術大学へ進学。染色と織物を専攻した。在学中に主に関心をもっていたのはコンテンポラリーアートだが、卒業制作を機に向き合うことにしたのは自身のアイデンティティだった。




「在日コリアン3世であること、女性であること。それまであまり考えてこなかったことを考えてみたい」という思いのもとにつくりあげたのが、着物とチマチョゴリをつなぎ合わせた衣服。それは、「韓国人なのか、日本人なのか」という在日コリアンに向けられがちな、また自身でも悩んでしまいがちな問いに対しての呉さんの一つの答えでもある。

「着物でもなくチマチョゴリでもない、美しい衣装をつくろうと思いました。どちらにも引っ張られずに、単独で美しい衣装であるようにと、そんな思いを込めました」
そして、この制作を機に使い始めたのが、「呉」という姓。日本で生まれ育ち、ずっと使ってきた「通称名」も自分の名だが、アーティスト活動をする時には、両親や祖父母たちが生きてきた歴史を表す「呉」を使うことに決めた。





沈黙の記憶、そして新しく生み出される記憶



「その後、祖母が亡くなったのですが、母は祖母のチョゴリを処分せずに取っておいてくれました。それをいつか作品にできたらと部屋に掛けておいたところ、ある日そこから祖母の存在を強く感じ取ったんです。祖母が語らなかったこと、私が聞くことができなかったこと。そんな、『沈黙の記憶』をこのチョゴリは知っている。雄弁に語られることのない、ある一人の女性の歴史をチョゴリを通じてたどっていけたら、と考えました」






010 3つの世代
『三つの世代』(Photo:イ・ソンミン)





写真作品『三つの世代』には、祖母のチマチョゴリ、母のチマチョゴリ、そして自分でつくったチマチョゴリを着た呉さんが曲りくねった道の真ん中に立っている。

「撮影場所は、祖母の出身地の韓国・済州島。祖母も母も、私と同じ年齢の時にはどんなことを感じていたのだろうかと考えながら撮影しました」





045不在の存在1

「不在の存在」
(HIROSHIMA ART DOCUMENT 2008より)




白いオーガンジーでつくられた衣服が、部屋に浮遊しているかのように配された『不在の存在』という作品からは、今は亡き人が確かに存在していたこと、肉体はそこに残らなくとも、ある一人の人生がそこにあったことを想像させられる。


「作品を通して、そこにあったであろう物語を想像してもらえたら、そして、ご自身が関係する誰かとの記憶へとつなげてもらえたらうれしいですね。古い記憶は、その時に感じたものと合わさって、また新たな記憶が生み出されていく。悲しくつらい記憶は、永遠に悲しくつらい記憶ではなく、その記憶を受け取る人の想像力でいかなる記憶へも変わる可能性がある。だからこそ、どんな記憶をどうつないでいけるかが重要だと思うんです」





在日であることはアイデンティティを構成する一つの要素にしかすぎないが、同時に重要な部分でもあると話す呉さん。「その核を大切にしながら、さまざまな表現に挑戦していきたい。布をほぐして、また織り直していく。私の創作は、そういう作業。多くの方の思いを投影できる、そんな作品をつくっていきたいと思います」

筆者も在日コリアン3世。呉さんの作品を見ていると、亡き祖母と話がしたくなり、つい目頭が熱くなってしまった。




(松岡理絵)
Photo:中西真誠




呉夏枝(お・はぢ)
1976年、大阪府生まれ。現在、京都市立芸術大学美術研究科博士課程在籍中。02年〜04年ソウルで、言葉と韓服の縫製を学ぶ。06年「root—わたしの中の日本的なもの—」(京都・法然院)、08年「HIROSHIMA ART DOCUMENT2008」(広島・旧日本銀行広島支店被曝建造物)への出品他、個展・グループ展多数。 

http://hajioh.com/


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(2010年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 157号より)




淀川は遊び場。曲がったものを組み合わせるおもしろさ



河川敷のゴミや漂流物が魚になって息を吹き返す。
屋外の展示は、出会いもハプニングもすべてがアート







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(アートユニット、淀川テクニックの柴田英昭さん、松永和也さん)




魚型自転車にシャチホコのキックボード。すべての組み合わせが廃棄物





「これ、タチウオを作るのにいいんとちゃう?」

何層にも巻かれている細長いアルミを見つけ、アートユニット「淀川テクニック」の柴田英昭さんは、相方の松永和也さんにそう声をかけた。

彼らのアート活動の拠点は、大阪市を流れる一級河川・淀川の河川敷。この場所で川や草のにおいに包まれながら作品をつくり、そこで展示もしてしまう。材料となるのは、河川敷に捨てられたゴミや、川岸に流れ着いた漂流物。




「引き潮の時だと普段は足を延ばせない所にまで探しに行けるので、珍しいものが見つかる確率が高いです。でも、潮が満ちてくる前に岸に戻らないといけないのでハラハラしますけどね(笑)」と柴田さん。ハンガーやカセットテープ、タイヤや仏壇まで、本当にいろんなものが見つかるという。

「どれも現役時代は役に立っていたはずなのに、持ち主にいらないと思われたからそこにある。そう考えると、とても切ない気持ちになるんですけど、それがアート作品の材料となることで、息を吹き返していくんです。曲がったり壊れたりしたゴミを組み合わせてつくる作品は、完成するまでどんな形になるかわからない。想定外のものができあがるおもしろさ、それが醍醐味です」と松永さんは話す。





取材日、柴田さんは金色の空き缶を貼り合わせて作った金のシャチホコを持ってきてくれた。キックボードにもなっていて、名古屋の街をこれに乗って駆け抜けたそうだ。松永さんは、真っ黒の魚型自転車にまたがって登場。傘や帽子、破れたカバン、ビデオテープ……と黒いゴミだけを選んで組み合わせて作ったもの。どちらも遠目で見ると「シャチホコ」と「魚」だが、近くで見るとまぎれもなく廃棄物の組み合わせ。配色や配置に工夫をし、それぞれに特徴をうまく表現しているのはさすがだ。




屋外での制作・展示には、独特のエピソードも満載。河川敷に生えている木の枝にボールをいくつもぶら下げた「オン・ザ・宇宙」は、春や夏には葉がボールを覆っていたが、落葉の季節になって初めてボールが姿を現した。しかしその後、木は整備事業によって切り倒されてしまう。

淀テク オン ザ 宇宙

「オン・ザ・宇宙」 © courtesy of the artist and YUKARI ART CONTEMPORARY





また、淀川で釣れる魚といえばチヌ(クロダイ)が有名。そこでゴミで巨大なチヌを作り、それを川の中へ。半分ほどが水中に浸かったそのチヌが釣り人の針に引っ掛かったという設定で写真作品を制作した。撮影後は陸に引き上げ、河川敷で展示していたが、ある日放火に遭って「焼き魚になってしまった」。

草むらの中に展示していた、黒のワイヤーをグルグルと渦状にして作った「ブラックホール」は、数日後に見に行くと中心部に傘が突き刺さっていたという「ブラックホールだけに吸い込んでしまったんでしょう」と、屋外展示ならではのハプニングや展開さえも、楽しんで受け入れている二人。もはや、そこまで含めてのアートなのだ。




「ゴミニケーション」で広がる制作。子どもたちとのワークショップも



淀川河川敷には、スポーツをしている人や散歩をしている人、ホームレスの人など、さまざまな出会いがある。

「僕らがゴソゴソと制作活動をしていると、『何やってんの?』とよく声をかけられます。会話が生まれて、仲良くなって、『これで何かを作ってみたら』とアイディアを提案してくださる方もいるんです。淀川で出会った方との交流を、僕らは『ゴミニケーション』と呼んでいます。コミュニケーションの中で制作につながるヒントをいただくことはとても多いですね」




ワークショップを開けば、子どもたちが制作に夢中になり、十分に用意していたはずのゴミが足りなくなってしまって、みんなで河川敷へとゴミ拾いに行ったこともあるほど。特に強くエコを意識しているわけではないが、結果的に河川敷からゴミが減り、廃棄物のリサイクルにもつながることはうれしい産物だと話す。

「僕らにとって淀川は遊び場」という二人。「他の地域で活動することも増えてきましたが、やはり淀川がホームグラウンド。今日は何が見つかり、誰と出会えてどんな話ができるのか。来るたびに非常にわくわくします。これからも人と交流しながらの公開制作を続け、多くの人と楽しさを共有していきたいと思います」




(松岡理絵)
Photo:福本美樹




淀川テクニック(よどがわてくにっく)
柴田英昭:1976年、岡山県出身。松永和也:1977年、熊本県出身。ともに98年大阪文化服装学院卒業。03年にユニット結成。「アートフェア東京2010」「瀬戸内国際芸術祭2010」ほか、個展、グループ展多数。09年「第12回岡本太郎現代芸術賞」入選、09年度「咲くやこの花賞」受賞。サイクリングやピクニックなど淀川を舞台にした各種イベントも不定期開催中。

http://www.yukariart-contemporary.com/

http://yodogawa-technique.cocolog-nifty.com/





「宇野のチヌ」© courtesy of the artist and YUKARI ART
「オン・ザ・宇宙」 © courtesy of the artist and YUKARI ART CONTEMPORARY



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(2011年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 175号より)







7トンの塩で描く、生命の森




緻密な迷路や網の目の模様を塩で描く。気が遠くなるような作品づくりの裏には、生と死を見つめる強く優しいまなざしがあった。





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(インスタレーション作家 山本基さん)





一番の理解者だった妹の他界。「死」の周辺をテーマにしてきた







それは張りめぐらされた枝のようでもあり、密に編まれたレースのようでもある。鑑賞者は口々に「これも塩なんだって」「へえ、塩なんだ」と感心しながら、作品の前を通り過ぎていく。はるか向こうには、油差し用のボトルから精製塩を少しずつ出しては、細かい模様を描いていく男性の姿があった。この日、神奈川県・箱根彫刻の森美術館にて「しろきもりへ——現世の杜・常世の杜——」を公開制作中の山本基さんだ。




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山本さんは今回、箱根の自然豊かな森から着想を得て3つの作品を制作。本館ギャラリー1階には結晶塩と岩塩からできた枯山水風の庭をつくり、中2階には塩のブロックを天井まで積み上げた巨大な塔を建てた。2階の会場には16×16・5メートルにも及ぶ塩の網を描き、使用した塩の総計は約7トン。最後の追い込み作業は連日15時間を超えた。





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「摩天の杜」(2011年)




「制作風景を公開しないほうが、もちろん集中できるんです。でも、公開制作をしていると会場に来た人たちと話ができるし、子どもたちに『何かを積み上げていくことの大切さ』を感じてもらえると思ったんです」




もともと、やすりで金属を削ったり、鋸をひいたりした時に〝手に伝わる感覚〟が好きだったという山本さん。工業高校の機械科を卒業した後、「大学に行くつもりで4年間だけ働こう」と、造船所に就職。ところが1985年のプラザ合意に伴う急激な円高で日本の輸出業は大打撃を受け、造船所は希望退職者を募り、山本さんはこれに応じた。

その後、登山道具を持ってバイクで日本中を旅した山本さんは、いろいろな人と出会う。

「中には、どろどろの硫黄か何かを探している鉱物マニアの人もいました。こんな生き方もあるんだったら、僕もやりたいことをやろうと決意したんです」




そこで、ものづくりに携わろうと金沢美術工芸大学に進み、油絵を学んだ。その矢先、実の妹が脳腫瘍になり、24歳で他界した。「元気な人で、すごく仲がよくて、僕の一番の理解者でした」

その現実を受け入れようと、終末医療や脳死など「人が死ぬこと」の周辺にある、さまざまな事柄をテーマに作品をつくるようになり、葬儀に使われた「塩」の存在をふと思い出した。

「塩は、海からとれる身近な食べ物であると同時に、食べ物ではない役割を社会の中で担っています。その白さは美しい透明感をもっていて、油絵具のように乾くのを待つ必要もない。『その瞬間にある思いをすぐ表現したい』と考える自分の手に、しっくりくる材料だったんです」





雨に溶ける塩の小舟。一つひとつの網目に思い出を織り込む



96年から塩を使った作品づくりを行うようになり、今は展覧会の3分の2を海外で開く山本さん。身近な塩がアートになる驚きは、万国共通のリアクションだという。

海外で初の展覧会だった00年のメキシコでは、現地で塩をブロック状に焼き固めようと思っていたら、「そんな予算はない」と言われた。その代わり、現地の人が一緒になってレンガで窯をつくってくれた。ところが実際に塩を焼いてみると、外側は硬くなるが、内側は軟らかいままで、思い通りの形にならない。そこで急きょ、ブロックの内側をくり抜いて400ほどの小舟をつくった。

「ちょうど雨季だったから、スコールで小舟が溶けてなくなっていく過程を見せる作品にしたんです。計画通りにいかない出来事や、自分ではコントロールできない自然現象が、新しい展開を生み出すおもしろさを教えてもらいました」






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「記憶の泉」(2000年)




作品につけた名前は「記憶の泉」。


「僕が作品をつくり続ける理由は、妹の存在を忘れたくないからです。網目模様を描く時は、その一つひとつに妹との思い出を織り込むような気持ちになる。僕たちが亡くなった人にできることって、覚えておくことくらいしかないから」

展覧会の最終日には3、4年前から続けている「海に還る・プロジェクト」も予定。これは作品の一部を鑑賞者に持ち帰ってもらい、その塩を好きな海に還してもらう取り組みだ。
「海に還った塩は海水浴の時にうっかり飲んでしまうかもしれないし、作品にまた戻ってくるかもしれない。そうしてまた、海をめぐり、塩がさまざまな生き物の命を支えていく。そう考えると、夢が広がります」

(香月真理子)
Photo:高松英昭




山本 基(やまもと・もとい)

1966年、広島県尾道市生まれ。95年、金沢美術工芸大学絵画専攻卒業。02年、フィリップモリスKKアートアワード2002 PS1賞受賞。10年、ボイジャー/AITスカラシップ・プログラム受賞。現在、石川県金沢市在住。
www.motoi.biz




「現世の杜」(2011年)17×9m/撮影:高松英昭

「常世の杜」(2011年)16.5×16m/撮影:高松英昭

「記憶の泉」(2000年)
直径約4m/インスタレーション展(ベラクルス州立彫刻庭園美術館・メキシコ)

「摩天の杜」(2011年)
H3.6×W3.45×D2.6m/撮影:森澤 誠

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遺したいもの。アーティストとしての着地に向けて作品をつくる



映像と音楽を自在に組み合わせてつくる独自の世界。
この秋は初のピアノソロコンサートに挑む。





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(2010年10月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第153号より)




渾身のストップモーションアニメ。毎日12時間、8年かけた制作




人間を好きになってしまった電信柱の恋を描く『電信柱エレミの恋』。
映像に映る造形物すべてを手作りで制作した、45分全編ストップモーションアニメ。






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(中田秀人監督)





完成した時、宇宙船の旅から帰ってきたようだった



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©SOVAT THEATER





制作秘話を聞いているだけで、気が遠くなってくる。人形を少しずつ動かしながら、コマ撮りで映像を撮影していくストップモーションアニメ。わずか1秒の映像を撮影するのに、キャラクターを平均6回以上動かし、細かいところでは実に30回も動かした。撮影前の表情の調整だけで数時間、丸一日撮影しても数秒撮るのがやっと。最も長いシーンでは、連続18時間撮影し続けたという。「人形は表情や関節だけでなく、服のシワまで微妙に動くので、一度撮影し始めたら、途中で終われないんです。トイレに行く以外はずっと同じ姿勢で、スタッフと二人でひたすら人形を動かした」と中田さん。




撮影以上に労力を使ったのが、造形物の制作だ。作品に登場する数々のキャラクターや背景となる昭和の町並み、アパートの部屋の細かな描写に至るまで、すべての造形物を一つずつ手づくりで制作したという。

「たとえば、人形の洋服なら、イメージに合った布を探し、なければ靴下や古着の裏地など身の回りにあるもので試していく。人形の顔など動く部分はプラスチック粘土ですけど、それ以外は木や発泡スチロール、樹脂、紙粘土、アルミ、鉄など、表現に合った素材を選んで一つひとつ制作しました」




Scene





緻密でリアルな町並みは、イメージデザインを描き、それに近い町並みを歩いて探し、実写とデザインを組み合わせて架空の町を作り上げた。また、効果音も町中で採録したり、棒に布を巻いたものを叩いて鳥の羽ばたく音にするなど、すべてが独自のアイディアによるもの。




制作期間は、実に8年。造形技師の仲間3人と交代で毎日12時間フルに作業しても、それだけの歳月が必要だった。「一つとして同じ作業はないので、毎日大変で、毎日難しかった。完成した時は、4人で宇宙船の旅から帰ってきたようだった」

そうして完成した映画は、自主制作フィルムとしては異例のロードショーが実現し、今年、第13回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。さらに、手塚治虫や宮崎駿などが歴代受賞者に名を連ねる、国内のアニメ映画賞では最も歴史と権威のある第64回毎日映画コンクールアニメーション賞大藤信郎賞を受賞。立体アニメ表現の完成度に対して満場一致という高い評価を受けた。




小さなものでいいから、何年も人の記憶に残る作品をつくりたい



ストップモーションアニメに魅せられたのは学生時代。ヨーロッパのアートアニメを観て衝撃を受けた。「学生の自主映画だと、有名な俳優は使えないし、大きなセットもつくれない。でも、これなら一つの画面を自分が納得できるまで思う存分つくれると思った」




アニメや造形制作については、中田さんをはじめ4人とも完全な独学。日々の制作と失敗を繰り返す中で、独自のノウハウを積み上げてきた。

「造形物を置いて、アングルを決め、その空間を撮ることに自分たちの喜びがある。ものすごく手間はかかるけど、木を削る感覚や絵の具を混ぜた時のにおいみたいなものが、最終的な画面につながってくると思うし、観客にもそれが伝わると信じている」

ストーリーは、電信柱のエレミが電力会社の作業員タカハシに恋をし、電話回線に侵入して話し始める。中田さんはこのファンタジーを20年かけてでも完成させたかったと話す。

「僕の考えるファンタジーは、天使が舞い降りて奇跡を起こすようなものじゃなくて、実生活の中で何年かに一度起こる偶然のようなもの。電信柱は無言で佇むただのコンクリートの柱だけど、そこに何らかの想いを感じる。優しくて、少し温かい。でも、何もかもが幸せってわけじゃない。そういうファンタジーがどうしてもやりたかった」




映画のラストは、観る者に深い余韻を残す。そして、観終わった後、町の片隅で秘かに立つ電信柱をふと見上げたくなる、そんな記憶に残る作品だ。

「学生時代、南の島で海に浮かんでいた時、今自分がここで消えても、砂浜の砂粒ひとつ何も変わらないんだろうなって思ったことがあって、その時自分はほんとに貝殻ひとつぐらいの小さなものでいいから、何年も人の気持ちに残るような作品をつくりたいと切実に思った。それが、僕のクリエーターとしての原点で、今につながっていると思います」

(稗田和博)






中田秀人
1972年、兵庫県出身。京都精華大学卒。97年に、主にパペットを用いたストップモーションアニメを制作する映像チーム「ソバットシアター」を結成。ストーリーや世界観、デザインを担当するなど、チームの中心的存在。00年に短編アニメーション作品『オートマミー』で国内の映画祭で数々の賞を獲得。09年には、8年の制作期間を経て『電信柱エレミの恋』を制作した。




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Main

独特の演出法。
激しく動き、踊り、
息も絶えだえに発する言葉





『幸福オンザ道路』 毎回、同じステージはない




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ダンサー・演出家 矢内原美邦(やないはらみくに)さん





役者たちが全力で駆け足をし、大声で早口にセリフを叫ぶ。腿を上げ、腕を振り、汗をまき散らし、客席に疾風を送りながら物語は進む。ハイテンションな動きとともに高速で叩き出されるセリフは、一つひとつに重みがあり、観客は必死で言葉を聞き取りながらも、常に舞台上の動きに圧倒されている。

パフォーミング・アーツ・カンパニー「ニブロール」の主宰であり、ダンサー、振付家、演出家、作家と、多彩な表現活動を国内外で追求している矢内原美邦さん。演劇とダンスの両分野で高い評価を受けている矢内原さんが作・演出を手がける演劇プロジェクト「ミクニヤナイハラプロジェクト」の最新作『幸福オンザ道路』がこの7月、来年予定されている本公演に先駆け、横浜STスポットでの準備公演を打った。

それは、ある夫婦の部屋に訪れた、アサギユウジという男をめぐり、彼の過去と彼を取り巻く謎を解き明かしていくミステリー。矢内原さんが手がける芝居は、役者が激しく動き、踊り、息も絶えだえに言葉を発する。今まで観たことのない、独特の演出法だ。

「演劇だと、『息が切れちゃだめ』って言うんですけど、負荷をすごくかけた状態で言葉を発する、ということをやってみようと。特に今回のテーマは、『死』や『生きる』ということを扱っていて、人が生きたり死んだりする瞬間っていうのは、緊迫していたり、息切れたりしている状態のような気がしたんですね。生きているということ自体がパワフルなことなので、それを表現しようと思うと、より激しくパワフルになっていきましたね」




「生きること」と「死ぬこと」を、根本的に考えてみたいと思った




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高校生の時にダンスを始めた矢内原さんは、97年に「ニブロール」を結成。日常の身振りをモチーフに現代の空虚さや危うさをドライに表現する独特の振り付けが評判となり、国内だけでなく、海外フェスティバルにも招聘されている。「ミクニヤナイハラプロジェクト」は、吉祥寺シアターこけら落とし公演の制作をきっかけに、05年に結成した。




「演劇をつくることは難しいなっていつも思っていて。観に来てくれるお客さんも、言葉としての発見を探している気がするんですね。だから、ありふれた言葉をチョイスしたくない。ダンスは自分を出してイメージをつくり上げていくおもしろさがあるんですけど、演劇の場合は、役の中に自分を出さなきゃいけないという制約もある。言葉でどう伝えるかっていうのは本当に難しいです」

稽古期間が終わって本番に突入しても、ステージを観て徹底的にダメ出しをし、セリフを変えていく。今回、矢内原作品に初参加する役者からも、「毎回、同じというステージはない」という声があがる。

「この準備公演から本公演につなげる過程で、一回一回を実験的にやってみようということで、どんどん変わっていっています。『幸福オンザ道路』に出てくるアサギユウジという人物は、サイボーグのように内臓を移植されて生き返った人間。本公演では、誰が生きていて誰が死んでいる人間かということが、もっと混沌としてくると思います」

「戯曲は続いている」と話す矢内原さん。「舞台は生き物」とよく言われているが、こんなに自由自在に変化する、そしてそのプロセスを観客が体感することができる舞台は珍しいのではないだろうか。

会場で渡されたチラシには、「この作品は完成に向けてどのような道を役者たちと共に通るのか? 私たち自身も問いかけ、お客さんとも一緒に考えていきたい」と記されている。

「重いテーマではあるんですけど、自分が今、『生きること』と『死ぬこと』を根本的に考えてみたいって思ったんでしょうね。死んですべてが終わりではない。死ぬということが、生きるということにつながっている。人を殺すこと、死ぬことを考え問いかけることによって、生きるっていうことをもっと深く考えられるんじゃないかと思っています」

舞台を観て最初に感じた、客席を巻き込むパワーの源。それは、舞台上の演者の激しい動きはもちろん、物語自身も、全力で駆け足をして息を切らし、リアルタイムで変化をとげているからではないだろうか。

(中島さなえ)

本人Photo:横関一浩 Photos:佐藤暢隆






(2010年8月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第148号より)


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