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タグ:原発ウォッチ!




Genpatsu

(2012年4月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第188号より)





「原発いらない! 3・11福島県民大集会 -- 安心して暮らせる福島をとりもどそう --」が郡山市の開成山野球場で開催された。

呼びかけ人には福島県女性団体連絡協議会、県森林組合連合会、生活協同組合連合会、県農業協同組合中央会、県漁業協同組合連合会など、各界各層の方が名を連ねたことが、事故前と大きく異なる。

この鎮魂の日、曇り空で冷たい風にもかかわらず1万6千人の参加者は、加藤登紀子さんのコンサートに踊り、大江健三郎さんの話に耳を澄まし、被災した人々の話に涙を流した。

会場の放射線量は毎時0・5マイクロシーベルトと、事故前より1桁高い値を示していた。内野側スタンドが満杯になったため外野側スタンドを開放したが、その折に、放射能が気になる人は行かないようにアナウンスが行われた。ここでは、放射能と折り合いをつけながら生きていかなくてはならないのだ。

「福島を生きる」(和合亮一さんの詩)とはそういう意味だったろう。「『原発いらない』は福島県民の痛恨の叫び、全国へ伝えていきたい」(清水修二さん、福島大学副学長)のメッセージに拍手が沸いた。「一日でもはやく漁を再開し活気ある市場を取り戻したい」(相馬の女性漁業従事者)、「サッカーがしたくて富岡高校に入り寮生活をしながらがんばっていたが、原発事故がすべて吹っ飛ばした、私たちの将来を考えてほしい」(女子高生)、「9ヵ所を点々と避難した、先の戦争のあと大陸から引き揚げてきたが国策で2度も棄民にさせられた」(仮設住宅に住む元浪江の主婦)。被災した方々の訴えは涙なしには聞けなかった。

ある帰村した人は「福島県を見捨てた人がどうして戻ったのか」と言われたという。福島県民は見捨てられたという思いが、時に卑屈になり差別意識となって複雑な人々の心境をつくっている。

大江健三郎さんは「ある日全国の学校の校庭で先生や生徒が、日本政府は昨夜原発から撤退することを決めました、もう絶対に原発事故は起こりません、とみんなに言う、そんな日がくることを想像している」と締めくくった。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2012年2月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第185号より)




1月18日、経済産業省のある会場は大荒れだった。大飯原発3号機のストレステストの意見聴取会が開かれ、締め出された傍聴者が会場になだれ込んだためだった。原子力安全・保安院は、この日、大飯3号機のストレステスト報告を承認することをあらかじめ決めていたようで、一般の傍聴は別室のテレビモニターで行うと数日前から発表していた。理不尽なやり方に傍聴者が憤るのも無理はない。このやり方に抗議する意見聴取会の委員もいた。結局、11人の委員のわずか4人が保安院の評価を承認しただけだった。

23日から国際原子力機関のスタッフが来日してこのストレステストをしたが、保安院のやり方が適切であると、承認した。その後、運転再開は「政治が判断」すると枝野幸男経済産業大臣は繰り返している。

ストレステストは菅直人前総理の発案で始まった。福島原発事故前と同じ検査方法では地元の了解が得られないから、追加的なチェックを加えたのだった。だが、これまで一度も行ったことがないので、方法を詰めていく途中で腰砕けになってしまった。テストというと何か具体的な試験の印象を与えるが、実際には、地震や津波、電源喪失といった事態に耐えられる余裕を計算するだけだ。より広い総合的なチェックは次の段階で、運転再開に絡めない。その上、合否の判断基準が示されていない。

大飯3号機、同4号機の計算結果は、3・11の地震前に想定した「最大」の地震の揺れの1・8倍までは耐えられる。これを超える揺れが襲ったらアウトだ。地震のエネルギーを示すマグニチュードは1増えるとエネルギーは32倍になる。2倍はマグニチュードで言えば0・1だ。1・8倍で合格とするのはいかにも心もとない。何よりも、福島原発が「想定外」の揺れに襲われたのだから、大飯原発の周辺でこれまで値切って見積もってきた活断層をつなげて正しく「想定」し直すべきだろう。

筆者は政府の委員会で、機会あるごとに従来の「想定」見直しを訴えてきた。報道によれば、ある程度は見直されるようだが、今の運転再開とは連動しない。これでは第二の福島事故を待っているようなものだ。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2012年2月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第184号より)




元旦に飛び込んできたニュースは、原子力安全委員会の委員24人に2010年までの5年間に8500万円の寄付金が原子力業界から送られていたというものだった。自分たちが受ける審査に手心を加えてほしいと言わんばかりの行いだ。「原発審査、曇る中立性」と見出しが突っ込んでいた。

そして当事者たちは、判断に「寄付の影響はない」と紋切型の返答を繰り返しているが、これを真に受ける者はいないだろう。実際の審査は、委員が意見を言い安全委員会の事務局が内容をまとめる。爆発事故が起こっても、原発の安全審査を行った学者・役人の誰もが責任をとっていない。

続いて、東京電力とこの関連企業が国会議員のパーティ券を多額に購入していたことも報道された。自民党議員が多いが現在の政権党である民主党議員も含まれている。議員の歳費はNGOスタッフとはけた違いだ。加えて政党への選挙費用などが私たちの税金から出ている。なのに、パーティを開催して資金を集めるという。券の購入を求める方も買う方も、どこか狂っている。

役人は役人で「核燃直接処分コスト隠ぺい--エネ庁課長が04年指示」という報道も流れた。日本の原子力政策は原発の使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出している世界でも数少ない国の一つだ。これに対して大多数の国は使い終わった燃料はそのまま貯蔵・処分する直接処分政策をとっている。国は試算の結果、直接処分政策の方がはるかにコストが安いとわかっていたが、知られると都合が悪いので「世の中の目に触れさせないように」と厳命したという。国会で質問された時には、直接処分のコストを試算したことがないと答弁していた。この張本人の安井正也課長(当時)はいま経産省の官房審議官をしている。この国はどうなっていくのだろう。

明るい将来を予想させる報道もあった。東京新聞(1月2日)の特集「暮らし再耕--脱原発へできること」だ。春に原発が全機停止するので、そのまま夏を乗り切ろうという話だ。一人ひとりの節電は小さいが、数が集まれば効果は高い。自然エネルギーを積極的に増やしていくための課題も解決できそうで希望がもてた。辰年の今年、自然エネルギー元年、脱原発元年にしたい。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)





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(2012年1月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第183号より)




原発などないほうがいいと考えている市民は多い。消費者グループや労働組合、そして宗教者のグループなど多くの団体が脱原発を決めている。これを実現する方法は二つあるといえよう。

一つめは、定期検査で止まった原発を動かさないこと。地元自治体の長が首を縦に振らなければ再稼働できない。原発の安全だけでなく住民の安心が不可欠だと政府も言っている。牧之原市議会は安全・安心のために浜岡原発の永久停止を決定した。同市は隣接する自治体なので、この決議がある限り、運転再開はできない。

もう一つは政策を変えることだ。今、この国のエネルギーのあり方が大きく変わろうとしている。原発を柱にしてつくってきた政策が、福島の原発10基が廃炉になる事態を受けて見直さざるを得ないわけだ。野田内閣総理大臣は「原子力発電への依存度をできるかぎり低減すること」を基本的方向としている。経済産業省の審議会では脱原発と原発維持、それぞれの主張が激突している。

福島原発事故に関する報道が続いている。収束宣言が出されたが、実感は、むしろこれから始まる。廃炉には40年ほどかかる遠い道のりだ。膨大な廃棄物をどう処分するかも定まっていない。原発のコストはこれまで以上に高いことも報道された。新たに示された8・9円/kWhは今の時点の最低の値で、損害賠償に関する保険も高くなるだろうし、除染費用もかさんでいけばその分が上乗せされていく。

除染費用でいえば、被曝限度を定めた現行の法令に基づいて、ようやく基準と費用負担のルールが示された。これで各自治体も除染に取り組みやすくなった。待たれていた対応だ。

除染より避難をすべきとの声もある。避難したい人は多くいることから、これへの対応も非常に重要だが、なおざりにされている。課題はまだまだ多い。

審議会の議論を経て、今年春頃にはエネルギーの選択肢が政府から提案されて「国民的議論」に入る予定だ。そうして夏頃に新しいエネルギー政策が決まる。どのようなかたちで国民的議論が行われるのか明らかでないが、インターネットを通してだけでなく、全国各地で討論会をするべきだと、審議会の中で訴えている。新しい政策は一人ひとりの参加のもとに決めていこう。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)








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(2012年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第182号より)




日本には菩薩さまの名前のついた原子炉が2つある。「ふげん」と「もんじゅ」だ。どちらも日本が独自に設計・開発を進めた原子炉で50年たった今も実用化にはほど遠い。それどころか、「ふげん」は実用化を断念し廃炉となっている。宗教者たちはこの名づけに反対の声明を出したことがある。

「もんじゅ」は開発途上の原子炉で、高速増殖炉のひな型となる原型炉だ。95年12月、試験運転中に大きな火災事故を起こして以来14年半停止していた。10年5月に試験運転を再開したが、同年8月に再びトラブルを起こして、再開のめどは立っていない。91年の工事完成から本格運転できないまま20年が経過した。

「もんじゅ」には、核分裂がコントロールできないまま瞬く間にネズミ算式に増え、原子炉が爆発する事故の恐れがある。爆発によって関西圏は壊滅的な被害を受ける。水源の琵琶湖の汚染も事態をいっそう深刻にする。住民たちは「もんじゅ」の危険性を訴えてきたが、福島原発事故の後ではいっそう現実味を帯びてきた。

事故の翌年から毎年12月上旬に福井県敦賀市で集会を行い、この地に設置されている「もんじゅ」の廃炉を求めてきた。昨年は12月3日に約1500人が集まった。「もんじゅ」を所有運転する日本原子力研究開発機構の鈴木篤之機構長はインタビューに答えて「実用化に国民のみなさんのご理解を得ることは難しい」ので、研究用に格下げして運転を再開したい意向を示した。しかし、事業仕分けで3度も見直しが求められたこの原子炉の運転再開は難しいだろう。現在、「もんじゅ」を含めた原子力政策の見直しが行われている。

この流れを脱原発へと転換するために、今年1月14〜15日にパシフィコ横浜で「脱原発世界会議」(※)が開かれる。欧米諸国に加えてアジアの国々から人々が集う。福島原発事故をさまざまな視点から分析するのみならず、原発に代わるエネルギーのあり方など2日間みっちり議論する。ロビーでの企画も盛りだくさんだ。

現在46基が止まり、運転中は8基のみとなっているが、木々が芽吹く頃には日本の原発は全基が停止するはずだ。定期検査に入っていくからだ。原発のない新しい時代の幕あけとしたいものだ。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)




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(2011年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第181号より)




文部科学省は、航空機を使って観測した放射能の広域モニタリング結果を公開してきた。自然界の放射線量率を除いた福島原発事故の影響が、空間線量率、セシウム134、セシウム137、セシウム134と137合計放射線量の4パターンで発表されている。当初は福島県内80キロメートルの範囲だったが、徐々に範囲を広げ、11月25日には、北は青森県から西は愛知、石川、福井の各県も公表された。さらなる広域の観測計画は発表されていない。

こうした放射能の拡散は、一度の放出で作られたものではないが、幾度かの放出のたびに地形に沿って風下へ流れ、雨や雪によって地面に沈着した。非常に高い放射能汚染地域が福島原発から北西にのび、転じて南西の方角に高い汚染地域が広がっている。福島では中通りと呼ばれる地域だ。

そしてそれは、那須から群馬県へ、さらに八ヶ岳連峰へとのびている。 また、北は平泉町(岩手県)あたり、南は松戸市や柏市(千葉県)あたりに汚染の高いホットエリアがあることがわかる。そこで止まったかと思われたが、さらに遠方へ、南北のアルプスのあたりに点々とホットスポットを作り出した。そして一部はこれらの山脈も越えたのだった。

これらのデータは、150~300メートルの上空を3キロメートル幅で一筆書きするように示される。地上からの放射線を観測するのでやや粗いものだが、4パターンでの表示は、広域汚染状況を視覚的にとらえられる貴重なものだ。

このほかにも、群馬大学の早川由紀夫教授(火山地質学)は、実際に地上で観測された空間線量率をもとに放射能の広がりをマップにした。火山灰の広がりを研究した手法を活用したものだ。ネーチャー誌が掲載した汚染マップはアメリカの科学アカデミーの手によるものだが、日本全国に広がった放射能マップになっている。手法の詳細説明はないが、きわめて低いセシウムの量までとらえている。さまざまな汚染地図はところどころ異なる点もあるが、大きな傾向は変わらない。

放射能の濃い薄いは大きな問題だが、全国的に広がった汚染状況を見ると私たちは福島原発の出した放射能と無関係には生きていけないことがよくわかる。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)








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(2011年12月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第180号より)




福島第一原発の敷地内が11月12日に初めて報道陣に公開された。マスコミ各社は多数の写真を載せて報じた。爆発した建屋のうちカバーで覆われていない3号機と4号機は無残な姿をさらしていた。東電が公開している、ふくいちライブカメラでは見えないアングルのショットに、改めて爆発のすさまじさが伝わってくる。

原子炉の上部に設置されている使用済み核燃料プールが健全だったといわれているが、建屋下部の壁も吹き飛び、中がめちゃくちゃに壊れている様子からは、にわかに信じられない。東電はこれらの廃炉を決めたが、どう修理しても二度と使えるとはとても思えない。

事故処理に毎日3000人が従事しているという。だが、写真からは8ヵ月たってもなかなか作業が進んでいないことがうかがえる。廃炉に30年以上かかることも納得できる。高い放射線の影響で作業がはかどらないのだ。

記者たちはバスから降りることなくシャッターを切りまくった。完全防護服は放射能を吸い込まないようにするのには役立つが、飛んでくる放射線を防ぐことはできない。わずか3時間程度の滞在で、記者たちの被曝線量は75マイクロシーベルトに達したと報じられている。記者の被曝も高いが、作業員はどれほどだろうか。1日の作業時間は4時間ほどと聞くが、作業時間外の被曝はカウントされていないので、記録された線量よりも高いことは確実だ。将来の影響が心配される。

爆発で広範囲に広がった放射能は調査が進むにつれ、予想をはるかに超えて広がっていることが見えてきた。文部科学省が公開している地図は北アルプス山麓に点々と広がる汚染の高いエリアを映し出している。国際原子力機関は無駄だといったが、政府は改めて年間の被曝線量が1ミリシーベルトを超えるエリアを除染すると発表した。この姿勢を歓迎したい。

事故処理の陣頭指揮をとっている吉田昌郎所長はインタビューに答えて、もうダメかと観念したことが3度あったという。この時私たちの命も危機にさらされていたことになる。しかし、命の危機は回避できたことに素直に安堵できない。放射能汚染からは逃れられないからだ。





伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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(2012年3月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第187号より)




2月19日、南相馬市で行われたシンポジウムに参加してきた。題して「ふくしまから考える原子力に依存しないエネルギー政策」。エネルギー政策の見直しを進めている経済産業省の基本問題委員会で、「地元の意見を聞いて議論を深めるべき」との提案を出した委員有志が開催した自主分科会だった。自主的とはいえ、桜井勝延市長も参加してくださり、充実した分科会となった。

会場は常磐線原ノ町駅前の市民情報交流センター、曲線を多用し、木のぬくもりを生かした公共施設だった。普段なら上野から電車1本で行けるところだが、線路が福島原発近くを通るため、復旧できないでいる。福島駅から東へ車で1時間半ほどかかった。会場周辺の環境の放射線量は屋外で事故前の10倍程度、屋内で3倍程度。比較的高い線量のところに人々は暮らさざるを得ない状況だ。心配ごとも多かろう。

南相馬市は福島第一原発から北側にあり、太平洋に面している。市内は、20キロメートル内の警戒区域、緊急時避難準備区域、計画的避難区域、さらにそれ以外と、複雑に区分されている。爆発による放射能の影響を最も大きく受けたまちの一つだ。今年2月の人口6万6千人。事故前に比べると6千人ほど転居していった。津波の影響もあるが原発事故による影響の方がはるかに大きい。

桜井市長は、「原発が爆発したことを知ったのは警察無線だった。この事故で、7人中6人以上が避難した南相馬市にとっていちばん大事なことは『心を再生すること』」と人々の胸を打った。また、「原発事故で180度変えられた運命を原発に頼っては取り戻せない」と原発の交付金を断ることにした心情を語り、「南相馬市民は自然エネルギーに依存した生活スタイルで生きていきたい」と力強い口調だった。東京電力に対しては、「西沢社長が来て、東電の責任でこの事故に対応していくと約束していったが、いまだ責任ある対応は感じられず、信頼に値する会社ではない」と厳しい口調だった。

この日は並行して、「ふくしまから始めるエネルギー革命 南相馬ダイアログフェスティバル--みんなで未来への対話をしよう」も開催された。南相馬は確実に活動を取り戻しつつあった。






伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)






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(2012年3月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第186号より)




2・11さようなら原発1000万人アクション全国一斉行動in東京」が代々木公園で開催され、約1万2千人が参加して会を盛り上げた。

オープニングはthe JUMPSの力強いミュージック。呼びかけ人の大江健三郎さんは「原発を止めることは人間の倫理だ」と訴えた。「役所の人は福島の人の心をわからない」と澤地久枝さん。福島の永山信義さんは「福島を返せ、故郷を返せ、あのささやかな日常を返してほしい」と切実だ。「『本当のこと』が見えている私たちの底力を出そう」とみんなを勇気づけた俳優の山本太郎さん。その他何人も発言し、ドイツ連邦議員のドロテー・メンツナーさんも駆けつけてくれた。

昨年9月に続く2回目の集まり。集会後には、渋谷や新宿に向けてパレード。同アクションは1000万人署名を集めている。まだ道半ばでも、今年の7月まで、もうひとがんばりしたい。オンライン署名も行っている。また、この3月11日には福島県郡山市で大きな集まりを企画している

1年が経過するのに、穏やかならぬ報道が続いている。福島や宮城で、暖をとる薪ストーブの灰から高い放射能汚染が検出された。宮城の最高値は灰1キロあたりに約6万ベクレルという。裏山から採ってきた薪だった。これによる被曝の量は不明だが、決して気分のよいものではない。こうした事例は今後も続くだろう。

2号機の原子炉の底の温度が上がっている。2月13日には400℃を超えて温度計は振り切れてしまった。数日前から徐々に温度が上がり始めていた。原子炉へ送る水の経路をいったん変え、元に戻したが、その後、温度が上がり始めたという。原因はわかっていない。けれども東京電力は「温度計の故障」と言い始めている。1本だけ異常、というのが理由だったが、14日には異常が拡大して、故障説に疑問が出てきた。


安心できるのはまだまだ先のことのようだ。







伴 英幸(ばん・ひでゆき)

1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)







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