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(2007年6月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第73号より)




北京の地下水が枯渇する?中国の水問題




中国内陸部の砂漠化した農村で、長きにわたって緑化協力を続けている高見邦雄さん(緑の地球ネットワーク事務局長)。
現地での生活経験を踏まえ、経済発展で躍進する中国の背後にある深刻な水危機の現状に警鐘を鳴らす。






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(高見邦雄さん)




水のない村。一日の水使用量は日本のトイレ「大」の2回分



通水式

広霊県苑西庄村の新しい井戸の通水式のもよう。
地下176mの深井戸から汲み上げたばかりの水を、村人たちがコップで回し飲みした。(1998年6月)





農村に泊まると、朝、洗面器の底にうすく張った水が渡される。そのわずかな水で洗面を済ませ、その後は羊や鶏などの家畜用の飲み水に回す。

北京から西に約300km入った内陸にある山西省大同市。

ここの住民はほんのわずかな水を家畜と分け合い、あらゆる面で水を使い回さなければ日常生活が成り立たない。1年の3分の1をこの大同市で過ごす高見さんは、「この地では水不足は井戸を掘って解決できるレベルをこえ、すでに節水の余地もない」と話す。




なかでも深刻なのは、黄土丘陵にある農村。もともと水が乏しく、物理的限界ぎりぎりで生活している。そういう貧しい高所の村で井戸や湧き水が最初に涸れる。

「21の村にアンケート調査すると、1人当たりの1日の水使用量は23.8リットルでした。これは日本の水洗便所で大便を2回流すだけの量です。少ない村ではわずか15.6リットルでした」と高見さん。極端な水不足のため、ほとんどの農村では風呂もなければ、シャワーもなく、洗濯をすることも少ない。ドラム缶を積んだ馬車をロバに引かせて片道10kmをかけて地下水を買いに行かなければならない村もある。

事情は市街地も同じだ。住民は1日1時間弱の時間給水のところもあり、バスタブに水をため、食器などの洗い物に使った水でトイレの「大」を流す。まるで阪神大震災の被災者と同じような生活が1年中続いているのだ。

「彼らは、すでに親子代々にわたって水不足の生活を続けているので、水に困っているという意識もあまりないようです」




「厳重欠水」の上に成り立つ北京の経済発展



官庁ダム



湖底が干上がった北京の水がめ=官庁ダム。現在の水際は1950年代のそれから1km以上も後退している。(河北省懐来県、2004年3月)




中国の一地域である大同市の水不足を高見さんが声高に指摘するのには、実は理由がある。大同市は首都・北京の重要な水源に当たっているからだ。大同市の中央部を流れる桑干河には、現在、ほとんど水がない。

桑干河は河北省に入って官庁ダムに流れ込むが、この官庁ダムは密雲ダムと並ぶ二つしかない北京の水ガメだった。ところが水量の減少と水質悪化で上水道には使えなくなっている。北京とその周辺の水資源量は、国際人口行動基準で「厳重欠水」といわれる基準をも大きく下回る。

「大きな節目は1990年代後半です。それから10年ほどの間に河という河が死に絶え、ダムはほとんど使えなくなり、井戸もどんどん涸れています。今では雨が降っても水が河まで出てこない状況で、北京は使用する水の7割以上を地下水に頼っているんです」と高見さんは指摘する。

しかし、この地下水も一部には1965年以来、地下水位が59mも低下したとの報告もある。また、大同市では、2008年には地下水が完全に枯渇するという報道さえある。

なぜ、この10年で水不足が深刻化したのか? すぐに思い浮かべるのは急速に発展する北京の都市化と工業化だが、高見さんはさまざまな複合的要因を指摘する。

「ちょうど北京オリンピックの開催が決まった頃から大旱魃が起きるようになり、北京の水利局では99年から03年までの旱魃で降水量が30%も減ったと発表しています。その辺りから井戸の地下水をどんどん汲み上げて農業の灌漑に使ったりして、経済発展による都市部での水使用量の増加が激しくなったのではないか」と高見さんは話す。






後編に続く


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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より)





人口100万人と固有の動物が共存 奇跡の森の「命(ぬち)どぅ宝(たから)」



沖縄島北部”やんばるの森“に生息する、飛べない鳥、ヤンバルクイナ。絶滅の危機に瀕するヤンバルクイナの保護に取り組む、長嶺隆さん(NPO法人どうぶつたちの病院事務局長)から届いた緊急レポート。







ヤンバルクイナ




人が導入したマングース、ヤンバルクイナの天敵に



1981年、やんばる(沖縄島北部地域)の森で新種のクイナが発見された。先進工業国での新種の鳥類の発見は「世紀の発見」といわれ、”やんばるの森“の神秘さをあらためて知らしめた。

当時、浪人中だった私は夢中で国頭村に向かった。幻想的な朝靄の中、ヤンバルクイナは沢沿いの茂みからゆっくりと姿を現し、水辺に脚を踏み入れ真っ赤な嘴で何かをひとつまみしたかと思うと、再び茂みに戻っていった。そのすべての場面を鮮明に覚えている。

ヤンバルクイナはチャボくらいの大きさの、真っ赤な嘴に真っ赤な脚を持つ派手な鳥。胸から腹まで黒と白の横縞で彩られている。国内で唯一の飛べない鳥であり、飛べないクイナの北限種でもある。発見から10年後で既に、ヤンバルクイナは生息分布域を大幅に減少させていた。森は残っているのに、なぜヤンバルクイナが絶滅へ向かい始めたのだろうか?




その原因はやはり我々人間にあった。外来種マングースの侵入である。1910年、毒蛇ハブや農作物に被害を与えるネズミ退治のために、マングースをインドから導入し、17頭が沖縄島の南部、那覇市近郊で放獣された。以来マングースは沖縄島を北進し続け、80年代に入ると”やんばるの森“へ侵入し、ヤンバルクイナの天敵となった。

81年、ヤンバルクイナはやんばる全域に分布し、約2千羽いたとされる。だが00年頃までに、その生息地は半減し千羽をきってしまう。現在はわずか7百羽程度に追いつめられ、発見からわずか26年で、日本で最も絶滅に近い鳥類となってしまった。片やマングースは3万頭をこえた。




追い打ちかける、捨て猫、交通事故



さらに不運なことに、南からマングースによって追いつめられたヤンバルクイナを森の中で待ち受けていたのが、捨てネコであった。捨てネコは自らの命をつなぐために森の生き物たちの命を奪っていたのだ。2001年、(財)山階鳥類研究所はノネコによるヤンバルクイナの捕食を証明し、発表する。

獣医師になり18年ぶりに沖縄に戻っていた私に、この事実は衝撃だった。ネコをはじめペットの命を救う仕事を10年以上続けていながら、一方で捨てられるネコたちの命には見向きもしてこなかったのではと、自問自答した。 




02年、国や沖縄県はノネコの捕獲を開始し、動物愛護団体と対立していた。そこで、私たちは「クイナもネコも守ろう」と獣医師グループを立ち上げ、ヤンバルクイナの主要生息地である国頭村安田区と協働で活動を始めた。

公民館で飼いネコの不妊手術と飼い主を明確にするためのマイクロチップを導入するという、地域での「ネコの飼育のルールづくり」である。これが効を奏し人口約200人の安田区ではノネコがいなくなり、集落内でヤンバルクイナの繁殖が始まった。




環境省はこの事例をモデルに、やんばる地域の三つの村で「モデル事業」を展開。獣医師会やNGOが参加し、2年間で約500頭の飼いネコに避妊手術とマイクロチップを施し、国内で初めて飼養登録制度も義務づけた「ネコの飼養条例」を施行した。

01年に捕獲されたノネコは約200頭だったが、現在は10分の1の20頭にまで減少した。捕獲されたネコたちは保護され新たな飼い主探しを行い、これまで1頭のネコも処分されていない。それは「命どぅ宝(ぬちどぅたから/命は宝)」を発信し続けてきた沖縄で、世代の責任としてやらなければならないことであった。世界的に見ても、このネコ対策の解決へ向けた速度は異例といえるだろう。




一方、マングースは北進を続けている。マングースの根絶に成功した例は海外でも報告がなく、ヤンバルクイナの絶滅は秒読み段階に入ったと考えていいだろう。

さらに追い討ちをかけるのが、交通事故だ。昨年は13件が発生し過去最多となった。私たちは安田区と協働でヤンバルクイナ救命救急センターを設置し、事故にあったクイナを救護し森に帰す活動を展開している。

救護したヤンバルクイナの治療や飼育から学び、万が一直面するかもしれない絶滅の危機を回避するために、飼育下の繁殖に着手した。残された時間は少ない。






ヤンバルクイナ手術中





琉球列島を代表する”やんばるの森“は「奇跡の森」とも呼ばれている。「大陸のかけら」という地理的要因もあいまって独特の固有の進化を遂げた動物たちの宝庫だ。

しかし、「奇跡の森」といわれるもう一つの大きな理由は、100万人をこえる人々がこの島に暮らし続けながら固有の動物たちが生き続けていることにある。私たちの沖縄は、沖縄のいとおしい野生動物たちと共存できるはずだ。それが誇りであり、それが次世代への義務であり、先人たちが残してくれた心であると信じている。


(長嶺隆)
(Photo:金城道男)
(写真提供:どうぶつたちの病院)

ながみね・たかし
1963年、沖縄県生まれ。日本大学農獣医学部卒業。獣医。2004年、仲間とNPO法人「どうぶつたちの病院 沖縄」を設立。現在、理事長。人と飼育動物(ペット)と野生生物が共生していくための事業を行う。やんばる・西表・対馬に活動拠点を持ち、ヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコ、ツシマヤマネコなどの保護活動を行っている。
http://yanbarukuina.jp/

〈寄付郵便振替口座〉
口座名義 どうぶつたちの病院
口座番号 01780−8−137038
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前編を読む





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サバンナの守り神、マサイ族。保護と住民の間を架橋する家畜診療プロジェクト



「現在、マサイマラ国立保護区の周辺で起きている問題に、マサイの個人所有の土地の貸し出しがあります」と指摘する滝田さん。主にナロックと呼ばれる町の周辺で起きている状況だが、ここではマサイが持つ土地を白人やインド人経営の大規模農園がリースし、今までサバンナだった地域が麦畑に姿を変えている。

野生動物と共存することが可能なライフスタイルを送る遊牧民と違って、農耕民族(農業)の野生動物との共存は不可能に近い。農作物を野生動物に荒らされないようにするため、農地はフェンスで囲まれる。そのフェンスは野生動物の食糧を奪うだけではなく、水や草を求めて移動する動物の妨げとなる。

「年間わずかのお金で大農園にリースされる、サバンナ。そして、小規模な炭作りのためにリースされた土地の、消え行く森林。観光客たちが触れることのない、マサイランドの中で起きている問題なんです」




伝統的な家畜業をいとなむマサイは、言ってみれば、サバンナの守り神である。マサイが家畜業を止め自分たちの土地を外部に貸し出し始める日。それは、サバンナが消えてしまう日だ。そして、保護区との境界線のサバンナが消え、フェンスが立てられることによって、今までより、さらに野生動物と地域住民との衝突が増える。

一方で、乾季などによる栄養失調や風土病などの問題から、マサイのゼブー牛は痩せていて「屠殺利益」は他の牛種に比べ、かなり低い。教育を受け、今までのライフスタイルに疑問を持つ若者や、経済観念を身につけたマサイにとって、家畜業は魅力がなくなり始めている。放牧スタイルの家畜業だからこそサバンナを守り野生動物と共存できていたのに、少しずつ変化が起こっているのである。




だが、そんなサバンナの守り神とも呼ばれるマサイの牛や家畜を守るための獣医療サービスは、ほとんどなきに等しい。マサイが、牛から得る利益がサバンナを貸し出す利益より少ないと感じてしまう日、また一つサバンナが消えてしまうというのに。

そこで、マラコンサーバンシーは、保護区や保護区周辺に暮らすマサイ族の牛、ヤギ、羊などの家畜の診療活動をするために、マサイマラ巡回家畜診療プロジェクトを立ち上げた。

マラコンサーバンシーが、地域の人々に一番必要とされている獣医を派遣することは、保護区が野生動物だけでなく、地域社会をも大事にしていることの証明となる。そして、家畜の健康状態が向上すれば、家畜からの利益が上がる。このプロジェクトは、地域社会の人々の暮らしを向上させることを通して、保護区の自然保護を実現させようとする、いわば保護区と地域住民の架け橋なのである。




滝田さんはこの巡回家畜診療プロジェクトの誘いを二つ返事で引き受け、現在、獣医として活動している。「学んできた動物学と獣医学の両方を活用できる自分にふさわしい活動かもしれない」と感じている。だが、プロジェクトはスポンサー探しや資金集めなどに苦労していて、プロジェクトを軌道に乗せようとするのに精一杯であるという。

最近、滝田さんはナイロビ郊外からマサイマラに引っ越した。愛犬、愛猫と共のケニア生活も、早8年。今日も滝田さんは、マサイの村に出かけて家畜の診療や治療を行う。時には、十分な器具もない中で、野外手術も辞さない。




どんな仕事もいとわない滝田さんに、マサイの人が贈った名前は「ノーンギシュ」(牛の好きな女)。マサイの人の親しみと愛情が表わされているような気がする。

「このプロジェクトが軌道に乗り、将来的にマサイの人たちの中で獣医、もしくは家畜アドバイザーを育て上げ、彼らが自分たちのコミュニティーの中で家畜の病気と闘っていけるようにするのが、私の今の将来の夢なんです」

滝田さんの夢が1日も早く実現することを、同じ地球市民として祈りたい。

(メールインタビュー/編集部)
(写真提供:滝田明日香)




たきた・あすか
1975年生まれ。幼少からシンガポールなど海外で暮らす。NY州のスキッドモア・カレッジで動物学専攻、アフリカに魅せられケニアとボツワナに留学。大学卒業後、ボツワナ、レソト、南ア、ジンバブエ、ザンビアなどを就職活動で放浪。ザンビアではルワンファ国立公園に職を見つけるがビザ問題で断念。2000年ナイロビ大学獣医学部に編入、05年獣医に。現在はマサイマラ国立保護区のすぐそばに住み、獣医として、マサイマラ巡回家畜診療プロジェクトなどの活動を行う。著書に、『晴れときどきサバンナ』二見書房&幻冬舎文庫、『サバンナの宝箱』幻冬舎、がある。


〈寄付郵便振替口座〉
口座名義 マサイマラ巡回家畜診療プロジェクト
口座番号 00100・0・667889






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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より)




野生の患者は、野生からの伝言者。選ばれて、自然の今を伝えに来る



北海道東川町に森の診療所を開く竹田津実さん。
30年間、傷ついた野生動物の保護、治療、リハビリに無償で取り組んできた。そんな竹田津さんが綴る、野生動物と巡り合う日々。






BIG ISSUE004






野生動物は無主物。その診療は犯罪行為!



野生たちの診療を始めて30年が過ぎた。バカなことである。やっとここ7〜8年は犯罪者扱いされなくなったが、それ以前はれっきとした法律違反者としてお上ににらまれていた。

野生動物は無主物。誰のものでもありませんと法は定めている。ところが「……ならば私が」とカスミ網やワナなどを仕掛けとらえて焼き鳥なんぞにされたらたまらんと、国家は数種の法をかぶせた。捕ってはなりません。当然飼うこともいけませんと明記した。

そこで道端で苦しむ野生を見て助けなくてはと思わず手を出した人……多くは子供か老人と呼ばれる人たちである……がいたらどうなるか。立派な法律違反者となったのである。

「あの先生のところへ……」と考えて走る。すると当然あの先生も犯罪者の仲間入り。

かくして心優しき子供やお年寄りは咎人となり、心ならずも受けた獣医師もその仲間入りを果す。

そのうえ……これを特に言いたい……獣医師は貧乏となる。

無主物である野生の生き物はお金を持って来ない。かわいそうだと思わず手を出した人たちには診療費、入院費の支払いの義務がない。当たり前である。もしお金を支払うとその患者はあなたのものですかと問われる。そうですとは言えない。言えば、私はれっきとした犯罪者であると自白しているようなもの。誰ひとりお金は支払わないのである。

ついでに言うと、傷つき病んで苦しんでいる生き物たちを見ても、見て見ぬふりをし、知らん顔を決め込む者たちをこの国では良しとしている。正常と言っている。なんだか気味が悪い。







BIG ISSUE003




先生、それって殺すことではないですか?



以上が、野生動物の診療所を取り巻く現状であった。

これが7〜8年前から少しずつ変わった。なぜか知らない。なにはともあれ現場を見て「限りなく犯罪に近い」と言われなくなってほっとしている。

30年前、二人の少年がやって来た。抱えたダンボールの中にはトビがいた。「飛べません。かわいそうです。治してやってください」と言った。

「家畜以外は診ませんよ」と言ってみたが、半分泣き顔になっている兄弟……二人は兄弟であった……には帰ってくれとは言えない。そこで理由探しをした。幸い(?)当のトビは検査の結果、翼の骨の一部が欠損していることがわかった。これなら十分な理由になった。

そこでレントゲン写真を見せて説明をする。すると「どうしましょう」とつぶやく。そこで技術者としていかにもまっとうな理由(安楽死)を口にした。これがまずかった。「安楽死とはなんですか」と聞くので説明するに、兄弟は少し考えて「先生、それって殺すことではないですか」ときた。

これは少し困った。獣医師は生き物を助けるためにあるもの……といった世間の常識に背を向けるわけにはいくまいと身構えて見せたが、うまい答えが登場しない。ぶつぶつ言った挙句、「まあそんなことだな」と予定外の台詞が飛び出してしまったのである。一瞬間があって「ワー」という兄弟の泣き声に、私はただただ立ちすくんだのである。

ともかく帰ってもらおうという作戦。「なんとかしよう。ともかく今日は帰りなさい」と説得する。「ナントカシマショウ」を連発。帰ってしまえばこっちのもの。「安楽死を選択しよう」と決めていたのである。

ところが敵(?)もさる者。当方の魂胆を見抜く。そして言ったセリフ。「明日も来てみます」ときた。来られたらアウト。ともかくトビの命は1日伸びることになった。

次の日、兄弟はやって来た。肉片を持ってきて「ピーコ、ほれ、おいしいよ」と言いながら餌を食べさせ帰っていった。「明日も来てみます」という言葉を残して。

それが1週間も続くと私ももう技術者としての一つの作業をあきらめていた。

トビと兄弟と獣医師の妙な関係は、その後半年間も続く。結局トビの死という現実が登場するまで。

兄弟は別れを納得し、獣医師は兄弟の気持ちに寄り添うことを学ぶ。そんな技術屋が一人くらいいてもいいのかなとつぶやきながら。





BIG ISSUE002






どうして診療所に来た?今日も探す野生の企み



それから数年たった年の5月。

我が家の玄関は大騒ぎとなっていた。次々と患者がやって来た。本来であれば喜ばしいことだが、野生動物の診療所としては逆である。

お金を払わないものたちが押し寄せると、当然のことながら貧乏になり、やがて倒産の憂き目にあう。

そのときもこれは間違いなく夜逃げを考えなくては……といった繁盛ぶりとなった。

患者は小型の渡り鳥、コムクドリである。次々とやって来た。2羽、5羽、はては7羽も一つのダンボールで運ばれて来る軍団もあった。病状は中毒病、明らかに農薬の集団中毒であった。散布された農薬に苦しむ虫たちを腹いっぱい食べた鳥たちが二次被害にかかったということだろう。ともかくにも大騒動を強いて、あげく9割が死んで終わった。

おびただしい死骸を目の当たりにして、彼らがなぜ我が家の玄関の戸をたたいたのかを考えてみることにした。豊かだ豊かだといわれる北の大地が予想以上に農薬に汚染されている現実にたどり着く。

それに対するささやかではあるが多くのお百姓さんの参加する作業がこのことをきっかけに始まったのである。




以来、私は私の診療台の上に横たわる野生の患者が「どうしてここに来たのか」という理由を聞くことにしている。しつこく、詳細に。

いつの間にか、患者たちは自然の今を伝えるためにやって来たに違いないと思うようになっている。しかも選ばれて来るような気がする。草原の草のかげや森の奥深くで彼らはときどき会議を開き、今度はこの問題について誰を送り出そうかなんて企らんでいるように思えるのである。野生からの伝言者として。

馬鹿みたいな作業が続いている。そのバカみたいな作業の中に隠された野性の企みを私は今日も探そうとしている。

(文と写真 竹田津 実)




たけたづ・みのる
1937年、大分県生まれ。岐阜大学農学部獣医学科卒業。野生動物にあこがれて63年、北海道斜里郡小清水町農業共済組合・家畜診療所に獣医師として赴任、91年退職。66年からキタキツネの生態調査をはじめ、72年より野生動物の保護、治療、リハビリに無償で取り組む。映画『キタキツネ物語』の企画・動物監督、テレビの動物番組の監督も手がける。著書には、『子ぎつねヘレンがのこしたもの』偕成社(『子ぎつねヘレン』として映画化)、写真集『えぞ王国 写真 北海道動物記』、『野生からの伝言』集英社、『タヌキのひとり』新潮社、など多数。









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ビッグイシューについて

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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊450円の雑誌を売ると半分以上の230円が彼らの収入となります。


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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第75号より)






野生動物保護の鍵を握るのは、地元民・マサイの人々




アフリカの魅力に取りつかれ、
獣医になってマサイ族の牛の巡回診療をしながら、
アフリカの野生動物保護を考える、滝田明日香さん。
しなやかでたくましく美しい、「ノーンギシュ(牛の好きな女)」と呼ばれる滝田さんの生き方を紹介しよう。





1




ひたすらアフリカに住みたかった



野生動物の楽園というイメージが残るアフリカ、ケニア。うら若き女性、滝田明日香さんは現在ケニアのマサイマラに住み、獣医としてマサイ族の家畜である牛などの巡回診療をしている。だが、なぜ、日本人女性が、獣医として、しかもアフリカのケニアまで出かけ、マサイ族の家畜の診察をしているのだろうか?

”なぜ?“ ”どうして?“と、次々に問いが浮かぶ。

滝田さんは、父親の仕事の関係で6歳の頃からシンガポール、フィリピン、アメリカなどの海外で暮らす。アメリカで動物学を専攻するが、アフリカに魅せられ在学中にケニアに留学。その後、紆余曲折を経て獣医になったという異色の経歴の持ち主だ。

「小さい時に、日本の祖父から送られてくるビデオが『わくわく動物ランド』などの動物ものばかりだったのが影響して、昔から野生動物に憧れていました。特に巨大なアフリカ野生動物に憧れていました」と言う滝田さん。アメリカの大学に在学中は、動物学者になって絶滅の危機に瀕する動物を保護する活動をしたいと考えていたが、ケニアの野生動物マネージメント学校への留学で、その考えが一変する。




現地で野生動物保護などの状況を目の当たりにして、野生動物保護がただ環境保護をするかしないかという単純な論理では解決できないことを痛感した。保護区と保護区の周りのエコシステム、そしてそこに住む地域住民たち。すべてが保護策の中で取り入れられていないとどこかで摩擦が起きてしまう。自然と野生動物が種を残していく方法は、ただ一つ。「人間との共存である」との強い想いが、彼女を捉える。

その後、その想いを実現するためにアフリカに住みたい、そんな情熱が滝田さんをひたすら突っ走らせた。大学卒業後、ザンビアの国立公園に職を見つけるもののビザ問題で断念。2000年に、獣医免許を取るために25歳でナイロビ大学獣医学部に編入する。ナイロビ大学での授業は、かつて宗主国だったイギリスのスパルタ教育システムを踏襲する厳しいもので、滝田さんはここで徹底してしごかれた。


「勉強が大変でした。ずっと英語教育で理系の勉強をしていたので、語学の問題はなかったのですが、アメリカの教育制度からイギリスの影響を受けた教育制度に慣れなければいけなかったことが難しかったですね。アメリカの大学ではトップ5%に入る優等生だったのに、ナイロビ大学では赤点ギリギリでパスするのが精一杯なんですもの」




プライベートな時間もないほど猛勉強の末、卒業、05年に念願の獣医になるが、またしても厳しい現実が目の前に立ちふさがる。国立保護区の野生動物にかかわれるのは、ケニア国籍の獣医のみだったのである。だが、サバンナで仕事をしたいという彼女の思いは変わらない。悶々とする滝田さんに、「マサイの家畜診療をやってみる気はないか」という声がかかった。





2





マサイマラ国立保護区 総面積1672㎢の広大なサバンナ



滝田さんに家畜診療の話を持ちかけたのは、マラコンサーバンシー(非営利組織/マサイマラ国立保護区管理施設)のH氏だった。

ケニア西部に位置するマサイマラ国立保護区は、世界でも有名な動物保護区。総面積1672㎢の広大なサバンナでは、ライオン、チーター、ヒョウ、ゾウ、サイ、ヌー、シマウマ、バッファロー、エランド、トピなどの豊かな動植物を育む生態系が保たれている。隣接するタンザニアのセレンゲティ国立公園とはひと続きの生態帯で、毎年7月から9月にセレンゲティからマサイマラに移動する60万頭のヌーの大移動を見るために観光客が押し寄せる。

滝田さんは、マサイマラのサバンナの魅力を語る。「私はとにかく、サバンナと大空が好きなんです。360度に続く地平線が広がるサバンナ。そして、大きな白い雲が浮かぶ真っ青な大空。そして、その広大な自然の中で、野生動物たちが優雅に生きている。強く、美しく、逞しく、そして、時には残酷に自然のルールに従って生きている。そのすべてが大好きです」




マサイマラ国立保護区の土地は、もともとマサイ族の家畜の放牧地である。「マサイマラ」とはマサイ語で「マサイのまだらな土地」という意味を持ち、広大なサバンナの中に点々とある茂みを見て彼らがつけた名前だ。

マサイ族はこの地で、牛、ヤギ、羊などの家畜とともに、野生動物が生息するサバンナで共存しながら暮らしてきた。現在でも保護区周辺には7000人以上のマサイの人たちが住む。一家族平均100〜500頭の家畜を飼い、彼らが飼う牛の総数(東アフリカ・ゼブー牛)は2万頭以上にもなる。

マサイの人たちは、ナイロビなどで見られる急激に押し寄せる現代社会の変化などにはあまり影響されず、「牛は神様がマサイに授けた貴重な動物」という伝統的な暮らしに誇りを持って暮らしている。牛はマサイの財産であり生活の糧だ。

家畜により多くの牧草を食べさせようとするので、彼らの広大な土地はフェンスで囲まれず、野生動物はサバンナを自由に行き来できる。「そう、このマサイの人たちがいなければ、サバンナと野生動物たちは生きのびてこられなかったのです」と滝田さんは強調する。




後編へ続く


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前編<100万円で家を建てる!小笠原昌憲さんに聞くセルフビルド(1/2)>を読む

P1617s3

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(2007年7月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第76号より)


小笠原昌憲さんに聞く伝統的な在来工法のセルフビルド



やんなきゃ損。100万円で家は建てられる。
自分でやったという達成感が宝。

小笠原昌憲さんは、2間×3間(6坪)の家なら、1人の手でおよそ1ヶ月、100万円ほどの予算で建てられると語る。それも、日本の伝統的な在来工法で。小笠原流セルフビルドの極意とは?


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前編「”水“赤字国、日本。沖大幹さんが語る、バーチャルウォーター(間接水)から見える世界(1/2)」を読む




”水“赤字の日本。バーチャルウォーター年間640億トン



ここまでくると勘のいい人は気づいたかもしれない。なぜ日本では、水があり余っているように見えてしまうのか? そのカラクリが——。
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(2007年6月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第73号より)




バーチャルウォーター(間接水)から見える世界



バーチャルウォーター(間接水)という視点から、日本と世界の水問題を読み解く”水文学“の専門家、沖大幹さん(東京大学生産技術研究所)。
水問題が食料問題と深くかかわっているカラクリが見えてくる。





沖大幹さん

(沖大幹さん)





水が”あり余っている“ように見えるカラクリ



蛇口をひねれば水はいくらも出るし、公園に行けば子供たちの遊び場に大きな噴水があったりする。水しぶきが空を舞い、天気のよい日には虹がかかったりして。それはなんと気持ちのいい午後だろう。浜辺に立てば、見わたすかぎりの海。宇宙から眺めた地球の写真は、どうしてこの星が青い惑星と呼ばれるのかを私たちに思い出させてくれる。

水に包まれたこの世界。それゆえ、水はまるであり余っているかのように思えてくるのだ。

だけどちょっと待って。例えばそこで牛丼を食べているあなた。口の中にほおばったそのお肉、唇の横についているお米の粒なんか、いったいどれぐらいの水を使って作られたものか知ってる? 水不足なんてことが言われているけれど、どうして日本で生活している私たちにその実感が湧かないのだろう? 




水文学の専門家、沖大幹さんは話す。「だから水のことを勉強していくことで”水がなぜあり余っているように見えるのか“がわかってくるんですね」。確かに水は”あり余っている“ように見える。けれど、実はそこにカラクリがあるのだ。

「海外から食料を輸入することによって、日本はその分だけ水を使わないで済んでいるんです。その輸入したものを、もし日本で作ったとしたら、一体その水がどれぐらい必要になるんだろう?というのを推定したのがバーチャルウォーターになるわけです」




バーチャルウォーター。日本語で「仮想水」、水を間接的に輸入しているという意味で「間接水」と訳すこともある。

元々これは飲み水を得ることの難しい乾燥した中東地域で、どうして水をめぐって大きな争いが起きないのかを説明するため生まれた考え方。




……え? どうして争いが起きないのかって?

答えは簡単。つまり、中東はみんながほしがる石油を輸出し、その分で食糧(間接水)を輸入すればいいわけだ。でもこう書くと、「どうして飲み水でなくて食料なの?」と不思議に思う人もいるにちがいない。




水不足の本質は「飢餓」の恐れ



これは意外と知られていない事実だけれど、海の塩水を、飲んだり農業に使ったりできる淡水の状態にするのはとても大変なことで、相当のエネルギーが必要になる。そして淡水が世界の水のわずか2・5%にしかすぎない事実に加え、そのうちの3分の2以上が氷河、永久凍土層などのため、人間には利用できない。

そして、私たちが現在使っている水のうち、3分の2以上が農作物と家畜を育てるために利用されている。工業が約21%を、生活用水が約10%の割合で占める。逆にいえば、ほとんどの水は”食物を得るために使われている“と言っていい。それならば、飲み水を輸入するよりも、莫大な水が必要とされる食料をそのまま輸入してしまったほうがより効率的というわけだ。




「何回でも言います。飲み水だけだったらちょっとでいいんですから、争わなくたっていいんです。だけど農業用の水というのは大々的にやらないと確保できない。もし世界に水が足りないって聞いたら”ああ、飲み水がなくて困っているのか。確かにペットボトルの水は高いからな“と思っちゃう人が多いでしょう? そうではなくて、やはり食料と水というのが”裏腹の関係“だっていうことをわかってもらうために、バーチャルウォーターという考え方が有効なんです」




 ついつい「のどが渇く」というイメージで語られがちな水不足の問題。しかしその本質は「飢餓」の恐れなのだと沖さんは語る。

「水問題を考えるときに大事なのは、年々の水の変動が大きいということ。平均的には水が足りているようでも、多い年と、少ない年がある。その少ない年に問題が表面化するわけですね。途上国は旱魃になって食糧が十分につくれない、外国から買うお金もない。そういう国はやはり飢饉になるので、しょうがないから国際援助に頼って食糧がくる。それはまさに水が足りないところに食糧がくるわけですよ。貧しいから水を得られない、水を得られないから貧しい。その悪循環をどこかで断ち切って、なんとか水を確保し、経済発展への逆回転にしなければいけない」




後編に続く


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