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将来の夢は子どもも気軽に立ち寄れる、たこ焼き屋を兼ねた喫茶店の開業



おしゃれなカフェや雑貨屋が立ち並び、歩くだけでも楽しい街、神戸。ビッグイシューの販売を始めて半年になる武蔵さん(仮名・53歳)が立つのは、学生でにぎわう阪急岡本駅。

雨の日以外は、朝10時から夕方6時まで立ち続け、1日の売り上げ平均は20冊。マイペースで笑顔、気持ちが暗くなったら道行く子どもの顔を見て元気をもらう、それが武蔵さんの販売スタイルだ。




「お客さんは老若男女ですが、常連さんには上品な年配の女性が多いですね。高校生や大学生の女の子にはたまにいじられます(笑)。この前も後ろで束ねている髪の毛を引っ張られて、『しっぽ』ってからかわれてね〜」と、照れくさそうに話す武蔵さん。出身は九州の別府で、海と山に囲まれた自然の中で育った。小さい頃は母親の後ろに隠れるような、内弁慶で甘えん坊な子どもだった。

「両親と父方のおばあちゃん、兄姉4人に末っ子の僕で8人家族。兄姉は年が離れていて、同級生もまわりにいなかったから、よく山の中で一人で遊んでました。それから、“ふくちゃん”という名前のフクロウを飼ってたね。法律的には飼っちゃだめらしいんだけど、猟師さんが捕まえたのをもらって。今でもフクロウは、やっぱりかわいい」とほほ笑む武蔵さんだが、当時、思ってもみないことに見舞われた。




それは、中3の時に医師から結核と診断され、突然やってきた3年間もの入院生活。しかも、高3で転院のため大阪へ出てから、何と結核というのは誤診で気管支拡張症だとわかり、すぐに手術をしたが、肺の3分の1を失うことになった。

「退院後は学校に行こうと思ったんです。でも自信がなくて、しばらくは何もしないまま。それがある日、新聞で伊丹空港のガードマンの仕事を見つけて、3年間働きました」

それ以降30年間、主に警備業に携わることになった。今でも警備の仕事には自信があるが、なかなかきつい仕事だという。実際、空港の管制塔の警備を始めた時は、2日目で足の裏の皮が全部めくれてしまったほど。最終的には建物の解体屋の手伝いの職を得たが、その頃には左目の先天性白内障が進み、自分の指の数さえ見えないぐらいになってしまっていた。何かをつかむにも手と物との距離感がつかめず、ケガすることも度々。結局、それが原因で仕事を辞めざるをえなくなり、寮も出て行くはめに。




「最初は寝場所がわからず、大阪駅の辺りをうろついてた。すでに路上生活している人たちの中に入っていく勇気がないから、ホテルのトイレの中で寝たりして。でも、ああいう所ってタイマーが設置してあって、長時間入っていると警報が鳴ってガードマンが来るんです。それで追い出されては違う建物のトイレを探し、20〜30分ごとに寝るという生活。でも身体がもたなくて、最後は、梅田の東通り商店街にあるビルの一角で寝てました」

そんなある朝のこと。何気なしにベンチの上に置いてあった新聞を広げてみると、出てきたのはビッグイシューの「路上脱出ガイド」。ビッグイシューのことは以前テレビで見て知っていたこともあり、事務所の扉をたたいてみた。

「最初は自信がなかったけど、実際にやってみたらおもしろい。お客さんとの会話が特に楽しいね。初めはホームレスという自分をアピールして買ってもらおうとしてたけど、今は『ホームレスという自分を売っているんじゃない、ビッグイシューという雑誌を売っているんだ』と思ってる」




そうして、武蔵さんはこのビッグイシューの雑誌が大好きに。


「特集がおもしろいね。一番心に残っているのは、139号『耳すます』の、目の見えない三宮さんの記事。『生きてても大丈夫なんだ』という言葉には、心の涙がぎょうさん出てきた。この言葉は裏を返せば、『死んでもいいという自分の存在』があったということだから……」




そんな武蔵さんに、うれしい出来事が訪れる。この記事の感想を何気なく一人のお客さんに話したところ、何とその女性が武蔵さんのことを新聞に投稿してくれたのだ。武蔵さんは今もそのうれしさを胸に、新聞の切り抜きをいつもカバンに入れて大切に持ち歩いている。

「一度しかない人生、楽しまなくっちゃ」と言う武蔵さん、近々白内障の治療をする予定だ。将来の夢は、子どもが気軽に立ち寄れるたこ焼き屋を兼ねた喫茶店。「お酒が好きだから、夜はお酒も飲めるお店にしたいね。店先にはビッグイシューの販売者が雨の日でも立てるスペースもつくりたい」

実現すれば、武蔵さんのお店には、きっとたくさんの笑顔があふれることだろう。

(馬嶋慶子)





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阪急岡本駅南側付近で


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(2006年12月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第63号より)






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試練の連続を経て、ようやくたどり着いた幸せ、でも狭くても自分の部屋がほしい



渋谷の東急プラザ前にあるロータリーで、プロペラのついた帽子をかぶった男性を見かけたら、その人が下谷芳男さん(59歳)だ。多彩なファッションの若者が行き交う渋谷でも一際目につく帽子を指さし、くすくす笑う女子高生たちがいる。学校の行き帰りに必ずぽかーんと見上げていく小学生の女の子がいる。




「この帽子は高田馬場のリサイクルセンターで買ったの。たったの10円。洗うたびに乾燥機にかけていたら、5回目に片方のプロペラが折れちゃった」

以来、ちょっとバランスの悪いプロペラを頭上で回しながら奮闘する下谷さんには常連客が多く、1日の売り上げは平均40冊。応援してくれるお客さんに親しみを込めて、いつもたこ焼きをくれる女性には「たこ焼き夫人」、おむすびを三つくれる女性には「のり巻き夫人」と、下谷さんはこっそり名前をつけている。




ユーモアのセンスに富んだ下谷さんだが、その半生は波乱に満ちていて、生まれ故郷の青森ではこれまでに二度、生死の境をさまよった。一度目は小学校に入学する日。風邪をこじらせて大量に血を吐き、子供ながらに魂が抜けていきそうになるのを感じたという。

二度目は中学を卒業後、一級板金技能士の資格を持つ義兄に就いて、ブリキの屋根葺きをしていた19歳の年の暮れ。屋根から滑り落ち、29日間意識不明になった。頭から落ちなかったのが不幸中の幸いだったが、その事故で右目の視力を失い、傷めた足の具合は今もすぐれない。

「あれが紆余曲折の始まりよ。退院してからも病院通いばかりでやる気が出ないから、水道屋で穴掘りしたり、墓石屋で石磨きしたりと職を転々とした。29歳の年に東京の瓦屋に就職が決まって上京したけど、雑用ばかりさせられてすぐに辞めた。それからはキャバレーのボーイもやったし、金属プレスの工場で機械に挟まれて、左手の指を2本失ったりもした。注意散漫なんだよねえ」




やがて住む場所を失った下谷さんは、スポーツ新聞の求人欄で建築の仕事を探しては飯場(作業員宿舎)に入り、仕事がないときはドヤに泊まるようになった。

「ところが、それまで身体を酷使してきたせいであちこちにガタがきて、力仕事を1日すると2、3日働けなくなった。それで仕方なくヤマ(寄せ場)に行って日雇いの仕事をもらったり、古本を拾い集めたりして、その日その日を凌いだ」




そんな今年4月の下旬、神田川沿いのベンチに腰掛けて鉄道工事をぼおっと眺めていた下谷さんに、ビッグイシューのスタッフ、池田さんが声をかけてきた。

「路上で売る雑誌なんか売れるわけがないと思って断ったら、翌日にはもう一人のスタッフを連れて説得にきた。それで根負けして半信半疑のまま始めたわけ」

いざ立ってみると真夏の路面は想像以上に暑く、百円ショップで買った温度計が40度をさして倒れそうになったこともあった。それでも朝3時頃に起きてヤマへ行き、40もある袋詰めのセメントを担いで3階まで何往復もさせられたことを思い出せば、何とか乗り切れた。

「日雇いの仕事と何よりも違うのは、一から十まで指示されてやるんじゃなくて、自分の好きなやり方でできること。俺の販売場所はただでさえ騒々しいから、大声はあげないの。展示している雑誌の前で佇んでいる人がいたら、声をかけてくれるのを忍耐強く待つ。これは、古本屋のおやじを見て思いついたやり方」




もちろん、ただ立っているだけではない。サラリーマンの昼休みに間に合うよう早めにお昼を済ませたら、午後8時半まで立ち続ける。買ってくれたお客さんが月刊誌と間違えないように、毎月2回の発売日を教える。お勧めのバックナンバーを目立つところに置いておくなど、入念な仕掛けあっての古本屋商法なのだ。また、下谷さんは倹約家でもある。

「安い店をメモした地図をいつも持ち歩いているし、1日の楽しみといったら、仕事の後のワンカップくらい。そうはいっても食費を削るにも限度があるし、仕入れ場所までの交通費だって馬鹿にならない。これで貯金できたら魔法使いよ」




それでも試練の連続だった半生を振り返れば、今の生活はとても幸せだという。

「1日3回、飯が食えるだけでありがたいよ。でもかなうことなら、狭くてもいいから自分の部屋を借りて、そこから販売場所に通ってみたいね」

数え切れないほどの街を渡り歩いてきた下谷さんにとっては今のところ、渋谷の喧噪こそが心休まる安住の地なのかもしれない。

(香月真理子)

Photo:高松英昭


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(2009年9月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第126号より)




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ボールを追いかけているうちに仲間たちとの輪ができて、気持ちも前向きになってきた



「この左耳のピアス? 若くして亡くなった恋人との思い出がつまった宝物なんだ。だから、生きている限り、ずっと外さないつもり」

そう言って人なつっこい笑顔を見せる日高進さん(53歳)は、大阪・なんば高島屋前でビッグイシューを販売し始めて約半年。目の前のビルにかかる大型ビジョンの迫力に負けないようにと、明るい色の服を着て奮闘中だ。




そんな日高さんが今、販売の仕事のほかに全力で取り組んでいることがある。それは、スタッフに声をかけられて始めたサッカー。この9月、イタリア・ミラノで開催される第7回ホームレス・ワールドカップに、日本代表「野武士ジャパン」の一員として出場する。

「疲れは思いのほかたまってないよ。好きなことをして楽しんでいるからかな。サッカーを通じて何か得られるものがあればいいなと思ってチームに入れてもらったんだけど、すでにたくさんの収穫があってね。一番大きな収穫は、明るい気持ちになれたこと。他の販売者と一緒になってボールを追いかけているうちに、いつの間にか何にも代えがたい人の輪ができた。仲間たちとあれこれ話している時間は、まるで心の洗濯だね」




これまでは自分のことで精一杯だったが、緊張している新人販売者に積極的に声をかけることが増えるなど、徐々に他の人に目を向けられる余裕も出てきたという。また、1日に2箱吸っていたというタバコも1箱に減った。

「これまでは売り上げのよくない日が続くとただ落ち込むだけだったけれど、サッカーをしていると束の間でも悩みを忘れられるし前向きにものを考えられる。本当にいい汗をかいてるよ」

目の前に迫ったワールドカップへの抱負を尋ねると、「1勝できたらうれしいなぁ。たとえ負けたとしても、1点を取って帰ってくるのが目標だね」と目を輝かせた。




日高さんは5人きょうだいの末っ子で、中学3年生までを埼玉県で過ごした。

「ちょっとやんちゃ坊主でね。15歳の時に母が亡くなって、そのショックもあって一人で当てもなく沖縄へ行っちゃったんだ。胡差焼の工房でお皿や湯飲みをつくるアルバイトをしながら数カ月過ごして、そのあと東京へ出た。東京では黒服のようなことをしたり、飲み屋で働いたり。28歳の時に九州へ行って、そこで結婚して10年ぐらい過ごしたかな」

その後離婚を経て、一人で北海道へ。山の斜面に落石防護のための網を整備する仕事を5年ほど続けていたが、腰を痛めてしまった。新たな仕事を求めて向かった名古屋では、主に土木工事の仕事をしていたが、景気の悪化とともに仕事が減少してしまった。

「埼玉から沖縄に行って、東京に北海道に名古屋、そして大阪に来たのが去年の秋。大阪なら何か仕事があるだろうと期待していたんだけど、まったくなかった。そんな時にビッグイシューのことを知り、販売者に加えてもらった。スタッフの皆さんは僕と同じ目線で何ごとも一緒に考えてくれて、アドバイスをくれる。それがとても温かく感じられて、心のよりどころになっているよ」





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1週間のうち6日はダンボールの上で眠るが、1日は自分へのご褒美としてドヤに泊まる。布団の温かさに触れ、「当たり前に生活すること」への執念をもち続けるのだという。

「以前、テレビの取材で『声をかけてもらえるだけで元気が出ます』と言ったら、それを見た人が100人ぐらい声をかけてくれて、ありがたかった。でも、残念ながら本を買ってくれたのはその中の8人だけ。次からはもっと本にも興味をもってもらえたらいいなぁ」

今はまだ社会復帰のための基礎訓練中だという日高さん。どんな夢や目標をもっているのだろうか。「何かを作ることに喜びを感じるので、ものづくりにかかわる仕事に携わりたい。そして一所懸命働いてお金を貯めて、晩年はどこかの国の片田舎で畑を耕し、のんびりと自給自足の生活をしてみたいね」

真剣な表情でそう話し、最後にまたくしゃくしゃの笑顔を見せてくれた。

(松岡理絵)

Photos:BI
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(2008年9月1日発売 THE BIG ISSUE JAPAN 第102号より)





ビッグイシュー始めて、人見知りもなおった。今は人と話すのが何より楽しい





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アスファルトの照り返しが厳しい渋谷の路上で、佐々木善勝さん(35歳)の頭に巻かれた、いなせなタオルが通行人の目を引く。今年5月半ばに代々木で販売を始めたが、翌月、もっと売れそうな渋谷へと移動してきた。

平日は朝8時から夜8時半頃まで宮益坂下交差点のりそな銀行裏に、土日は朝11時から夕方9時頃まで西武百貨店向かいの住友信託銀行前に立っている。ただし日曜日と月曜日は映画館で清掃のアルバイトをしているため、夕方4時前には片づけてしまう。

「古いヤクザ映画なんかを上映している映画館でさ、たまに仕事帰りのサラリーマンも来るけど、ほとんどがお年寄り。床にこぼれたお菓子とか灰皿にたまった煙草を片づけて、ごみを分別して、モップをかけ終えたころには夜の22時半を回ってる」。ファストフード店でうとうとしながら夜を明かしたら翌朝、また販売場所へ向かう。1泊1080円する漫画喫茶には月に1度泊まれればいいほうだ。

どこか温かい感じのするアクセントが気になって生まれを尋ねてみると、31歳のときに東北から上京してきたという。

「父は大工、母は俺が小学4年のときに亡くなった。双子の妹は何年か前に嫁いでいったから、実家には父ひとりだけ」

妹にお祝いを言いたくて、故郷へ帰ろうとしたこともある。ところが、「新潟まで新幹線で行ったのはいいけど、土砂崩れで先へ進めなくなった。代行バスも出てはいたけど、怖くて引き返してしまった」

それ以来、故郷からは足が遠のいている。故郷には仕事もなかった。高校を卒業して自衛隊に4年間在籍した後、地元の建設会社に就職したが、不況のあおりを受けて失業した。31歳で上京してからは飯場を渡り歩いたが「仕事もないし、そんなに人はいらない」と、ここでもまた切られ、働く場所を失った。

そんなとき、渋谷の路上仲間から「一緒にやろう」と勧められたのがビッグイシューだった。しかし、「説明を聞いても仕組みがさっぱり理解できなくて、断ったんだよね」。そして今年の5月半ば、新宿中央公園の炊き出しで何やらチラシを配っている「きれいな女性」が目に入った。それがビッグイシューのスタッフ池田さんだった。今度は俄然やる気になった。

翌日、さっそく事務所を訪ねると肝心の池田さんは外出中だった。当ては外れたものの、販売の登録手続きを済ませ、用意した20冊を初日から売り切った。それでも佐々木さんは、「これからもずっとこの調子で続けていけるのか不安で、その晩は眠れなかった」という。

実際に続けてみると、不安は徐々に解消されていった。「ビッグイシューを始めるまではひどかった人見知りもなおったし、この人を本当に信じていいのかなと疑うこともなくなった。今は、通勤途中の朝と晩に必ず挨拶を返してくれるお客さんもいて、人と話すことが何より楽しい」そうだ。

1日の仕事を終えた後、スーパーで買ったサバのみそ煮の缶詰をアテに缶ビールを飲み干す。まさに至福のひとときだ。と同時に、「こんなとき、何でも話せる彼女がいたらなあ」と、急に寂しさが込み上げてくることもある。飯場を渡り歩いていたころは、新宿の店で知り合った年下の女性とつき合っていた。

「酒を飲んで電話すると『酔っ払って電話してんじゃねえ、この野郎』と怒鳴る男っぽい性格の子だった。そんなとき俺はビクッとなって、『ごめんなさい』って平謝りしてた。渋谷でデートもした。ある日突然、店を辞めて連絡が取れなくなってしまったけど、渋谷にはいい思い出がたくさん詰まっているんだよね」

朝、いつものように売場近くでフリーペーパーを配る若者たちに挨拶をしていたら、彼女のことが不意に頭をよぎり、目が潤んでしまったことがある。気持ちを落ち着かせようとビッグイシューの事務所に電話をかけ、スタッフに話を聞いてもらった。感情は高ぶり、気がつくと号泣していた。だから、「今はなるべく別のことを考えるようにしている」

ビッグイシューの販売者とボランティアで結成したフットサル・チーム「野武士ジャパン」の練習も、佐々木さんにとってはいい気分転換になっている。販売を始めて間もないころ、蜂窩織炎という病気で足が腫れて2週間ほど療養した。


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「そんなときフットサル・チームのことを聞いて、リハビリになればと軽い気持ちで始めたんだけど、だんだんおもしろくなってきちゃってさ。先日の練習試合でも2得点あげたよ。夢はもちろん、来年夏にミラノで開催されるホームレス・ワールドカップに出場すること」。かつてサッカー少年だった佐々木さんの瞳が、いきいきと輝き出した。 

(香月真理子)

Photos:高松英昭
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