新型コロナウイルス感染症が、世界中の医療システムに大きな挑戦を突きつけている。刑務所のような閉鎖空間では特に感染が拡がりやすく、実際、受刑者・職員ともに感染率は高い。受刑者は入所前から疾患を抱えていることが多い(結核やHIV、C型肝炎など)ため、もともと感染症の温床なのだ。昨今、必要な治療すら受けづらくなっているというスイスの刑務所事情をレポートする(スイスのストリート誌『Surprise』掲載記事より)。
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4月初めの段階で、スイス国内の刑務所では35人の新型コロナ陽性者が確認された。うち33人が職員だった。いったん刑務所内にウイルスが持ち込まれると手に負えなくなるため、他の刑務所でもあらゆる手を尽くそうと必死になった。
受刑者たちへの規制がより厳しくなることも避けられない。面会は禁止となり、裁判や法的手続きの多くも延期されている。受刑者たちのストレスは高まりやすく、心の病を抱えている人にはなおさら厳しい状況だ。「自分の身体を傷つけたり、壁を叩いたり、自傷行為に及ぶ者も何人か目にしました」と刑務所のチャタジー医師は言う。
チューリッヒの受刑者が、刑務所のコロナ対策への不安を地元メディアに明かした。職員たちが国が定めた衛生基準を守っておらず、疾患のある受刑者と重篤化リスクが高い受刑者たちをまとめて隔離させていると。「(本来厳しい懲罰であるはずの)独房に入れてほしい」と医者に懇願する受刑者が現れるのも不思議ではない。ジュネーヴのシャン・ドロン刑務所の受刑者たちも、劣悪な環境に抗議。40人以上の受刑者たちが、屋外での散歩を終えたあと、居室に戻るのを拒み、何時間も屋外に居続けたという。
海外の事例を参考に*1、社会へのリスクが低い受刑者たちの早期釈放を求める動きもある。この提言を支持する左派政党「EAG」は、ジュネーブの刑務所の過密ぶりを指摘している。(3月末時点で、シャン・ドロン刑務所では定員398人のところ約550人の受刑者が収容されていた)。
*1 過去記事:刑務所内は感染リスクが高い:米国で受刑者の早期釈放など異例の措置の数々
高額な治療代で治療をあきらめる受刑者たち
スイス国内には受刑施設が106あり、服役者の数は6,906人(2020年1月時点)*2。刑務所内での医療のあり方、つまり「受刑者の医療費は誰が負担すべきか」が物議をかもしている。刑務所内は伝染病が拡がりやすい危険な場所であることはコロナ感染症の拡大以前からだが、その理由の一つに、病気にかかった受刑者の多くが、高額な治療費の請求を恐れて医者にかかるのを拒むという実態がある。
*2 参照:World Prison Brief – Switzerland
スイス北西部ゾロトゥルン州にある刑務所の勤務医、ビディシャ・チャタジー医師の診察を受けにきた男が訊ねる。「診察代はいくらですか?」この男は下腹部の痛みが消えないのだと言う。鼠径ヘルニアを疑った医師は、超音波検査と精密検査をすすめた。金額を伝えると、この男は検査をあきらめ、60スイスフラン(約7千円)の診察代と、変わらず続く痛みだけが残された。
チューリッヒのペシュヴィース刑務所に服役していた受刑者(61)も、治療費の支払いを理由に緊急治療を拒んだ受刑者の一人。この男は尿失禁に悩まされており、一晩で10回もトイレに駆け込まなければならず、尿パッドが手放せなかった。前立腺の手術さえ受けられればこの悩みから解放されるのだが、数万円の本人負担ができなかったため、社会保険事務所も費用補填を拒否した。この男の口座を管理しており、経済状態を把握していたにもかかわらず……。結局、受刑者は治療を受けられないまま、2年後に出所した。
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「治療費の話になると、多くの受刑者が即座に治療を拒みます」スイス矯正施設医師会の代表を務めるハンズ・ウルフは言う。高額な治療代を払う余裕がない多くの受刑者は、痛みに耐えるしかないのだろうか。
州政府負担から受刑者負担となった背景
従来、受刑者の医療費は「雑費(incidental cost)」として主に州政府が賄ってきた。だが最近になって、受刑者自身が支払いを迫られるケースが増えているのだ。(原則としては、受刑者に支払い能力がないことが確認された場合のみ、社会福祉課に治療費の補填を申請できることとされている。)
医療費負担が厳しくなった背景について、スイス矯正施設コンピテンスセンターの代表パトリック・コッティが説明する。「州政府はノーマライゼーション*3の理念に則り、一定の医療費を刑務所が負担することを提言したのです。それはあたかも受刑者の負担はゼロかのように見えました」。しかしこの提言を受け、刑罰制度に関する協定に新たな指針が設けられ、多くの刑務所が医療費の管理を厳しくしているというのだ。「最低限の医療費」しか支払わない刑務所も増えている。例えば、歯がひどく痛む者がいても、抜歯代はカバーされるが、新しい歯の分は適用対象外となるなど。
*3 障害者も健常者も同じ空間で分け隔てなく当たり前に共に暮らせる社会を目指す、社会福祉をめぐる理念。
一部の州は特に厳格な対応を取っており、刑務所で働く医師たちは「人道的な観点から困惑を感じている」と、自身も長年ジュネーブの受刑者の治療にあたってきたウルフは言う。受刑者の支払い能力にかかわらず、まずは請求書を(当局ではなく)受刑者に直接送るよう指示している州もある。 “未払い” 請求書を当局に送るまでに、医師が書類を3つも作成しなければならないケースもあるという。その多くは50〜100スイス・フラン(約5700円〜1万円)程度の支払いなのだが、一件一件、当局側が適切な支給額を判断するという、近年の行き過ぎた官僚主義も災いしているようだ。「医療費に関する当局との交渉にさらなる時間と労力を費やさなければならず、事務作業も増え、医師としての報酬に見合わなくなっています」とウルフ。
この動きを批判している組織は多い。権威あるスイス医科学アカデミー(SAMW)に加え、連邦政府が設立した拷問等防止委員会(NKVF)、国連の被拘禁者処遇最低基準規則(マンデラ・ルール)*4 などが、「受刑者の医療費は原則無料であるべき」と要求している。受刑者たちを刑務所に閉じ込めると決めたのは国なのだから、受刑者の命や健康にも責任を持つべき、受刑者が治療費で苦しむべきではないと。
*4 囚人処遇基準を示した国際連合の決議。1955年に採択され、2015年に大幅改定された。
「受刑者の医療費無料化」を望む声が広がっている背景に、受刑者たちの経済事情がある。「個人の蓄えがある受刑者なんて、まずいません」ウルフ医師は言う。「収監されている人たちは、ほぼ一文無しです」コッティも同意見だ。普通、受刑者たちは刑務作業の賃金で生活しており、1日の収入は20スイス・フラン(約2200円)ほど、月にすると400〜500スイス・フラン(約45,000円〜57,000円)。そこから収監中に発生する様々な費用(裁判費用や被害者への賠償金など)や出所時に受け取る保管分がさっぴかれ、自分で自由に使えるのは収入の半分ほどだ。
待たれる改善策:強制健康保険の適用か、受刑者向け治療費の設定か
この問題に対する解決策の一つとして、受刑者全員に「強制健康保険を適用」し、「補償対象となる治療を法的に定める」ことが考えられる。そうすれば、医療の専門家でない政府職員らが医療処置の必要性を判断するようなこともなくなるだろう。
現在、スイスの受刑者のうち、永住権を持たない者が数千人いる*5。健康保険に加入できず、救急医療しか保証されていない者たちだ。「拘留者たちを保険加入させるのは理にかなっています。難民申請者たちも対象とすべきです」刑務所の勤務医ニクラウス・ブランド医師もこの案を支持している。
*5 スイスでは被収容者に占める外国人(合法、難民、永住権のない人含め)の割合が71.4%と、他のヨーロッパ諸国の平均約15.9%を大きく上回っている。参照:Why most of Switzerland’s prisoners are not Swiss
ではなぜ、実現に向けた動きが見られないのか。スイスでは州政府が刑罰制度の決定を行うが、スイス連邦公衆衛生局がこの問題についてあいまいな態度を取り続けているのだ。コメントを求めると、「現行制度を、特に資金面でどう改善できるか精査中です」との回答のみだった。
州政府では、現行制度では必要な治療がどれくらい妨げられているかの議論がすすめられており、州司法警察代表会議も「すべての被収容者が、制約なく、無料で利用できる医療サービスを明確に定めたい」としている。
強制健康保険が導入されたとしても、受刑者がどれだけ費用を負担できるかは未解決のままだ。社会福祉課が保険料を負担するにしても、自己負担額はこれから調整しなければならないだろう。スイス医科学アカデミーは、受刑者が負担するのは例外的な場合、すなわち「十分な収入や財産がある場合のみ」にすべきと提言している。「親族に支援義務がある」とする社会事業従事者会議(SKOS)のガイドラインも指針となるだろう。
チャタジー医師はより現実的な策を提案する。「刑期中の稼ぎが一般の人たちの1/4程度であるなら、治療費の支払いも1/4にすべきです。もしくは、刑期中にもっと稼げる仕組みをつくり、これまでどおりの負担を求めていくか」。これも期待できるソリューションではあるが、受刑者であっても無料では医療を受けられないということでもある。
【オンライン編集部補足】
日本では、刑事施設における被収容者の保険衛生及び医療は「国の責務」と考えられており、すべて「国費」でまかなわれている。また、病気や重い障害で通常の刑務作業に従事できない受刑者を収容し、治療に専念させる医療刑務所も全国に4カ所ある。昨今は受刑者の高齢化が深刻で、3人に2人の受刑者が何らかの病気で治療を受けている一方、「医師の定員割れ」の問題も深刻。医療経費としては、2015年度で約59億円と、2007年度からほぼ倍増している。
By Andres Eberhard
Translated from German by Katty Siebert
Courtesy of Surprise / INSP.ngo
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