(2012年9月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第199号より)
東インド、“誰からも忘れられた戦争”の村—67年から続く抗争の果てに
東インドのジャールカンド州は、インド政府がテロ組織に指定する毛派グループの中心地だ。農民の多くは毛派の思想に共感を寄せるが、その暴力的な手法には否定的だ。
(元ナクサライト戦闘員のアジャイ)
時の流れが止まった村。勢力増す毛派のナクサライト
アジャイ(仮名)は、ピセルトリ村のはずれの木立に身を隠した。朝の雨でぬれた水田が日の光に輝き、周囲には手作りのタイルで屋根をふいた泥と石の家々が並ぶ。
緑の丘陵地帯のふもと、四角いキャベツ畑の青緑色と収穫を終えた水田の刈り株の黄土色との間をマンゴーとタマリンドの木の鮮やかな緑がふちどっている。まさに、絵に描いたような静かな田園風景だ。
しかし、アジャイは緊張を隠せない。毛派の元戦闘員である27歳の彼は、取材中も警察のスパイや毛派シンパの住民に見とがめられることを恐れて、たえず背後をうかがっていた。
ピセルトリ村があるのは、インドにおける毛沢東主義の中心地であるジャールカンド州のグムラー県。インドの毛派は「ナクサライト」とも呼ばれ、中央政府によってテロリスト集団として弾圧されている。
アジャイは、「兄は一帯を統括するナクサライトの将軍で、弟も部隊長を務めていました」と声をひそめた。この地方で話されているサドリ語だ。
「兄は殺され、弟は刑務所にいます」。子どもの頃は、警察が毎日のように家にやって来たという。
「14歳の時には、ひどく殴られてナクサライトの居場所を言うように迫られました。当時の私は教師になるのが夢でしたが、復讐を誓いナクサライトに加わったんです」
ハイテク産業で好景気にわく大都市の喧噪を遠く離れ、グムラー県の農村地帯を訪れると、まるで過去にタイムスリップしたような気がする。ここでは牛が鋤をひいて水田を耕し、電気は通じておらず、舗装した道路もほとんどない。橋は地元のナクサライトがたえず爆破するので常に工事中の状態だ。
ナクサライト過激派の起源は、1967年に西ベンガルのナクサルバーリーの茶葉プランテーションで働いていた貧しい労働者の一団が、地主に対して起こした反乱にさかのぼる。
70年代になると各地で学校を設立し、武力でもって農地解放を進めた。80年代に運動はいったん下火になったものの、06年にネパールで革命勢力により王制が廃止されると息を吹き返し、10年にはインド国内の少なくとも4万平方キロに及ぶ地域を制圧した。
80年以降、武力闘争により1万人超の死者が出たとみられるが、その半数以上はこの10年間のものだ。
(グムラー県、ダフパニ村。NGOがナクサライトと交渉し、集落間を結ぶ道路工事が進められている。Photos:Simon Murphy)
村の学校が戦場に。1年間に34の学校が爆破
深い森はナクサライトにとって格好の隠れ家だが、同時にインドの少数部族が代々暮らしてきた場所でもある。彼らは過去数十年にわたって、鉱山会社や地主、役所によって立ち退きを強制され、移住させられてきた。土地や生計の手段を失った者が増えるほど、毛派への支持が高まっていった。
人々がナクサライトに加わる動機はさまざまだとアジャイは語る。
「地主や鉱山会社に奪われた土地を取り返したいと考える者もいれば、職にあぶれ、毛派が与えてくれる賃金と仕事が目当ての者もいます。それに、ナクサライトは村にやって来ると、略奪などの犯罪行為を一掃してくれました」
だが、民間シンクタンクの平和紛争研究所(IPCS)によれば、ナクサライトは数百から数千人の子どもたちを強制的に連れ去り、虐待している。
逆に、政府が支援する反毛派組織や特殊警察の隊員たちも、学校を占拠し戦いの拠点にしている。そのため学校は、警察への報復として攻撃対象となることも多い。09年にはジャールカンド州内で34の学校が爆破されている。
8歳のカムラ・シンは、何年もの間、誰もが怖くて学校に通えなかったと話す。
「ナクサライトが怖くて行けない時もあったし、警察が学校を使っていたこともありました。恐怖のあまり、外から村にやって来る人もほとんどいなかったんです」
ある支援団体の職員は話す。
「警察は決して助けには来てくれません。すっかり怖じ気づいているんですよ。これは誰からも忘れられた戦争です。中央政府が助けにくることも、何か問題はないかと尋ねてくることもないのです」
(Lucy Adams/The Herald, ©www.street-papers.org)