(2008年1月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 86号より)
今、「空(くう)」の思想:すべての世界を否定、すべてのものの価値を認める
インド仏教が生んだ「空の思想」は、この世にあるものすべては存在しない、と考える。
神も世界も私すらも実在しないという「空」とは、いったい何か? そして空の思想は現代の私たちに何を語りかけるのか。『空の思想史』の著者である立川武蔵さんに聞いた。
「空」、まったき無は今も謎の場所
やや唐突だが、まずお酒の入った徳利を想像してみてほしい。お酒を飲みほすと、徳利は空(から)になる。その場合の「空っぽ」というのは、普通は徳利の中のお酒がなくなった状態を指している。当然、徳利はそこに存在する。
だが、仏教の「空」では、お酒も徳利も存在しない、徳利を見ている自分さえ存在しない状態のことをいう。「無」や「ゼロ」とも違う、何ものも存在しない概念なのだ。
「例えば、『犬がいない』という場合、それは犬小屋にいないとか、この部屋にいないとか、犬がどこにいないかが問題なわけです。でも、空というのは、犬という概念そのものがない考え方。あらゆるものは存在しているように見えるが、実は神も世界も肉体も言語すらも実在していない、というのが『空』の思想なんです」と立川さん。
何ものも存在しない「まったき無」ともいえるその状態は、あらゆるモノに囲まれて日常生活を送る私たちにとってはとても想像しがたい。仏教は、その「まったき無」の世界に個人の精神的救いや悟りがある、と考えたのだろうか? 立川さんは、こうつけ加える。
「実は、そのまったき無の世界は、『空』の思想を確立した思想家もその後継者たちも、そこに何があるのかを明確に言い残しておらず、今でも謎の場所なんです。しかし、その謎であることよりも重要なのは、その何もない地点に行くためにすべてを否定していく作業と、その地点に到達してから聖化され、新しく世界をとらえ直して甦ってくる、その円環的な自己のプロセスそのものが『空』だということなんです」
「もっとわかりやすくいえば、スポーツをしていて日々努力をしていると、なぜだかわからないが、ある日、急に上達した瞬間があって、それまでとはまったく違う世界が開けることがある。『空』は、そうした動的な行為の中に世界をとらえ直すプロセスのことなんです。つまり、世界とは私たちの行為の連続の中にあるのであって、恒久不変の実態を持つものは何もないといっているんです」
社会を意識したキリスト教と、滅びの歴史をたどった仏教
仏教に限らず、あらゆる世界宗教は個々の人間、つまり自己を問題にし、自己否定を通じて精神的な救済を追求してきた。「空」の思想はその流れの中から生まれ、仏教における自己否定の基礎理論として機能してきた、と立川さんは説明する。
「現代の私たちからすれば、なぜ自己否定しなければならないのかと不思議に思えるかもしれませんが、紀元前の昔、農業技術を身につけ、都市文明を築いて生活が安定してきた時、人びとの中に自分の魂の救済を求める機運が生まれます。
そこに仏陀やイエスが登場し、宗教が初めて個というものを真正面から見据え、個々の人間に自己否定を求めたんです。仏陀は病を得て老いて死んでいかなければならない個々の人間の精神を問題にしました。その後、そのなかでも『空』の思想では否定の程度が最も徹底され、その後、あらゆる仏教の中心的思想となっていきました」
自己否定を強調した「空」の世界観はまさに非存在と呼べるものだが、その否定の徹底さはキリスト教と比べると、よりわかりやすい。キリスト教は、絶対の神を認める。そして、神は地上に神の国を建てようとするが、人間はその意思を実現するための道具であり、世界や自然は人間の道具あるいは素材だと考えてきた。つまり、キリスト教世界は、まずこの世はあるというところからスタートする。
だが、仏教の「空」思想は神の存在を認めず、世界という器も存在しない、個人の悟りさえも存在しないと主張した。その世界観の違いは、世界が近代化し、市民社会が生まれる中ではっきりとした違いとしてあらわれた。
<後編「立川武蔵さん「『空』の否定体験を経て、人は他者を慈しむようになる」」に続く>