現代でも、世界各地で人身売買が絶えることなく、今も横行している。人身売買された経験を持つイギリス在住のアンドレイさん(36歳)にインタビューした。






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ウクライナからリトアニアへ移住



アンドレイさんは1977年、ウクライナの首都キエフの近くの小さな町、カルチャニゴフで生まれた。アンドレイさんが4歳の時に、父親のDV(ドメスティック・バイオレンス)が原因で、両親が離婚。だが7歳の時に、母と新しい父が結ばれ、仕事でリトアニアに移住することになった。

父が船乗り、母が魚工場専属の化学検査員として働き、一人っ子の彼を大切に育ててくれたと言う。風の噂で、実の父は再婚し、アンドレイさんと血を分けた妹がいるらしいと聞いたそうだが、現在まで実父や妹を探して会いに行こうと思ったことは一度もないそうだ。




リトアニアの歴史



リトアニアの歴史は複雑極まりない。

13世紀には数々の闘いを経て、リトアニア大公国を成立した。16世紀半ばには、ポーランド王国と合同し、ポーランド・リトアニア連合王国として、その黄金時代を築き上げた。しかし、 周辺国との情勢が悪化するにつれ、3度にわたり国土が隣国に分割されてしまい、18世紀末には国家は消滅、ついにリトアニアは当時勢力を拡大していたロシア帝国の領土となってしまった。

第一次世界大戦後の1918年には、リトアニア共和国として独立宣言したものの、1940年にソビエト連邦共和国(ソ連)による侵略を受ける。さらに、1941年にはナチス・ドイツからも侵略され、リトアニアに居住していたユダヤ人の9割(約20万人)が虐殺された。その後、ソ連による支配が続いたが、 1990年に独立を回復し、再びリトアニア共和国に。ソ連の中での最初の独立国となり、リトアニアは50年に及ぶ支配から自由を獲得、2004年には、欧州連合 (EU) に加盟した。





冷戦時代における学校生活を経て船員に



アンドレイさんの母は熱心な共産党員だったため、アンドレイさんを含む家族は皆、共産主義者だったという。当時のリトアニアでは、学校に通う子どもたちは、日々の行動についてレポートを作成し、毎朝学校に提出しなければならなかった。

アンドレイさんの幼少期は、いわゆる「冷戦」の時代であったので、学校ではアメリカとの戦争に備えて、学校の授業の一環として、軍事訓練が組み込まれていた。この軍事訓練では、カラシニコフ銃、原子力爆弾、生物兵器など、構造、取り扱い、爆撃・攻撃を受けた時の緊急処置法などを男女共に詳しく学ばされた。 さらに13歳からは、学童兵役があり、兵役終了時には知識・実演ともに、厳しい試験に合格しなければならなかった。

こうしてソ連支配下の冷戦時代に生まれ育ったすべてのリトアニアの子どもたちは、義務教育を終える年齢になると、戦争が起こっても、相手の攻撃に併せた戦闘方法を身につけており、そのまま即戦で役立つレベルの訓練が、幼少時代から行なわれていたそうだ。




タケトモコ「子どもの頃、戦争が怖いと思ったことはなかったですか?」

アンドレイさん
「当時のソ連の共産主義下では、ひとつの確固とした理念のもとに、すべての人が繋がっていると確信していたんだ。ぼくの周囲にいた子どもから大人まで、誰も戦争を恐れているものはいなかったよ。」





タケトモコ「1980年〜90年代の日本は景気が最高潮で、バブル景気と呼ばれており、アメリカを見習い、アメリカに追いつけ追い越せという風潮が社会に浸透していました。リトアニアの教育では、ソ連とアメリカの関係上、アメリカへの憎悪が植え付けられたと思うのですが、アンドレイさんはアメリカについて、当時どう思っていたのですか?」

アンドレイさん
「冷戦時代では、例えばアメリカからジーンズが輸入されてきても、レーベルはすべてはがされていた。アメリカの雑誌やDVDなどを所持していると、アメリカのプロパガンダに加担しているとされ、刑務所に入れられてしまうという時代だったからね。リトアニアが独立してからは、一般的には冷戦時の特殊な感情は少し残っているものの、アメリカへの嫌悪はほとんどなかった。ただロシアに対しては、今も複雑な感情が残っているよ。なぜならロシアから独立してからは、アメリカも、ヨーロッパも、ロシアでさえも、リトアニアとの国境を閉じてしまい、リトアニア人はどこへも行けない状態が続いたんだ。独立後に各国から国境が閉ざされたことにより、リトアニアでかつて栄えた港には船がほとんど立ち寄らなくなり、政府は船員の仕事を容赦なく切り捨ててしまい、失業者が急増したよ。でもぼくはアメリカに行ってみたいという気持ちが人一倍強かったので、15歳のとき、海外渡航できる可能性のある仕事ということで、船員になる決意をしたんだよ。」





リトアニアが独立した後も、旅行者として、アメリカへ渡航することもほぼ不可能に近い時代だった。それゆえアンドレイさんは、ますますアメリカへの思いを馳せていった。

3年間におよぶ厳しい特別訓練を受けた後、船員として働き始めたのは18歳のときだった。その後、料理が好きだったアンドレイさんはシェフの資格を取り、国際的な運輸会社で船上シェフとして働いた。仕事は厳しかったが、アメリカに行ってみたいという一心で、真面目に仕事に打ち込んでいたという。こうしてアンドレイさんは、アメリカや世界の国々を自由に旅することが可能な「船員パスポート」を手にいれたのだった。




part2に続く