あきらめで社会は弱体化、市民の絶望は深い
国民の4割が何らかのかたちで麻薬にかかわるといわれるメキシコ。闇社会の恐怖を命がけで伝えようと奮闘するジャーナリスト、ハビエル・バルデス=カルデナスに、アルゼンチンのストリート誌が話を聞いた。
表現工夫し書き続ける。でも、この作業は命がけ
メキシコ北西部シナロア州の州都クリアカンは、世界でも最も凄惨な麻薬取引の拠点として知られる。カルデロン大統領が進めるマフィア撲滅戦争が激化するなか、2011年には麻薬取引にからむ抗争で死亡した人の数が、前年度比で84パーセント増加したとされている。
そんな状況にあって、ハビエル・バルデス=カルデナスは人間の尊厳に光をあてた勇気ある記事が評価され、昨年、優れたジャーナリストに授与される米国のマリア・ムーア・カボット賞とニューヨーク・ジャーナリスト保護委員会賞を受賞した。
バルデス=カルデナスは02年に『リオドセ』という週刊新聞を仲間と共同で創刊した。彼の署名入りコラム「マライエルバ」はジャーナリズムの一つのジャンルとして確立され、シンプルで力強い文体は、クリアカンの町や住民、彼らの生活や恐怖のありさまを、臆することなく率直に描き出す。
昨年、メキシコでは毎日27人が麻薬マフィアと警察の衝突のはざまで命を落とした。バルデス=カルデナスが関係者や犠牲者のライフ・ストーリーを綴ることには、どのような意義があるのだろう? この問いに彼はこう答える。
「警官対悪党あるいは軍隊対凶悪犯といった、善対悪の構図ではなく、麻薬ビジネスの現実を理解するための手がかりになります。たとえば〝恐怖で緊張する括約筋〟や、〝こわばる頬骨〟など、優れた表現には物事をよく伝える力がある。私は麻薬密売の現状を足元に近いところから描きたいと思っています。舗道や路地や小さな空き地、民家や商店街など、日常にあふれる恐怖や悲しみ、憎悪や愛しさを」
「記事には関係者を特定するような具体的な事実は書かないことにしています。彼らが自分のことを書かれたと思うことは、私たちにとってのリスクとなるからです。ジャーナリズムの素材と物語性の組み合わせによって、書き続けることができます。この仕事は命がけ。ここでは、文字を支配するのは麻薬マフィアのボスだと言われています。記者が執筆する際、彼の脳裏をよぎるのは編集者や読者ではなく、ボスのことだからです」
バルデス=カルデナス自身は恐怖を感じているのだろうか。
「恐怖は私のもっとも身近な友人です。同僚のアレハンドロ・アルマサンは『クリアカンでは、生きていることが危ない』と言うんです。私が記者であること、そしてもっている知識を記事にすることが私にとってのリスクです。ここに暮らすすべての人にとっての状況と同じように」
私はよく泣き、歩くことも音楽も好き。そうやって生きのびている
地元新聞での記事だけでなく、バルデス=カルデナスの本は、米国などでウォルマートのような大手スーパーでも売られており、麻薬密売という題材はある種のはやりのように受け取られることもある。
「重要なのは伝えること。私のジャーナリストとしての責務です。無能を決め込み、検閲ばかり気にする沈黙の記者になることも可能ですが、それは私にとっては死も同然です」
クリアカン市民の絶望は深い。彼らはもはや落胆することも憤ることもなく、身内を殺された時でさえ、公正な裁きを求めたり記者に訴えたりすることはなくなったという。記事に公式なコメントを求めると、それがたとえ麻薬に関連しない内容でも、人は匿名でしか話をしない。
「メキシコの著名な作家であるカルロス・モンシバイスは、暴力とは段階的に慣らされていくものであり、子どもや若者は、撃たれて死ぬことも自然な死に方だと思っていると言っています。私たちの暮らす社会はあきらめによって弱体化し、それが国全体を一層荒廃させていくのです」
バルデス=カルデナス自身、5年ほど前、クリアカンを離れ移住することを検討したという。
「それでも私がここに残るのは、自分の街とこの仕事が好きだからです。弾丸はすぐ近くを通っていきますが、この仕事は今こそやるべきだと思っています」
彼には、17歳の娘タニアと、12歳の息子フランシスコ・ハビエルがいる。
「子どもたちには戦争に備えるような調子で話しますね。銃撃戦に遭遇したらどう行動すべきか、家の前で発砲されたらどうするか、姿勢を低くして声を出さず、家の奥の部屋に向かって這っていくこと、窓の外に顔を出さない、すぐに私か妻に電話して知らせること、などを教えています。内心とてもつらいですが、子どもたちには真実を語るべきだと思っています。なるべく、彼らの心が絶望感にさいなまれないように工夫しています」
そして、どんなに厳しい状況でも、子どもには寛容さと人への尊敬の気持ちを教えたいと話す。
「アルゼンチン出身の人気グループ『レ・リュティエ』のコメディ・ミュージカルを聴いて、何でも笑い飛ばすようにしています。子どもたちはティム・バートン監督の暗く秀逸な作品が好きですね。多様な文化に触れてほしくて、一緒にサビーナやクリーデンス、ビートルズやカレ・サーティーンもよく聴いています」
子どもの頃から強い精神力をもっていたと言う、バルデス=カルデナス。「生きのびることを習得してきました。私はよく泣きますし、セラピーにも通います。歩くことも音楽も好きですし、書物には魅了されます。私自身はウイスキーやテキーラのボトルの底に答えを求めたり、カフェの隅にただじっと座っていたりしません。でも、これがあるから、みんなは時に心が折れそうになったり負けそうになりながらも、何とかやっているのかもしれませんね」
(Dante Leguizamón / HECHO EN BUENOS AIRES-ARGENTINA, ⓒwww.street-paper.org)
Photo:Gentileza Río Doce
(特別コラム)「クリアカンの空」
クリアカンの天気は晴れのはずだが、どうもそのようには見えない。鋭く切断された熱い鉛の板でできたような雲と雨のように降るミサイルの弾。それらがクリアカンの天蓋を覆いつくしている。
わずか1週間半の間に、40近い「死刑」が執行された。うち12人が自治体や政府の職員だった。うち1人は首を切り落とされていた。4人の記者が軍服を着た集団に殺害され、10を超える「ナルコメンサヘ(※)」が市内いたるところに貼られた。
(※麻薬マフィアが敵を脅したり自らを誇示するため、張り紙や横断幕などのかたちで公共の場に残すメッセージ)
これは戦争だ。テロだ。春のクリアカンの空はただれ、通りは破壊され、街角や家や商店や広場には火が放たれた。生活の一部となっている「恐怖」。「昨日の晩の銃声、聞いた?」と孫とおぼしき子どもたちを前に、一人の女性がもう一人の女性に尋ねる。子どもたちは駄菓子屋の中でかき氷をすすっている。
(中略)若い男性が散歩に出ようとする。「遠くへは行かないよ。ちょっとそこの公園に行って身体を動かすだけだ」。妻は深刻な顔をする。そして言う。「わかった」。そして「それなら防弾チョッキを着ていきなさいね」といたずらっぽく忠告する。男性は微笑む。「冗談に決まっているでしょ?」。しかし、心の中では、心の奥深くでは、到底笑えない冗談だとわかっている。
こうして街は眠りに落ちるのを恐れ、目覚め続ける。新たなメッセージが新たな紙に貼られる。新たな殺害者統計が発表される。毎日更新される恐怖の数だ。灰色の鉛の空に銃弾の雨の降る街では、到底数えきれない。
(週刊新聞『リオドセ』に掲載されたバルデス=カルデナスのコラム「マライエルバ」より)
(2012年8月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第197号より)