市民権か?難民か?ブータンに住むチベット人難民

50年代にブータン国王に迎えられたチベット難民。
彼らの思いは二つの「母国」の間で揺れている。

PaulPaladin/iStockphoto

依然として厳しい統制下にあるブータン

テレビに映し出されているのは、チベットの中国支配とそれに反発する世界各国の抗議行動だ。

ヒマラヤ山脈の奥深い小さなチベット人難民集落の人々は、画面を見つめながら、自分たちにはなすすべもない無力感でいっぱいだった。

小さな仏教王国ブータン(※1)では、北側の国境を接する隣国のチベットと民族的にも文化的にもまた言語的にも近いが、デモ行為は許されない。チベット族の若者は、トラブルを恐れ、インタビューで名乗ることすらためらった。

「私たちも抗議はしたい。でも私たちにはその権利はない。とても残念なことです」。テンジンと名乗った24歳の女性は語った。「抗議行動を起こすことができれば、チベットはチベット人のものであることを世界に伝えることができるのに」

60年前、チベットとブータンは、外の世界から隔絶された封建的な社会だった。しかし、チベットが中国にのみ込まれてしまった後は、ブータンはインドに近づき(※2)、徐々に近代化と開国へ踏み出した。昨年の上院議員選挙に続き、今年3月には下院議員選挙が実施され、4月にはブータン調和党(DPT)のジグミ・ティンレイ党首が首相に任命され、新内閣が発足した。一世紀におよぶ王政に終止符が打たれ、民主制へとまた一歩、歩みを進めることになったのだ。

だが、そのような民主化に向けた進歩が見られる中でも、ブータンでは、支配層への批判、ましてや抗議行動などは許されない、依然として厳しい統制下におかれた国である。

チベット帰還の権利放棄で与えられる選挙権

チベット人難民は、1950年代にブータン国王に迎え入れられ、土地を与えられた。ブータン中央部に位置するホンツオでは、チベット人家族らがジャガイモやりんごを栽培し、道路脇などで販売している。

ツシェリン・ジャムツショーが両親の背中におわれ、チベットからブータンまでの長く危険な道のりを渡ってきたのは59年、彼が2歳のときだった。チベットの精神的指導者、ダライ・ラマが中国政府の統治に対する蜂起に失敗した後、インドに亡命した年である(※3)。

ジャムツショーは言う。ここで得た安全な居場所に対しては、いつも感謝している、と。

「私はチベットで生まれ、ブータンで育ちました」。ダライ・ラマやブータンの歴代王らの写真が飾られた、バターランプの灯りのともる自宅の祭壇の前で、彼は話してくれた。「この二つの国は、私にとって父と母みたいなものです」

チベットにいつの日か戻るという権利を放棄したチベット人難民には、ブータンの市民権が与えられ、先週行われた選挙での投票が許された。

しかし、大多数のチベット人難民は、チベットに帰りたいという意思をブータン政府側に示した。結果として、彼らは難民という身分を持ち続けるほかなく、それが自分たちをまるで2級市民のように感じさせるのだと若い層は不満を口にする。

難民の身分のままでは、政府から人物証明(セキュリティ・クリアランス)を取得することは事実上不可能だといわれているが、一方、それがなければ政府関係の職に就くことや、子どもを高等教育機関に入れること、また商売や事業を行うための認可を得ることもできない。

多くのチベット人は、ブータン人から商売の許可証を借用することで何とかやっているが、彼らが大変不安定な状態にあることには変わりない。

「私たちがそのような許可証や証明書の類を手に入れるのは大変難しく、仕事も容易には見つかりません」。

ブータンの首都ティンプーにある小さなマーケットで、チベット土産を売る女性はそう語った。

「もし独立が実現するなら、チベットに帰りたい。でも、もし難民の身分のままでも人物証明が取得できたら、おそらくこちらに残るでしょう」

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国境封鎖、歓迎されない新たな難民

ブータンの人口は100万人にも満たず、59年にチベット人難民を受け入れた後は、政府はさらに難民が大挙して押し寄せることを恐れ、北側の国境を閉鎖した。新たな難民はもはや歓迎されないということである。

農家の妻である48歳のドルカーは、両親が安全な暮らしを求めて敢行した危険な道のりの途中、ヒマラヤ山脈の高い場所で生まれたのだという。彼女は、今は82歳となったその母親と一緒に暮らしているが、残りの家族はばらばらに住んでいる。

それぞれ19歳、18歳、15歳になるドルカーの子どもたちは、全員インドのムスーリーで学んでいる。またドルカーの妹はカナダに、兄はヒマラヤ山脈に囲まれたインド北部のラダック州に住んでいる。

「軍がやって来て、いくつかの家族に拷問を加え、そのほかの者は逃げるしかありませんでした」。

59年に家族がたどった長くつらい旅路をドルカーが語っている間、顔に深く皺が刻まれ、背骨の曲がった母親は、ベッドに座って静かに数珠を手繰っていた。

「両親の兄弟の多くは、投獄されてしまい、その後彼らがどうなったのかわかりません。その後生き延びたのか、死んでしまったのかもわからないのです」。娘がそう話した時、母親はつらそうな表情を見せた。

彼女らの住む質素な土床の家の中は、遠く離れた子どもたちの思い出の品や、アーノルド・シュワルツネッガーのポスター、クレヨンで描かれたブータンの仏塔や田園風景の絵などが飾られていた。

「いつも小さな希望は持ち続けていますが、本当に自由を得られる日が来るかどうかは、わかりません」最後に彼女はそう言った。

(Simon Denyer /Courtesy of Reuters © Street News Service: www.street-papers.org)

Photo:REUTERS/Desmond Boylan

※1 ブータンの民族は、チベット系約80%。ネパール系約20%。宗教は、チベット仏教、ヒンドゥー教など。1972年に就任した第4代国王の下で、国の近代化と民主化が進められたが一方で、民族アイデンティティー強化施策が国内のネパール系住民の反発を招き、多くのネパール系住民が難民となってネパールに流入していることが問題になっている。

※2 インドとは、49年のインド・ブータン条約により特殊な関係(対外政策に関するインドの助言)にあったが、昨年3月の改定により同助言に関する条項が廃止された。

※3 59年3月、ダライ・ラマ14世が中華人民共和国に拉致されることをおそれたラサ市民がノルブリンカ宮を包囲(59年のチベット蜂起)。ラサ駐屯の中国人民解放軍に解散を要求し、さもなくば砲撃すると通告した。 その後、ダライ・ラマ14世はチベットを脱出し、インドへの国境越えの直前、チベット臨時政府の樹立を宣言した。

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視点・論点 「”幸せの国”ブータン もうひとつの顔」 | 視点・論点 | 解説委員室:NHK
「ブータン――「幸福な国」の不都合な真実」根本 かおる 著 | Kousyoublog
難民支援NGO”Dream for Children”チベット難民の暮らし

(2008年6月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第97号

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