ビッグイシュー・オンラインにも寄稿をいただいている稲葉剛さんの書籍「生活保護から考える」より、印象的な箇所をご紹介。


「弱者の正義」が蔓延する日本

話題はいわゆる「生活保護バッシング」について。日本では、生活保護受給者に対する偏見やバッシングが根強く残っています。

不思議なのは、日本社会では人々の怒りや不満が貧困や格差を生み出している社会構造になかなか向かわない、という点です。二〇一一年秋、「私たちは九九%だ」をスローガンとしたアメリカの「ウォール街オキュパイ運動」は世界各国に波及しましたが、日本では、格差・貧困の広がりにもかかわらず、富裕層を批判する社会運動が広範な支持を得ることはありませんでした。

(中略)シベリア抑留を経験した詩人、石原吉郎はシベリアの強制収容所(ラーゲリ)の中で日本人たちが鋼索を研いで針を作り、それを密売してパンと交換していたことを記録しています。しかし、針の密売が広がるにつれて、内部からソ連側への密告が相次いだと言います。

石原は「弱者の正義」という文章の中で以下のように指摘します。

「針一本にかかる生存の有利、不利にたいする囚人の直観はおそろしいまでに正確である。彼は自分の不利をかこつよりも、躊躇なく隣人の優位の告発をえらぶ。それは、自分の生きのびる条件をいささかも変えることがないにせよ、隣人があきらかに有利な条件を手にすることを、彼はゆるせないのである」

石原はこうした状況下では嫉妬は「正義の感情に近いものに転化する」と言います。そして、この嫉妬こそ「強制収容所という人間不信の体系の根源を問う重要な感情」だと断言しています。

今の日本社会でもこうした「弱者の正義」が広がっているのではないでしょうか。

弱者が弱者を叩く。嫉妬が正義になる。非常に納得感のある指摘です。

ネット上では頻繁に見られる「生活保護バッシング」について驚くのは、2chを中心に、「自分は生活保護水準以下でも働いて、つつましく生きている。だから受給者たちは贅沢だ」という批判が多く見られることです。

稲葉さんも著書で指摘していますが、もし本当にそうなら、ご自身もぜひ生活保護を受給すべきです。生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活(ナショナルミニマム)」での暮らしを保証する制度であって、収入が十分でない場合は、働いていても利用することができます(関連記事:「生活保護」は、働いていても、若くても、持ち家があっても、車があっても申請可能です)。申請に関するノウハウも書籍でまとまっていますし、申請をサポートしてくれる団体も各地域に存在します。

生活保護水準以下で生活しながら生活保護バッシングをしている多くの人は、そもそも制度についてよく知らないのではないか、という疑問すら芽生えます。意地悪い言い方ではありますが、嫉妬が正義に転じ、冷静に「事実」を見る目が曇ってしまっているのではないでしょうか。


もっとも、「受給をしない」という判断を個々で下すのは自由だとも思います。

しかし、「生活保護バッシングをする」というその精神性を持ち続けると、いずれ自分の首を絞めることになりかねない点は、強く注意が必要です。稲葉さんの言葉を引用します。

インターネットなどで生活保護利用者に悪罵を投げつける発言に触れるたびに私が思うのは、「もしこの人が経済的に困窮したら、自分自身の行なってきた言動がこの人自身の『生』を生きづらくさせるだろうな」ということです。

それは「俺はあいつら(生活保護利用者)と違って役所の世話にはならない」と言って路上で死んでいったホームレスの人たちの姿に重なります。

生活に困窮し、個人の努力では解決できない事態が生じた際に、過去の自己責任論的な言動がその人自身を縛り、苦しめる例を私はいくつも見てきました。


生活保護という制度は、この日本社会であまりにも誤解されているように感じます。ぜひ本書を手にとって、生活保護についての理解を深めましょう。

すでに段階的な基準の引き下げが始まっている生活保護制度。社会保障制度の、そして生きるための最後の砦であるこの制度が、重大な岐路に直面している。不正受給の報道やバッシングのなか、どのような事態が起ころうとしているのか。当事者の声を紹介するとともに現場の状況を報告、いま、何が問題なのか、その根源を問う。






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ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊450円の雑誌を売ると半分以上の230円が彼らの収入となります。