[編集部より:NPO法人山友会がクラウドファンディングプロジェクト「無縁仏となってしまうホームレスの人々が入れるお墓を建てたい!」を実施した際のプロジェクトページより、吉間慎一郎さんの文章を掲載させていただきます。山谷の歴史を理解する良質な記事となっておりますので、ぜひご一読ください。]


山谷とは?

山谷は泪橋を中心に広がる地域で、東京都台東区と荒川区をまたいでいます。「さんや」や「やま」と呼び、日雇労働者の街(ドヤ街)として知られてきました。

ドヤとは、簡易宿泊施設のことで、「宿」をひっくり返した呼び名です。かつて、山谷という地名は存在しましたが、現在では、山谷の地名は消滅し、かつて山谷という地名があった一帯を山谷地域と呼んでいます。

それでは、どのようにして現在の山谷があるのでしょうか。山谷の歴史を少しひも解いてみたいと思います。

(最寄り駅の南千住駅より山谷方面へ。スカイツリーが間近に眺められるエリアでもあります。)


山谷の歴史~山谷の形成~

山谷はもともとは「三家」や「三屋」と言われていたようで、江戸時代よりも前に、古民家が3件あったことが由来とも言われているそうです。江戸時代には、宿場町として栄えていましたが、中期になると、町人足役(労役の一種で、清掃や町の整備などを行う)が必要となり、そのころから日雇労働者が山谷周辺に集まっていたようです。そこに木賃宿が登場します。木賃とは、米代や薪代を払って自炊して泊まることをいい、江戸後期になると広く普及していきました。

さらに、徳川家康は、都市政策の一環として、山谷に被差別部落民の人々を集住させていました。また、犯罪者の処刑などを行う小塚原刑場が山谷の北部にあり、部落民の人々が屍の片づけなどを行っていたので、山谷近辺に多く住むようになったそうです。

(武州豊島郡千住小塚原の地蔵菩薩)

明治期になっても、長屋の制限や木賃宿の営業地域の制限など、政府の政策によって山谷には多くの人が集まっていきました。こうした地域の特性が広く知られるようになり、さらにそうした人々が山谷に移り住むようになりました。こうして、日雇労働者の街、山谷が形成されていったのです。


山谷の歴史~戦争と高度経済成長~

こうして日雇労働者の街となった山谷は、大正12年に起きた関東大震災からも瞬く間に復興し、日雇労働者の街としての性格を強めていきました。震災後には、政府による失業対策がなされるようになり、昭和恐慌下ではそれがさらに強化されます。しかし、それは十分に機能したわけではなかったようです。

太平洋戦争が始まると、労働統制が強化され、山谷の労働事情も大きく変化します。労働力が不足するようになると、山谷の労働者で特別勤労報国隊(軍需工場や鉱山で無償労働をする)が編成されました。その後の戦況はみなさんがご存じの通りです。山谷も空襲に遭い、火の海と化したのでした。

戦後、行き場を失った人たちのためにテントの仮宿泊施設が山谷につくられました。そして、宿泊施設はバラック、本建築へと再建され、復興を遂げていきます。これらの施設は後に民間に払い下げられ、これが現在の山谷にある簡易旅館のおこりだと言われています(当時は東京都民生局委託施設「厚生館」と呼ばれていましたが、現在でも「民生旅館」や「厚生館」という名前の宿泊施設があるのはこの名残です)。

そして、戦後復興のなかで働く人が増えるにつれて、簡易宿泊施設も増加していきます。しかし、まだまだ生活に苦しむ人は多く、都からの生活援助もほとんど機能していませんでした。そんななか、旅館主たちは、毎年正月の三が日に炊き出しを行うなど、多面的な福祉事業を実行していきました。

(現在の簡易宿泊施設)

そして、日本は高度経済成長期を迎えます。この頃には山谷は都内随一の寄せ場に発展していました。この頃の山谷については知っている方も多いかもしれません。


(「山谷労働センター30年のあゆみ」より)

山谷騒動が起こったのは昭和34年。山谷の日雇労働者たちが度々交番を襲撃し、警察と衝突を繰り返しました。昭和43年以降になると、騒動は突発的なものから、計画的なものへ、政治思想を掲げるものへと変わっていきました。山谷地区交番(いわゆる「マンモス交番」。今は移転し、日本堤交番に改称。)は山谷騒動の象徴的存在でしょう。


(山谷騒動:山谷労働センター30年のあゆみより)

山谷騒動の原因には、手配師による労働搾取や社会からの偏見や差別に対する不満などがあったといわれています。しかし、その頃はちょうど東京オリンピックが開催されたときで(昭和39年10月)、オリンピックの舞台裏では、路上生活者が排除されていきました。山谷騒動はこうした日本が高度経済成長を遂げる過程で生じた矛盾や軋轢(あつれき)が山谷で爆発したものでした。

それから約50年を経て今日の山谷があります。山谷は明治時代にはすでに日雇労働者の街でした。それが様々な出来事を経て今日に至ります。そして、その歴史の中で山谷は差別や偏見の対象だったということも忘れてはなりません。

高度経済成長が終わり、日本の成長期を支えた山谷の労働者の人たちも歳をとっていきました。経済成長が終わり、高齢化社会となった今、山谷はどのような変化を遂げたのでしょうか。


山谷のいま

戦後の焼け野原から復興を遂げ、高度経済成長を下支えしてきた山谷。山谷騒動や都の管理体制の強化、山谷対策本部の発足(美濃部都政)、そして高齢化を経て今に至ります。

当会の無料診療所の患者さんも、かつては喧嘩をして怪我をしたとか、仕事で怪我をしたとかいう人が多かったようですが、いまでは、その多くは高血圧など高齢に伴う循環器系の疾患や関節系の疾患などだそうです。かつての活気は高齢化とともになくなっていき、現在の山谷は「都市型限界集落」と呼ばれています。

(弊会無料診療所患者の疾患統計, 2007年度)



弊会無料診療所ボランティア医師の本田徹さんは著書「人は必ず老いる。その時誰がケアするのか」(角川学芸出版)の中で、山谷地域が「超高齢社会の縮図」であると指摘されています。本田さんは国際保健協力NGOの「シェア=国際保健協力市民の会」の代表もお務めになられています。

山谷では一ヶ月顔を見せなければ死んだと思われるのだそうです。「便りがないのはよい便り」というわけではないのです。独り身で高齢の人が多い山谷は、以前にご紹介した孤独死が最も身近な地域の1つです。

冬になると、テントや路上で寝泊まりをしている人などでは、寒さに耐えられずお酒を飲み、そのまま寝てしまって凍死してしまったということもあります。また、寒い夜では、一晩中路上では寒くてじっとしていられない、寝ていられないから夜通し歩いて寒さをやりすごしていたという話を聞くことがあります。そして始発電車が動き出す頃になると、駅の構内で少し暖を取る。寒さをしのぐ方法が、歩くことなのです。



さらに、以前実施された、都内の別の地域のホームレス支援団体の調査によると、調査に協力した路上生活者の3うち、その6割の方に精神疾患が疑われ、また、3割に知能指数(IQ)70未満の方であったと指摘されています。(2010年3月2日 毎日新聞)

これは、山谷や路上で暮らす人々も同じような状況にあると考えられます。

つまり、きちんとした支援を受けることができずに路上生活を余儀なくされている人が多くいるのです。いろんな人と話していると、「路上生活者は何も努力しないでそのような状況になっているのだから支援する必要はない」ということを言う人もいますが、それがすべてではありません。

過酷な環境で労働して健康を害したり負傷しても十分な保障を受けることができないという人もいます。強調された一側面のみを見て「怠け者だ」と判断するのは決して正確な理解ではないでしょう。

そして、ますます進む近代化。高度経済成長期がそうであったように、現代日本も多くの矛盾を抱えています。最近では東京スカイツリーの開業がありました。そして2020年には東京オリンピックがあります。こうした日本の発展の背景には、排除されていく人々がいることも忘れてはなりません。公共空間の整備に伴って、そこで生活する路上生活者が追い出されてしまうこともあります。スカイツリーの開業にあたってはそういった話も聞かれました。

先に触れたように、高度経済成長期の東京オリンピックでも路上生活者の排除は行われました。今度の東京オリンピックの開催にあたって、再びそうした排除が行われないか、とても懸念されることです。華やかな近代化の背景に、その生命を脅かされている人々がいることは、これからの社会を担う私たちが考えていかなければなりません。


山谷の歴史と現在をお伝えしてきました。少々長くなってしまいましたが、少しでも山谷がどういう場所であるかを知っていただけたらうれしいです。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。


(山友会ソーシャルメディア活用プロジェクトチーム・吉間慎一郎)


【参考文献】
・遠藤興一「山谷の歴史―都市下層社会研究序説」『明治学院論叢575号』
・今川勲「現代棄民考『山谷』はいかにして形成されたか」(田畑書店)
・城北旅館組合ホームページhttp://www.e-conomyhotels.jp/ja/pc/history.php
・山友会ブログhttp://ameblo.jp/sanyukai1984/




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