14歳の子どもが「やりたいことがあるから学校をやめたい」と言ってきたら、とにかく反対する人が多いのではないだろうか? だが、その説得が本当に正しいかどうかは誰にも分らない。

14歳の時にこの言葉を親に伝え、認めてもらったある少女は、のちにロックスターの女王になった。米国デトロイト生まれのスージークアトロだ。”ドアを蹴破ってきた” といわれるロック界の女王が、これまでの人生について『The Big Issue Australia』に語った。

-----

そもそものきっかけはエルビス(・プレスリー)でした。6才の頃に『エド・サリヴァン・ショー』*で見たんです。一番上の姉が絶叫してたのでなんだろうと思ってテレビを見たら、ただもう吸い寄せられてしまって... それで、私もこんなことがしたい!と悟りのようなものを感じたんです。

*米国CBSで放送されていたバラエティ長寿番組。


14歳で学校を退学しました。ツアーで滞在していたニューヨークで、ホテルの部屋から父に電話をかけ、「帰ったら学校に戻りたくない。人生をかけてやっていきたいことを見つけた」と言ったのをよく覚えています。

Foundry CoによるPixabayからの画像
Foundry CoによるPixabayからの画像

父はしばし黙り込んでから、「何か言っておまえの考えを変えることなどできるか?」と言ったので、私は「ううん」と返しました。父は電話を切りました。ガチャンとキツい切り方をしたわけではなく、ただ普通に受話器を置いたのです。私は1分ほどその場に座り込み、「ついに言っちゃった。で、本当にできるの? いや、やるのよ!」そのときに思いが揺るぎないものになったのですから、父のやり方は実にうまかったと思います。

バンド活動を始めて2年、16才の頃にはすでにバンドがとても心地よい場所になっていました。私たち「ザ・プレジャー・シーカーズ(The Pleasure Seekers)*」は、ライブ45分 + 休憩 15分のサイクルで一晩に5回パフォーマンスをおこなうツアー生活をしていました。ボーイフレンドもいましたが、彼はデトロイトで私はしょっちゅう旅に出る生活。自然消滅でしたね...。

*クアトロが姉たちと組んでいたガールズバンド。

10代という若さで天職を見つけた私は、なんて恵まれた人間なんだろうと思います。誰もがこんな風だといいのにと、私はいつも言ってます。

父の教え「常にプロフェッショナルでいなさい」

父は夜だけの"パートタイム” ミュージシャンでした。彼の時代、1920〜40年代のいろんなジャンルの音楽を演奏してました。父は私たちにワゴン車を1台用意してくれるなど、機材面でサポートしてくれました。最初のベースをくれたのも父でした。

父からの教えで最も大切なのは、「常にプロフェッショナルでいろ」というものです。聴衆が10人であれ1万人であれ、その人たちは自腹を切ってチケットを買い、おまえの演奏を聴きに来てくれてるんだ、常にすべてを出し尽くしなさいと。今もそのメッセージを体現すべく演奏しているつもりです。聴衆が全員、笑顔になってくれるとうれしい。みんなが笑顔になっているか、目を凝らして見ています!

Free-PhotosによるPixabayからの画像
Free-PhotosによるPixabayからの画像

私はクラシックのピアニスト兼パーカッショニストとして教育を受けてきました。ギターも曲が作れる程度には弾けますよ。バンドを組んだときに、ベースをやる人がいなかったから私にまわってきたんです。でもベースをかついでみたときに、また啓示的な経験があって「これよこれ!私らしさ100%の楽器だわ」と思えたのです。

長年の英国暮らしを経てもあくまで「デトロイト出身」

”ドアを蹴破った” と言われていますが、それはドアが見えなかったからだって、いつも言ってるんです。私はロックの世界で ”女性初” のことをやってきましたが、変化を起こしてきた女性が他にもたくさんいることをご存知ですか? 実際に女性が楽器を手にし、バンドで演奏し、自分にもできると思える... なんてすてきなことでしょう!

出身のデトロイトの街が私を作りあげてきたと言えます。先鋭的で流行の先端を行く街でした。産業が豊かで、白人も黒人もいて、モータウン*があって...。この街にある本物のエネルギーがずっと人生をついてまわりました。私はあくまでデトロイト出身の女性、自分を英国人と思ったことはありません*。

*デトロイト発祥の有名レコードレーベル。
*クアトロは70年代初頭から英国に暮らしている。


実に美しくゴージャスな街でしたが、その後、自動車産業は落ちぶれ、モータウンが去り、人種暴動が起き、あらゆるものが去り、ゴーストタウン化してしまいました。今ではだいぶ活気が戻りつつありますが。姪・甥、いとこ...たくさんの親戚がいるので、60歳と65歳の誕生日はデトロイトで過ごしました。


私は「代替案(プランB)」を考えたことがありません。自分の向かう先をこれっぽっちも疑いませんでした。“有名になるなんて考えもしなかった”と言うスターや有名人がいるなら、その人は本心を偽ってると思います。人が前に進めるのは、強い思いがあってこそなのですから。

BIA_Suzi Quatro_2
Suzi Quatro 
Photo by Tina Korhonen

この世界は気に入ってもらえるかどうかのビジネスですから。私はいつだって「私についてきたら、きみをスターにしてあげるよ」という言葉がかかるのを待ってました。自分が選んだ職業で成功できたことを、心から感謝しています。

成功の裏で試練つづきの人生

とはいえ、常に試練はありました。人生で一番孤独を感じたのは、ロンドンに来た頃です。家族のもとを離れ、精神的にとてもしんどかった。それまでと打って変わって、小さなベッド付きのちっぽけな部屋で暮らすことになり、かつて味わったことのない寂しさを感じました。泣きながら眠りについていた...これはよく知られた話です。

BIA_Suzi Quatro_1
Suzi Quatro
Photo by Tina Korhonen


試練といえば、結婚が破綻したときもひどかったです。二人の子どもがいての離婚でしたから。子どもたちのためにも6年くらいは関係修復に努めたのですが、うまくいきませんでした。元夫(レン・タッキー、バンドの元ギタリスト)とは今でも良い友人です。息子と『No Control*』を共同制作したときは、彼もスタジオにいました。息子がそう望んだのです。息子の父親はとても誇らしそうでした。

*2019年に発売されたクアトロの8年ぶりのソロ・アルバム。


スージー・クアトロ “No Soul/No Control”
 

赤ちゃんを失ったときもつらかったですし、母親が亡くなったときは生きた心地がしませんでした。とても仲が良かったので。完璧な人生など誰にもありませんよね。それでも私は恵まれています。鋭れた直感力がありましたし、いつでもその直感に従ってきましたから。

誰かと会ってその人に好感を持てないなら、そこにはなにかしら理由があるのだと思います。でも、人生のゴタゴタが起きるときや間違いを犯してしまうときというのは、自分の直感を無視したときだと思います。やはり直感にはそれなりの理由があるのです。

もし昔にタイムトリップできるなら、少女時代に戻りたいですね。いろんな夢を抱いていた幼い頃。ステキな街並みの、治安の良い地域で育ちました。どの家庭も子だくさんで、お向かいの家には8人の子どもがいました。わが家は5人、お隣も5人でした。外灯がつくまでよく外で遊んでいました。一軒隣に住んでいたリンダとは、3〜4歳の頃に出会い、いまでも無二の親友です。

これまでの人生で起きたことは、何一つ変えたいとは思いません。すべて価値のあることだったとハッキリ言えます。もちろん気持ちが落ちることもありましたが、そうした体験からいい曲が生まれたこともありました。人々に幸せをもたらせている...これ以上にすばらしい人生はないのではと思ってます。


スージー・クアトロ
1950年、米国デトロイト生まれの女性ロックミュージシャン。女性ロック界の先駆者として知られる。ガールズバンド、ソロ活動の他、女優業やラジオDJなど50年以上にわたり、幅広く活躍している。

By Michael Epis
Courtesy of The Big Issue Australia / INSP.ngo


BOØWYのボーカリスト氷室京介とデュエットした『THE WILD ONE』(1987年リリース)


*ビッグイシュー・オンラインのサポーターになってくださいませんか?

ビッグイシューの活動の認知・理解を広めるためのWebメディア「ビッグイシュー・オンライン」。

上記の記事は提携している国際ストリートペーパーの記事です。もっとたくさん翻訳して皆さんにお伝えしたく、月々500円からの「オンラインサポーター」を募集しています。

ビッグイシュー・オンラインサポーターについて








過去記事を検索して読む


ビッグイシューについて

top_main

ビッグイシューは1991年ロンドンで生まれ、日本では2003年9月に創刊したストリートペーパーです。

ビッグイシューはホームレスの人々の「救済」ではなく、「仕事」を提供し自立を応援するビジネスです。1冊350円の雑誌を売ると半分以上の180円が彼らの収入となります。