かつて『英ガーディアン』紙が「幸福な遺伝子が恋愛がうまくいく可能性を高めるかも」という記事を、『米タイム』誌は「致死性の高い前立腺がんの原因となる遺伝子を発見」との記事、『ニューヨーク・タイムズ』誌は「遺伝子に潜む浮気性が前兆となる」との記事を掲載した。国際メディアだけではない。新聞にも、未知の遺伝子発見のニュースや、さまざまな行動や心理的問題に遺伝的性質がかかわっているとの論調の記事が少なくない。遺伝子決定論や遺伝子検査の今について、ギリシャのストリートペーパー『シェディア』の記事を紹介しよう。
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病気や行動は遺伝子が引き起こすもの?
うつ病、統合失調症、知力、アルコール依存症、犯罪性、過剰な性的行動、同性愛などと遺伝子との関連性を指摘した記事を目にしたことはないだろうか。私たちの普段の会話でも、少し科学的な話になると、遺伝子が生命の本質かのように、性格や健康を決定づけ、あらゆる生物学的現象を解釈できるかのような語られ方をしていないだろうか。「遺伝子がすべて」という見方が幅を利かせつつあるが、ジュネーヴ大学の生物学者コスタス・カンポウラキス博士*1 は、「生まれ(遺伝子やDNA)と育ち(環境)は密接にからみ合っており、ある現象の原因がどちらにあるかを判断するのは不可能」と指摘する。「たとえば身長や瞳の色で考えてみてください。生物学者の見解は、環境要因が人間の成長に影響することでおおむね一致しています。なので、一卵性双生児でも、何を食べて育つかで身長が違ってくるかもしれません。身長ほどではないにせよ、瞳の色も環境によって変わります」Mahmoud Ahmed/Pixabay
*1 著書に『Making Sense of Genes』など。
カンポウラキス博士は続ける。「遺伝子が示すのは潜在性や性質であって、それが現実化するかどうかは生物個体の進化的プロセスに依存し、その過程は環境要因に依存します。そのため、人間のすべては遺伝子で決まるとする『遺伝子決定論』には欠陥があります。一族の数世代にわたって共通の特徴(肥満、がん、アルコール依存症、攻撃性など)が見られるときに、“その家族に共通する環境”よりも“遺伝子”のせいと考えるのは問題です」
「遺伝的性質の重視には、負の側面があります。諸問題が現れたときに(肺がんを引き起こしやすい喫煙、肥満になりやすい食習慣や悪しきロールモデル、攻撃性につながりやすい子どもの虐待など)、すぐに遺伝的性質に原因があるとし、個人や社会が負っている責任を顧みず、その悪影響を宿命的なものと受け入れてしまいます」
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遺伝子検査からどんな結論を導き出すべきか
女優のアンジェリーナ・ジョリーは2013年、『ニューヨーク・タイムズ』誌上で、予防処置として両乳房切除の手術を受けたことを公表した。17番染色体に、乳がんや卵巣がんの発症リスクを急激に高めるとされる「欠陥遺伝子BRCA1」があると診断されたからだった。ただし遺伝子検査が提供できるのは、ある病気が発症する可能性についての”限られた情報“であって、その病気が本当に発症するかどうかまでは予測できない(しかし、遺伝子検査は、その提供企業に安定した収入をもたらしている)。例えば、BRCA1やBRCA2の遺伝子がある人は、一般集団よりも乳がんを発症する可能性が高くなる。一般集団の女性が70歳までに乳がんを発症する可能性は7%だが、BRCA1遺伝子の変異株がある女性のそれは約60%である。「BRCA1やBRCA2と乳がんの関連性は明らかですが、乳がんの発症リスクを高める遺伝子がほかにないわけではなく、全員が遺伝子検査を受けるべきということではありません。遺伝子検査からどんな結論を導き出すかには慎重であるべきです。たばこを吸う女性であれば、遺伝子検査を受ける前にまずは禁煙すべきです」とカンポウラキス博士は述べる。
「企業が一般向けに実施している遺伝子検査を規制するしくみが必要です」と、法学専門家でヘレニック・ナショナル・バイオエシックス・コミッションの法律顧問を務めるタキス・ヴィダリスは指摘する。「一般の人が直接利用できる遺伝子検査は、個人が検査してほしい意向を示せば、専門家(臨床遺伝学者)の介入なく実施されます。サンプル収集の説明書入りキットが送付されるので、サンプルを取得してラボに郵送で送り、分析にまわすというのが一般的な流れです。標準的なオンライン手続きに基づき、やりとりは完全に匿名で行われます。検査結果は特殊ソフトを使ったアルゴリズムで解読され、遺伝子情報とアンケートの回答とをひもづけ、個人向けの提言をします」
「利用者は膨大な遺伝子情報を手に入れるのですが、ほとんどの場合、それらを理解することも利用することもできません。今日ある遺伝子検査の多くは、体質や病気の発症リスクに関連した遺伝子指数の判定に基づくもので、実際の予測値までは示されません。「相対的な値しかなければ、一般の人々が誤った、ときに危険な結論を出すかもしれません。潜在的な遺伝子的原因はなく、“問題なし”の結果であっても、その後に食習慣をおざなりにしていれば、心臓血管系の問題が起きる可能性があります。遺伝的にがんになりやすいと過大評価し、遺伝子決定論を受け入れれば、それにより深刻な精神疾患が発症するリスクもあります。なので、遺伝子検査の必要性の判断や結果の解読に専門家が介入する必要があります。遺伝子検査の規制、および検査センターが認可を受けているかどうかを確かめられる法律を制定すべきです」
犯罪捜査における遺伝子検査の功罪
エーゲ海大学社会科学部で教鞭を取るクリストス・コウロウツァス*2は、遺伝子データを用いて、犯罪行為の責任を遺伝的性質にあると考えることの問題を指摘する。「裁判所で遺伝子データを利用したり、証拠として裁判官から認められたりすれば、遺伝子が犯罪扱いされ、罰則を課されることになる。その結果、遺伝子が犯罪的と裁かれる裁判は、遺伝子決定論的な性格を帯びることになる。犯罪を遺伝性疾患や遺伝的伝染病と解釈すれば、遺伝子に関する犯罪防止策が採用されかねず(化学的去勢、薬物治療、欠陥遺伝子の(再)設計による遺伝療法、犯罪性を治療する錠剤開発など)、特効薬が個人の目に見えない細胞を、さらには社会をも完全支配することになります」*2 著書に『Criminology of Genetics』など。
あらゆることについて遺伝的性質に原因があるとする考えは、犯罪性に関係しているモノアミン酸化酵素(MAO)の原因となっている遺伝子を突き止めようとする動きをあおってきた。その結果、犯罪学は一巡し、“生まれながらの犯罪のしやすさ”の探求に回帰している。そして、「犯罪性という遺伝的疾患は予防できる」との仮説は、簡単なDNA検査で自分に「戦士の遺伝子(warrior gene)」があるかどうかを確かめてみようと促すウェブサイト*3を急増させ、“遺伝子をめぐるスティグマ”の問題を引き起こしている。
*3 www.familytreedna.com、www.thewarriorgene.com など。
コウロウツァスいわく、“遺伝的に欠陥あり”とされる人たちが監視下に置かれるおそれがある。「生命保険の契約、銀行ローンの申請、職場で、結婚するときなどに、遺伝子検査やデータベースを使って遺伝的差別の有無を確かめることも可能です」と言う。「その一例が、全国民の遺伝子データベースを保有しているアイスランドです。国が民間企業のdeCODE Genetics社に、全国民の遺伝的、医学的、系統的データへの独占的なアクセスを提供しているのです*4」
*4 deCODE Genetics https://www.decode.com
コウロウツァス、犯罪捜査に遺伝子指紋法が乱用されすぎているとも指摘する。「そもそもDNA鑑定というのは、その人の無実を証明する手段として使われていたものですが、現在はその人の有罪性を証明する手段となっているきらいがあります。しかし過度な遺伝子指紋法の実施により、ギリシャでも審理無効や無実の人が刑務所に入れられたケースが起きたことがあります。そこで米国では1992年より、冤罪を晴らすために、さかのぼって遺伝子分析を実施する“イノセンス・プロジェクト*5”が始まり、すでに341件の該当事例がありました」
*5 その後、ギリシャ、そして日本でも2016年よりイノセンス・プロジェクトが設立されている。https://innocenceprojectjapan.org
ホロコースト生存者とその子孫にのみ見られた遺伝子変化
優生学の極端なイデオロギーは社会から消え去っていない。「反対意見があるにもかかわらず、現代の犯罪学には消極的優生学*6 の痕跡があります。かつてのように暴力的な民族根絶を目指すのではなく、子どもや若者に大規模な診断検査を行い、暴力的・反社会的行動を予防しようというものです。例えば、EUでは法的枠組みによって亡命希望者や国際的保護下にある人々に権利が与えられる一方、現代の生体認証技術を利用して移民や難民の遺伝物質を確認し、治安を保証するためのデータベース作成を認めています」とエーゲ海大学の歴史学教授ジョージ・コキノスは指摘する。*6 遺伝的欠陥を持つ人の子孫を減らそうと、中絶や不妊手術などの手段がある。
「ギリシャの大学では今日でも、古代ギリシャの優生学を支持する犯罪学者たちによる教科書が使われ、そこでは従来の道徳規範から外れたふるまい(同性愛など)が病気扱いされています。現在、人間の“病気”を生物学的に研究する新たな波が起きています。認知心理学の分野でも、学習体験の全面的な生物学化を促す風潮があります。記憶のこの側面は脳のあまたある機能の一つでしかないこと、これだけでは脳の多面性をあらわせないことを、私たち歴史学者はよく心得ています」とコキノス教授は語る。
後成学(エピジェネティクス)とは、遺伝子と環境の複雑な相互作用に関するものだ。「後成学では、DNA配列を変更することなく起きる遺伝子機能の可逆性の変化を研究します。このたび、レイチェル・イェフダ医師が率いるイスラエルの研究チームは、トラウマ的体験の影響を受けたストレスホルモンを調節する遺伝子研究を行いました。すると、ホロコーストの生存者やその子どもたちには、第二次世界大戦中にヨーロッパに住んでいなかったユダヤ人には見られない化学的指標を発見しました。イェフダ医師によると、生存者の子どもたちに見られる遺伝子変異は、親がホロコーストの体験者であるという事実でしか説明できない。研究はホロコーストの生存者32人とその子ども22人を対象に行われ、FKBP5 遺伝子に変化が見られたのです」と、分子ウイルス学研究所(パストゥール医学研究所内)の主任研究員ウラニア・ジョルゴポウロウは語る。
遺伝子の取捨選別がもたらす深刻な問題
欧州評議会が1997年に定めたオビエド条約(ギリシャでは1998年に批准)では、ヒト生殖細胞の遺伝子介入が禁じられていますが、2015年、中国の科学者たちは秘密裏にゲノム編集技術CRISPR(クリスパ―)を使用して、ヒト胚を操作した。「エイズウイルス感染から回復できるヒト胚をつくるために、遺伝子に変更を加えたかったのです。科学者たちはその目標を達成したにもかかわらず、ゲノム(全遺伝子情報)を不自然に修正しました。人間のゲノムを操作すれば、病気や障害になる可能性を大幅に下げられますが、“完璧”な誰かをつくることの社会的影響から目をそらしてはいけません。望ましい遺伝子とそうでない遺伝子を判断する権利は誰にあるのでしょう? 決断を下し、遺伝子の変更を実施する権限は誰にあるのでしょう?」とジョルゴポウロウは問いかける。
コキノス教授は「われわれは、科学の“生物学的転換”を取り入れ、遺伝的運命論よりも遺伝子工学を支持する、人類の技術によるユートピア(理想郷)の発展を目にしようとしています」と述べる。
アテネ大学哲学部の特別研究員で、ユネスコ生命倫理学講座のギリシャ部門実行委員会メンバー、マリア・コリアノポウロウ博士は、ヒトのDNA変更が安全に実施できるようになり、病気の発症予防に使われるようになれば、ゲノムのデータベースから永久に削除される遺伝子が出てくる危険性があると指摘する。「削除された遺伝子が将来的に、今私たちが理解できていない理由で人類に必要なものだったと判明するかもしれません。遺伝子の削除が無責任に行われることの危険性を指摘する議論があります。遺伝子の削除が、人類の存続にかかわる事態を引き起こすかもしれないのです」
「必要な基準を満たさない人間を否定する優生思想が広まれば、生殖権もが危機にさらされるおそれがあります」
「それどころか、完全な人間をつくろうとしない治療的な遺伝子工学では、人間を生まれつきのエラーから解放し、生殖権を守り、親が自分たちの遺伝的疾患が子どもに伝わるかもと恐れることなく子どもを生むことができます。薬によって人間が自分の健康を正常化できるのと同じように、バイオテクノロジーの応用によって、生殖に平等なアクセスを取り戻せるのです」
生命倫理学のエリアス・パブロポウロス博士は問いかける。「親が子どもに良い教育や栄養を与えたいと考えるなら、より良い遺伝子を与えたいと考えても不思議ではありませんよね?」ここ数年、選択の自由の原則に基づいた優生思想を促す“新しい”“リベラルな”優生思想が出てきているという。「個人の生殖選択にまで広げようとするリベラルな優生思想です。でも、遺伝的性質を改善する機能は、道徳的に深刻な問題をもたらすおそれがあります。たとえば、聴覚障害がある両親が自分たちの子どもにも聴覚障害者のコミュニティや文化に加われるよう、“耳が聞こえない”ことを選択することも考えられます」
ダウン症は環境を変えることで障害ではなくなる
パブロポウロス博士によると、障害には「医学的障害」と「社会的障害」がある。医学的障害は、障害は人間の体の誤り、エラー、誤動作であるとの前提に基づき、薬で治そうとするもの。社会的障害は、障害は体の特徴ではなく、個人の自然状態・社会的・技術的環境に応じたものと考える。障害を体が環境に調整できていないからと考えるなら、体に介入する/環境に介入する/体と環境の両方に介入する、の三つの対応策が考えられる。「典型的な例がダウン症です。ダウン症は、遺伝子疾患からくる明らかな身体的問題と理解され、医学的障害モデルに基づいた医学的ケアを提供しています。しかし近年、その逆の社会的障害モデルの対応策が有効であることがわかってきているのです。ある特定の国々で、ダウン症の人を取り巻く社会的環境を変える試みがなされており、勉強する機会や他の人とつながる機会を増やし、家族にはダウン症の子どもを施設に入れずに自宅で世話ができるような支援をしています。すると、ダウン症当事者の生活に劇的な変化が起きているのです。実際に、大学を卒業した人、本を書いた人、一般の仕事に就いている人、自立生活が送れている人などが現れています。寿命も大きく伸びています。これらの変化は、医学的介入ではなく、環境を変えることで起きていると考えられるのです」
パブロポウロス博士は最後に述べた。「出産前の遺伝子検査でダウン症などの染色体異常があるとわかると、妊娠を終わらせる選択をするケースが多くありますが、そこには社会的・道徳的に重要な問題がつきまといます。出産前に簡単に遺伝子検査を受けられるようになり生殖の自主性は向上したものの、社会的障害を考えれば、どんなときに検査を実施すべきか、誰が利用できるべきか、倫理的な利用となるのはどんなときかを、しっかりと検討すべきです」
by Spyros Zonakis
Translated from Greek by Christina Karakepeli
Courtesy of Shedia / International Network of Street Papers
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