前編<「空(くう)」の思想:すべての世界を否定、すべてのものの価値を認める>を読む




「キリスト教はもともと個人の救済だけでなく、労働の意味を考えたり、他者に働きかけたりする意識が鮮明にありました。つまり、社会というものを意識していたんです。しかし、仏教は常に自己と世界の関係にかかわったために、自分と同じ人間が社会をつくっているという観点が弱かったんです。

そのために、仏教的な自己否定の考え方は現実社会における経済的、政治的なガイドラインを生み出すことができず、インドから追い出され、その後もさまざまな国に伝播しましたが、厳しい運命をたどりました。仏教の『空』の歴史は、滅びの歴史ともいえるんです」




「空」の否定体験から見える、「世界の美」と「他者への慈悲」



あらゆる仏教思想の源となりながら、その歴史の中でいつしか影を潜めていった「空」の思想は、今や一般社会はおろか仏教界においてさえマイノリティーな存在となった。

立川さんは、その「空」の思想がたどった足跡を求めて仏教2000年の歴史を遡り、長い過去のトンネルから返ってきた時、「マックス・ウェーバーの理論について考えるようになった」と話す。




マックス・ウェーバーの理論とは、営利の追求を敵視していたはずのプロテスタントの倫理が、実は近代の資本主義の誕生に大きく貢献していたことを解き明かした研究のことである。

キリスト教、特にプロテスタンティズムは、ぜいたくや怠惰などを否定的にとらえ、労働に励むことが神のおぼし召しにかなうことだ、と考えた。その禁欲的態度こそが近代合理主義を形成し、蓄財を奨励し、現代につながる資本主義を成立させる精神的起動力となったのである。





「現代に生きる私たちは産業を興し、財を蓄積し、自由競争すれば、個人同士は競争していても結局は世界がうまく収まると考えています。マルクスでさえ、資本家が搾取しなければ、生産によって人びとの生活は楽になると考えた。

でも、今日のグローバライゼーションや地球環境問題を考えた時、その楽観主義はもう通用しないのではないかと思うんです。自然科学の技術を含めた生産形態は、私たちの手によって制御される必要があり、これまで利潤をいかに合理的にあげていくかと考えて積み上げてきた知恵を、今度は欲望を制御する方向に用いるべきではないかと思うのです」




仏教は、伝統的に人間の行為や煩悩、業といった欲望を否定することを教えてきた。その否定の典型的なあり方が「空」の思想だった。立川さんは、この「空」の思想に、今こそ世界に向けてメッセージを発信できる何かがあると感じている、と言う。

「『空』は、神の存在を認めていないにもかかわらず宗教たりえている。根本原理からすべてを導き出すという発想がないところに私は『空』の可能性を感じるんです。

すべての世界を否定して、その後の甦りによって、世界はもろもろのものが一つの原因から生じるのではなく、原因と結果によって成り立つものが寄り集まっていると考え、すべてのものの価値さえ認める。その世界のとらえ方や発想こそが、今の私たちに必要ではないかと思えるんです」




そして、否定は、人間に欲望を抑え我慢することだけを教えるわけではない。「空」による否定は、人間にとっての聖なるものの提示、美と崇高なるものの尊さを教え、感じさせていると立川さんは言う。

「『空』の否定体験を経て、新しく世界をとらえ直してきた人は、世界は美しく、かけがえのないものであるという畏敬の念を感じ、人の命の尊さを実感している。そして、その美と崇高なるものを実感した時、人は自己の精神的救済だけでなく、他者に向けて動き出すんです。そこにあるのは、他者を慈しみ、悲しみを取り除こうとする慈悲なんです」

(稗田和博)
Photo:伊藤卓哉




立川武蔵(たちかわ・むさし)
1942年、名古屋生まれ。名古屋大学文学部卒業後、ハーバード大学大学院でPh.D取得。名古屋大学教授を経て、現在、愛知学院大学文学部教授、国立民族学博物館名誉教授。著書に、『中論の思想』『西蔵仏教宗義研究(第1・5巻)』『日本仏教の思想』『空の思想史』などがある。
※肩書きは取材当時








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