学校サナトリウム「希望21」年間5千人の子どもが利用
9月末、チェルノブイリを初めて訪問した。1986年4月26日の未明、旧ソ連(現ウクライナ)でチェルノブイリ原発4号炉が爆発事故を起こした。火災は10日間にわたって続き、膨大な放射能による汚染は今も続いている。放射能の飛散を防ぐために、破壊された原子炉建屋は「石棺」と呼ばれる巨大な壁で覆われたが、急ごしらえであったために穴が開き、今では崩壊の危険がある。そこで、石棺をすっぽり覆うアーチ型のシェルターの建設が、27ヵ国の支援を得て07年から始まった。
放射線が強く出ているので、300mほど離れたところでアーチを組み立てた。この11月からレールで移動させ、7年ほどかけて石棺の解体を行う。最終的には溶けて固まった燃料の取り出しを行うのだが、具体的な計画はまだ作られていない。今後の研究開発に依存するところが大きいのは福島の場合と同様だ。それゆえか、シェルターは100年間は耐えられるよう設計されているそうだ。建設現場では約1500人が働いており、月間の労働日数を15日とするシフト制で管理しているという。
今回はいくつかの団体を訪問し、今も続く被曝の影響をできるかぎり減らそうとする人々の姿に接した。「チェルノブイリこども基金」(日本)などの支援で94年に設立された、学校サナトリウム「希望21」はベラルーシの首都ミンスクから北に80㎞ほどの村にある。今では国際機関としても認定され、運営費はベラルーシ政府が支出。1平方kmの敷地に学校、文化体育館、食堂、宿泊施設など32棟が建っている。
「希望21」の放射能汚染状態は極めて低く、汚染地域から来た子どもたちがここで24日間過ごし、健康を取り戻して帰っていく。一度に320人を収容でき、12日間の夏季短期滞在を含めて年間5000人が利用し、200人の職員が維持運営に当たる。「つらいことも多いが、元気を取り戻した子どもたちを見るのがうれしい」と施設を案内してくれたタチアナさんの言葉が印象的だった。
「希望21」で保養する子どもたち
14の放射能安全研究所 居住禁止地区に戻った130人
ベルラド放射能安全研究所は、ミンスク市内の民家にあった。設立者のネステレンコ氏は事故後に放射能汚染地域に検査センターを設けて、測定器を開発し、空間線量率や食品の放射能濃度の測定、後に体内の放射能蓄積量測定なども行ない、住民たちへ放射線防護教育を進めてきた。
最盛期には学校を中心に370の支部があったが、政府からの支援が方針上の違いから削減され続け、現在は14の支部が海外の支援によって運営されているという。放射能を体内にため込まないように、森で採れるものを食べないよう注意喚起し、リンゴペクチンを活用したセシウムの体内摂取制限方法などを勧める活動を続けている。汚染地域の子どもたちには無料配布している。
原発から半径30㎞圏内は永久居住禁止ゾーンで、約14万人が避難した。ここには避難先から自主的に戻った人がいて、彼らはサマショールと呼ばれる。ウクライナでの案内人のセルゲイ氏によれば、数千人が戻ったが多くが鬼籍に入り、130人ほどが今も点在して暮らしている。戻った理由としては「ここが故郷だ」「ペチカ(ロシア式暖炉)がなかった」など、さまざまに表現がされるが、差別などもあり避難先の生活になじめなかったことが大きい。「勝手に居座るわがままな人」たちだが、それでもチェルノブイリ法による政府の支援で生活が保障されている。さらに、ゾーン内に立ち入る政府公認許可を持つ森林管理人らが、汚染の少ない食べ物を持参したり、水汲みや雪下ろし、農作物の収穫などを手伝ったりして、高齢者を支える。
チェルノブイリでは年間5ミリシーベルト以上の被曝が想定されれば、強制避難区域に位置づけられる。サマショールはあくまでも自主的に戻った人たちだ。一方、福島では、年間20ミリシーベルト以下の地域で避難が解除される。支援が打ち切られ、帰還がなかば強制されている。
(伴 英幸)
伴 英幸(ばん・ひでゆき)
1951年、三重県生まれ。原子力資料情報室共同代表・事務局長。79年のスリーマイル島原発事故をきっかけとして、脱原発の市民運動などにかかわる。89年脱原発法制定運動の事務局を担当し、90年より原子力資料情報室のスタッフとなる。著書『原子力政策大綱批判』(七つ森書館、2006年)
(2016年11月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 298号より)