甲状腺がんになった子ども全員に被害救済を──原告のちひろさん(仮名)に聞く

前号では「311子ども甲状腺がん裁判」の井戸謙一弁護士に裁判の争点などを聞いた。

今号では、原告の一人、ちひろさん(仮名、中通り、20代女性)の話を紹介する。ちひろさんは原発事故が起きた2011年3月、中学3年生だった。大学3年生の時に甲状腺がんと診断され、その翌年に手術を受けた。今、「311子ども甲状腺裁判」の原告の一人として裁判を闘っている。

原発事故当日は中学3年生
大学1年生、二巡目検査でB判定

 3・11の地震で中通りにある親戚の自宅が全壊し、中学3年生だったちひろさんは、その直後から後片付けや引っ越しの準備を手伝った。夕方には雨も降り出した。屋外で作業をしている時に、近くの道路が渋滞しているのが見えた。原発事故で浜通りから避難してくる人々の車だったと知ったのは、テレビを見ていた親戚が「(原発が)爆発したみたいだ」と教えてくれたからだった。

 福島県では毎年3月15日が県立高校の合格発表日だ。震災や原発の爆発があっても、例年と変わりなくこの日に行われ、ちひろさんは書類を取りに行くために直接高校に出向いた。その際、原発の爆発で放射線量が高くなっていることは伝えられたものの、その数値の高低や、避難が必要かどうかは知らされなかった。

 しかし、その年の5月、甲状腺がんなど疾病の予防や早期発見、早期治療につなげるため、「県民健康管理調査」として問診や調査票、学校での超音波による検査の実施が決まった。ちひろさんは高校生の時に一巡目の検査を受け、大学1年生で二巡目の検査を受けた。

「当時、検査会場にはたくさんの人が来ていて、流れ作業で検査を受けていました。ほかの人は短時間で済んでいたのに、私はずっと超音波の検査が続き、検査中、医師はずっと首をかしげていました。その時にちょっと、何かあったら不安だなと感じました」

 二巡目検査から2ヵ月後、B判定(※)の結果が届いた。福島県立医大の看護師から「必ず検査に来てください」と2回ほど電話があり、その後3、4回、医大で検査を受けた。「その間は不安が最も大きい時期でした」とちひろさんは言う。また、「医大のほかの診療科は混んでいないのに、そこだけ子どもがいっぱいいました」。がんの可能性を疑われて精密検査を受けに来ていたのは、みんな子ども。だからこそ、必要なカウンセリングや寄り添いがあるべきだが、そうしたものはなく、流れ作業のように短時間の診察が続くばかりだった。

※ 超音波検査によって、大きさが20・1㎜以上ののう胞、または5・1㎜以上の結節が認められた状態。

B判定を受けた時の「甲状腺検査の結果についてのお知らせ」

大学3年生で、がんの診断
就職したが体調悪化で退職届

「もしかしたら、がんかもしれない。休学するか、もしも手術が必要ならどこで受けたらいいのか。原発事故と因果関係があるのかないのか。腫瘍はどうなるのか……」。ちひろさんは不安の中で、さまざまな情報を集め始めた。

 そして、大学3年生の10月、甲状腺がんの診断を受けた。告知の時、医師は「放射線の影響はない」と唐突に言い、県民健康調査サポート事業の制度を説明する保健師からも同じことを繰り返し言われた。「何かを隠そうとしているのだろうか」と大きな不信感が芽生えた。

 のどに大きな傷が残らない内視鏡手術を希望し、1年待って都内の病院で手術を受けた。手術後は免疫低下で風邪をひきやすくなると言われ、やはり数週間後から高熱が出た。その後も月1回程度は発熱。一時は、TSH(甲状腺刺激ホルモン)の値が高くなり、チラージンという薬を飲んでいたが、現在は数値が安定したため不要になった。しかし、年に一回の検査通院は続く。


ちひろさんが以前飲んでいた薬「チラージン」

 手術を受けたのは就職活動時期。将来に向けて「こんな仕事がしたい」と夢を膨らませる時期に、ちひろさんは体調優先で考えた。「選択肢を消去していく」ような就活だったという。そんな中、希望していた広告代理店に入社する。

 人事担当者に病気のことを話すと「遅くても夜7時には仕事が終わります」と言われ、病気や体調に理解のある会社だと思った。ところがそれは入社数ヵ月までで、以降は拘束時間が長く、飲み会も続く激務の会社。立て続けに風邪や肺炎、気管支炎、喘息になってしまい、どうしても激務に身体がついていかず、やむなく「体調優先」で退職届を出した。今は、定時で帰れる事務の仕事をしている。

 ちひろさんは、がんの診断を受けた時から、裁判を考えていた。「理由はいくつかあります。一つは、親に手術や治療で金銭面の負担をかけてしまったこと。なんとしてもそのお金を親に返したい」。もう一つは、「がんになった原因を明らかにしたい。東電は原発事故と甲状腺がんの因果関係を認め、甲状腺がんになった子どもたち全員に被害を賠償すべきだと思うんです」。

10年目、ネットワークに入会
医療面の恒久的な支援策を望む

「子どもたちが声を上げられない状況や差別を受ける状況に対して、もっと早くに支援する会ができるはず」とちひろさんは考えていたが、そのような会はなかなか生まれなかった。しかし、原発事故から10年目にして「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」結成の動きが出始めた。「支援してくれる人がいる。甲状腺がんの子どものことを考えてくれる人がいる」と希望が湧き、自分から弁護士の事務所に連絡を入れた。

 日本ではまだ、提訴した若者やその家族が実名で被害の実態や支援不足を訴えられる状況にはなっていないが、ちひろさんは「サポートしてもらってここまで来ることができたという感謝の気持ちがあります」と、今は匿名だが、できるだけ取材に応じたいと考えている。この会に入るまで、ほかの甲状腺がんの若者たちと会う機会は皆無で、「提訴の意志を持って動いているのは私だけではないか。私の考えがおかしいんじゃないかと考えていました」。

 クラウドファンディングで寄付を募ると、「若者にこのような負担をさせて申し訳ない」「できることは何かあるでしょうか」というメッセージが寄せられた。特にうれしかったのは、20代から40代、同世代の多くの人が寄付をしてくれたことだ。名前も顔も知らない多くの人たちの応援を受け、「原告団」として同じ目的を持つ同世代の仲間とともに、ちひろさんは被害救済を訴える原告として立った。

 原発事故当時に福島にいて甲状腺がんになった子どもがいるという事実を伝え、考えてもらいたい、声を上げられない同じ病気の若者たちにこの裁判や活動を知ってほしい──。「裁判に勝って、国には医療面で恒久的な支援策を整えてもらいたい、最終的には全員の救済を実現したい」。それがちひろさんの願いだ。

 北村賢二郎弁護士は言う。「ちひろさんは当初、『とても大きなもの(=東電)を相手にして難しいな』と言っていました。でも今、大企業や国家権力という大きなものに対して、原告団、弁護団が数十人で立ち向かっている。さらに、その後ろにたくさんの支援者の存在があります」

「人災」(国会事故調)である原発事故。被曝した人の被害を私たちは社会全体で受け止め、支援策を考えるべきだと思う。受け止めるべき賽は、すでに投げられている。

(文と写真 藍原寛子)


311甲状腺がん子ども支援ネットワーク

クラウドファンディング


あいはら・ひろこ
福島県福島市生まれ。ジャーナリスト。被災地の現状の取材を中心に、国内外のニュース報道・取材・リサーチ・翻訳・編集などを行う。
https://www.facebook.com/hirokoaihara 

*2022年10月15日発売の『ビッグイシュー日本版』441号より「ふくしまから」を転載しました。