(2011年5月15日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 第95号 [特集 発達障害は個性にできる]より)
自閉症は《発達障害》の一つで先天的なものであり、生まれつき脳の中枢神経の障害により、能力的、行動的、また社会性や認知能力などにさまざまなアンバランスが生じてしまう障害をいう。だが、いまだに多くの人たちが、「自閉症の原因は育て方にある」とか、「内向的な性格のこと」であると思い込んでいるようである。
また、精神障害や情緒障害と混同している人たちもいる。今日ではメディアの報道や啓蒙などにより、そのように考えている人たちは徐々に減ってきているものの、今から30〜40年前は、新聞や大手メディアも含め、(ベッテルハイムの「冷蔵庫マザー」(※)に見られるような)自閉症母親原因説が猛威をふるっていた。
そのため、その当時にあっては(そして今も)、自閉症児の親たち(特に母親)は世の中から激しく迫害されたものだった。そして、その猛威は子どもだった私にも容赦なく襲ってきた。私が児童や生徒だった当時はまだ、自閉症の原因もよく知られておらず、また、知能に問題のない自閉症は障害として見なされていなかったので、普通学級のなかで何の支援もないまま、健常の者と同じように振る舞わなくてはいけなかった。
いわく、学校の先生やクラスメートたちから「極端な性格はよくない」「性格を直せ」「アンバランスな能力はよくない」などと言われ、障害のために能力の足らないところは努力不足などと言われたものだった。能力のアンバランスさや社会性の欠如は、障害のためではなく性格のせいとされた上、しばしば道徳的な問題とされ、学校では叱責と矯正の対象となったものである。学校教育ではとにかく円満具足で均等でバランスの良い能力を身につけることが強要され、ひたすら、「足らないところ」を伸ばすことだけが求められた。
とかくエキセントリックさを排除したがる日本の教育の風潮に加え、「協調性がない」「自分勝手」「わがまま」「迷惑」「友達がいないことは悪いことだ」などと言われて毎日のように迫害されるのだが、いじめに遭い、不登校になって援助を求めた先でもまったく同様のことを言われ、さらに「手に負えません」「余所に行ってください」と、実質的な門前払いを受けてしまったりもした。
このように、いま成人となっている多くの発達障害の人たちは、学校や社会で孤立無援の戦いを強いられてきた。いわば健常者でも障害者でもない存在は、支援の対象からも外され、大人となった今でも哺乳類からも鳥類からも疎外されるコウモリのように居場所がないのが現実である。
人は努力により人格を高めることはできても、性質や性格は目の色や肌の色と同じで、本来の持ち味を変えることは非常に難しいと思う。自閉症は「発達障害」というように、その発達のアンバランスさが自閉症の自閉症たるゆえんである。
その性格あるいは能力がデコボコしていたとしても、金平糖はデコボコしているからこそ金平糖でありえるのであって、それからデコボコを取り去ってしまったら、それはもはや金平糖ではなくなる。なので、その能力に均等性や平均性を求めるのではなく、金平糖状態のままでいいから、より大きなそれになれるように、その人自身の持つ特性を尊重していただきたいと願う。
言うまでもなく、金平糖のデコボコのパターンは一つひとつ違う。また、極端なデコボコを持つものもあれば、さほどデコボコが極端ではないものもある。これはつまり、ひとくちに自閉症といっても千差万別であり、例えば計算能力が卓越した人がいる一方で、計算能力が欠落した人もいるし、音感が秀でた人がいる一方で、それがない人もいれば、言語能力が卓越した人がいる一方で、その逆の事例もあるということである。言語能力に障害のない自閉症はアスペルガー症候群とも呼ばれる。
このように、必ずといっていいほど正反対の事例があり、また、欠落の一方で、(すべての自閉症者ではないものの)突出した光る才能を持っている人が比較的多いのも自閉症の特徴といえるだろう。このように、自閉症といっても一筋縄でいかないのであるが、「できること」と「できないこと」が極端で、能力がアンバランスというところは共通している。
しばしばいわれる問題に、「欠点を克服して苦手なことをできるようにすることがよいのか、それとも、長所や得意なことを伸ばすことがよいのか」ということがある。もちろんどちらも大切なのであるが、少なくとも私が学校生活を過ごしてきた時代にあっては、前者の「欠点や苦手なことの克服」ばかりに圧倒的な重きが置かれていたといっても過言ではない。
しかし、当時にあって苦手なことや欠点、あるいは好ましくないとされた癖のようなものも、大人になり、年を重ねていくにつれ、特にそれらの克服のための努力をしなくても、自然に薄らいでいくように思えてならない。それらの多くは発達の歪みによるものであるから、本人の発達と成長とともに薄紙をはぐように徐々に解消されていくもののようである。これは事実、いま私が興味関心を抱いている分野は、私が子どものころや学生時代には最も苦手な科目だったり、とっつきにくかった分野のものだったりもする。
つまり、その時は苦手と思える分野であっても、やがては時が解決する場合もあるということである。問題は、精神や脳にまつわる発達の速度が標準より遅いことで、それまでは、本人も周囲も発達障害特有のさまざまな問題に悩まされることになる。しかし、発達障害の人も、時間をかけて大人になる。その発達の速度が一般よりはとても遅れているとしても、本人なりのペースで成長していくということである。
したがって、欠点、弱点、その他の克服については、その時々にとらわれず、長い目で見る必要があると思う。つまり、若いときの欠点や苦手な分野の克服は、ある程度は必要ではあるかもしれないが、それはほどほどにしておいて、それよりも長所や得意なことを伸ばすことを優先させるほうが、本人の成長にとっても効率が良く、意義あるばかりでなく、幸福な生き方にもつながっていくのではないだろうか。
問題は、制度上の不備のために、「障害のためにできないこと」で進学が影響されてしまうことである。例えば、私は運動能力にもともと困難があるのだが(これは発達性協調運動障害と呼ばれ、発達障害にありがちなことである)、高校2年生の終わりで不登校になり、当時の大検(旧、大学入学資格検定、現在の高等学校卒業程度認定試験)を受けることになった際、体育実技試験をパスすることができなかった。
当時にあっては大検の体育実技を免除されるのは身体障害のみであり、発達障害は世間に認知さえされていなかったからである。そのため私は体育の単位を押さえるためだけに、通信制のスクーリングに2年間通わなければならなかった。
このように、学科にはまったく問題がなくても、例えば体育実技という身体的な理由によって大学進学に制約が生じる事例もある。大検の体育実技試験は1985年をもって廃止されたが、今日でも通信制高校の体育実技のために苦労をしている発達障害者は多いと聞く。同種のハードルは今日でも、例えばディスレクシアの人が文章題を読み取れないために学科試験を受けることができないといったことにおいても存在する。
ここ近年、ようやくわが国でも個性尊重の教育がなされるようになされるようになったが、少なくとも私が子どものころは、画一教育が隆盛を極めていて、何かにつけて「協調性」が求められたものだった。私は協調性の大切さについては否定しないが、もし自閉症者にそれを求めるのであれば、その前に療育を行い、コミュニケーション能力や社会性、認知能力を伸ばすのが筋だろう。特に本人が困っていることについては本人を責めるのではなく、子どもや成人を問わず、支援の手を差し伸べていただきたいと願うものである。
(森口奈緒美)
※ シカゴ大学教授であったブルーノ・ベッテルハイムが、1950年代から60年代にかけて発表した自身の論文、書籍に、自閉症は親の愛情不足であると非難を展開した。
幸せな生き方へ。まず長所、得意なことを伸ばす
自閉症者の可能性を開くために。森口奈緒美さんから社会へのメッセージ
自閉症は発達障害の一つだが、30〜40年前は母親の育て方にその原因を求める母親原因説が猛威をふるっていた。
そのなかで成長期を送った森口奈緒美さんは、能力のアンバランスさや協調性のなさを、障害のためではなく性格のせいとされ、学校では叱責と矯正の対象となり、同級生からはいじめられた。
森口さんの著書『変光星』などを読めば、アスペルガー症候群の著者が幼少期から学校という環境でどのように生きざるをえなかったのかがありありと描かれ、読者は自閉症者の内的世界を初めて知り、衝撃を受ける。
そんな森口さんから、社会へのメッセージである。
障害のためではなく、性格のせいにされた、さまざまなアンバランス
自閉症は《発達障害》の一つで先天的なものであり、生まれつき脳の中枢神経の障害により、能力的、行動的、また社会性や認知能力などにさまざまなアンバランスが生じてしまう障害をいう。だが、いまだに多くの人たちが、「自閉症の原因は育て方にある」とか、「内向的な性格のこと」であると思い込んでいるようである。
また、精神障害や情緒障害と混同している人たちもいる。今日ではメディアの報道や啓蒙などにより、そのように考えている人たちは徐々に減ってきているものの、今から30〜40年前は、新聞や大手メディアも含め、(ベッテルハイムの「冷蔵庫マザー」(※)に見られるような)自閉症母親原因説が猛威をふるっていた。
そのため、その当時にあっては(そして今も)、自閉症児の親たち(特に母親)は世の中から激しく迫害されたものだった。そして、その猛威は子どもだった私にも容赦なく襲ってきた。私が児童や生徒だった当時はまだ、自閉症の原因もよく知られておらず、また、知能に問題のない自閉症は障害として見なされていなかったので、普通学級のなかで何の支援もないまま、健常の者と同じように振る舞わなくてはいけなかった。
いわく、学校の先生やクラスメートたちから「極端な性格はよくない」「性格を直せ」「アンバランスな能力はよくない」などと言われ、障害のために能力の足らないところは努力不足などと言われたものだった。能力のアンバランスさや社会性の欠如は、障害のためではなく性格のせいとされた上、しばしば道徳的な問題とされ、学校では叱責と矯正の対象となったものである。学校教育ではとにかく円満具足で均等でバランスの良い能力を身につけることが強要され、ひたすら、「足らないところ」を伸ばすことだけが求められた。
とかくエキセントリックさを排除したがる日本の教育の風潮に加え、「協調性がない」「自分勝手」「わがまま」「迷惑」「友達がいないことは悪いことだ」などと言われて毎日のように迫害されるのだが、いじめに遭い、不登校になって援助を求めた先でもまったく同様のことを言われ、さらに「手に負えません」「余所に行ってください」と、実質的な門前払いを受けてしまったりもした。
このように、いま成人となっている多くの発達障害の人たちは、学校や社会で孤立無援の戦いを強いられてきた。いわば健常者でも障害者でもない存在は、支援の対象からも外され、大人となった今でも哺乳類からも鳥類からも疎外されるコウモリのように居場所がないのが現実である。
薄紙をはぐように解消されていく発達の歪み
人は努力により人格を高めることはできても、性質や性格は目の色や肌の色と同じで、本来の持ち味を変えることは非常に難しいと思う。自閉症は「発達障害」というように、その発達のアンバランスさが自閉症の自閉症たるゆえんである。
その性格あるいは能力がデコボコしていたとしても、金平糖はデコボコしているからこそ金平糖でありえるのであって、それからデコボコを取り去ってしまったら、それはもはや金平糖ではなくなる。なので、その能力に均等性や平均性を求めるのではなく、金平糖状態のままでいいから、より大きなそれになれるように、その人自身の持つ特性を尊重していただきたいと願う。
言うまでもなく、金平糖のデコボコのパターンは一つひとつ違う。また、極端なデコボコを持つものもあれば、さほどデコボコが極端ではないものもある。これはつまり、ひとくちに自閉症といっても千差万別であり、例えば計算能力が卓越した人がいる一方で、計算能力が欠落した人もいるし、音感が秀でた人がいる一方で、それがない人もいれば、言語能力が卓越した人がいる一方で、その逆の事例もあるということである。言語能力に障害のない自閉症はアスペルガー症候群とも呼ばれる。
このように、必ずといっていいほど正反対の事例があり、また、欠落の一方で、(すべての自閉症者ではないものの)突出した光る才能を持っている人が比較的多いのも自閉症の特徴といえるだろう。このように、自閉症といっても一筋縄でいかないのであるが、「できること」と「できないこと」が極端で、能力がアンバランスというところは共通している。
しばしばいわれる問題に、「欠点を克服して苦手なことをできるようにすることがよいのか、それとも、長所や得意なことを伸ばすことがよいのか」ということがある。もちろんどちらも大切なのであるが、少なくとも私が学校生活を過ごしてきた時代にあっては、前者の「欠点や苦手なことの克服」ばかりに圧倒的な重きが置かれていたといっても過言ではない。
しかし、当時にあって苦手なことや欠点、あるいは好ましくないとされた癖のようなものも、大人になり、年を重ねていくにつれ、特にそれらの克服のための努力をしなくても、自然に薄らいでいくように思えてならない。それらの多くは発達の歪みによるものであるから、本人の発達と成長とともに薄紙をはぐように徐々に解消されていくもののようである。これは事実、いま私が興味関心を抱いている分野は、私が子どものころや学生時代には最も苦手な科目だったり、とっつきにくかった分野のものだったりもする。
つまり、その時は苦手と思える分野であっても、やがては時が解決する場合もあるということである。問題は、精神や脳にまつわる発達の速度が標準より遅いことで、それまでは、本人も周囲も発達障害特有のさまざまな問題に悩まされることになる。しかし、発達障害の人も、時間をかけて大人になる。その発達の速度が一般よりはとても遅れているとしても、本人なりのペースで成長していくということである。
まずは制度上の不備を解消。子ども成人にかかわらず支援の手を
したがって、欠点、弱点、その他の克服については、その時々にとらわれず、長い目で見る必要があると思う。つまり、若いときの欠点や苦手な分野の克服は、ある程度は必要ではあるかもしれないが、それはほどほどにしておいて、それよりも長所や得意なことを伸ばすことを優先させるほうが、本人の成長にとっても効率が良く、意義あるばかりでなく、幸福な生き方にもつながっていくのではないだろうか。
問題は、制度上の不備のために、「障害のためにできないこと」で進学が影響されてしまうことである。例えば、私は運動能力にもともと困難があるのだが(これは発達性協調運動障害と呼ばれ、発達障害にありがちなことである)、高校2年生の終わりで不登校になり、当時の大検(旧、大学入学資格検定、現在の高等学校卒業程度認定試験)を受けることになった際、体育実技試験をパスすることができなかった。
当時にあっては大検の体育実技を免除されるのは身体障害のみであり、発達障害は世間に認知さえされていなかったからである。そのため私は体育の単位を押さえるためだけに、通信制のスクーリングに2年間通わなければならなかった。
このように、学科にはまったく問題がなくても、例えば体育実技という身体的な理由によって大学進学に制約が生じる事例もある。大検の体育実技試験は1985年をもって廃止されたが、今日でも通信制高校の体育実技のために苦労をしている発達障害者は多いと聞く。同種のハードルは今日でも、例えばディスレクシアの人が文章題を読み取れないために学科試験を受けることができないといったことにおいても存在する。
ここ近年、ようやくわが国でも個性尊重の教育がなされるようになされるようになったが、少なくとも私が子どものころは、画一教育が隆盛を極めていて、何かにつけて「協調性」が求められたものだった。私は協調性の大切さについては否定しないが、もし自閉症者にそれを求めるのであれば、その前に療育を行い、コミュニケーション能力や社会性、認知能力を伸ばすのが筋だろう。特に本人が困っていることについては本人を責めるのではなく、子どもや成人を問わず、支援の手を差し伸べていただきたいと願うものである。
(森口奈緒美)
※ シカゴ大学教授であったブルーノ・ベッテルハイムが、1950年代から60年代にかけて発表した自身の論文、書籍に、自閉症は親の愛情不足であると非難を展開した。
もりぐち・なおみ
1963年、福岡市生まれ。父の勤務の関係で日本各地を転居。埼玉県立春日部東高校を経て現・大宮中央高校を卒業後、専門学校中退。自閉症やいじめ、学校問題について当事者の立場から発言を続けている。著書に、『変光星』(花風社)、『平行線』(ブレーン出版)、『高機能広汎性発達障害』(分担執筆、ブレーン出版)がある。漫画『この星のぬくもり』(ぶんか社)は森口さんがモデル。
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