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アメリカン・ドリームの現実




何時間眠ったのかわからない程、ぐっすりと眠り続けた。アンドレイさんが目を覚ました時、まだ他のみんなは眠っていた。アンドレイさんがマットレスから立ち上がった瞬間、すぐにアメリカ人の男がきて、住居についての簡単な説明を英語で受けた。

アメリカ人の男は続けて、今日中に住民登録をし、アメリカの銀行口座を開くよう、会社から指示がきたと言った。通常アメリカで銀行口座を開くには、ナショナル・インシュランス・ナンバー(社会保障番号)が必要で、そのためにはアメリカ国籍を持っていなければならないが、イリノイ州では住民登録と納税をしていたら、ナショナル・インシュランス・ナンバーを貰えるということだった。

納税の書類を手渡され、指示に従って手続きをし、銀行口座も簡単に開くことができた。明日から通勤で必要だというので、中古車を購入。これらの書類はすべてアメリカ側の会社が管理するというので、アンドレイさんの手元には一切残らなかった。




仕事について質問すると、「お前の仕事は船員ではなく、巨大スーパーマーケットの清掃業だ。」との返事。それでは話が違うと言うと、「文句があるなら今すぐ渡航費や仲介費を全額返済しろ。」と言う。アンドレイさんは僅かの現金しか持っておらず、渡航費や仲介費を返済出来るあてもなかった。

「全額返済出来るまで、パスポートや書類は預かっておく。全額返済した暁には、パスポート・住民票・銀行口座の書類は全て返却する。その後、自分で仕事を探すか、俺たちの会社で続けて働くかは、お前が自由に決めればいい。とにかく忘れないでほしいのは、俺たちの会社は、お前たちのような若者の将来を手助けしてやっているんだよ。それがわかったら、今はただ黙って仕事するんだ。」と男は静かに言った。

結局のところ、到着した日に連れて行かれた事務所で、アンドレイさんが実際にサインしたアメリカ側の契約書をもう一度読み返すと、渡航費や仲介費の返済義務について書かれていたが、その返済金額はどこにも明記されていなかった。しかしその返済合計額が121500ドル(日本円で約1220万円)だったと知らされたのは、ずっと後になってからのことだった。




巨大スーパーマーケットの清掃は、深夜12時から朝8時までで、スーパーマーケットの大きさによって、5−8人のチーム編成が組まれ、掃除を分担していくというものだった。

この清掃業の給料は月額1400ドル(日本円で約14万円)で、1000ドルはアメリカの会社への借金返済へあてられ、300ドルは住居費、光熱費、通勤のためのガソリン代に消えてしまい、月にアンドレイさんが受け取るお金は現金でわずか約100ドル(日本円で約1万円)だった。そのなけなしのお金もすべて食費に消えてしまい、月末になるとお金がつきて、食事がとれないこともしばしばあった。




毎日働いているのに1日も休みが与えられなかった。アンドレイさんは英語も他の人より上手く、仕事を早く覚えたこともあり、数ヶ月後には清掃チームの監視役のポジションに着いた。

しかし責任が重い割に、他の人より給料が100ドル多い程度だった。アンドレイさんの仕事は、各スーパーマーケットのマネージャーとの清掃についての打ち合わせ、清掃員のチーム編成、掃除の指導と監督。

しかし、チームには常に人数が足りない状態だったので、アンドレイさんは、皆が嫌がる最も危険な化学薬品を使用しているワックスがけを積極的に行なった。これらの強烈な業務用洗剤の化学薬品により、チームメンバーの全身にアレルギー反応がでていたが、 病院に行くことは許可されていなかった上、日々の生活をアメリカ人に監視されているため、自由に外出することは不可能だった。




掃除を担当していた郊外の巨大スーパーマーケットが営業不振で倒産すると、チームで引っ越し、新しいスーパーマーケットで仕事を始めるという生活が続いた。

アンドレイさんは、最初の1年間で、インディアナ、ウエストバージニア、イリノイ、ウィスコンシン、ルイジアナなど、合計7カ所の州に移り住んだ。引っ越しはアメリカの会社から突然言い渡され、その当日に荷物をまとめて引っ越さなければならなかった。あまりにも引っ越しが多すぎて、どこに住んでいるかもわからなくなることもしばしばあった。




小さな一軒家にチーム7−8人全員と監視役のアメリカ人が暮らしているので、プライベートな部屋も生活も全くなかった。 アメリカ人は個室を与えられていたが、リトアニア人は雑魚寝だった。

生活は貧しく、自分の自由になるお金がなかった。食費を削りに削っても、ようやくテレフォンカードが1ヶ月に1回買えるかどうかだった。リトアニアにいるアンドレイさんの家族は、アメリカ行きを反対していたから、今自分のおかれている状況を説明出来ずにいた。

アンドレイさん自身、自分の判断が間違いだったことは充分にわかっていたし、家族に話しても心配させるだけで、どうしようもないと思っていたが、借金さえ返せば、いつか自由の身になると信じていたため、アンドレイさんは家族に、アメリカでの生活が充実したものであると偽って話していた。

家族にプレゼントを送るために、 食事を何日か抜いて、無理をして、身体がフラフラになったりもした。それでも家族へのプレゼントは、クリスマスやイースターが終わり、売れ残った商品のチョコレートやカードが半額以下になるのを待ってからでないと、買うことができなかった。




こうして1年後には、アンドレイさんはマネージメント業務もまかされるようになり、2200ドル(約22万円)の給料を得るまでとなった。

当時のアメリカのスーパーマーケットのマネージャークラスで1000ドル(約10万円)の給料だったそうだから、かなりの高給だった。しかし、アンドレイさんは、 給料のほとんどを借金の返済に充てていたから、貧しい生活からは抜け出せなかった。アンドレイさんは、早く借金を返し、自由になりたいという一心で、ただ毎日必死に働いていた。

仕事は厳しかったが、アメリカの会社は月に一回、庭でバーベキューを開催し、その時には好きなだけ肉を食べたり、アルコールを飲んだりすることができた。その繰り返しで、リトアニア人たちが逃げ出したくなる欲求を押さえ込もうとしていたのだ。アメと鞭の繰り返しだった。




part4へ続く