ツイッターを開いたら、こんなツイートが流れてきました。
法務省のマンガ「みんなでいじめをなくそう」に抱く違和感
【みんなで「いじめ」を…】
http://t.co/q3GoHHMewX
これ、すごいな…。イジメがなくならない理由がわかるというか。「イジメ」への対抗手段は事実上、同調圧力しかない、と法務省が認めてる(?)部分でもう絶望的になる。
pic.twitter.com/1NnIJG9GFi
— 水無月 (@minadukiG) 2015, 1月 18
記事執筆時点で6,000回以上RTされています。話題になっているのは法務省のサイトに掲載されているマンガ「みんなでいじめをなくそう」。2ページのシンプルな作品です。以下、転載いたします。
一読して、ちょっと違和感を抱きます。
なかでも気になるのは「クラスのみんなも同じ意見なんだよ」という主張。このコマだけ抜き出すと、どちらがいじめっ子なのかがわからなくなります。実際、ぼくはドキッとしてしまいました。
「みんなの意見」という力学は、ときにマイノリティを黙らせ、排除する際にも使われます。「みんなの意見」を重視する態度は、「空気」を生み出し、集団が倫理的な判断を下す能力を麻痺させます。
紙面の都合はあるのかもしれませんが、一方的に正義を押し付けるのではなく、1〜2コマでもいいので「いじめっ子の言い分」も聞き、なんらかの対話をしてほしかったところです。
さらに突っ込んでいくと、いじめっ子を追及する生徒が「先生もいってたじゃないか!みんな人権があるんだから〜」と語っている点も違和感があります。
彼には「先生」という大きな権威をふりかざさず、「いじめがいけない理由」を「自分の意見」として語ってほしいですね。
わかりやすくいえば、彼は先生やクラスのみんなが同意していなかった場合も、「いじめはダメだ」と言えたのでしょうか?その点が気になります。
本当に倫理的な人間というのは、自分が正しいと考えるのなら、周囲の意見がどうであれ、それを貫く人間だとぼくは考えています。これは危険な考え方でもありますが、変わりやすく曖昧な「社会」に善悪感覚を委ねるよりは、よほど安全性は高いと思います。
先生やクラスの仲間がいじめに加担したり、知らぬ存ぜぬで「スルー」していたとしても、「いじめはダメ」と言える人を増やしていくこと。これが社会からいじめを減らしていくために効果的な考え方ではないでしょうか。
いじめについて、いじめの解決方法について、みなさんはどう考えますか?ツイッター、フェイスブックでぜひ聞かせてください。
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