『イカゲーム』が世界的な反響を呼んでいる。2021年9月17日にNetflixで全世界公開されたシーズン1は9つのエピソードから成り、90カ国のNetflixチャートで1位を記録、Netflix史上最大のヒット作となった。
Netflix
この韓国サバイバルドラマが世界的人気を得る中、その英語版字幕のクオリティをめぐって、ソーシャルメディアを中心に議論が巻き起こっている*。“英語と韓国語のバイリンガル”の多くが、あの字幕翻訳ではこの作品のすばらしさ、巧みなセリフまわし、筋書きの本当の魅力を伝えられていないと主張しているのだ。英語でこの作品を見た人は作品を見ていないも同然、とまで言う人もいる。豪マッコーリ大学言語学部の上級講師ジンヒョン・チョが『The Conversation』に寄稿した記事を紹介しよう。
*参照:Lost in translation? The one-inch truth about Netflix’s subtitle problem など。
注:以下は『イカゲーム』シーズン1のネタバレを含む。
字幕翻訳の難しさ
『イカゲーム』の韓国語オリジナル版と英語字幕版を見比べてみたが、英語―韓国語の翻訳や通訳に従事している筆者としては、言葉のちょっとした省略や歪曲があるのは明らかなものの、全体的な翻訳のクオリティは申し分ないと感じた。この議論は、いくつか重要なポイントを外しているように思える。
どうやら争点の多くは、英語のクローズドキャプションにまつわるものらしく、これは英語字幕版とは大きく異なる。「English [CC]」を選択すると表示されるクローズドキャプションは、耳の不自由な人向けのサービスなので、背景音楽や音響効果など非言語的な描写も含まれる(例:「ドアをバタンと閉める」等)。そのため、セリフは通常の字幕版よりさらに簡潔に表現され、メッセージを伝えるという観点では、どうしても制約がある。
翻訳と通訳の違いをきちんと理解している人は決して多くない。簡単に言うと、翻訳(translation)は“書き言葉”をある言語から別の言語に訳すことで、通訳(interpreting)は“話し言葉”をある言語から別の言語に翻訳することを指す。
字幕翻訳者は“話し言葉”を聴いて“書き言葉”に訳すため、翻訳と通訳の中間にあたる作業を行っている。字幕をつけるには、二ヶ国語を巧みに操れる能力だけでなく、限られた字数制限の中でセリフのメッセージ性を伝える特殊スキルが必要だ。映画『パラサイト』でオスカーを受賞したポン・ジュノ監督は、かつてこんな言葉を口にした。
1インチの字幕という壁を乗り越えられれば、もっと多くのすばらしい作品に出会えるだろう。
翻訳できない言葉
セリフがどれだけ長くて複雑であろうと、そのメッセージを字数制限内におさめなければならない、それが字幕翻訳者の仕事だ。ご想像のとおり、容易な作業ではない。そこに文化的要素が加わると、さらに複雑となる。というのも、ある文化に特化した言葉や概念の多くは、翻訳することが難しいから。
「翻訳できない言葉(The untranslatable)」はすべての文化に存在する。韓国語の場合、「aegyo」という言葉は「極端なまでにかわいらしい行動をすること」、「han」は「さまざまな人生経験から積もり積もった悲しみや寂しさが混ざったもの」、「jeongo」は「時間をかけて築く深いつながりや感情的結びつき」とそれぞれ説明されているが、他の言語にはぴったり同じ意味の言葉はないと言われている。
書籍の翻訳だと注釈や脚注などで処理することもできるが、字数制約のある字幕では、このやり方は使えない。文化に依存した要素をどう扱うか、字幕翻訳において最も能力が問われる側面といえるだろう。「翻訳できない言葉」のせいで、オリジナル版と字幕版の間には、どうしても意味のずれが存在する。
『イカゲーム』における「翻訳できない言葉」の代表的なものは、韓国の人たちが会話の中で使う呼称(“호칭” )に関するものだろう。年齢に即した階層感覚は韓国社会の主な特徴で、韓国の人たちは同じ年齢の友人同士でないかぎり、お互いを名前で呼ばない。
年齢に即した階層感覚は韓国社会の特徴。韓国の人たちは、同じ年齢の友人同士でないかぎり、お互いを名前で呼ばない。/Netflix
一般的な呼称の一つ、「兄」を意味する“형 (hyung)” は基本は弟が兄に話しかける際に用いられるが、家族以外の親しい間柄の人たちの間でも、お互いの厚い友情をほのめかすのに使われることがある。
『イカゲーム』の中では、パキスタン人出稼ぎ労働者のアリが、韓国の一流大学を卒業したサンウと知り合いになる。サンウは会社の大金を横領したため、ゲームに勝って借金を返そうと決意。2人が親しくなるにつれ、サンウはアリに自分のことを“형 (hyung)”と呼んでくれと言う。サンウがアリの“형 (hyung)”になるこのシーンは、むごい場面も多いこのドラマで、人間的なやさしさを強く感じられる瞬間だ。「Call me hyung(hyungと呼べよ)」の訳が、英語字幕では「Call me Sang Woo」となっている。英語には“형 (hyung)”と同じ意味合いの言葉がないため、この言葉が持つ独特のニュアンスが伝わりきっていない。その後、サンウはゲームの中でアリを裏切るのだが、hyungという言葉に含まれる親密さを理解している視聴者とそうでない視聴者とでは、その裏切りが意味するところの味わいも大きく異なるのではないだろうか。
他にも、“오빠 (oppa)”(親しい年上の男性を呼ぶときに使う)が「baby」に、 “영감님 (yeonggam-nim)”(家柄のいい人やお年寄りを敬って呼ぶときに使う)が「sir」と訳されるなど、意味は近いが決して同じではない言葉に訳されている場面はたくさんある。『イカゲーム』における人間同士の苛酷な側面を十分に理解するには、韓国語特有の呼称を理解する必要がある。
サンウがアリを裏切ることの深い意味合いが、字幕翻訳では表現しきれていない。/Netflix
言葉の障壁を超えるには、他の文化を理解しようとする姿勢が重要
最近、オックスフォード英語辞典に、 一般的な呼称 noona(ヌナ:男性から年上女性に使う「お姉さん」の意)、unni(オンニ:女性が年上女性に使う「お姉さん」の意)、oppa(オッパ:女性が年上男性に使う「お兄さん」の意)等、26の韓国語単語が追加された。これは、喜ばしい動きだ。今後、もっと多くの単語が掲載されるようになることを期待する。
翻訳や通訳は文化的・言語的な橋渡しとなる一方で、「翻訳できない言葉」によって生じる意味のズレは、他の文化や言語への真の理解をもってしか埋めることはできない。ポン・ジュノ監督のメッセージに重ねるなら、“「翻訳できない言葉」によって生じる意味合いのズレを乗り越えられれば、もっと多くのすばらしい作品に出会えるだろう”。
著者
Jinhyun Cho
Senior Lecturer in Translation and Interpreting at Macquarie University
※本記事は『The Conversation』掲載記事(2021年10月14日)を著者の承諾のもとに翻訳・転載しています。
『イカゲーム』予告編
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